第17話 大図書館にて

文字数 35,616文字

 オルドピスには、三つの大図書館があります。彼らは(例外はありますが)各地の町に必ず図書館を置いて、その知育管理を徹底していました。芸術、建築、水道整備など彼らの持ち合わせる技術は「知識」と等号で結ばれています。と言っても、知識とは何かと問えば、それに答えるのは難しいことです。それは言語化され本にもなるでしょう。それは共有されるものであり、客観的に所有することのできるものです。しかし伝えなければならない技術の中には、頭の中で、ただ単純に言葉を繰り返すだけでは受け継がれないものもあります。彼らはそういうものも含めて「知識」と言っていました。例えば漁業の技とか、農業の技とか、教育や、生活における時間管理、人間同士の付き合い方、課題の提案の仕方などでした。身体と心の統合、対象をリスペクトすること、そして、自分自身が自然の中に(人間の間に)生まれ育っていることの感覚でした。
 彼らは円滑な国政を敷くために多大な努力を払ってきました。それは、国民のひとりびとりが己の知育を心がけて始めて成ることのできる理想でした。イアリオの町でも、そうした献身が三百年もの間、とりあえずの平穏をそこに保ち続けてきたわけですが、彼女の町では、平穏のわけは呪縛にありました。すなわち、彼女の町における「知識」は全部そのためにあるものでした。この国でも、やはり、「知識」は国と個人を保存するための、生き抜くためのすべでした。
 一人の人間の命とは(あるいは一国の国の命運は)はかないもので、その運命を左右するのはおよそたった一つの何ものかの力によるように、見えることがあります。しかしそのように見えたとしても、実際は、あらゆる物事が、関わっているのです。かたくなにその命を守ろうとすれば、澱みやいびつさはおのずから見えやすくなるでしょう。命は人間の認識がどのようにできるものではないのですから。認識は、どうしても後追いになります。そこから何か知恵が現れたとしても、なかんずくあるのはその知恵をどう生かすか、どう利用するかという人間の主体の態度なのです。イアリオにとって、「知識」そのものを追ってみられるオルドピスの国家運営の姿勢は、やや傲慢に感じられるものでした。
 それは、かの国が、かの町をどうしようとしていたか、その真実を知った後でした。

 大図書館には世界に類を見ない数の書物がありました。三つあるその建物は三階建てで、その下にも幾層にも渡る地下階が広がっていました。大図書館はそれぞれに特徴的な外観を持っていました。それは丸と、直線と、対称性とを基調としたものでした。イアリオが初めて訪れた大図書館は、名前をシフルドといって、その特徴は丸でした。つまり、外装も、内装も、丸い形で統一されていたのです。曲線がうねうねと連なるそこは、まるで海の中を覗いているようでした。彼女は海に潜ったことはありませんでしたが、地上のいかなるものにも喩えられないその曲線の流れは、神秘性を湛えて、未知なる音楽が聞こえてくるようでした。奇妙で面白く、でも何のメッセージも受け取らない、飽きの来ないデザインでした。
 イアリオはそこに、先日極めて率直な出会いを果たしたあの女の子を連れて来ていました。付き添いの少女はヒスバル=トルムオといって、あの大賢者の養子でした。ですが、少女は、自分のことをニクトと呼ぶように言いました。ニクトとは、ヤグルマギクのことで、彼女が養子として迎え入れられる時、両親からトルムオに宛てて添えられた花でした。その意味は、花は車の車輪によく似ていましたから、優秀だった彼女がその背中に人々を乗せても運べるような、国の奉仕者になってもらいたいと願われたものでした。しかし彼女の本名のヒスバルもまた別の花の名前でした。こちらはなよなよとした女性らしい、ピンクの花弁を垂らす美しい花でしたが、ヒスバルは、少女にとってまだ遠い将来に夢描く他のない、曖昧な自分像でした。彼女は「ニクト」の方を好んでいました。渾名と知りながら、でももう一つの自分の名前のように、彼女は彼女をそう呼んでもらっていました。頭のいい聡明な彼女は人の言うことをよく見聞きし分かり、自分のことを、その名の花のごとくオルドピスの何を担うべきかを知り行く轍の上にいるものだという、将来を描いて疑いませんでした。
 しかし彼女は、今は、まだまだどことなくあどけない花のままでした。その花が、少女の中に融け込んで、本物の「ヒスバル」になるには、イアリオと同様まだ時間がかかったということです。そうなるに十分な美貌の予兆は、すでに少女に多分に見られました。それだけではなく、ニクトとして生きようとしている健気な努力もうかがえる、人に、誰しもに夢や希望を与えられるような、前向きな力動が彼女からは溢れていました。少女はいまだ少女のままですが、じっと、自分そのものが咲き誇る可能性を探っているのでした。金髪は揺れて、そのまま、風に吹かれて、希望の未来を見せました。そういった意味では…また、あのハリトともよく似ていました。
 イアリオはたちまちこの少女が大事になりました。彼女を寝室に案内したのはニクトですし、身の回りの世話をこまごまと担ってくれることにもなりました。ニクトは、外交の心得もあったのです。いいえ、その真似をしたかっただけかもしれませんが、十分に、イアリオは落ち着ける環境を少女から提供してもらったのです。ニクトは彼女に懐きました。彼女は大図書館への案内を、少女に依頼しました。
 大図書館シフルドは丸屋根を三つも連ねて堂々と来客を歓迎しました。その入り口は四方にありました。来場者は円形にくり抜かれた扉を入り、中を覗くと、まず中央に立つ巨大な柱とその周りにせわしく動き回る影の人々を目にします。そして一階にある本棚もすべてが円柱形か、外壁に沿った弧状でした。光は天井とガラスの壁窓とから採り入れているのですが、本棚の上に角度を変えられる鏡があり、室内に満遍なく光が届くように、鏡面の角度を一時間置きに調節していました。しかし、それでも建物の中ごろはあまり採光が届かなくて、それで大柱の周囲のここの役人…つまりは司書たちを影法師にしてしまっているのです。そこは本の貸し出しのカウンターになっていて、一階と二階に備えられていました。一階の方が幅広く、柱に沿うように木製の机が来客のために弧を描きました。上に昇る石階段はその机の間に挟まれて、人々はその階段を足しげく昇り降りしていました。なぜなら、上も下も人がいっぱいだったからです。そこはオルドピスの国中からだけでなく、世界中からも人がやって来るのです。
 イアリオは目を白黒させて、呆然とその様子を見つめました。初めて訪れてきた、見知らぬ町にはいつも人間がたくさんでしたが、ここほどに密集している場所は見たことがありません。人いきれが入り口にいるだけで迫ってきました。彼女はニクトに手を引かれました。上のカウンターにまっすぐに連れて行かれました。ところで、オルドピスの本の貸し出しにはイアリオの町同様厳粛なルールがありました。ここではトラエルの町と違って、紙は十分な供給ができ、少なくとも一般民が入れる所の書架から本を自由に取って読んでもいいのですが、外へ持ち出す時には、審査に合格した証明書をカウンターに持って届出をせねばなりません。審査とは、国が行う書籍の取り扱いについての法律のテストです。
 一般書架にも本がたくさん並んでいますが、そのコピー本も、地下に重々に管理されていました。複写師は、この国でちょっとした尊敬を抱かれる役職でした。図書館の司書は国の役人と同じ衣冠で、これもまた、人気のある職業でした。書物は彼らの礼賛する知識の集合体です。本を管理するということは、つまりは彼らの生きるすべの管理者でもあるのです。新しい知恵を生み出すのも重要なことですが、もしかしたらそれ以上の価値の重きをそこに置いているかもしれませんでした。
 取り込まれる光は淡く、建物内部の喉下を黄色く染めていました。そこには密集した人々が、各々の思いで集まっていました。イアリオはどのように人を避けていったら上階の大柱に辿り着けるのかまるで分かりませんでしたが、ニクトの手引きのままに通って行けば比較的直線を楽に歩けました。そして、弧を描く木机の前にやって来ました。
「フィマ、フィマ!」
 少女の呼び掛けに向こうで返却本を片付けている最中の青年が、振り向きました。青年は痩せ型で背は高く、女性にもてそうな緩やかな空気と表情を持っていました。このタイプの人間をイアリオは始めて見ました。彼女の故郷でも女垂らしはいたものの、強引な人間がほとんどで、隙を突いて相手の懐に入り込むような性格の持ち主はあまりいませんでした。フィマはその性格の持ち主でした。女関係は手頃で、何かを振りかざさずとも向こうから女性たちは寄ってきました。
 彼もニクトのように、トルムオと養子縁組をしていました。やはり、それだけ有望で将来性豊かな秀才でした。
「ニクト!ああ、そちらが予約の入っていたお客さんだね。今行くから、待っていて!」
 彼の声は優しく甘い匂いがして、思わず振り向く香りが立ちました。ニクトはにこにこして彼を待ちました。それは、イアリオを案内して来たというよりも、彼に会いに来たと言った方が正確な所作でした。あちらの女垂らしはともかく、少女は彼を特別に気に入って尋常以上の思いを寄せていたのでした。
 ここに来る途中に、イアリオはニクトから彼への気持ちが窺える話を聞いていました。少女はその渾名の花のようにぴょんぴょん飛びながら彼女に話をしました。
「これから行く、シフルドの図書館はもうほとんど本を読み尽くしちゃってね、それを自慢したら、私の今のお父さんになる人が…あのヒヒジジイがね、『それはよくやった。で、それでお前は満足かね?』と訊くの。『ほとんど満足よ。』と私が言ったら、『じゃあ私との養子縁組はこれで解散でよいな?もうここにいる必要はどこにもないのだろうから。田舎に帰ってよい。』だって!何よそんな言い方!て思ったけれど、あとで、私の兄にあたるフィマっていう人が、諭してくれたの。『勿論、満足してもいいけれども、だからって自慢するほどのことじゃないな。我々は、どの国にいると思うかい?書物は知恵だが、利用するのは国民だ。お前は一体何を利用したことがあるかい?折角付けた知恵や知識を、本当に扱えるようになって初めて満足が生まれるはずだな。本は、友だが、自分は、友とどう付き合っていくべきか。これを考えて初めて一人前だな。』なるほどと思った。ヒヒジジイは皮肉なことしか言わないの。いつも私を試す感じの、嫌な言葉を掛けてくるわ!でも、兄は優しくて、いつも私を慰めたり、元気付けたり、励ましてくれるの」
「お兄さんのこと、大好きなのね」
「うーん…」
 ニクトは悩む素振りを見せました。
「そうかもしれないけど、あんまりそう言いたくないかも。微妙。だって、歳の差すごく離れているし、あっちはこっちを手なずけるのがうまいんだもの。兄だから…妹だから、そんな風に付き合ってもらっているとは思えないの。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから、尊敬はしているけれど、それ以上じゃないね」
「本当?」
 少女はどう答えるべきか迷いました。
「例えば、こんなことがあったの。私が夜な夜な部屋を抜け出して、街へ繰り出して人間観察していたことがあったの。だって面白いんだもの!昼間、あれだけにぎやかで騒がしかったのに、夜もまだ同じようににぎやかで結構うるさいんだよ?子どもは寝る時間、よくそう言うけれど、夜中にはしゃぐ大人たちの顔は、なんだか普段は見せたことのない顔になっている気がしてね。一時期はまって、そうしているうちに、誰かがいつも私の後をつけてきているのに気が付いたの。おかしな監視者!帽子を目深に被って誰だか判らないようにしているのよ。それでいて格好はほんとおしゃれで、夜に着る絹の肩掛けを前に結んでいて見るからにお忍びの貴族のようだったの。でも、とても周りから目立たなくて、私は気持ち悪かった。こっそり抜け出しているという自信はあったから、まさか人攫いがこの街にいるとは思わなかったけれど、それでも狙いは私だってはっきりわかっていたから、どうにかしてその目の先から逃げよう逃げようと思ったの。そしたら、急に私に近づいてきて、逃げ場のない角に追い詰められて、身を固めたら、聞き覚えのある声で、
『おや?どうした?こんな時こそご自慢の知識で、窮地を脱してみるものだぞ、ニクト?』
 私はすぐに、フィマだったとわかった。安心したけど、出し抜かれた気もした。きっとトルムオが私の夜遊びに気付いて、わざわざ彼をお目付けに付けたんだと考えたの。そうなると、ずっと、自分はあのヒヒジジイの手の上で泳いでた、てことになるから、私はすごく嫌な気分になって、ぶすっとしていた。そしたら、
『お嬢さんがお金も無しに夜な夜な街に繰り出して、何が面白いんだろうね。こんなことは感心しないから、これで終わりだよ、ニクト。さて、僕と一緒に夜の楽しみを味わいに行ってみるのもいいけれど、そんなことをしたら僕の外聞が好くなくなってしまうから、やめておこう。このお金で、今から言う所のお店に行ってごらん。きっとニクトの好きなものがずらりと並んでいるから、好きな物を買うことだ。だがね、約束だよ、成人もしていないうちは、真夜中の活動はこれきりだと』
 紹介されたお店は、私でも食べられるもののある高級な料理店だった。それはトルムオも頼んでいない彼のさりげない計らい、みたいなものだったの。それ以来…えっとね…彼は、立派だなあって。よく私のこと見てくれているんだな、て思ってきたよ?」
 イアリオの目には、金髪の少女は恋する乙女に見えました。フィマという彼女の兄の、豊かな胸の鼓動が、少女の身を包んでいることがよく感じられたのです。彼らは実の兄妹ではないので、実に健全な感情を抱いていたのです。だから、兄を好き、という表現は正しくなかったのでしょう。
 少女の好きな、容姿端麗な男性は、薄暗い影の中からこちらを指して近づいてきました。彼は、長袖にぶかぶかのチョッキを着ている民族衣装のトラエルの町の者を、にこやかに迎えました。仮にその相手が男性であっても彼は同様の応対をしたでしょう。彼が好きなのは女性ですが、彼は、誰にでもつつがない行動で接し、人をいたずらに惑わせるようなことはしませんでした。彼は、このようにして生きていました。波風の立てない穏やかな性格は役得で、すいすいと物事をこなす能力は天与のものでした。元々の人格がそうなので、彼は、何も思い悩むことのない生活を送っていました。そして、彼は繊細とはほど遠い太目の概念を持っていました。というのは、彼にとって世界はすべて観念で支配されているもの、人がこの世においてその観念を見出し学んでいるのであって、前進する人間の技術はきっと世の中を幸福にすると疑わなかったのです。
 彼のそうした観念主義、あるいは楽観主義たる人生哲学には、己はどこにも見当たりませんでした。強い自己は、必ず周囲との摩擦を引き起こすものですが、そういったことのないフィマは、生きているようで、生きていないところにいました。
「ええと、ルイーズ=イアリオ様で…目的の本は、こちらにございます」
 フィマは申請書と目録に目を通しながら、机の下から分厚い書物を出しました。しかしここは薄暗いので題名がよく見えませんでした。そこに書かれている文字は、イアリオでも苦労せずに判るもののはずでした。文字も言葉も、時代が経てば変わっていくものですが、オルドピスから指導されて、トラエルの町では折々に修正がなされていたからです。しかし、あまりに目が慣れないので、彼女はフィマに本の名前を読み上げてもらいました。
「こちらは『歴史書・題は無し』、そしてこちらは、『古代からの滅亡』ですね?」
 フィマは、目を上げて暗い中彼女の顔を確認しました。司書たちはこの環境に慣れていますから、人物も、本も誤ることなく確かめられました。彼の目が、ぎらりと光りました。イアリオはそんな視線を感じることなく、書物を取り上げて、題名を改めました。
「確かに…そう読めますね。よかった、自信がなかったから。他の国の本なんて、初めて見るものだから」
 彼女がそう言ったのは、首都や首都に来るまでに見かけた街並みの看板や、商品などに書かれていた文字らしきものが、今までちゃんと読めなかったからでした。それは彼女にとってどれも知っているはずの文字でしたが、彼女の目についたのは多くが飾り文字で、またオルドピスには書体も数種あったのです。彼女はほっとしました。なお本が読めなかったら一大事だったからです。
 そんな彼女を、彼は、次第に両目を大きく開かせ、じっと、食い入るように見つめました。彼のそうした変化にいち早く気付いたのはニクトでした。そして、彼のその反応の意味も、少女の中では明確に形作られました。
「ですが、もう一冊、実は注文したい本があるのです。民族史の、『放浪する海洋の民』という本です。こちらにありますか?」
「あ、ああ、すみませんがもう一度おっしゃってください」
 イアリオはまた欲しい本の題名を言いました。前二冊は、トルムオが彼女に紹介した書物です。イアリオはトルムオの前を辞してから、翌日たっぷり一日の休息を取って、その日に大賢者から手書きの紹介状をいただきました。彼女に必要、もしくは手助けとなる本と、それらの本に関して講義を受けられる先生の名前が付されていました。彼女は連絡役の兵士を通じて前もって図書館に二冊の本を注文していました。彼女は本を読むことには慣れていますし、歴史の教師もしていましたから、自分に順番に必要な資料は何かすぐに判りました。最初に参照したかった資料は、彼女の町の周囲の歴史に関したものでしたが、翌朝になって、その他にクロウルダについて直接書かれたものがほしいと思ったのです。そのクロウルダについての本は、トルムオからの紹介状には載っていませんでした。
 それこそ、彼らには直接首都で会って話ができたはずですし、その方がより豊かな情報も得ることができたでしょうが、今は、自分のペースで少しずつ進みたい気持ちに彼女はなっていました。明らかにされた存在の重みは、じかに、体ごと心ごとイアリオを包み込んでいました。彼女は焦ってはいけませんでした。しかしあの町で抱いていた焦燥と同じものを、まだここでも感じていましたので、それに呑み込まれるのではなくて、それを捉えなければいけないと思いました。時間を、惜しまず、ゆっくりと使う、あの森で出会ったヒマバクとの緩やかな歩調のほどの態勢が望まれたのです。
 そしてまた、あの町に、クロウルダはいました。ハオスが来るよりずっと以前に、地下の都が滅びるよりも前に。来たるべき破滅に向き合うということは…畢竟、彼らについても学ばねばならぬということになりました。彼らの存在は実はずっとトラエルの町の民に近いのです。なぜなら、彼らの子孫も、町の民にはいたからです。
 イアリオは書物から出発しなければならない位置にいました。自分自身を捉えるために、まずは、整理する必要があったのです。これから起きる出来事は、皆、あらゆる過去に通じていたからです。
「もう一度、おっしゃってください」
 目録を調べるフィマが、少し震える声でまた彼女に頼みました。三度、イアリオは同じ本の題名を伝えました。
「放浪する、海洋の民…と…すみませんが、我がシフルドの館にはございません。他の館にあるかどうか、これから調べますので、お時間をいただけますか?ああ、その場所でいいのです。そこにいらしてください。蝋燭が爪の分溶けるほどお待たせはしませんから…」
 彼は、司書らしい迅速な動きで、木机に別の目録を引っ張り出して、ぱらぱらとページをめくりました。三つの図書館には、それぞれに重ならない本が収められているわけではありませんでした。互いに重複するものもあり、館ごとに、図書の色合いがあるかといえば違いました。一月ごとにそれぞれの目録は枚数を増やしました。複写本はできるだけ増やすように奨励されていて、新刊も、いずれはどの館でも手に入れられるようにされましたが、まだこの館にはないという本は多数あったのです。これは、例えば一つの図書館が火事などで失われてもいいように計らう目的がありました。人間は入れ替えることはできませんが、知識は交換が利くのです。
「あちらにはあるようです。コルマエルの図書館に。そこに、依頼状を書いておきましょうか?ああ、いいえ、自分が行きましょう。行って、取ってきます。すぐにでも」
 フィマはあせあせと机から身を乗り出して言いました。何をそんなに慌てるのかと、イアリオは首を傾げました。彼女の強い目の光が、正面の男性を再び虜にしました。彼は何事か知らず額に汗を滲ませていました。
「任せてください、あなたは特別なお客さんだと聞いていますから、決して必要以上にお待たせすることはありません。廊下でお待ちになってください。でなければ、近くの街路のベンチでお座りになっていてください。お疲れにならないように。きっと探しますから。待っていてくださいますね?」
 青年は念を押して、強く相手を見つめると、木机を回り込もうとしました。彼の瞳はらんらんと燃えていましたが、実に率直に疑いのない気持ちを表していました。イアリオもすぐに彼の心に気づきました。ですがそれは困ったことでした。彼女は、彼のために笑顔を作って、彼の気持ちこそ有難いものの、という、困惑気味の表情を浮かべました。
「ニクトのお兄さん、とても嬉しいのだけれど、依頼状で十分です。私は初めてここに来たばかりですから、別の図書館に行ってみるのも、興味深いのです」
 しかし彼は一言も耳に入れませんでした。
「まあ、まあ、あなたがここから去るのならば、私はとても失礼なことをしてしまったと反省しなければなりません。どうかここにいてください、そして私を待っていてください!お願いしますよ!」
「フィマ!どうして…」
「ニクトはどうか彼女を見ていてくれないか!お前が付き添ってきたんだろう?失礼のないように、その人を休ませる場所へと連れて行ってくれ!僕はこの仕事をすぐにやらなきゃならないのだから!」
 彼は颯爽と机を飛び越して、一目散に出入り口を指して走りました。背後から何度も声が掛けられましたが、うきうきした感情に身を委ねた青年は、すべての言葉は上の空で、彼のすべきことだけを思っていました。
「フィマ!館内はばたばたとしてはならんぞう!」
 青年は手を一本上に上げて、挨拶の代わりでしょうか、どたばたと行ってしまいました。

「あの人は誰だ。どういう人だ。そうだ、名前を覚えている。しかし、あんな名前や姓は聞いたことがないし、あの衣装も、今まで目にしたことがないものだ。気になる。気になる。でも彼女は一体誰なんだ?ニクトが連れ合いだった。ニクトが面倒を見ているんだ。ニクトに貴族の真似なんかできただろうか、でもきっとトルムオの爺さんがお目付けに当てたに違いない。何か特別な事情がある人なんだ。そして、良識があって、きちんとしている。そうでなければ、来たばかりの旅人に本を貸し出しするなど、ありえないことだから。彼女は信頼を国から得たんだ。どうして信頼されたんだろうか?その人となりだけで、そうした判断がされることなんてないから。彼女には真っ先に本が必要だった事情があるはずだ。ということは、調べることがあってこの国に来たはずだ。彼女の予約した文献、あれにヒントが隠されている!あれは実用的じゃない、みんな史料だ。彼女は何を調べに来た?ああ、いけない。必要以上の詮索をしてはいけない。それはあちらの事情をきちんと考えてはいない行為だ。僕は彼女に嫌われたくない。絶対に嫌われたくない。だってあんな人は初めてだから!あんなに光り輝いて見えて、突然、こんなに胸が苦しくなる相手なんて、この方一度も出会ったことがなかった!ああ、これは恋だ。明らかに僕は、あの人に恋をしている!なぜ、どうしてあの人を好いた?どんなところが、僕の胸にヒットしたんだ?一度の目撃で、僕は、あの人に心を奪われた。あの強い眼差し、ちりちりとほどけた髪、長いけれどもつんとした鼻、繊細な顎!眉毛は太くて、悩ましかった!目が僕を捕らえた時、走った稲妻は、決して一生忘れることはないだろう。ああ、たまらない!あの人を僕の胸に抱えたい!」
 その衝撃は、一度も本気で何事かに向き合ったことのない青年に、文字通り稲妻のように走る体中の感覚を与えました。彼は、あっという間にそれに捕らえられてしまいました。日常は、あくまでこなされるものでした。その中で、辻褄の合うことだけをやっていればいいのでした。彼は何も混乱せずにそうすることができて、いかなる風が周りに吹こうとそれに逆らわずに動くことが可能でした。それは彼の特殊能力でした。誰もが、本当は人間の隙間にいるのです。否が応にもこの体は、そしてはみ出す精神は、隙間に出てしまい、そんな自分を如何ともし難いと諦める、または必死に捉えようと努力します。しかし、フィマの特別な力はそんな折自分の体をなくすことができました。いらなかったのです。快楽は向こうからやって来ますし、それで充実していれば。彼は自分に悩む必要がありませんでした。
 ですが、イアリオと会ってしまい、彼は身の引きちぎれる思いがしていました。彼の大事な大事な一部が、相手の手に握られてしまった感じを、彼は受けました。それは彼の中を全部引っくり返して、彼をわけのわからない激情に突き落としました。彼は彼女を前にして何を一体受け止めたのでしょうか。それは、一般的ないわゆる一目惚れと、思われてもよかったでしょう。ですがそうなる理由がもしあるとすれば、それは全身的な、理屈のないことで、ほとんどすべての彼自身の存在を懸けている、半ば危険な状態でした。
 彼は命を懸けたことがあったでしょうか。特に彼は、自分の体をなくすことができたのですが。例えば、たおやかに手を振る女の言いなりになって彼の体を預けました。こちらから、おもむろに振った何かの仕草に吸い寄せられて女が目の前に来ました。彼はそれを抱くだけでした。彼はいませんでした。心地よい感触がありました。茫然と彼はそれを受け止めていました。昔から彼はそうでした。彼はいつもにこやかでした。彼は人を好きになったことがあったでしょうか?それに近いものは感じても、それに苦しむということはなかったでしょう。彼はいつも笑っていました。人と彼とが強く結び付く経験はありませんでした。彼はいつも…母親の胎内にいるようでした。
 フィマ=トルムオは、幼い頃に首都にやってきました。彼の両親は不在でした。彼一人だけが送られてきたのです。彼は当時からにこにこしていました。大勢の人々に世話をされて、孤児としても、思い悩むことはなかったのです。ですから、彼は人々に素直に感謝するすべをよく心得ていたのだと言うことができたかもしれません。彼は、天涯孤独の身を軽々と越えていく得体の知れない善き力を十分に具えていたのです。父母が不在であれば…もしかしたら…自分の無様な感情や、色んな激しい衝動が、向くべき相手もいなかったかもしれません。自分と他者の比較という、大事な自己主張の心理的機構も、彼は一度も味わうことなく今まで育ってきたのです。
 だからといって、彼の言葉に血が通っていないわけではなく、普通は気がつかない冷たさを彼は持っていたとしても、多くの人は、この美男子をつかまえて嫌な気分にならず、むしろ、夢を見るような美しい幻も現れてきて、彼に感謝するのです。けれど彼はどこにいるのでしょうか。いったい、ここにいるのに、人間の彼は、自分が人間の間にいるものと、感じることができない希薄感に支配されていました。彼の言語は人を悦ばすもの…だとすれば、
 ニクトへの言葉や、イアリオに向けた彼の声は、受け取り手の二人からすれば、彼の肉声に聞こえていました。ということは、フィマにすれば、それだけ危機が自分に訪れていたということでした。

 イアリオは、毎日取り憑かれたように借りてきた本を読んでいました。ニクトが度々訪ねてきて、欲しいものはないか色々窺うのですが、彼女は、三冊の書物を手に取って以来、まるで流水が滝壺に流れるがごとく、文字の洪水を受け止めていました。人間がこんなにも紙の物質を眺める機会などあるものかというくらいに、やつれ、疲れても、繰る手の動きは一定でした。彼女は片時も本を手放しませんでした。それだけ一度に文章を読む刺激は真新しいものでした。彼女の町にも図書室はありましたが、そこへ通うのは習慣ではありませんでした。天女の言葉を調べようとした時に、また彼女が教員になろうとして勉学に励んでいた時に、そこにある資料は役に立ったのですが、今の読み方は半ば異常で、貧しさに喘ぐ人間がいちどきに食べ物を与えられたように、彼女はがつがつと文字を貪っていました。頭の中に入ってくる文字の描き出す物語は、かつて聞いたもののように、鮮明に、想像ができました。文とは不思議なものだと彼女は思いました。それは、現在起きていることではないのに、一語一語が、ありえた過去を物語っています。
 ありえたもの、という過去の感覚を彼女は持っていました。というのも、決してその場に自分が立っていたのではないから、過去はあくまで想像で近づくことのできることだと考えていたのです。イアリオにとっての歴史とはそのようなものでした。ですが、彼女は記述をすっかり信じていました。そうでなければ明瞭に空想することなどできないからです。はたして子供たちに語られる昔話は、本当に起きたことでしょうか?そうでなくとも、彼らは物語に親しみます。
 一方で、テオルドなどは、真に歴史を重んじました。彼にとって、昔語りは本物の出来事だったからでした。彼の聞いた物語は、多くは彼の先祖がこしらえたものだったのです。どんなものも、何か真実を訴えるのがお話というものかもしれませんが、彼にとって、真実は痛々しいものでした。しかし、イアリオにとっては違いました。彼女はハルロスの日記も手に入れて、その書物を、人間が生きるために、大事な食料として受け取ったのです。多くの物語はいったいこのようなものでした。何が昔話を子供らにするのかといえば、彼らの健康と成長を祈るためです。それは、ひょっとしたらイラ本人と彼女の子孫も、同じ目的だったかもしれませんが。昔話には毒があります。でもそれが語り継がれたという事実は、本当の真実を語っているのです。それが人間の生業というものでした。社会も、言葉も、歌も、きっと同様に。
 あの町が、長年、覆い隠してきたものも。
 イアリオは、彼女にあてがわれた部屋で、本を読み進めていました。その部屋は来賓がしばらく滞在する時に使われるものでしたが、小宮殿のほど近くにあり、建物は四角くも落ち着いた風情で庭があり、小気味のいい外観でした。肌色の外壁は柔らかく日の光を反射し、オルドピスに来たばかりの外国人に都の街並みはやや目に刺激のあるものでしたが、その刺激から守られていました。部屋もまた簡素な色彩が基調で、彼女はほっとしました。コパ・デ・コパのような室内では落ち着くことができません。しかしさすがに来賓用の部屋でしたから、調度類はぴかぴかに磨かれ立派でしたが、まるでお姫様の使うような奇抜で豪華なものではありませんでした。ベッドはふかふかで、毎日天日に干してくれるといいます。彼女はできるだけ自分でできることは自分でしたいと思っていましたが、いざここでの生活が始まれば、用意されたものはとても気配りが行き届いて、かつ過不足がありませんでした。イアリオはひたすらに、ここに来た使命を果たすべく動くことができたのです。それにふさわしい環境は、彼女の手で作り出されず、周りで整えられました。
 しかし彼女は、使命に()されていた感覚はありませんでした。別の焦燥は感じていても、それを探るべく生きていました。探る方法は、勝手に判っていきました。今は、むさぼるように図書を読むことこそが為すべきことでした。彼女は体力の限界までそれを続けました。食事もろくに喉を通さずに、ひたすら打ち込んでいたのです。心配したニクトがさすがにイアリオに忠告しました。
「お風呂にも入らないで、睡眠も十分に取らないで、このままやつれて死んでしまえば、私たちは非常に悲しむわ!それだけじゃない、わが国の沽券に関わってしまうもの、なんとかして、あなたを元の姿に戻して外出させることにするからね!」
 ニクトは確かに彼女の世話を言い付かっていました。トルムオは、できるだけニクトに修行を積ませようとしていました。彼は、彼女やフィマの他にたくさんの養子を抱えていて、各々に適した教育を与えていました。ニクトに向いた仕事は何かと考えた時に、彼女の奔放で天衣無縫なあどけなさは、どこかで収まるべきでしたから、世話係というのは良い需要だと思われたのです。そしてできればいい修行となるように、それなりに責任のある仕事を担えればと、考えていました。少女は始めからイアリオの世話役に決まっていたのではありませんでしたが、どうやら適任だと思われ、トルムオはこれを認めました。
「一体、イアリオの国では何日に休みの日があるの?」
「ここでは、何日ごとにあるの?」
「六日ごとだけど、あなたは、もう二回分の休みをふいにしているわ!」
「私の町でも同じだわ。ニクト、でもね、きちんと休まなくてはならないという決まり事はないよ。案外、人間の体って丈夫なんだから!」
「そうは言ってもね、誰だって心配するよ。あなたはたった一人でこの国に来ていて、そうでなくたって一人の女性なんだから。いくら使者だからって無理はしていけないの!この意見は、私の我が儘に聞こえる?」
 イアリオは首を振りました。
「でも…私の方が、我が儘かもしれないけれど、こんな風に考えるわ。本当は、自分の命なんてどうでもいいって。なぜなら、それだけの覚悟でここに来ているからね。私は生かされているのよ。そして、行かされた。自分で行った。色々な導きはあったけれど、結局は、ここに好き好んで来てしまったのは私だわ。
 何か、自分の前に巨大な壁があるの。私はそれを乗り越えようとしている。でも可能かどうか、わからない。一人で来てしまったことは、間違いだったかもしれない。そう思っているわ。ああ…何だか、情けない。早速反省かしら。目的の場所に来て、かねてやりたかったことを、今現実にできているのに」
 イアリオにしてはしおらしいこの言葉は、彼女が冒険に出て、幾度も直面した感情でした。ですが、それを自分らしくないものだとして、振り切ることはしませんでした。彼女の町にいる時なら、きっと頭の中から追い出したでしょう。このような気持ちは、まるで行く手を塞ぐばかりで何も生産しませんから。それならどうして十以上も歳の離れた、教育すべき世代の少女にそんな気持ちを漏らしたかといえば、
 人間の隙間にいる感覚が、今鋭敏になっているからでした。存在の重さは独りでいればいるほど軽くなりより重くなるのでしょうか。浮き上がってくる感覚と、下に沈むどうしようもない現実と、両者は分かれ、そのようにして自分はできていることを彼女は確認しているのです。孤独は人間を敏感にします。彼女は独り言のようにそうしたことをニクトに呟きました。ニクトは心配そうに彼女の様子をうかがうばかりでした。
 ですが、さすがにイアリオも自分の体力の限界を感じました。また、日の当たらない場所にばかりいることもよくないことだと思いました。彼女は体を動かすことが好きでしたから、なおさらでした。彼女は少女に連れられて、都から傍の、山の手に行きました。都の周囲に聳える丘よりも五倍ほどの高さの小山ですが、周りに同じくらいの高さのものが連なっていて、可愛らしいこぶの山脈を草原につくり出していました。彼女たちはピクニックの準備をして行きました。弁当箱を提げて、イアリオの裸足と、ニクトのサンダルが、しゅっしゅっと、草を掻き分け小気味よく山肌を進んでいきました。真夏の空は、クリアで、太く短い草の絨毯に覆われた緑の斜面を燦々と照らしました。イアリオは歩きながら、この辺りにある植物を目に留めました。白い花、黒い花は、長い弁を四つに分けて共に同じ形をして、ゆっくりと揺れて頷いていました。細い幹の木立はどうも可愛げがなく、どこか寂しそうでした。所々草の禿げた地面はいかにも暑そうに蒸気を吹いているようでした。イアリオの町では夏でも海に近いので、長袖の襦袢ははずさなくとも過ごせましたが、ここではそうもいかない気がしました。どうしようかと彼女は悩みました。ぽたぽたと汗が滴り、どうにも止まりません。
「イアリオ、暑そう」ニクトが歯をきらりとさせて言いました。「でも、その服は変えられないの?」
 彼女は、自分の服装を変えるなど考えたことがありませんでした。それは身体の一部でした。必要のないところでの腕まくりも、袖をちょっと切ることも、皮膚をめくるような痛みを覚えてしまうことでした。しかし、この暑さに対応するならば、どうせならまるごと衣服を変えてしまった方が、いいようでした。でも、そうすれば自分はあの町の人間だということが、遠くに離れてしまいそうでした。
「変えられないわ」イアリオは呟くように言いました。「いくら暑くてもね。なぜだかわからないけれど」
 小山のてっぺんに立つと、遮るもののない風が来て、幾分楽になりました。さわさわと空気が揺れて、イアリオのちりちりの鬢も、楽しげに膨らみました。少女の金髪ははたはたと広がって、蝶のようでした。ところで、彼女たちには護衛がついていました。二人が大図書館に行った時も、兵士が傍で監視していました。イアリオの処遇は、彼女がこの国に来てから首都を訪れた後も変わりませんでした。彼女は自由ではありませんでした。それは、彼らにとってもしかしたらと想定することが多々あり、やはり、オグの影響を受けた人間をこちらで野放しにするわけにはいかないからでした。彼女には、まだそのことは知らされていません。
 知れば彼女が、またどんな判断をするかわからないからです。オルドピスは非常に恐れていました。人の悪意の塊たるオグに、影響を受けた人間が、
 自らの、囲いの中から外へ出ることを、やむにやまれず選択したことを。
 クロウルダのハオスが確かめられたことは、あのオグの中に自分の前世を持つ彼女が、何か、途方もない変化を求めていることでした。一方で、悪は自分の消滅を望んでいて、また一方で、その悪と同期するかたちで自分を知る旅に出た者がいたのです。
 ではなぜ、彼らが強く警戒する者の傍に、十二歳と年若いニクトを置いたかというと…少女が、実はクロウルダだからでした。少女はトルムオの執務室の裏庭で、その民族の長と遊んでいました。彼らにはオグと強く結び付く特殊な感覚がありましたが、それは決してオグに誘惑されてしまう心の弱さを、増長したものではありませんでした。ニクトが彼女に懐いたのはたまたまでしたが、よりいっそう、彼らは彼女を監視しやすくなったのです。
 ですが、すでに彼女から重大に思われる影響を受けてしまった、可哀そうな人間が一人いました。すかさず、オルドピスは彼についての検証を行っていました。
 野山の上で、イアリオたちは弁当を広げました。木枠の箱に丁寧に盛り付けられたトマトサラダと、干しブドウ入りの柔らかいパンは、とてもおいしくて笑顔が漏れました。イアリオは、眼下に細い川の支流があるのを見つけました。そこへ行って、二人は兵士の視線も感じながら、思い切りよく遊びました。イアリオは、川の縁に石で囲いを作って、その中に小魚を追い込み、素早く生簀(いけす)をつくってみせました。
「これで手づかみでも獲れるわ。ほら!」
 そう言って、一番大きくて生きのいい魚を、両手で掴んでみせました。ニクトはあっけにとられて見ていました。川に浸かったイアリオは、人魚のように輝いて見えました。
 そうでした。決して見目の悪くないイアリオは、まだ、乙女なのです。その感性はいまだに少女のものを持っていました。いいえ、少女のものと同じものを、今ここで、発揮しているのでした。彼女は自分の町にいませんでした。彼女は今一人で来ていたのでした。囲いを脱して、彼女を見たことのない者たちの前に登場して、誕生した場所からはるか空の彼方ではしゃいでいました。まるで、十二歳の頃のイアリオに、彼女は戻っていました。
 大人になった彼女は思い人だったピロットを再び発見したものの、いささかも彼を失った時から変化していない部分がありました。ニクトとイアリオは獲った魚を調味料なしで焼いて食べました。魚はその身をぷりっとさせて、ほのかな青臭さを口いっぱいにさせて、二人を満足させました。

 その翌日でした。ニクトがイアリオの部屋を訪ねると、彼女は裸で、裸身を光に晒していました。それは本当に綺麗な体でした。お尻のわずかに下ったところに染みがありました。肩甲骨がやや高めでしょうか。背中は少し肉厚で、首は長く、太めでした。裸は人間の弱点を晒します。どこか崩れていれば醜くも見えます。ですがその崩れが、かえって見たこともない美しさに変わることもあります。彼女は振り返り、ニクトに笑ってみせました。
 昨夜も徹夜でした。今、起床したばかりでしたが、少女のように、体が充実していました。大変!と、ニクトは慌てて扉を閉めましたが、そうするまで、しばらくぼうっとしてその裸身に見入っていました。
 完璧でない女性の裸は、誰に見せてもいいものではありませんでした。金髪の女の子はベッドに急いで向かって、タオルケットを一枚、寝床から引っ張って彼女の裸身を包みました。豊かな胸が少女の腕の中ほどに当たりました。少女の腕は縮こまりました。そして、一挙に、この女性が好きになりました。窓から満ちる太陽のあかりが、透けるほど薄い布を、包まれてしまった体はひらひらとさせて、桃色を立ち込ませました。
 その瞬間、世界は青く沈みました。それはまだ小さな少女が見た世界でした。十二歳の少女はまだ甘酸っぱいかたちを口の中に頬張っていましたが、ただ一つ、許せないことがありました。
「お母さんは、こう言っていたわ。みだらに人に全身を見せるものではないって」
 少女はなぜか祈りたくなりました。自分が触れたこの体が、たった一人の誰かのものになるようにと。右からラッパが、左からテューバが、鳴りました。高音と低音は、意識しながら、互いの周りを巡り巡りました。
 成熟した女性の肌が間近に迫って、少女の唇は震えていました。目が濡れた様に光っていました。その時、イアリオははっと、ニクトの中に、一人の人間が大きな影を作っていることを感じました。ニクトは、その影なる者のものになりたがっているようでした。
 イアリオは少女の柔らかな腕に抱かれて、自分が、このくらいの子どもと同じ背丈に返ってしまった気がしました。彼女は、ふと自分が、なぜこのくらいの年齢の時に、性に色付き始める頃に普通抱くような言葉と気持ちを、大事に大事に自分自身にしまい続けていたのだろうと思いました。それは、ピロットのことがあったためと、ずっと彼女は思っていましたが、それが急に、疑わしく思えたのです。
 あれっと彼女は思いました。ニクトに抱かれた自分の体が、ぶるっと震えました。それまで、素っ裸でも、構わない気分のいい朝でしたのに。彼女はこの時間帯ならば部屋を訪ねるのは少女くらいだと分かっているから、全部の服を脱いでいたのです。なぜ、そんなことをしたのか。それは、そのような気分になったとしか、彼女には言いようがありませんでしたが、おそらくハリトや、ニクトといった年下の少女に慕われた身体が、随分と殻を破り曝け出されたくなったからでしょう。
 危ういのです。人の裸身というものは。それは、誰に対しても誘惑する力を発揮し、持て余されうる。しかし殻は破られるのです。そして
 破られる殻を持っているのは、そのからだだけではありません。今にも破ろうとしているのは、あの町と、その下に居る怪物でした。
 彼女は人の視線を感じました。今、そこにいるのは己の裸を見せてもいい少女だけでした。ですが、ニクトは自分以外の誰かに見られたら大変!と感じて、彼女に駆け寄り、タオルで包んだのです。イアリオは自分の体が薄い布で包まれたのは、なぜかと分からず、しかし少し経って、分かりました。彼女が裸になるのは彼女の町では自分の家か、あるいは沐浴のための森の中だけでしたが、ここは彼女の国の外でした。自分の町でするように、彼女は裸になったつもりでした。しかしここに来るまで彼女はたくさんの人と出会いました。ゆっくり、彼女はそれまでに自分がいなかった環境に慣れてくる最中でした。
 自分の体が、誰かに見られうる、なんてことは、それまで考えてもみないことでした。彼女のボディは、彼女以外のものになることを、それまで想像をしたことがなかったのです。しかし、今は違いました。本当は違いました。
 あれっ?あれ…?どうして私はここにいるのだろう、と彼女は思いました。ニクトが好いている相手を彼女は知っていました。ニクトは、彼のものになりたがっているようだ、と感じました。自分は…?
 どうして自分は、あんな使命を背負っているのだろうか。クロウルダとオグのことを調べなければならないような。
 彼女は急速に自我が空虚になるのを覚えました。それまでこれぞ「私」と認識していた自画像が、薄らぎました。彼女の顔面は紅くなりました。少女と彼女の、二人の眼差しは、まるでどちらが年上で年下なのか、わからなくなりました。苦しみがイアリオの胸を襲いました。まずい、まずいと彼女は思いました。何かに囚われている。どうにかして、収めなければ!彼女は、自分の胸をぎゅっと掴みました。それが物であるかのように。
 今まで、もしかしたら彼女は自分を物のように扱っていたのかもしれません。多くの人に、自分は育てられたという自覚は、彼女にあまり芽生えていませんでした。そのことは、理屈に留まっていたのです。人間の隙間にいながら、彼女は屁理屈を繰り返したのです。しかし教師にはなれました。誰かを育てることはできました。ですが、はたして自分を育てていたのでしょうか?彼女は、自分に起きた経験を、しっかりと自分に根付かせていたのでしょうか?
 何かが涙で落ちました。裸で寝床に立った女性は、自分のありうべき感情を今ここで取り戻しつつありました。しかし、町から出て以来の緊張は継続し、何のために気を張っているかなどは明白に意識されました。自分にいかなることが起きても彼女は目標を見失いませんでした。ですが、聴こえてくる幻の音楽は、とめどなくどちらへ行こうか、戻ろうかと、彼女をあらゆる方向へ導いていました。それは、特別な混乱でした。しかし彼女の急進的な変化は、あの町の実情をも映していました。あの町は、いったい、彼女のごとくにも変わろうとしていました。
 しかも、もっと、時間をかけて。もっと、大きく変貌しようと。彼らが三百年前に置いてきてしまったのは、黄金に身を重ねようとも、吹き荒れる、本当の生命の息吹でした。
 その女性は少女に抱かれ、口の中から吐息を吐き出しました。少女を向き直り、ちりちりの髪の毛の下でくっきりとその目を瞬かせ、小さな相手を、優しく包みました。二人は次のステージに揃って進みました。少女は、男に近づくために、女性は、人間に近づくために。イアリオはえいやっと体を翻して自分をくるんでいたタオルケットでニクトを包みました。急に目の前が見えなくなった少女は、きゃっと叫んでばたばたしました。自分に巻きついた布をはずしてみると、そこに、立派な肢体を曝け出した年上の女性がいました。少女は顔を真っ赤にして、これではいけないと幾度も言いました。イアリオは明るく笑って、少女をからかいました。しかし、次の瞬間、
 彼女が好きだと分かった相手の名前が、自然と頭に浮かびました。彼女は明るく笑い続けました。ですが、縦に切った内臓の半分が、何度も何度も、泣きました。
 その夜、イアリオは徹夜を止めました。すると途方もない夢を見ました。彼女は雄の鳥でした。眼下に一艘の小舟があるのを見て、その鳥はその舳先に降り立ちました。すると、舟の中にいた男の子が、いきなり彼女を後ろから引っつかみ、ばたばたと暴れる彼女をそのまま毛をむしり頭蓋骨を折って、食べてしまいました。その少年はピロットでした。「いいんだよ」鳥は、霊魂になって言いました。
「私を栄養にして生き長らえるなら、それでも」
 ―――洞窟の中で、ピロットは目を覚ましました。彼は怖い表情をして石の上に座っていました。
 それまで、彼は夢うつつの中を彷徨っていました。彼は、そのうつつの最中二人の人間に会ったような気がしました。彼よりは年下の、この洞窟の上の町に住んでいる者たちでした。彼は思い出しました。彼は笑いました。
「オグ、オグ、か…生意気だ。まるで幻のような悪魔に、この俺がたぶらかされてしまうものか」
 しかし、彼はその悪魔との戦いで片腕を失っていました。そのショックもあり、しばらく意識を混迷させていたのです。彼は、一つの悪魔と対峙できるほどその身に悪を宿していました。しかし、己の悪を守るために、彼は犠牲を捧げなければなりませんでした。それは彼の顔でした。彼はどんな人間の表情にもなれる都合の良い顔かたちを貼りつかせることができるようになっていましたが、それらの表情を見失い、まことに素直な感情の表出を免れなくなってしまったのでした。ある人間の危機を感じて、飛び込んでしまい、失えるものを差し出し、守るべきだったものを守ったのでした。
 彼はにやりと笑いました。暗闇で彼はついに自我に目覚めたのです。もはやいかなるものも彼をコントロールできなくなったのです。彼は誰かに剣を突きたてるべく、海の外側からここへ戻ってきたのです。その相手がようやく分かりました。それは誘惑者。オグの中にいた者。そして、オグと
 向き合うことができた者でした。
「ああ、もう、ずっと長々とした夢を見ていたのだな」
 彼は石から立ち上がりました。何も見ることができない真っ暗闇をぐるっと見渡して、こう言いました。
「ようやく俺は、そう、本当の活動が始められるのか。まずは、上の黄金を洗いざらい運ぼう。そうして俺の、自分の王国を築こう。ああ、確かに、もう俺には分かっている。俺はあの町を破壊する」
 一つの破局点に向かって、
「食べるんだ。喰らうんだ。そうすれば俺はやっと俺自身の形になれる。今まで俺は誰なのか知らない人間になっていたんだ。
 もう、それは終わるんだ」
 彼が正しく自由になるために。

 三大図書館の一つ、コルマエルの館は、直径が三百メートルにも及ぶ円柱型の建物でした。その壁はどっしりとして黒く、周りを威圧する風情を持っていました。かの館は外壁以外は直線で一切が仕切られていました。円の中に、意識的に規律正しい直線の幾何学模様をつくり出していました。それは、彼らがこの世は円の連続だと考えるような思想を持っていたからです。円とは閉じた輪で、外と内とを区切る形のことでした。物質は皆輪郭を持ち、それ自身とそれ自身でないものを区別しています。しかし、それは重なり合い、互いに影響を及ぼし合いながら、この世に存在しています。
 この互いの関係性を、オルドピスの学問では観念的に、円に象徴して捉えるのです。その円は、彼らに拠ればまっすぐな線で区切ることができました。直線で円を割り、ばらばらに分解してみることで、物質の性質をよく分かり、人間にとって必要な知識が増えていくと理解していたのです。この考えを模したのが、コルマエル館の幾何学構造でした。
 オルドピスの人々は自然に大きな敬意を払っていました。それには呪術的な力も働いていると感じられていました。ですがその自然に対して、人が影響を及ぼすことができるようになった領域は、徐々にですが増えていると思っていました。コルマエルの図書館はまったく切り立った壁の連続でした。しかし採光を考えてよくつくられていて、書架付近はそれほど暗さを覚えませんでした。しかし初めて入った人間にとっては、いくら調和の取れたデザインだとしても迷路にはまり込んでしまったように感じました。
 イアリオは頼んでいた本を借りてくるためにこの館を訪れました。その本は前にフィマが請け負い、彼自身が取ってくると言って館から飛ぶように駆け出していったものでした。彼は、そのすぐ後兵士たちに捕まれて、国賓の図書の用事であるからしかるべき手続きが必要だと言われ、少し質問を受けたのちに帰されていました。それ以来、まだ彼は彼女に会っていませんでした。オルドピスは彼を、かの町から脱出してきた人間が最初に誘惑した相手として認定しました。しかし、これ以上彼女に関わらせないようにするなどということはせず、彼を観察することにしました。司書である彼は、彼女が新たに図書を借りに来る他は、イアリオと会う機会がありませんでした。ですがニクトを通して、彼女との接点を持てていると彼は考えました。彼女を想う気持ちは日に日に募る一方でしたが、きっとまた出会えると信じて、その時を待ち侘びていました。
 さてイアリオはやっと数週間後、もう一冊必要な本を借りてくることができたのですが、他の二冊は大分読み進めていて、ほとんど終わりかけていました。それからもたくさんの本を借りて、彼女は自分の町の周辺の歴史を調べまくりました。ですが、それだけでクロウルダの期待に沿うような、また自分でも納得ができるような、あの町での経験の整理をできたかというと、そうではありませんでした。書物がいくら知識を提供しても、それを組み立てるのは自分だったからです。まず知識の裾野を広めることを彼女は企図しましたが、それは次の言語化の準備のためです。
 彼女は自分の町の来し方を、オグやクロウルダよりもまず先に調べることになりました。しかし、勿論、黄金都市の所在が書かれている本などここオルドピスにもありません。それでも町の周囲の情勢に目を配ると、かえって当時の町の様子も浮かび上がってきました。ですが、彼女の町にも三百年前に保存されたたくさんの資料があり、それ以前の情勢については詳しく知ることができました。まして、彼女は歴史学の教師でしたから、詳しくて当たり前でした。ですが自分の町に残されている資料と、他国にあるそれとを比較しなければならなかったのです。なぜなら、町に保存されたものは、町によって取捨選択されていることが考えられるからでした。
 彼女は正確な情報を欲しました。オルドピスにある数々の資料、あるいは歴史書は、恰好の情報を提供してくれました。何より、彼女は自分の知識を上回る知識が欲しいから、あの町から出て行ったのです。

 その昔、その街の人々は、故郷をその手で自ら壊し、そしてその近くに留まりました。自ら阿鼻叫喚の地獄をつくりながら、その後、一途にその場所を守ったのです。黄金を守る、そのような使命も確かにあったのでしょう。自ら起こした、巨大な破滅から逃れられない気持ちもあったでしょう。それはあまりに怖くて、怖い思いをして、逃げられず離れられなかったというだけかもしれません。ですが、それが一番の理由ではありません。
 たとえ汚らしい海賊の造り上げた都でも、兵隊が乗っ取った血みどろの場所でも、それなりの愛着と、ここで生きたという誇りが存在していました。でも、一体、どうして人間の死体を足元にして生活する理由があるのでしょうか。
 その街の再建は、速やかに、それぞれの協力で為されました。地上の土壌は良く水捌けも上々で農地に適していました。彼らは種を撒きました。その種は彼らが陸伝いに手に入れたものでした。豊作は長年続きました。彼らは子供を儲けました。彼らはだんだん人数を多くしていきました。はじめは海岸丘の麓に家の軒を連ねていたのが、次第に斜面をのぼっていきました。彼らは自分たちの先祖を足元に置きたくなったのです。それはどうしてか、彼らにもよくわかりませんでした。彼らは先祖の供養をそのまた先祖に託して墓丘を造りました。祖先の慰めは自分たちではとても身に余ると感じていたのです。なぜなら、彼らの悪がその身を滅ぼしたのであって、いまだにその悪と向き合うことはできなかったからです。
 しかし彼らは忘れることはしませんでした。忘れられなかった、のではありません。彼らなりに、実は向き合い続けたのです。手製の車、足元を頑丈にするための組み木、そしてお互いに注意して作業するための歌。そして豊作を祝う祭り。彼らの記憶から滲み出たものがそうしたものをつくってきました。それらは一度壊されたものでしたが、思い出して、教えていったのです。穴蔵の時代にはなかったものも自ら発明しました。彼らはすっかり一体でした。ひとつの国としてまとまりを持っていました。ただ、恋愛を巡る事情は少しいびつで、様々なルールはあるようで無く、かちっとした常識にいたるまでなりませんでした。彼らは手探りでずっと生き続けたようでした。ですが彼らそれぞれにそこにいる意味がいつも与えられていました。
 しかし、彼らだけが、黄金の都の子孫ではありませんでした。傭兵たちから下克上をくらい追い出された海賊たちは、この地のことを忘れてはいませんでした。いつか戻って、金銀財宝を取り戻そうと目論んでいました。それこそ、ピロットとテオルドの前に現れたあの二人組の盗賊のうち、女盗賊のトアロが幼い頃に出会った老海賊が、まだ執着していたように。
 その昔、近隣の海を荒らした、デラルクト=ムルースという海賊は世界的にもよく知られました。彼はトラエルの地に陣取った者たちの子孫でした。歴史書には彼の没落まで記されていますが、それは恐らくトラエルに臨んだ計画の失敗によるものでした。勿論、はっきりとそれらのことは、本には載っていません。ですが、トラエルの町のあるあの海域に張り付くようにして活動していた彼は、周辺の同業者たちも仲間に引き入れ、かつての大海賊団のように強大になったのです。しかしその目的は諸国の支配ではありませんでした。あの街にある黄金でした。
 ところが街への侵入が失敗して(これはイアリオの町の編年体の資料にあることですが)、後事を子孫に託して彼は去ります。以来、海賊はまったく大人しくなりますが、破滅した都市に侵入する試みは継続されました。
 彼らは彼らの血族がかつて支配したその都市がすでに滅びたことを知りませんでした。彼らを相手にしたのはこの街から逃げ出し、生き残った者たちでした。トラエルの町の資料に拠れば、彼らの襲撃は地下の街が滅びてから三十年経ったあとでした。兵士たちが海賊どもを追い出してから四十年後のことでした。町人たちは彼らの攻撃を予測していました。その頃、周囲の国々では黄金の国から派遣された管領が依然仮の支配を担っている地域がありました。赴任者たちは何度か国に連絡を送っていましたが、一切返事は返らず、彼らもかの町に偵察隊を、あるいは兵力を寄越したことがありました。しかし海からの侵入は暗礁によって阻まれ、陸地は山脈の最西端からしか進軍ができなかったために、呼び込まれ全滅させられていました。彼らは国で何が起きたかまったく知ることはできず、その後何十年と経つ中で、故郷とのつながりを薄めそれぞれの地方にあたかも土俗の貴族のように馴染むよう努力しました。
 彼らはまた、母国に生じた異常を隠し通してもきました。民草の人々は平和であればよく、大国の翼の下に自分たちはいると考えてきましたから、再び戦乱が起きる事態になるまでは特別な叛乱もしませんでした。かの国の亡びは世界中に隠れました。しかし海賊たちは、かの下克上者たちの勇猛なる進撃が、ある時期にぷつりと途絶えたことに注目していました。ですがそれは力を蓄えるためかもしれぬと、じっと様子を見ていました。内政に何らかの事変があったとしても、そこは軍事国家であり、大きくは変わらないだろうと見ていたのです。彼らは諜報もしました。慎重に街の奪取を計画したのですが、生憎調査から無事帰って来られた者はいませんでした。しかし、ある時彼らは町の人間から見えないところに物見やぐらを建てることができました。
 彼らは海からの侵入をはじめから諦めていました。兵士たちも名うての船乗りであり、海戦を通じて版図を拡大していったからです。海賊が知っていた暗礁の場所もあてになるはずもなく、かつての上司たちの侵入を拒むための策略も十分に巡らせているに違いないと疑いませんでした。そこで、海賊どもは、陸からの侵略を試みることになったのですが、そこは陸に上がればまさに河童でした。海賊たちは、それなりの技術と戦略でこれに臨んでいたつもりでしたが、町の人々の頑なに侵略者を拒む態度に容易にやられてしまいました。
 古くから、町には街道が一本つながっていました。北の山脈の最西の、峠から延びた道です。昔はその出入り口にも小さな町があり、山脈の北と南で交流がありました。その町は兵士たちが海賊を裏切るより前に滅亡していて、その荒れ果てた家々がかえって侵入者たちの撃退の足場になっていました。町人の警備の拠点がそこに置かれたのです。山の中、特に峠に向かって、町人たちはよく目を光らせました。
 しかし海賊はこの山の中を侵略して、とうとう見張りの目も届かない一角に諜報の拠点を敷くことができました。
 トラエルの町の資料には、この時の海賊たちの建てた櫓の場所が詳細に記録されています。どのくらいの期間に建てたか、何人ほどで仕事をこなしたか、などが、参照できて、イアリオもこの記録に目を通していました。それは、彼女が町から脱出するための手がかりを探していた時でしたが、つまり、このように記録に残っているということは、彼らは誘い込まれたのでした。トラエルの町の人々は周到な用意をして侵略者を一網打尽にしようと策略を練ったのです。黄金を再び掴もうとする者たちよりも、それを奪われまいと守ろうとする者たちの方が、まったく知恵も意気も上回りました。浅はかな侵略者たちは、まんまとその罠に嵌り、監視者の

道を発見して意気揚々とそこから侵入を試みたのです。ネズミ捕りの罠は残酷に、彼らを捕まえ滅ぼしました。しかしこのようにして、町の人々は亡国の戦士たちの戦力も上回り、狭き門を守ることに成功してきました。
 手痛い打撃を被った親玉のムルースは、敵の大きさをここに知りました。彼らはこの痛手はいまだ健在なる勇猛な戦士らのものとして疑いませんでした。彼らは、後事を子孫に託しましたが、再び黄金を目指す時はもっと周到に準備しもっと裏をかくようにせよと言い残しました。
 やがて、彼らの子孫は再びトラエルの町とまみえました。七十年かけて、彼らは山に穴を開けました。そこから、黄金を車で運ぼうとしたのです。大胆不敵なこの作戦は、デラルクトの遠い子孫のジグルドが行いました。彼らに連綿と続く故郷への執着は、まさに岩をも通す一念となったのでした。彼らが通した穴は、東の山系から、直接地下の都につながりました。そこは、ハリトとレーゼが初めてオグと出会った、都の東地区の水の溜まった所でした。そこでオグに触れたハリトは気を逸し、その後目覚めてレーゼを激しく誘惑したのです。ジグルドは部下を長々と穴に配置し、手押し車を迅速に運ぶ手段を整えました。
 ところが、町はこの異変に素早く気付きました。定期的な地下街の見回りは年に数回程度のもので、ジグルドが穴を通したのは丁度その狭間の期間でしたが、虫の知らせが誰の心にも届きました。人々は見回りを立てて、密かに活動する海賊どもの動きを素早く捉えることができたのです。のちに、このようにトラエルの町が繰り返し侵入を受けていたことはオルドピスも知ることとなるのですが、この時なぜ町の人々が地下街への侵入を察知できたのか、オルドピスではたいそう内密な議論になりました。というのは、ジグルドらの残党をオルドピスが捕え、彼らの空けた穴も把握し、何を目的にそのような穴を空けたのか詳細に知ることができたからでした。オルドピスは、トラエルの町の東山系を隔てた一帯を当時支配下に置いていたのです。
 ある定められた空間を、隅々までを知っていれば、目に見えなくても何かしら異変があれば違和感となって伝えられてくる、敏感な人間の器官があります。トラエルの町の人々はそうした感覚を共有していたのだろう、と学問の国では考えました。あの街は、仮にも彼らの先祖のいた場所で、依然、その霊たちは棲んでいたのです。虫の知らせはその霊たちの呼ぶ声だったかもしれません。人々は、たちまち体の中の異物を排除する小さな活動家たちのように、有機的に動きました。外敵は排泄されました。人々は水の道を造り、海からの水を引き入れることにしたのです。その工事は外敵に秘密に行われました。海賊たちの行動パターンを速やかに把握したのです。工事が完成すると、黄金の荷役たちや、穴の入り口に待機した手押し車にそれを載せる役目の男たちを、あっという間に捕縛しました。そして穴に水が流し込まれました。その穴にはまだ作業を行っている男たちが群がっていましたが、流された海水にあえなく溺れ、その死骸は霧に変じたオグのかいなにさわさわと撫でられ続けることになりました。
 冷え冷えとする歴史の事実は、未だ開放されていない暗がりの中に静かに眠っています。そこで人間の霊たちは浮かばれぬまま今も叫び続けていました。
 それからも、海賊の子孫は幾度もかの町に入ろうと試みましたが、悉く排除され続けてきました。三百年は、もはや区切りでした。彼らを支配した怨念は徐々にその力を失いつつありましたが、それも、かの町の外側にいれば薄らいでいく必然の出来事でした。
 さて、町の人々の脅威はこれだけではありませんでした。彼らの土地は、かつて海賊たちを栄えさせたように、海の交通の要衝でありました。まだ海を巡る戦いは続いていました。トラエルの町の近辺でも激しい海戦が繰り広げられていました。海賊たちから奪った兵士たちの国の力が忘れられ始めて、それから力を伸ばし始めた海洋国家が、新しい港の開発を望むようになっていきました。とても都合のいい場所が、かの土地でした。しかし、絶壁と暗礁とが行く手を阻み、そんなものは到底建設できるはずもないと思われてきました。ですが、ある時、船からクレーンに吊り下げられた石矢が伸びて、人工の外壁を打ち壊してしまいました。船長などが鬱憤晴らしに部下にそう命令したのでしょう。そこにある岩壁はカモフラージュだと暴かれてしまったのです。
 船長は国王に申し出、この土地を攻め落とす許可を得ました。彼らは陸路からトラエルへ攻め込もうとしました。しかし、幾度も外敵が追い払われたように、彼らもまた猛烈な反撃に遭い、退治され追い返されてしまいました。ですが、この時町の人間はある危機を覚えました。彼らの知っている武器は、この戦に登場しなかったのです。例えば、剣の形状がぐねぐねとうねり裂傷を与えやすくしていたり、刃に未知の毒を塗っていたりしたのです。また火種を抱え爆発するように火を飛ばす箱を見たのも初めてでした。果たして未来永劫この場所を守り続けられるのか、このままひっそりと暮らしているだけでいいのか、町の人々は迷いました。
 そこで登場してくるのが、かの大国のオルドピスでした。実は、それまでオルドピスは何度も人を彼らに送っていました。けれど、使者も敵も区別なく町人たちは殺し続けてきました。かえって外部の助力を請えない状態に、町は陥っていたのです。しかしはじめてここに風穴が開きました。
 彼らと大国は、この時最初の握手を交わしたわけではありません。テオルドの先祖であり、黒表紙の日記の著者ハルロスの父親である、大戦士と名高かったムジクンド=テオルドこそ、かの国と深い交流を持っていました。ムジクンドは、治世を彼らに学ぼうとしていたのです。ところが栄光輝く大戦士の国も、内政の綻びによって滅亡しました。オルドピスは、かの国を殊更に深く気にかけていました。そこで大国は繰り返し幾度も手紙を彼らに送るようにしたのです。それから百五十年が経ちました。
 町の方でも「オルドピス」という国の名はよく知られるようになりました。彼らは使者をやむなく葬っているところがありました。しかし彼らはよくよく考えてみなければならないことに気がつきました。実は自分たちは相当進退が窮まっていたのです。海洋国と、オルドピスと、両国に同時にも攻め込まれうる可能性があったのです。そして、両国とも彼らが未知の武器をまだまだ持っているかもしれないということになれば…。もし一方と手を組めば、一方は退けられるかもしれません。ですが、彼らの黄金は、その瞬間から彼らのものではなくなってしまうでしょう。
 オルドピスは一貫して柔軟な姿勢を取り続けていました。オルドピスは町の内政不干渉を、そして、町とオルドピスとの間の関わり方の一切を、町の側から調整できる、と約束していました。町はついにその姿勢に折れ、かの国と手を結ぶことにしたのでした。
 しかしその気になれば、かの国は大挙して黄金都市を我が物にできたはずでした。彼らは町の下のさらに下にオグがいることをまだ知らなかったのです。そうしなかったのは、彼らのエゴイズムによるところもありました。つまり、学者国家は一つの町の行く末を見守ることで、その研究の欲を満たそうと努めたのです。またいつでも利用できる黄金宝物が自国の足下にないことも、隠し金庫を持つようなもので彼らを利することでした。彼らがいかにトラエルの町と付き合おうとしていたか、現在の指導者トルムオからイアリオは詳しく伝え聞きました。というのも、もはやかの町への関わりの主題はオグに変わり、その他にある秘密を隠す必要がなくなったからです。
 それは残酷な宣言でもありました。イアリオは、オルドピスはオグの危険性に鑑みて、町を見殺しにする可能性もあることを、共に伝達されたのです。
 オルドピスにとってオグがかの滅亡都市に潜んでいると判ってから、いつでも攻め込める町は、常に監視を怠ってはならない町へと変わりました。彼らはトラエルの町に対する外交の方針を変更しました。それは町に伝えられることはなく、イアリオにはじめて明かされました。
 ところで、大国は技術立国でもありますから、世界でも最新鋭の装備がありました。彼らによって、周囲の国々は技術をコントロールされるくらいになっていました。オルドピスほどに危険な国はありません。知恵は力以上に支配をもたらすものです。彼らの外交力は、トラエルの町一帯の海域、陸域から、他の国を遠ざけるほどの圧力がすでにありました。山脈の北に広がる森に住む人々はともかく、その周辺とは皆同盟を結び、互いの領地交換などの手段を講じて、すっかりトラエルの町の周りは彼らの領土となっていたのです。黄金都市を隠し通す秘密裏の画策はまったく完全でした。町の人々は、そうとは知らず外敵に怯える必要はなくなったのです。
 「トラエル」という名前はオルドピスが勝手に付けたもので、町人はそのような名前で自分たちが呼称されていることを知りません。その名の意味は現代語にはなく、古語にありました。咲くことのない花、しかし世界の原初に一度だけ咲いたことがあるとされる、古い物語にある花の名前でした。

 オルドピスにある、どの大図書館の裏手にも、こんもりとした森がありました。壁に囲まれた中にある一ヘクタールにも満たないその森には、一言も会話を交わしてはならないという決まりごとがありました。そこは沈思の森で、沈黙の中での思考が尊ばれた場所でした。イアリオはそこに用事があって来ました。浴びるように呑んだ書物の言葉は、今、彼女の中で滔々と流れる川のごとく静かに沈黙していました。
 森には、フィマがいました。彼女はニクトから彼の様子を聞いていました。そこで、彼に会って話をしようとしたのです。というのは、彼が依然彼女に思い入れていて、狂ってしまうほど苦しんでいると伺ったからでした。仕事も手につかないほどになって、日々彼女に会えないことを苦悶し、ニクトに彼女はどう過ごしているか、オルドピスから提供しているサービスに満足しているか、などを訊くばかりになっていました。その間も彼は女を抱きました。向こうからこちら側にやって来ました。彼を、放っておくことができない女たちは、弱々しさを見せるようになった彼をまるで好物のように抱き締めました。
 彼はずっとまるで子供でした。彼は言いなりでした。でも、むくつけき感情が今は沸々と燃え滾りました。それはちっとも収まりませんでした。彼は、女に当り散らしました。彼は自分を抑えられませんでした。彼は柔軟ではなかったのです。彼はただ時流に乗るだけで、自分を試してはいなかったのです。彼の中に自らの言葉はありませんでした。彼の中には他人の言葉だけがありました。
 彼は自分を言語化できませんでした。
 イアリオは、彼が出会ってきたどんな女性ともタイプが違いました。イアリオは、人と自分とを分けて生きている意志の強い女性でした。彼がしてやられたのは、彼女を一目見た時に、その目の中に強靭な意志とたくましさを
 見出したからでした。誰もがある程度もっているそれを、彼はまったく持っていなかったのです。たとえば人は、母親にそれを認め、また欲求するでしょう。自分を包み込む母性そのものに、身を預けたく思うものでしょう。彼にはそれがありませんでした。それがない事情が、始めから、彼が彼自身をうまく捌きながら生きていく道のりを用意したのです。
 彼はまるで彼の母親を発見してしまったのです。瞬時にして彼は彼女に憧れてしまいました。ニクトは彼に、今までどおり、自分の兄としてちゃんとして、しっかりしてと言いましたが、まったく効果がありませんでした。それまで自分になかったものを埋め合わせられてしまうものに出会い、それにぞっこん狂ってしまう人間のさがに彼は逆らえませんでした。
 それに、彼は、今まで自分は一人で泳いでいることに気がつきました。噂では、彼は幾人もの女性と付き合っているということでしたが、付き合いのある女たちが彼だけを相手にしていたかというと、そうではありません。彼は自分をばらばらにしてみんなに預けてもらっていました。彼は人々の付き人でした。ところが、イアリオの目の前では、彼は一人になれました。まるでばらばらだった自分の体を急いでかき集めたかのようになりました。フィマ=トルムオは、そうした命の危険に遭っていました。
 現実は、気づかない乱流を用意しています。そこでは、人は木っ端のようにただあぶられます。とはいえ、なんとか乗り切ることのできるのもまた人です。彼の場所は、彼一人のいる空間でした。
 彼だけが乗り切ることができる、自分の進化を見つけられるただ一つの場所でした。沈思の森は、それぞれの人間に、自分を振り返る居場所を提供します。そこでは語ることは許されていません。彼は森の中の小さめの冷たい石椅子に腰掛け、果物の皮を剥いていました。そうすると心が落ち着きました。彼女に会う機会がようやく訪れて、彼はわくわくする気持ちを抑え切れませんでした。彼の肩越しから、すっと手が伸ばされました。
 彼はびっくりして振り返りました。ああ、一度出会っただけで、紛れもなく愛しくなってしまった相手が、そこにいました。彼は子供っぽく頬を赤らめました。でも、ここでは一言も口に出してはいけませんでした。イアリオはじっと彼を見つめて、森の出口を指差しました。
 彼はついていきました。木立を抜ける間、彼は彼女の豊かに伸びる後ろ髪や、その背中、肩、前後に揺れる手の平などを見ました。彼はそこにおぶさりたいと思いました。陵辱したいと思いました。人間の善と悪が急に一挙に彼の表に表れたかのようでした。今まで感じたことのない熱いものが、彼の全身どころか、その足元の地面まで熱しようとするほどでした。
 心配して来たニクトが森の出口で待っていました。フィマは、少女を目に入れませんでした。イアリオはニクトをちらりと見て、少女の指差した方角に歩を進めました。図書館の邸内の、物静かな、会話のできる所へ行きました。フィマの体はふわりとニクトの気配を感じました。少女の気持ちが、彼の全身を包み込みました。しかし愚かにも彼はそれに返答ができませんでした。ひらりと白い雲が現れました。歩いていく上の空に翻りました。こちらへと、いざなっているようでした。フィマは、こうしているだけで幸せでした。彼は誰かに導かれるままに生きていたからです。ですが、何か、得体の知れないものが地下からせり上がってくるのを感じていました。ずるずると、足元にある何かに自分が引きずられる感じがしました。何かに彼は足を取られました。何に…?
 それは彼の裏側に潜む彼でした。彼は一度もそれと対決していないのです。彼は…その時は思っていなかったかもしれませんが…殺してでもイアリオを手に入れたいというほどの気持ちを抱えていました。彼には大きな穴が空けられていて、それが彼女によって埋められると感じたからでした。しかしその大きな穴は、彼自身が、それと付き合う力を持つはずでした。そうでなければ、彼に用意された環境は、重大な意味を表しません。
 こくりこくりと、地面が喉を潤していきました。彼の、表立った浮世の性格をそれは呑み込んでいきました。ゆっくりと、着実に、彼は自我を失いつつありました。彼にとって至上の美貌の相手を見つけて、明らかに、彼は自分が溶けてなくなっていく予感を抱え、それに耽溺しましたが、溶けていくのは彼の自我でした。自分を描いた自画像でした。フィマは、歩きながらイアリオの背中を見ていて、鋭く何かに気づき始めました。彼女の背に、それが背負っているものが見えました。重く、ひび割れていて、古い亀の甲羅のように、のしかかって見えました。ああ、この人は、と彼は思いました。大変な使命を持っているんだ。
 彼女の詳しい出生など尋ねたことはありません。彼は、彼女と接触したことで兵士たちに拘束されるも、それこそ彼女がオルドピスにとって大事な来客だと知っただけでした。彼に予想されるのは、彼女が、そのふるさととオルドピスをつなぐ橋渡し役として来ているのであろうということと、その彼女の国が、何らかの危機に見舞われているがためにこうして厳重にも護られているのかもしれない、というところまででした。彼は、視界に彼女につけられた護衛の人間を捉えていました。ですが、彼女の悲壮な宿命にある背中は、彼にある命運を語っていたのです。
 彼は目の前の恋にすっかり目を塞がれながら、その実、盲目では決してありませんでした。彼は確かに彼女を観察し、鋭く彼女の来し方を感じていました。彼の見立てのとおり、イアリオは、自分の背中に、怪物を抱えているような気がしました。彼女は町の歴史を俯瞰して、一体、自分たちはどこから来たのだろうと訝るところまで来ていました。そこまで考えなければ、見通さなければ、まず、自分たちを認められないようでした。あの町は、オルドピスからも匿われていて、自分たちで隠れることを選んだつもりが、いつしかそれを選ばされている状況にも、なっていたのでした。重い、重い、重力がかかります。
 オグは、なぜ、あの場所で眠っていたのでしょうか。どうしてあの場所で破滅の時を迎えんとするのでしょうか。エアロスという、思いついた力の言葉は…どうしようもなく彼女に訴え掛けてきていました。イアリオは、できるだけ人が自分に関わらないように努める必要があると思いました。トルムオが自分を恐れていると言った率直な言もよくわかりました。オルドピスはそれを手伝いました。護衛は彼女についているのではなく、市民についているのです。オグに見初められた町の人間から、その未知の力にあてられぬために。
 三人は小さな噴水のある憩いの場にやって来ました。反り返った羽が外側に開いた彫刻の間から、水が勢い良く噴射しました。水は輝き、小さな子供が歓声を上げました。彼女はいきなり振り返りました。彼女はまったくの自由人に見えました。重いものを背負った背中を背後に隠した
 からでしょうか。ぎくりとしたのはフィマでした。
「あなたに、これを渡そうと思って」
 イアリオは手に金貨を握り締めていました。それは、レーゼから貰った、貴重な金の粒でした。彼女は手を開き、それを彼に見せました。
「なぜ」
「あなたから労働を買おうと思って」
 イアリオはにべもなく言いました。
「これでは足りない?」
「いいや、そんなことは、あの…」
「私は籠の中の鳥だわ。でも、私の力で、自分のものを持ちたいと思ってね」
 彼女は自由な眼差しを彼に向けました。
「あなたのできることの範疇でいいから。例えば、好きな果物とか、植物とか、私のお金で買ってきてほしいの。私はここで、とてもいい待遇をさせてもらっている。快適よ。だけど、やっぱり、自分が本当に欲しいものは、手ずから手に入れたく思うのよ」
 彼女は本当のことを言っていませんでした。彼女は彼についてニクトから相談されて、二人でこうしようと決めました。彼女は、別にフィマから労働を買ったとて、彼に働かせようとは思っていませんでした。彼を引き離すために、自分と会う機会を彼に与え、彼女は彼にまったく気がないことを、伝えるためにこうした冷たい態度を取ったのです。そしてニクトは、イアリオに彼を再び引き合わせることで、彼が普段の彼を取り戻すのではなく、いつものような元気を復活させるのでもなく、その心に揺らぎが欲しいと思っていました。少女は計算高く両者の関係を考えていたのです。自分にとってのチャンスは、この関係の間で訪れるかもしれないと予感したのです。なぜならそれまで彼は悠々と自分の人生を愉しみ、その中に少女は滑り込む余地もなく、イアリオと出会ってすっかり混乱した後も、彼が求めたのは今まで通りの女たちだったからです。勿論、少女が成長すれば嫌でも相手はニクトを女として認めたかもしれませんが、少女の胸の中に秘めた心の覚悟は、早いうちから定まっていました。フィマが自分を振り返るなら、早ければ早い方がいいだろうと少女は考えていました。
 フィマは二人の人間にまるで子供のように扱われました。彼はいじらしく反発する気持ちになりました。
「受け取れませんよ」
 フィマは両手で遮りました。
「こんなものは。僕はこんなもので測れる奉仕の心を持ってはいませんから。
 僕の心は、もっと漲り、あなたに近づくことを望んでいます。いいですか?僕の命運は一瞬で決しました。僕はあなたに惚れてしまったのです。いいですか?僕は決して諦めませんよ。決してお金の額で僕とあなたとの関係は契約されないのです。僕の心はあなたのものです。僕を信頼してくださいませんか?僕をあなたの下へ参上させてください」
「それはできないわ」
 彼女は鋭く断りました。
「だって、私、あなたくらいにあなたのことを想えないもの。私以外にあなたは惚れられる相手を見つけるべきよ。もしかしたら、今のあなたのように、あなたをそう見ている誰かがいるかもしれないよ」
 イアリオは二人から離れた所にいるニクトを胸元に引き寄せた気持ちでそう言いました。
「駄目です。あなたでなければ」
「いいえ、必ず私以外に誰かはいるわ。もしそれにあなたが気づけば、私はその関係を祝福するよ」
「僕と、あなたとの関係を祝福してください」

「絶対にそうしてはいけないわ」
 彼女は言下に言い切りました。

「なぜですか?」
「私は操を立てなければいけないからよ。私のふるさとが震えているの。そうしている場合ではないの。あなたの申し込みは、嬉しいわ。だけど、絶対に、そうしたことは都合よく私の自由にできないことなの。私は強いさだめに結ばれているけど、それも私自身が選んだことだから…」
 フィマは、じっとイアリオを見つめました。その背後にいる魔物が、じわじわと彼女の背中を這い登ってくる気がしました。
 彼は、愚かにも彼女を解放してあげたいと思いました。ですが、その実力はまったく彼にありませんでした。彼の彼女に向けた思慕の念は、母親に対するものと同じだったからです。
「この金貨は、あなたのその思いを伝達するのに最もふさわしい手段なのですか」
「そうよ。その通り」
「では、あなたは僕に対して何も答えていない。僕の慕情は、あなたを包んで安らがせるだけの、大らかさがきっとあります。あなたのそばに置いてください。でなければ、あなたはずっと、あなたを支配したさだめとやらに苦しむままでしょうから。あなたの背中にそのさだめが乗っかっているのが見えます。僕は、あなたがそれに苦しむのであれば、自分も苦しい。僕は、あなたを解放してあげたい」
 その台詞には、彼の正確な観察眼が見つけた事柄と、彼が普段から使っていた、決まり文句じみた口説きの言葉が混ざっていました。イアリオはしっかりと彼を見ました。フィマは、再びぎくりとして身を引きました。彼は、彼女が自分から身を引かせるように彼に要求していることはわかりました。ですが、もしかしたらそれだけではないと、感じました。
 それは決して彼の欲望を満たすようなものではなく、またイアリオ自身もまだほとんど気づいていなかった、彼女が(そして町が)他者に望みうることでした。
「こんなことをしても…」
 目の前の女性はふと呟き、首を斜めにかしげました。その悩ましさは二人にも分からない深遠さを覗かせました。
「無効なことだったね。あなたの正直な気持ちは分かったわ。でもそれには私は絶対に応えられない。…変だね。でも、こうした要求も正確だったような気がする。あなたたちに、私は一体何を任せたがっているのだろう」
 イアリオは言葉を口にしました。自分にもよく分かっていない言葉を。
「金の粒は、無効だわ。どうしてこんなものが必要になったんだろう。人間は、愚かだわ。きちんと伝えなければならなかったんだ」
 そうして寂しそうに後足を下げました。イアリオは立ち去りました。彼は、放っておかれました。ただ子供のような心だけが、この場所で弄ばれました。
「絶対に、あの女を、僕のものにしてやる」
 彼の唇の動きはそう言いました。彼の頭上にせり出した樹の小枝に、小鳥が留まって、ピイピイ、ピイピイ、飛び跳ねました。
「うるさいな」
 彼は苛立たしそうに上に向かって手を振り払いました。何かに青年は耐えられそうにありませんでした。
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