第28話 崩壊

文字数 28,019文字

「まやかしだよ、そんなものは」
 テオルドが言いました。
「すべてははっきりとしているさ。こんな風に…」
 彼は手を左右に伸ばしました。闇の中に伸びてぐんと長くなり、そして、闇を抱き抱えました。
「闇ほどはっきりしたものはない。光ほど曖昧なものはない。知ってるかい?光は、暗闇の中でほど、よく見えるんだよ。はっきりしているのは、ただ、闇だけだ…」

「そうかもしれない」
 イアリオが答えます。
「すべてに裏表があるわ。だけど、光がなければ、闇もなかった。
 人間はただ足掻くだけ。足元には花が咲くけれどね…」
 そう言って、彼女は目を覚ましました。夢の中で、まったく見えない暗がりにいて、彼女はテオルドと会話しました。生々しく、まるで夢の中で話したようではないように。裸で寝転がる隣に、レーゼがいました。彼によって刻まれた、破瓜の痛みが、幸福の足跡になり、彼女は顔を赤くしました。
「ちょっと寒いわ」
 彼女は服を探しましたが、少し止まって、レーゼに肌を重ねました。すると、ぶるりと全身が震えました。今更知ったことに今更驚くように。先ほどのテオルドの声が、脳裏によぎりました。彼女は彼と肉体を重ねて、同時に儀式の犠牲となったことを、今感じました。彼女が肯定したのはこの世でした。そうする必要があったでしょうか。ただ一人の人間が、ただ二人のつがいたちが。彼女はレーゼを抱く腕を強くしました。彼はそれで起きました。
「今ね、何か、聞こえたよ」
 彼女は呟くように囁きました。
「何が?」
「きっと、この中に、宿ったんだわ。それはきっと、嬉しいことね」
 彼女は腹を彼に押しつけ、言いました。しかし頭の中は混乱していました。彼女は別に世界を生まれ変わらせようとはしていませんでした。霊たちは、おそらくそれを望んだでしょうが、何者も、それは望んではいけないことだとはっきりとイアリオは感じていました。
 だから、彼女は彼の子種が体の中に宿っても、それが着床したかどうか、子宮の奥で合一したかどうかなど判りませんでしたが、きっとそれは子の姿を形づくると感じました。生まれ変わるのは人から離れた霊ではなく、もの自然に循環した魂だからです。
「そうか」
 そのことこそレーゼが裸のイアリオを後ろから抱いた時に、気づいたことです。人こそ生まれようとして生まれてくることを。彼はイアリオの髪を手で梳き、言いにくそうにしました。
「…あのさ」
「何?」
 彼の言い澱む気配を察して、イアリオは眼差しを彼に向け、言葉を促しました。彼はのろのろと話しました。
「俺、ハリトと今まで何度も抱き合ってきて、なぜ一度も赤ん坊が生まれなかったのかって、不思議なんだ。ああ、こんな翌朝に、言うべきことじゃないけど」
 彼女はくすっと笑い、首を傾げました。
「そうねえ…」
 そして深く頷き、空を見上げました。
「赤ん坊は、結局は望んで生まれてくるからね。ピロットだって、テオルドだって、私の前世のアラルだって、皆そうだった。この世に何が待ち構えていても…」
「本当?」
 彼は今の自分ではなく、ヴォーゼだった頃を思い出して言いました。彼の眼には哀しみが満ちました。
「ええ。だってこんなに幸せなことはないんだもの。きっとよ」
 彼の、そのような表情に対し、イアリオは、照れたように頬を染め、彼の喉にキスをしました。
「親は、選ばれてなると思わない?子供に。私たちも、実は親を選んできたんだわ」
 彼女は明け方の夜空の遠く、うっすらと青い色がひらけてくる所を見つめました。
「たとえそうは思わなくても。そうして一つの物語がはじまりと終わりをもって、循環しているんだと思う。子供はその、時の接合点に宿る。多分ね、あなたたち、まだそこまで到達していなかったんだと思う。本当に人が変わる瞬間がある…それは、多分、色んな儀式に現れてくるけれど、一つはやっぱり結婚ね。人々に、許されて、子供をもうけられるから。許されざるもうけ方をして、生まれてくることもあるけれど…それでも許すほかはなくなってくる。そんなものよね」
 彼に話し掛けながら、イアリオはむごい悲しみを覚えました。思ってもみないことを予測したからでした。
「本当?」
 レーゼが甘えるように尋ねました。彼は、今度はハリトを


「…とても、悲しくなるかもしれないけれど」
 彼女はそう言わざるをえませんでした。そう言って、彼女はぶんぶんと首を振りましたが、今しがた立った予測が、忌まわしい呪詛のような気がしてなりませんでした。こんな予測などハリトに申し訳なさすぎる、と思ったのです。
 レーゼはそっと唾を飲みました。彼女と契り合って、たくさんのことが改めて新しく分かり始めていました。
「行こう、街へ。俺たちは、まだ全部見終わっていない」
 まだ全部見終わっていない、ということが、彼の見えているもののすべてでした。終えているものと終えていないものとが、同時に見えていたのです。終えたものを見たからこそ、終えていないものが、終わろうとしているものが、見えたのです。
 イアリオは、この彼の言葉に強く促されました。彼女は終わろうとしているものを、この目できちんと見るために、町から出ていったのです。
「そうだね。行こうか」
 脱いでいた服を着て、二人はその場を立ち去ろうとしました。湖が湖面を平らにして波風は立っていませんでした。静かに、二人の行く手に湖の周辺に住む狩人たちが集まり道を塞ぎました。人々は皆青色の衣に袖を通していました。
(まさか…昨夜の私たちって、彼らを怒らせるほど大声で睦び合ってはいなかったわよねえ?)
 イアリオは的外れなことを考えました。彼女は無意識にレーゼに近寄り、その手をぎゅっと握りました。
「我ら、北の山を信仰する者たちに、告げがあった。我らと共に来てほしい」
 先住者たちの先頭の者がそう言うと、すすりと二人は人々に取り囲まれてしまいました。二人の正面に、男と女が、周りよりも薄青の、涼しげな淡い色の裾長の服を身につけて、前に進み出ました。レーゼはこの狩人の男女にどきりとしました。いかにも似合いに見える二人は、夫婦の契りを交わした後なのでしょうか、それぞれの右手と左手の中指に、対になる輪を嵌めていました。
(畜生)
 彼は彼らに嫉妬を覚えました。
(俺も、ルイーズも、決してお互いがお互いだけというのではない…それなのに、見せつけるな。俺はルイーズを愛しているが、ハリトとの間で身が引き裂かれそうなんだ!)
 清潔な衣装のひと組の男女は真っ直ぐイアリオとレーゼを見つめました。そして、にっこり笑い、「さあ、こちらへ」と催促しました。そちらに向けて狩人たちは取り囲みをはずし、壁となり列をつくりました。長老らしき人物がその人々の列の奥に控えています。新婚の男女にレーゼたちはそこへといざなわれました。狩人の長老が二人をこうして迎え入れた事情を説明しようと、身じろぎをしたその時、見通しのつく木立の向こうの藪で、がさごそと物音がしました。二人がそちらを向くと、ロンドがぽつねんと草むらの中に立ち、大きく手を振りました。それを見て二人は安心しましたが、どうも今は狩人たちに囲まれるままでいるしかないと思いました。

 その前日の夜でした。ロンドは冷たく流れる川に立ち、空を見上げました。美しく広がる星々を、胸のすく眺めだと見ていたら、その星たちが、急に光を強め出して、彼の前に降ってきました。彼はびっくりして仰け反りました。彼の仲間たちも、キャンプ地で彼と同じように降ってくる光を認めて、仰天しました。
 光の中に、翼を生やした人間がいました。まさに天から遣わされてきた者たちです。冷めてゆく光芒はその輪郭を明らかにしましたが、彼らの背中に穏やかな光が残り続けました。
「人じゃないな」
 ロンドは呟きました。御使いがそれに答えました。
「いかにも」
「では、当然、人間だった幽霊でもないのか?」
「その通り!その通り!」
 ロンドは虫唾が走る思いがしました。彼はこのような奇跡を何度も味わったわけではありませんでしたが、新興的な宗教者が、崇めるものの中にこのようないかにもなる奇跡を念じ上げていたのを、かしこの土地で目撃していました。この時代、現代でいう「天使」は存在していました。「天使」は翼を生やしていました。
 オグも翼を生やしたことがありました。
「じゃあこの俺が見ている幻というわけだ。久しく見てはいなかったが」
 彼は「天使」に食ってかかりました。この時代、まだ「魔法」は存在していました。
「おめでとう!おめでとう!」
 天使はぼんやりと分離し出し、複数に分かれました。そして彼らは拍手をしました。ロンドに対してというわけではなく、でも彼にそれを知らせるためでした。
「神聖なる儀式が今行われている。上に行ってはならない。一つになりし、一つにつながりし!悪と命が!」
「そうか」
 ロンドは長い溜め息をつきました。彼は奇跡を胡散臭く思いながらも、やっと、あの二人が契り合ったのではないかとその言葉を受け止めました。
「では、あの二人、とうとう結婚したんだな」
「ああ!」
 天使たちは偉そうに仰け反りました。ロンドは彼らを放っておくようにそっぽを向きました。
「俺を誘惑するなんてとんでもないぜ。本当に、俺はただの守護者だからなあ。そして、もうすぐ忙しくなるだろうな」
 彼は喜ばしく呟きました。
「あの二人に象徴されるように、あの町から次々と子供が産まれるように、人が出て行くんだろう。もうあの町は人間のものになったんだ。町が彼らを支配することもなくなっただろう」
 彼はずっとその予感に苛まれていました。イアリオから醸される怪しい雰囲気は、何か大きな変化の予兆でした。彼女と共に、旅して、彼女のふるさとの巨大な支配力がその中で変わりつつあるのを彼は確かめていました。彼女は多分、彼も一緒に、この変化に呑まれようと誘ったのです。しかし、お互いの変化は、それぞれのものでした。
 大なる変化は彼にも訪れようとしていました。今の現象がまさにそれです。(ただし、それは称賛と呪いと、別々にしておけるものではなく、これから彼の国民となる者たちに等しく降るような祝いと束縛を暗示していました。国生みが昔から人にとって、そうだったように。)
(御使いの呪いと祝福についてはまったく異なる物語において、その出現と収束とに触れなければなりません。ここでは割愛するとしても。)
「お前に一つ、忠告しておく」
「何だ?」
 翼の生えた人間が、彼に手を突き出しました。その手から彼の手の上に零れたのは、真っ直ぐな光を発する、透明な青き円盤でした。
「選ばれたのだ。お前は、新しき王にふさわしい。これを持ってゆけ」
「…見たことがないな。不思議な塊じゃねえか」
 胡散臭い奇跡に付き合う気持ちはないロンドでしたが、彼は夜空にかざして円盤をじっと見つめました。するとそこに、未来が映されたような気がしました。これから起こるべき事象が、占い師が見えるとする水晶の中身のように、様々に、次々と入れ替わる紙芝居のごとく、彼の目に浮かびました。まるで、種と花と木を同時に見ている気分に、彼はなりました。はじまりと生長と収束を、ひとつにして見るような。その様態を、植物も、動物も、人間の社会も、大地も海もすべてを含めた様子を、青い円盤は映し出しました。
 その時それが見せたのは、人間の記憶の束でした。
「その中に、お前が見えるか!それを持つ手がお前のすべてだ!」
 その中に彼は見えませんでした。まったく、それを持つ手が自分の手であるだけでした。ロンドは突然恐怖感に襲われました。彼は自分の行く末を唐突に見通させられたのです。彼は呻きました。その呻きは腹を痛める女のごとく。
 ロンドから分かたれたオグが、翼の生えた人間の姿で、今彼にこうして知らせをもたらしたのです。「実際」彼は円盤を握り締めました。「もう一つ大きな目標が欲しいと思っていたところだ。ずっとただの便利屋でもいいがな。俺を欲しがる誰かがいるなら、その皆のところへ行ってやろう。俺の役割はそこにあるんだろ?」
 彼は顔を上げ、自分のオグを見遣りました。彼らはまだイアリオたちのように、この町の人々のように、合一の時を、迎えていませんでした。なぜなら彼は、たくさんの人間のために、その合一の時を準備しなければならないからでした。
 御使いは天を向きました。
「我々は行く。あの大門の陰に、その向こう側へ。我々は循環する。我々は一つ、我々は共に、一蓮托生だ」
 墓丘に降ったあの白霊たちのように、そしてレーゼと向き合ったヴォーゼのように、天使らは言いました。
「ああ。俺たちは一つだ」
 ロンドはそう答えました。勿論、これはレトラスの門前に漂っていた意識たちの呼び声だったでしょう。その中にロンドの過去の霊もいたならば。彼は、イアリオのそばにいたことで、彼女と同じような旅を経ていたのです。そして、彼はトラエルの町に呼ばれました。町の地下で苦悶していたいにしえの怪物が、あらゆる人間の還られぬ魂を抱き、その綻びの時間が近づいていたとしたら、様々な霊もそこから漏れていました。いいえ、今起きていることは、あらゆる不変だった霊たちが、自分を求めて、彷徨い出したということです。その身に掛けた呪いをはずして、あるいは呪縛が自ずと緩んで、過去世の悪たちが、一斉に還り始めていたのです。彼はそのような漏れ出た自分自身を見ました。彼に、そこまでの自覚はなくても、過去世の彼が自分に(世界に)王になる約束をしていたのです。

 これまで三度、このようなことが起きていました。しかし人間にその自覚はありませんでした。ドルチエスト、マガド、クエボラという都市で起きた惨事には、このような世界の変革がありました。

 イアリオとレーゼは狩人たちに連れられて、山腹の湖の水源までやって来ました。オグの棲家まで流れてあのゴルデスクのつららになる、その水の流れの始まりは、小さな泉でした。山の住民にとって最も神聖とされるそこには、荒い石組みの祭壇が眠るように木々の間に居座り、泉を胎盤のように取り囲んでいました。レーゼとイアリオはそこで服を脱ぐように言われ、代わりに、狩人の新婚の男女が召しているものと同じ衣装を着させられました。
「こりゃあ、結婚か。罪と罰の結婚か」狩人の老人が再び祝詞を上げました。「その通り」と、長老が応じます。
「驚くほど用意されたさだめと言いましょうか。我らはこの時をずっとたのみにしていました」
 イアリオとレーゼは、ここに来る道中長老から熱っぽい講義を受けました。二人が彼らに待ち構えられていたのは、伝説が今なお実行に移される時だと彼らに解釈されたからというのです。
「かつて人間は海に呑まれ、生き残りの人々はこの山を故郷にしたという。やがて、潮は引き、豊穣な大地が開けて人間は山から下っていったが、我らはこの場所に残った。それは我らの言い伝えによるが、最も純粋に当時の話を語り聞かせられるのは我らだという自負がある。しかし、かつての滅びは、この世に恐ろしげなものを遣わした。永遠に滅びぬ魔物、人々の、悪の集合だ。また我らの先祖の想いのかけらたち。亡びを決して約束されぬ憐れな鳥たちが!今もなお我らの頭上にあり、嘆く。人間の輪廻はどこかで否定された。」
 もし、彼らの生い立ちに彼らから失われた記憶を加筆するとすれば、彼らは生き残った人々の政治的頂点に立つことを余儀なくされた、賢者だったということです。確かにこの山並みの周りは増大した海に取り囲まれ、いつすべての陸地が溺れるとも分からぬ脅威の中、その先祖はうまく人々をまとめていたのですが、潮が引いていくと、人々は大地に引き下がっていきました。彼らは、それで人間から件の脅威が人間の手によって行われたことを、人間が自ら自身を滅ぼさんとしたことが、忘れられていく想像ができました。強いて人々が生き残るために寄り集まった土地へ残り、その記憶を語り継ぐ必要があると思ったのです。
 しかし、遠いいにしえの出来事ならば、否応にもその記憶は磨耗し変化するものでした。
「可哀想な我らが祖先!それでも輪廻するのが我々だ。だのに、冷たさは光の憐れみの中へ消えた。不思議には思わないか。想いは輪廻を拒みこの世に残るが、我々は再びの生を得る。その中で一体何をせんとするのだ。再び、その想いに会うために。輪廻とは、循環ならば、その循環は、きっと少しずつ上へ向かう螺旋を描いているのです」
 ところが磨耗し、変化する中で、消滅していったものもあれば、ますます強く光り輝くものもありました。残り続けるものは、彼らに否応ない幸福と福音とをもたらしました。それは、人間が、輪廻し生を繰り返す中で、それでも成長していくということでした。
「少しずつ違う、人生を歩んでいるのです。

『北野原に星ひとつ   南側へと沈んでいった
 何百もの炎が上がり   山脈はさも夢のよう
 その門前に年寄りが座り   花開けし土地じっと見る
 夢物語の(うつ)し世よ   永遠世(とわせ)にまたがる大獣(たいじゅう)
 年寄り金を背にすことあらば   たちまちにその(つら)ほころばす
 年寄り銀を向くことあらば   愛ある命に身を宿し
 願うは彼方の星行方   その身自身の来し方や
 ややと猛獣野を駆けて   ここだここですはしゃぎだす
 かの都に金降り回り   その恐ろしさも倍以上
 かの港には船が来た   まもなく老人腰下ろす
 金色(銀色)願いが門開く   老人増えてどこへ行く…』

 我々に伝わるこの伝説は、まるであなたの町を見ているようだ」
 その伝説は、まだ魔法が生き生きとしている頃、見ず知らずの若者が、ある町で行った破滅の魔法を写したものでした。あらゆるものを動かしたその魔法は、やがて現実の世界と集合した世界(人間の意識の

)を引っくり返しました。現実と幻想の境目がなくなり、人は、どちらに自分が棲むべき者なのか分からなくなりました。そして人々はつながり合う自他を意識できなくなりました。しかしどの人間にも老賢者が宿り、彼らに進むべき道を示しました。正しきこの世の記憶に従い、人々はやっとその不安定な次元から抜け出す門を発見し、そこから出て行ったという物語です。金、銀は、変わらぬもの、出来事そのものを指していました。
 それは、またまったく別のお話で語らねばならないことであり、ここで割愛するにしても、この時に人間は自分が輪廻し転生する存在だということがわかり、世界は循環しながら上昇する、螺旋の機構を持っているのだと知ったのです。
「そして、門を開こうとしているのは今だ。我らは門の開け方を知っている」
 彼らはその生命の機構が命そのものを愛でていることをよく知っていました。いかなる悪を犯したとて生命は昇る円を描く。その事実が人間を温めることを、よく知る彼らは、その地に留まり、伝説を保存することを選択したのです。
「その儀式は、伝統の下にずっと伝えられ続けているのです。我らのその儀式を行うのは今です。永くこの世につながれてきた我々の想いが、門を開けて、空へと昇る瞬間を」
 彼らに伝わるこの儀式は、実は世界各地に伝わっているものでした。ドルチエストやマガド、クエボラにおいても、このような伝統が息づいていました。
「老いは死を求めます。その死は新しい生へと転生します。老いを知らない我らが想いは、老いを超えた老いでしょうか。少なくとも新しい生ではない。彼らは死を望みます。最終的に死を望みます。死ねなかったのだから、死ぬことを拒んだのだから、撞着は、解放を願います。しかしそれは期待ではない。期待は生じえないのです。彼らは自らその行動を起こせない。
 それは、私たちの出来事だから。出来事にしかすぎないのだから。私たちは彼らの代わりに鏡にならなければならない。彼らこそ私たちの鏡であったのに、そのために、循環を模倣せず彷徨うことになったのだから。新しい生の、模倣をするのです。今、白い霊たちが循環を求める最後の願いに足掻いているならば、「愛ある命に身を宿し」、この場所に来なければなりません。想いの力が彼らの循環を阻害しているならば、その威力の反転が逆の現象を呼び起こします。呼び戻すことで。私たちが私たちの中に彼らを思い出すことで、それは成り立つのです」
 この気づきに至るまで、どれほどの凄惨な犠牲があったかも、ここで語ることではありません。
「最初の人間は二人、あるいは四人といいます。この儀式はそれを模します。我らのいるこの山脈の上に、門はある。門は開き、まるで人間の誕生を模します。私たちが思い出さねばならないのは、古くからある、幾度も幾度も繰り返されてきた、この神秘的な現象。それが、彼らの解放を意味する。
 人間の出入り口を通して、彼らも思い出すでしょう。我々は二人の子種宿し夫婦が

。まるでこの機会に現れたかのように。我々は森を進んだ。湖を回って、儀式の場に辿り着くために。そうしたら、あなた方を見つけた。やはり、
 初めは四人なのだ。しかし、あなたは町の人間。告げがあったとはいえ、あなた方を無理矢理にこの儀式に参上させるつもりはありません。その心に我々と同じものを持つことがなければ、儀式にも支障はあるのだが」
 イアリオは彼らの影に、どことなく昨夜遭った左右違いの目を持つ霊を思い出しました。あの霊は門番だから、二人の前に現れたのでしょうか。門を開く時は、今だからこそ。しかし彼女はその門に拘り続けることこそおかしなことのような気がしました。門はずっと、開いている気がしたのです。
「あなた方は、私がオルドピスの人々と共に森の端をやって来たのを知っていたはずですね。それに、町で何が起きつつあるかも、ずっと観察していたようですが」
 彼女は彼らに尋ねました。
「あなたが町から出て行ったことも、勿論知っていた。そして、あなたの前の世の霊が何者であるかも、告げによって知っている」
「まさか!」
 イアリオの背中にぞくりと悪寒が走りました。彼らは至極当然といった風情で、むっつりとしています。
「アラルの伝説は、我らが保存する物語です。あなた方の町にも伝えられているはずです。いかにもあなたらしい物語だ。どうして今、あなたは彼と結ばれたのですか?」
 彼…?彼とは、レーゼのことですが、それは彼の過去たるヴォーゼが転生した人間という意味でしょうか?
「それは…」
 彼女は彼らに聞きたくなることが山ほど出てきました。しかし、ここで質問するには時間が足りませんでした。
 長老はにこりとしました。
「あなたのその体こそ、かの魔物を受け入れるにふさわしい」
 まるで、彼らは彼女が知ることになった自分のことを、すでにすべて知っていたようでした。我慢のならない震えが、イアリオを襲いました。物静かな風の息が祭壇の下を訪れました。爽快にその足元をすくい、昇り、荒積みの石段を駆け上がりました。白い、(あや)やかな光がおぼろげに最上段に(いま)し、彼らを見下ろしました。「おお」狩人の長老が呻きました。
「あれぞ門番。遠き古くから門を守護する、いにしえの番人」
「記憶司りし魔術師」
「神々の記憶を滞らせし者」
 狩人たちが次々と門番に付けられた様々な名前を言いました。白い光はあの二目の違う女を次第に象りながら、ゆっくりと段を下りました。
「待っていました。四本の支柱なりし人間の男女」
 番人が恐ろしいほど響く声で言いました。そこから正面にもたらされる光が、どんどん強く、神々しくなりましたが、その背に伸びた、細長い影がより濃く黒くなりました。
「愛憎の果てに命はある。私もお供しましょうぞ」
「それが答えか。お主の答えか」
 狩人たちが自ら応答するような合唱をしました。約束された伝統の儀式が始まりました。
「始めから答えなどなかった。全ては流されるままに、流れるままに」
「それが答えか。お主の答えか」
「かようにも。私は生きた。それがようやく理解しえたのだ」
「涙流す人よ。お前はいずこへと向かうのだ」
「門の向こうへ。ようやく旅立つことができるのだ」
「お前はどこへ。どこへ行かんと」
「あちらの世へと。もうこの世への未練はない」
「ああ、遠かりしいにしえの故郷へ。道標は光あれ。ここに、今、来たり。我々は欲する」
 狩人たちの合唱のさなかに互い違いの目の女は両腕を伸ばし手を広げました。その手が左右に伸びた先の、イアリオと身籠った狩人の女が、苦しくも切ない声を上げました。
(何だろう。何かが産まれる)
 イアリオは自分の腹を押さえました。しかし、そこに感触はないようでした。もしそこに着床した種子があったとしても、上から押さえて何かがそこにいるなどわからないでしょう。彼女は昨夜交わったばかりなのです。いいえ、その意味で彼女はそこを触ったのではありませんでした。
(まだだ。まだ自分は―――)

 狩人たちが厳粛な儀式を催して古くからの神聖な魔法を掛け出したとして、その魔法は昔も今も同じ力を有していたわけではありませんでした。人は螺旋を描いて循環しながら、まったく成長しているのです。彼女はその差異を感じました。
 今も昔通りなら、その魔法は実現したでしょう。悪魔は転生したでしょう。その時でした。遠くから獣のような咆哮が聞こえました。あちらは、白き町のある方でした。魔物が、ぐちゃぐちゃとした意味の判らない咆哮を上げたのです。儀式が彼を呼んでいました。現在と過去は、違うのです。
「向かわなくちゃ」
 イアリオは弾かれたようにその場を飛び出しました。狩人に着させられた薄い青色の衣装のまま、裸足で駆けて、ロンドたちの駐留するキャンプ地へ、一目散に向かいました。そのすぐ後を、彼女と同じ衣装を着た、レーゼが追いかけていきました。





                「破滅の町」終部





 もし、隣人が突然自分に襲いかかってきたら。そんな予感は、ないものでしょうか。もし、そんなことがあれば、おそらく魔物がその人に宿ったのだと考えるでしょう。
 人間は、突然変容して人に襲いかかることがあります。なぜなら過去の自分に襲われるから。そのように解釈できる出来事が、この世にはあります。憎しみを感じない人などいるのでしょうか。肉体はいずれ滅び、その身体は誰か他の生き物の栄養になり。身体であったものも、この大きな世界で、巡ります。いつかの自分の身体は、巡って誰かの中に入るのです。
 そして、私の中にはたくさんの、無数の巡る体があります。このような肉体の仕組みを考えた時、私は誰かと失念します。たくさんの体でできている私は一体誰か。強いて判ることは、常に、自分は誰かと共にいるということです。そして、自分には名が付けられている。自分は他者と違う、ちゃんと識別できる存在であると認識します。自分自身とは、複数のものから成り立ち、同時に自分とは何かも把握できている。このような私は誰でしょう。
 また、自分は役ごとに呼ばれうる名称も変わります。はじめは赤ん坊、そして子供、息子、娘、兄弟姉妹。恋人、友達、暴れん坊、ろくでなし、ヒーロー、傍観者、普通。新人、責任者、咎人、隣人。知り合い、見知らぬ者、危険人物、有名人。父親、母親、家族、おじ、おば、祖父母。そのような名称はただ借りているだけかもしれません。また、身体のように複数から成る自分を感じるために。その意味では自分はあらゆるものになれます。ただ一度の人生だけではなれなくても、転生し巡る魂を持てば。
 隣人は何のために自分を襲ってくるのでしょう。自分は、なぜ、隣人を襲うのでしょうか。憎しみを感じない人などいるのでしょうか。今からそれは遥かに昔に起きたこと、というわけではありません。オグは、無数の人間の悪意から成り立っています。
 オグは、それが滅びる時、身近にいる人間の魂を、自分と同じものに染め上げます。それは、それが破滅する時にだけ、起きているのではありません。戦争は、いくらか人間の魂を同じ様態にするのかもしれません。人は、戦争を求め続けてきました。それは内にも外にも回復せぬ傷跡をつくり続けてきました。そこに巡る魂は転生し続けて、あらゆるものを、受け止めます。
 オグは、その先駆けといえるでしょうか。それは、まったく過去の自分が、今につながろうと足掻く、輪廻の一つの姿でした。どうしてこんなことが起きるのか、その驚愕を、人間は生まれ直し味わい続けたのです。どこかで
 それを自得するために。

 では、今物語がいかに終局に向かうのか、それを、紡ぎましょう。





「ロンド」
 森の中彼女はロンドを見つけました。彼は神聖な場から少し離れた所で、儀式の成り行きを見守っていましたが、彼女が猛然とその場から走り出すのを見て、驚いて草むらから立ち上がっていました。その前の、町から聞こえた恐ろしい慟哭にも耳を貸しながら。
「イアリオ、還るのか!?」
「ええ、まだよ。馬を頂戴。あの町に走るわ!」
「さっきから子供やら女たちやらがわらわらとこっちに走ってきているらしいぞ。不気味な雄叫びもあったなあ!」
「オグが叫んだのよ!彼女が出ようとしているわ。自らが築き上げた、檻の砦を壊してね」
 ロンドは一目散にキャンプに急ぎ、指示を出して駿馬を用意させました。彼女がどんなに速い馬でも乗りこなせることを、彼は聞いていました。しかし彼は、彼女とつがいとなった男にも、馬は欲しいだろうと思い、二番目に速いもう一頭も厩から連れ出させました。
「イアリオ、これを!」
 彼は馬にまたがりすぐにも出ようとした彼女に小さな円盤を渡しました。彼が、天使から昨晩貰った薄青い石の円盤を。
「これがあなたを守るだろう。俺は俺で自分にできることをしよう!だがな、身を引き裂かれそうだ。俺はあなたとレーゼさんを守らねばならない!あなたたちは二人で一つだからだ!」
 彼は彼女の言いつけを守り彼女とレーゼを守らないことを改めて誓いました。力強く、その言葉は二人に響きました。突然、彼女には彼の行く末がわかりました。
「あなたはきっと王になるのね。それがふさわしいわ。この小さな円盤は私にも渡された。ずっと昔の自分が、私に手渡してきたの。それは私のオグだった。あなたは私についてきて、自分のオグを発見したんだわ。いいわ、預かる!私は母親になるの!」
 あの老人顔の猿が彼女に押しつけた青い円盤についても、稿を改めて語らねばなりませんが、この世界に伝わっている伝説においてその円盤は活躍しています。大昔の魔法の触媒、繰り返し同じ魔法を使用するために用いられた、人間の強烈な想いを封じ込めた石こそその円盤でした。石は賢者を生み出し、石に想いを託した人間の傍に侍り、様々に助言することもあるものでしたが、その力の暴走は、人の思念を形にして縛り、石に封じられた想いが、逆にその人自身に成り代わる悲劇を生じさせました。かつて、哀しい物語をばかり生み出したその石は、ようやく、この時代になってその力を変え始めました。過去は、現在を襲いますが、それでも変わっているのです。
 たくさんのその石が今咆哮しています。オグという、魔物の体を貫いて、そこに、封印されし人間の悪意が、呪縛を解いて出て行こうとして。
 しかし子供は一人では産むことができません。パートナーが必要です。後に王となる者の石を彼女は手渡され、今にも滅びようとする町へ、彼女は向かおうとしていました。
「行こう」
 イアリオは馬を飛ばしました。レーゼもその後をついてゆきました。しかし、彼女は彼も舌を巻くほど猛烈なスピードで前を速駆けていきました。その姿を見て、彼は彼女の凄さを改めて知って、またとても頼もしく思いました。それは、町の北の墓丘で出会って以来、彼女と会うたび、ずっと感じていたものでした。レーゼは胸を張りました。その彼女と自分は通じ合った、その相手に、ふさわしい自分であらなければと。
「はあっ」
 レーゼは馬に鞭を一振りし、彼女と並びました。
(この人に負けたくないなんて、考えるのはおかしいだろうか)
「はっはあっ」
 レーゼは二たび鞭を入れて、彼女の前に出ました。そんな彼を、イアリオは頼もしく思いました。そして、心と体の中に温かいものが宿るのが分かりました。
(私たちの子が、ここにいる。それがよく分かるわ。もう分かるなんて変だけど。…いいわ、前に出るというなら、どこまでもあなたについていくわよ。私も負けないわ!)
 キャンプのある山際から町まで、三刻(六時間)ほども過ぎずに二人は駆けていきました。逃げ出す人々と二人は交錯しました。人々はイアリオの姿に気づき、彼女の知り合いは驚いた表情を浮かべました。彼女もよく見知った顔に馬上から出会い、今、自分の町が壊れゆくのを信じられない気持ちになりました。オグは、咆哮を止めていませんでした。
 その呻きが地鳴りを引き起こしています。どろどろと唸り、無数の太鼓が、地の底から鳴らされているようでした。

 しかし二人がそこに到着した頃、足掻く魔物の声は止まりました。不気味な気配が辺りを包む中、二人は馬から降り、彼らが乗ってきた二頭を縄に付けず、そこに置いておくことにしました。
「危険だったら、ここからお逃げ」
 イアリオが馬たちに言いました。
「でも、できるだけここにいてほしいの。どうなるか分からないけれど、きっと私たち、生きなきゃならないから」
 彼女は二頭の頬を優しく撫で、それぞれの鼻先に三回ずつキスをしました。馬たちはブルルッと鼻を鳴らしてイアリオに寄り添い、長い睫毛の下の頬肉を彼女に擦りつけました。
「温かいわね。ようく、聞いて。一つの命が終わるとね、新しい一つの命が目覚めるの。どこかで。あなたたちも、私たちも。皆、同じ循環の輪を回っているなら、皆、仲間なんじゃないかって思うわ。動物も、人も、種類も民族も問わず、悪人も善人も関係なくね。やっぱり、自分がもしかしたら母親になるかもって思うと、そうしたことが身近に分かるね。じゃあ、行ってきます!」
 彼女は不思議な感覚に入っていました。丈高い草むらに突っ込んで、目の前を両手でかき分け進んでいるような。何が起きるか判らない、でも、それを楽しんでいるかの。震えは止まりません。恐ろしくもありますが、それなら自分が母親になる、その可能性のあることを許したことは、どこにつながるでしょう。レーゼも同じ感覚でした。彼女の傍にいると、何事も怖くなくなるのです。いいえ、未来が恐ろしくたまらないものに見え、それなのに、堂々とそこへ向かうことができる自分でいられる。彼らの結んだ身体の儀式は、夫婦になる約束でした。たとえエアロスが、この町に今荒ぶる風を送っていたとしても、その風は、ずっと彼らの中に吹いていたものでした。三百年前から、いいえ、もっと前から。
 新しく命の宿った母親の腹の中に座るのは、まるで太陽のような温かさです。これから生まれることを、それは主張します。イアリオは町の表側にいながら今自分が地下の街にいる気がしました。上下のまちに大差はありませんでした。上の町にも死はありました。今でこそ地下の触手が地上に伸びて、どちらも同じものにしつつありましたが、ずっと前から、同じことが繰り広げられてきたのです。世界中で。死者の声がない地上などあるでしょうか。憎しみや腐臭のない人間の世界がどこにあるでしょうか。また逆に、赤ん坊の泣きじゃくる声のない場所もないのです。どこにも楽しみは見つかり、どこにも安らぎはあるのです。
 人間が、それぞれにその場所に何を見出すか。ただそれだけで。
 二人は血に巡り合いました。町は、帰郷したばかりのイアリオが経巡った時にはその跡を見せませんでしたが、今や人の気配のなくなった白塗りの道なり壁なりに、べったりと、薄暗い色をした弾けた血が飛び散っていました。それでいて倒れた人は見当たりません。血は、移動し、導かれるようにどこかへと隠れていく傷ついた人間の足跡を示しました。その方向を彼女はよく分かりました。自分がよく調べていた、地下への入り口のある場所に、どの血も向かっていました。彼らは血の道とは反対に逸れるようにして町を巡りました。いつのまにか、二人はまた、彼女の実家に向かっていました。その出入り口は開け放されて、外から中が見えました。その家の中はふんだんに夥しい量の赤い色に彩られていました。そして凄絶な臭いを漂わせ、二人をくらくらとさせました。
 立ち竦む彼と彼女は、家の奥まった場所の窓に向かって置かれている、背もたれ椅子におとなしく座り、うつむく遺骸を見出しました。遺骸は隈になった眼で、テーブル越しに、彼らを見ていました。
「お母さん…」
 彼女は目の前が暗雲に包まれた心地がして、気を失いかけましたが、この程度の衝撃は、幾度も味わっていた気分でした。だから、彼女の母親の前に進み出、開いたままのその瞼を、優しく閉じてあげました。その時、イアリオは運命の翻弄を覚えながらも、しっかりとした足取りを確かに感じました。この世にいることの不思議、その世から離脱することの必然は、ここにありました。彼女は悼む気持ちにもなりませんでした。なぜなら、こうしたことは、彼女の母親もわかっていたからです。
(はは、まったく…どうしようもないわね。これが人間らしい感覚かしら。涙流す場面でしょ、ここは?)
 でも、泣いていないわけがありません。彼女は頭の片方で自分の父親も安否を気にしましたが、すると、眠たくなりました。同時に考えられることは一つです。父親を考えることと、今の母の死を想うことは、別々でした。彼女は亡骸を抱いていつも母親が寝ているベッドに移しました。そこで初めて、母親と手を組み、生前のやり取りを悼みました。悲しくはなく、でも悲しみました。また巡り合えるだろうと判っていても、それだけで現在の感情が収まるはずがありません。彼女の傍にはレーゼがいます。彼女は死者の魂を慰める歌を、歌いました。町で人が死んだ時に、お墓にその人を入れる前に、歌う歌です。
「安らかに。お母様」
 彼女は背後に人の気配を覚えました。レーゼがその位置に移動したのかと、そちらを向いてみると、暗い顔色の青年が突然現れ立っていました。
「誰…?カムサロス?」
 その風貌は、かつてのピロットの弟分、彼と同じ屋根の下にいた、十五人の仲間の一人でした。
「どうして、あなたがここに?」
 イアリオは冷静に応じました。彼女こそ町人に見つかればただでは済まなくなる立場なのに(とはいえ馬上から顔見知りには何人も出会いましたが)、また誰かに殺されたはずの死んだばかりの母親の前なのに、彼女は、ここには必然のことしか起きていないことばかりを強く感じていたのです。
「俺がやったんだ」
 カムサロスは物憂そうに言いました。その声は、虚ろで、まるで自分がしたことをよく判っていないようでした。
「あんたの母親を。カルロスの命令だったんだ」
「テオルドの…?」
 イアリオは、彼の背後に何か黒いものが浮かんでいるのを見ました。オグかもしれませんが、それほど恐ろしくない者です。
「彼は、あんたを憎んでいたようだ。どうしてピロットの尻拭いを自分がしなきゃならないのか、てね。あの男、帰って来たことを俺たちは知っていた。そして、あの男がこの町の地下にある黄金を狙うことも…。
 俺たちはそれを阻止しようと町中を駆け回った。でもあいつ、俺たちより強い仲間連れて、この町にやって来ていた。凶暴なやつら。もう、あいつはこの町がどうなっても構わないんだと思った。昔は、絶対にそうじゃなかったのに。…あいつは、本物の兄さんのようだった。俺には優しかったんだよ。だから、カルロスがそう言っても、俺は耳を貸さなかった。でも、見たんだ。あいつが町の人間殺すのを。しかも、楽しそうにさ。黄金は、俺のものだと言いながら。もう、昔のあいつじゃなかった。
 あんなもの、俺たちはいらないだろ?ピロットにどうされようが、知ったことじゃないんだ。でもあいつ、この町に黄金があるからこんなことするんだって言って、仲間と一緒に暴れ回っていた。俺にはあいつを止められない。すると、カルロスがこんなことを言ったんだ。『あいつを止められるのはイアリオだけだ』って。確かにそうだ。イアリオは、あいつに唯一口出しができた。でも、イアリオはもう町にはいなかったはずだった。
 ああ、なんで、タイミングよくあんたは帰ってきたんだ!俺は指示されたよ、カルロスに。イアリオを、彼にけしかけるようにって。彼女はきっと自分の家に戻るから、彼女の家にピロットが現れた痕跡を残せって!だから、俺は…」
 彼は辛そうに息をしています。彼は今までのことを真摯に告白しようとしていて、それでも彼の犯した罪の重さが石造りの家ほどに重く。
「『ピロットは、イアリオに惚れているんだ。今でもそうだ』って、彼は言った。でも!ああ、今町がパニックになっていて、イアリオも見たろ、皆おかしくなっちまっていて。人殺しはおかしいことじゃなくなってきてる…たとえ、ピロットがその道の連中を連れてきていたとしても。まるで三百年前の再現だよ。誰もがそれを知っている、分かっている。黄金があればと皆考えた。そうすれば身は守れるだろう、人を支配できるだろう。少なくともいつのまにか入ってきたピロットの仲間たちを懐柔できるはずだと。皆、我先にと地下に入り出した。俺はカルロスの警備隊について、ピロットのことや暴徒化した町の人間を相手にしていたが、何より子供たちを町の外に逃がす役目を与えられた。でも、そうしているうちに、おかしなことが起きた。怪獣のような唸り声がした。その大声はものすごく大きくて、俺は、地下にいる死人が一斉に吠えたんじゃないだろうかと思った。あの、蔵に入っていた人の骨が襲いかかってきたことを、思い出したよ!俺たちは、地下に黄金を求めに入り出したんだ。きっとあいつらを怒らせてしまったんだ。ついに溢れるぞ、俺たちの町に、昔の人間の亡霊が。きっと皆そう思っただろう。
 …カルロスが、俺に、『イアリオの母親を殺せ』って。俺はどうしてかと訊いた。そんなことはできないと言った。でもあいつ、俺に、ピロットを止められなかったのはあいつのせいなんだと言った。もしあいつがピロットのことをちゃんと相手にしていれば、こうはならなかったんだ。イアリオだって、ピロットは満更じゃなかったんだから。考えてもみろ、イアリオはピロットとほとんど一緒に帰ってきたんだぞ!多分、あいつを止めにやって来たんだから。俺たちだけであいつは止められないんだから、イアリオに任せてみよう。できるだけ本気で、だから、彼女の母親を殺して、あいつがしたように見せかけるんだよ…」

 テオルドは彼女が帰ってきたことをあらかじめ判っていました。彼女をオグの棲家に案内したのは悪意の集合体であるオグから分かれ始めた、彼女の過去世の残留した思念でしたが、魔物は各々に分離しながらまだ各々につながり合っていたのです。彼は、敏感な目を町の外にも向けており、オルドピスからの使者も殺し続け、なおかつ大国から兵士が斥候であれ相当数送り込まれたことも気づいていました。その中に、彼女がいたことは、狩人たちの変わった動向からも推察されましたが、何より、自身がその昔入った身体の持ち主が、魂を改めてここに向かってきたことに、著しく、その集合が反応しました。求められたものがやって来て、否応にもそちらに気が惹かれたのです。彼は恐ろしくなりました。
 彼は分離した彼の一部に任せることにしました。彼女を案内し、彼女の目的を、彼女がこれからしようとしていることを、探らせたのです。その中で、彼は彼女がこの町全体を生まれ変わらせるつもりで、還ってきたことに気づきました。彼の一部が(元々彼女の一部だったものが)彼女に還り、彼女がいかに、自分を認める旅路を経てきたかが分かったのです。
 それならば、と彼は手を打ちました。現世の彼女が犯した悪は、今、清算されるのだろうかと。彼は、子供のピロットが彼女にうつつをぬかしてしまったことを知っていました。それで悪童は彼やオグが呼んだ力に呑まれず、思い通りに動かすことができなくなりました。悪童はイアリオにこそ動かされる人間になったのです。まるで、自分たちと同じことを彼女はしている。それは、かつて自分であった者が、してしまってはならない大禁忌でした。
「彼女は忘れているのだ」
 オグである彼は思いました。
「オグであった頃の自分を。それは許されない。私のこの体はもう自分なるものを恨み自分の死を望んでいる。それなのに、それに気づいたのはまさに彼女の魂なのに。同一の罪を、また孕むのか。私は罪を生み出し続けたのに、また、隔世の悪罪をもたらすのか」
 オグである彼こそ忘れていました。自分を生み出した人間は、何もかもを生み出していると。

「それで、あなたはここへ来た?」
 イアリオはかすかに震える声で、カムサロスに言いました。カムサロスは
 ピロットに動かされ続けることをずっと望みました。ピロットなくして彼は自我を保てませんでしたが、そこから自立する方に向かう、人としての成長の道程を、彼はオグに阻まれていました。
 オグは、かつての彼女でした。いいえ、かつてのすべての人間でした。
「そうだ。俺はその目的のために。お願いだ、あいつをなんとかしてくれよ。本当に早く、あいつを止めたら、そうしたら、いいんだ」
 彼女はとても切なくなりました。その裏でオグは、笑いました。カムサロスにとって大きな存在のピロットは、ちょっと複雑な大家族である彼の家で、しがらみもなく笑い合える唯一の兄弟でした。人には共感されにくい憂鬱な事情が家庭にたくさんあった中、ピロットだけが一対一の関係を築けたのです。
 カムサロスはテオルドの言う通り殺人を犯して、初めて自分がおかしくなっていたことに気が付きました。しかしそのすべてを感覚するには彼の器は足りませんでした。町を感じ取り、その中で自分が自分を保ちながら生きていくすべをはじめから持っていたピロットに、彼は教えを請うていたのですが、彼女に唆されて(オグにも唆されて)、ピロットは町から出ていってしまったのです。彼は
 いびつな復讐を果たしました。彼は求めていたものをつかむことができませんでした。しかし、そんな人生は
 繰り返し
 この世で現れてきたことです。だれもがだれかに人は悪を犯すのです。
 彼の背後にいる黒い影は、誠実な本当の彼でした。オグが、彼に成り代わっていたのです。テオルドに直接刺激された憂鬱な彼自身が。
「本当に」
 彼女は怒りを押し殺していました。じっとカムサロスの話を聞き、あらゆるからくりが、目に見えるようでした。彼女はオグが成り代わったテオルドが、彼に嘘の息吹を吹き掛けたのだと思いました。もはや、彼女は自分がピロットに何をしたか、自分が彼を誘惑したのだと判っています。彼女はオグと同一のことを現世でも自分はしてしまったのだということを、あのオグの塒で、よく気づいたのです。自分の中の魔物を巡る旅の果てに。その塒が壊れるときに。それが解放され、ようやく、自分に戻ってきたから。カムサロスは、魔物に自分のオグを見せつけられているだけだったのです。それがまるで、自分のことのように彼女には思えて、滾る怒りを押さえつけずにいられなかったのです。
「本当にそんな言葉、よく信じられたわね。ええ、カムサロス?」
 幼過ぎる彼にはこのことはまったく理解できないだろうと彼女は分かっていました。ですが、今彼を襲っているだろう焦燥と、不安と、激烈な罪悪の念は、まさしく彼女が昔に体験したものでした。その記憶が、オグを通して、まざまざと彼女には蘇っているのです。
 しかしカムサロスが前にしているのは、そのような矛盾した体験をしてきた女神のような相手でした。彼は告白をして、正直に、彼自身を弁明したのです。
「俺も操られていたんだ。何かに、多分、何かにさあ」
 彼は叫ぶように言いました。
「分かってくれよ、な?」
 そして媚びるように、彼女に頼みました。その仕草はまるでピロットのようでした。勿論、あの悪童はそんなことはしたことがありません。ですが、彼のありえない懺悔があるとすれば、カムサロスは、それを再現していました。
 それで、かっと怒りが彼女にこみ上げてきました。ピロットの矛盾した弱さをイアリオは見てきていませんでした。彼が隠し通した弱点は、まさに彼女になったからでした。多くの声を聞き過ぎる彼の耳は塞ぐのを待たず
 いえ決して塞げず
 彼女に聞き届けられるのを分かっていたのです。その慈愛に呑まれる夢を彼は何度も見ましたが、それが恐ろしくて、怖くて、いつまでも自立できなくて、彼はカムサロスのようにも彼女の前に現れることはできませんでした。彼女の親を殺すこともできませんでした。もっと大きなものを彼は壊さざるをえず、その子分のカムサロスは、もっと小さなものを壊しただけなのです。
「黙りなさい!!」
 イアリオの声が部屋中にびりびりと響きました。雷鳴のように轟いて、カムサロスは腰を抜かして、その場に倒れ込んでしまいました。
「俺は、操られていたの…?本当にこんなこと、俺のしたことじゃ…俺がしたことじゃ…」
 彼は、べそをかきながら、まだ許しを請うようにして喘ぎましたが、彼は、自分が犠牲者であることも判りませんでした。彼は、何の権力も誰からも付与されず、自分の何を使うことができるのかもまったく知らず、今まで過ごしてきたのです。彼女と彼の差は圧倒的で、問題になりませんでした。
「いい?私の母は死を覚悟していたわ。どんなことをしても、私たちの町の破滅は、防げなかったと考えた。私たちは、なぜかそのように感じて、その覚悟を得たんだわ」
 イアリオはゆっくりと話しました。カムサロスに分からないことだと分かりながら。
「あなたもそうでしょ?ピロットは、なぜ戻ってきたのかしら。彼が、この町の住人だから!もし彼を止めたいなら、この町の仕組みを変えるべきだわ!それができないなら、諦めるしかない。私たちは、同じ場所に住んでいるから」
 イアリオの言葉はカムサロスにびりびりとこだましました。その意味ではなく、そのうたが。
「いい?人間は、何かに巻き込まれるものよ。それが、事実。あなたもそうだった。確かにそうだったわ。けれど、罪を犯したのはあなた。カムサロス、今でもピロットのことが好きなら、彼を何とかしたいと思うなら、彼に会いに行きなさい。必死で止めなさい!私なんか構うな。それから言い訳をしなさい!」
「あ…あ…」
 それでもカムサロスの目には元の光が戻りました。自分が本当はどうしたかったかが、彼女の言葉によって目を覚ましました。自分はイアリオに嫉妬していただけだった…自分だけを見てほしいピロットにはずっと気がかりな相手がいたのだった…それなのに、その相手はのうのうと町に暮らし、憧れの兄貴分は還らぬ人となっていた…戻ってきたんだ、この町に。風貌がまるっきり変わってしまったといえ、あの人は、俺の前に戻ってきてくれた。もう一度再び、俺とあの人が一緒になって暮らしていくには、どうしたらいいのか。彼は、藁にも縋る思いでテオルドの言いなりになりました。彼は魔法を起こそうとしていました。
 それだけでした。テオルドが、魔物が、唆し焚き付けた人の思いなど。人が、悪意に走る理由など、猛々しい自分の思いが、願われて世界中を駆け巡りこの世に魔法を掛けようとして。それは悪とは見做されていませんでした。ですがそれこそが、悪となりました。町中、至る所で、それがありました。オヅカが、想いを遂げたくてテオラの夫を倒したのもそうですし、医者のマットがほとんど監禁状態にされて、一つのグループだけを診ることを要求されたのもそうでした。彼らは隠された本心を次々と暴かれていきました。その本心とは異なる行動を要求し、そのために動かされたのです。たとえ、どんなにそれが、間違っていても。周りを壊してまで手に入れたいものがあるのが、人間です。
「母は死を覚悟していたから、あなたには罪を問わない。私からはね。でも、これだけのことを犯したのだから、もう、あなたには覚悟があるんでしょう?死ぬ覚悟が。当然、この町のルールではそう定められているのだものね」
 イアリオは冷たく言いました。彼女にははっきりとカムサロスが辿った過ちの道のりが見えていました。
「もう本当の目的は、分かったでしょう。あなたは、一体何のためにその罪を犯したか?」
 それは自分と同じだった。彼の帰還を、誰よりも強く願っていたから。だから
 私も巻き込んだものがあった。いいえ、私が自分に気づかないことがあった。まるでイアリオは自分に怒るように彼に怒っていましたが、その理由も、彼女の中で徐々に解けていきました。彼女はただ彼の話から彼を推測し、自分の経験から彼をよく分析しただけではありませんでした。今の自分も彼と同じようなことをしていたから、彼のことがよく分かったのです。あのピロットに対してだけではなく、
「ルイーズ」
 怒りに息を荒げたイアリオを、背後からそっと、レーゼが呼びました。
「おかしいぞ。この血は一人分だけのものか?もっと人がここにいなければ、あちこちにこれほど、付いてはいない」
 よく見れば、彼らをくらくらとさせた血は玄関口からべったりと、居間まで続いています。
「そうだよ」
 カムサロスが小さく呟きました。蚊の啼くような声でした。
 人の怒りは複数の思いから成り立つことがあります。誰の怒りだか分からない怒りに、身を任せて。
「俺が思い知らせたいのは…この町になんだよ。もう、どうだっていいんだ。明らかに、この国は矛盾を抱えていたじゃないか。最も価値のあるものは、欲しがっちゃいけないって」
 彼はもう彼だけの想いを吐露していませんでした。女神を前に、彼の中に侵入していた者たちが、思いを吐き出し始めました。
「俺は、その状態を何とか打破したいと考えていた。でも、それは無理だった。なぜなら、皆、欲しがらないことを望んでいたから。矛盾さ、矛盾が、心地いいんだ」
 蚊の啼くような声で。
「伝統が重んじられるんだ。掟がものを言うんだ。だから、何もかも混ぜこぜがいいのさ。どうしても、何か欲しい時はおねだりをする。それでいいじゃないか。別に、それが叶わなくたって。俺は…俺は…」
 彼の顔面が著しく歪みました。まさしく彼は、複数の人間が所在するように、あちこちの顔中の肉を動かし、一つだけしかない彼の口を幾人もの死霊が動かそうと溜まりました。
 しかし彼女は

相手にしました。
「ピロットが、そのままいてほしかったのね」
 そして、彼の口は彼に取り戻されました。

。ここに来る途中にだ、俺は、カルロスから人殺しの技術を教えてもらった。いざという時のためにと教えられた。いざという時は、来たんだ」
 彼は、イアリオの母親を慕い訪ねに来た女性たちを後ろから刺して殺しました。首から迸る血は、勢い良く壁中を濡らしました。目を瞠るイアリオの母親にも、素早く近づき、それは首を絞めて殺しました。
 彼の中に入り、彼を乗っ取った、彼の一部が、そしてあのオグから分離したいくらかの集合が、それを行いました。人が人を殺す時、何か願い事をして、その罪を犯すことがあります。思いが叶うように。異次元の隙間を縫って、その思いが、どこか遠くで見守っている自分だけの神様に届くようにと。その数がもっと増えれば、ますますその願いは実現し易くなると。
「ああ、でも、こんなんじゃなかった!もっとうまくできたんじゃないかって」
 彼は自分をごまかすように言いました。
「ああ、黄金が呼んでるぞ。地下にいる、見捨てられた黄金が。あれは、俺たちが持っていたものだった。じゃあ俺たちのものだ。俺たちは、再び地下に潜って、あれを、自分のものにするんだ…」
 彼は嗚咽しました。異常なものが入っていて、体がようやく拒絶反応を示したのです。彼の顔は再び歪みました。しかし彼は正常な意識も取り戻していました。
「何かが…俺の中に入り込んで…そして…俺は訳が分からなくなって…ああ、一体何が何だか、俺は…でも、こうしたかったんだ…俺もだ…俺たちがしたこと…俺たちのしたことの意味は、一体、何だったのかって…」
 集合したままのオグの意識は苦しみました。未だに分離していない者たちは、カムサロスと一つになり、彼の中に生じた矛盾と共に嘆き、また、彼らが持っていた嘆きも、その身体で共有し合いました。宇宙がその中で形成され、彼らはただただ邪悪なものになりました。イアリオはその時、カムサロスの体から黒い靄が現れるのを目にしました。そのぼこぼことした瘤はいくつもの人間の頭で、かつて地下の通路で、あのハオスと接触する前にも見たものでした。
「あああ」
 彼は涙を流し、悶えました。イアリオは彼の首を思い切りはたきました。それで悪霊共はその身体から分離し、ふよふよと、空中へ逃げました。彼の首をはたいた手はびりびりと痺れました。生と思いへの執着を持っている人間の一部が、醜悪に人間に取り憑いてこの世にみじめな魔法を掛けたのを、解いたために。
「呻き声が顔になってる。…そうか、あれは、私たちが自分たちの町の下に、供養もせずずっと放っておいた、ご先祖の、レギオン(集合体)かもしれない。そうでなければ…小さなオグだ。…色々なことが、起きているのかな。色々なことが…」
 そうです。イアリオが感じたのは、決して、自分がカムサロス自身と彼の中に入り込んだ悪霊どもの想いを同時に聞いていたというだけではありません。彼女は背景を感じていました。町がこうなった、カムサロスがこうなってしまった背景を。途方もなく昔から続いていた、人間の連綿たる魂のつながりまでを。三百年前より警戒された、人間の欲望の足跡の続きを。
 彼女は確かにこの混沌たる現象の傍観者となるべく、この町に還ってきました。このようなことが起きることを、予見して、わざわざ故郷を離れて、調べて。
「置いていかないで」
 カムサロスは、彼を放っておき家から出て行こうとしたイアリオの裾を引っ張りました。みっともなく、泣きながら、自分の罪に潰されながら、自分の未熟さに絶望しながら。
「駄目よ」
 イアリオは冷たく言うしかありませんでした。
(まるで自分を見ているよう。自分がアラルだった時は、実はこんな風だったのね。自分で、恋人に対する思いを消化しきれなくって!うまく頼れなくて。その情けない気持ちは、すっかりオグに、喰われてしまった。私はオグの僕になって、さらに悪を犯し続けた。

 でも、この先がある。私はそれを見に行かねばならないわ)

 イアリオはカムサロスの手を振りほどき、彼女の母の死した家から出て行きました。外は雨が降っていました。この前のような霧の雨ではなく、糸を引いて見られる本降りの雨が。
 イアリオは力強く裸足を雨中に突き出しました。
(逃げられない。必ずこの結末を見届ける)
「ルイーズ」
 レーゼが彼女の脇から囁きました。彼は、ずっと彼女とカムサロスのやり取りを聞き、彼女がどんな思いでかつての仲間の話を受け入れているのかを感じながらその場にいましたが、次第に、カムサロスの言い分もよく分かってくる自分がいました。まるで、支離滅裂なその物言いは、あのオグに支配された時のハリトのようだと思ったのです。
「これから俺は、ハリトの所へ行こうと思っている。あいつの結末を見なければ」
 彼は、彼女の中に閃いた、結末という言葉を用いることになりました。
「結末?」
 振り返り、彼女はレーゼに尋ねました。心に浮かんだその言葉は、禁忌の叫びのようにも聞こえました。そうです。この町は、ひとつの結末を迎えに歩いているのです。
「そうなる。きっとそうなる」
 彼は自分に言い聞かせるように言いました。しかし、その目が思い描くのは、イアリオの母親と同じ、結末でした。
「だから、行かなきゃならない」
 彼の体を壮絶な震えが襲いました。そして、どうして目の前のこの女性は、今平気なのだろうかと思いました。たった今、自分の母親が、亡くなったのを知ったというのに。殺された相手がそこにいたというのに。
「そうか」
 イアリオは頷きました。
「じゃあ一人で行く?その方が、あなたにとっていいかも」
 彼女は意外なことを言いました。少なくとも、彼にとっては意外でした。しかし、カムサロスに対して彼女が言ったように、彼こそ恋人をどうにかしたいのであれば、彼が、必死になるべきでした。
「そうだな…その通りだ。でも、イアリオには傍にいてほしい。俺の正直な気持ちは、あなたにあるから」
「どういうこと?」
 なんとなくその言葉の意味も判りながら、彼女はあえて訊きました。彼は、真正面から彼女を見据えました。
「本当にあなたは強い。泣いてくれたっていいのに。泣くのはこの後でもいいが、その時に、俺は傍にいさせてくれないか。俺も一緒に泣きたいんだ。悼んで、弔おう」
 彼はちらりとイアリオの家を見るばかりで、それだけで雨煙る路上へ出て行こうとしました。彼は本当に自分の何が至らなかったかをはじめて分かりました。それは、悲しみを共有すること。苦しみを分かち持つことでした。それは、ヴォーゼの時代もしたことがなく、取り残された霊魂となって多くの人間の凝り固まってしまった想いを聴いていた時も、できなかったことでした。まして、無数の悪意を束ねるオグも、したことがないことでした。誰かの傍にいて、その人の想いを分かち、ただそこにいることを、どれだけの人間ができるでしょうか。彼はそれを望みました。そこにいることも、そこにいてくれることも。
 そこにいることも、そこにいてくれることも、イアリオには、頼めました。イアリオは、急にこの男のことがいとおしくてたまらなくなりました。いいえ、いとおしいだけではなく、信頼が、生まれました。彼女は小走ってレーゼの前に回り込み、彼のその口を奪いました。少しだけ、重ねて、急いで離しました。でなければ、もう、泣くしかないのです。彼らは、共に狩人に渡された薄青い衣を身につけていました。その青を、よりよく濃くしようと、雨がそれを濡らしました。

 ハリトの家は、袋小路の奥まった所にありました。ここで、何度も彼は彼女と交じり合い、彼らの愛は、深まりませんでした。なぜだろう。改めて、レーゼは疑問を持ちました。確かに俺は、今、あいつのことがちっとも分からなかったことを恥じている。あいつに共感せず、いつまでもあいつを独りにさせていたに違いないとは思う。それはお互い様ではあるかもしれない。あいつにも、自分は理解されなかったと思っている。
 いいや、そんなこと、なかった。あいつはこの町で誰よりも俺のことを理解していたと思う。イアリオ以上に、あいつは俺に近かった。なぜだろう。俺も、あいつのことは嫌いじゃなかった。いいや、好きだから、あの関係になった。
 なのに、今、俺はあいつの傍にいない。あいつは、俺と共にいることもしなくなっていった。他の誰かとはいつも一緒にいただろうが、その、他の誰かとも俺以上に懇意にもならなかっただろう。そう、まるで…まるで、二人は同じ人間のようだ。どうしてそう

。そして、一つの結末が、どうして俺の脳裏によぎるんだ。
 その家にハリトはいませんでした。それだけでなく、この辺りの住民は、どこにもいませんでした。辺りには血が飛び散っていました。しかし、ただの喧嘩の跡のようで、刺されたり斬られたりして流れるほどの凄絶な量ではありませんでした。
「もしかしたら、ハリトも地下の街へ行っているのかもしれないな」
 レーゼが言いました。イアリオは、じっと周りの様子を観察して、ただの喧嘩の跡も、ただならないことに気づきました。オグの村跡を経巡ってきた彼女にとっては、何かに操られた内乱の跡に見えたのです。少なくとも町で頗る平和的に終わるような殴り合いの血飛沫ではありません。怒りが、憎悪が、止められない欲望が、どの血痕にも垣間見られました。
「でも、何のために地下に黄金を欲しがるのかしら。今更、でしょう」
 彼女は今更なことを言いました。あえて、現状を整理したく思ったのです。
「少し前に、暴動が起きて、それから皆、何かを欲しがった。三百年前の『理屈』に照らせば、それは黄金でも不思議じゃない、と俺は思う。安心は買えるんだと思えばね。それは力の象徴だから…」
 レーゼは軽く震えていました。イアリオが気づいたことを、時間を置いて、彼も分かったのです。
「しかし不気味だ。不気味なんてもんじゃない。…全部、どこかへ、つながっているようだ…」
「行く?あの街に」
 イアリオが尋ねました。
「それしかないだろうな。でも、怖いよ。今すごく怖いよ…」
 彼は、イアリオのようにオグであった自分を振り返ってきてはいませんでした。目の前に広がる惨状を、自分が犯したことのようには感じていません。ですが、いずれそれに気づきます。それを含めての、今の恐怖であるとは、まだ彼には分からなくても。
「でも、ルイーズだって、同じなんだろう?」
 と、彼は尋ねました。
「うーん、そんなことないよ。多分ね…」
 イアリオは軽々とそう答えると、彼のすぐ傍まで寄っていき、彼の体を抱きすくみました。
「ほら」
「ああ」
 レーゼは小さく呻きました。イアリオのぬくもりは、恋人の、というより、人の肌そのものでした。女の、というより、母性の、というよりも。
「そうか。だから、人は生きるのか」
 彼は一瞬で悟ることができました。
「オグは、不幸を食べようとするわ。黄金を求めに行くのは、自分が不幸だと思っているからかもしれないね。
 そうじゃなくて、もう、自分の中にそれはあるのに」
 彼女は端的に言いました。その中に、これまでの、自分のオグが塒を壊した時まで入る旅の遍歴が含まれていました。レーゼは、まだ、そのすべてを理解したとは言い難く、悟ったことも、彼の感覚の一部にすぎませんでした。それでも、思わずそう言わされたのは、イアリオが彼にそのことを伝え教えたからでした。
「でも、俺たちは、そうした失敗をしてきた…のか。どうしようもなかったから。何度も何度も?」
 彼はたどたどしく言葉をつなぎました。まだよく分かってないことが、記憶の澱みの底から顔を上げて、上へ伸びようとしていました。意識の表面まで上がってきて、ここに、自分はいるよと宣言したくて。
 彼女は優しく、彼の背中を撫でました。すると、まだ形になっていないはずの、腹の中の子供が、そこで動いた気がしました。
「だから、行かなきゃ。やっぱり、人は産まれてくるんだもの」
 しかし彼女を恐れる人間はいるでしょう。彼女に生み直しを許さない者は出てくるでしょう。生まれ直したく思う者はいても。
「もう怖くない?」
 彼女に

ことができない人間は。

すべて任せることのできない、人間は。人は、自分に魔法を掛けたがります。そして、その魔法をはずせなくなるのですから。
「怖いさ。怖いけれど、」
 彼は魔法をはずそうとしていました。自分に掛けた魔法を、誰かに掛けた魔法を。
「怖いのが、いいのかもしれない。それは、結局どこかへ置いておけないもの。ちゃんと、向き合っているからわかる、怖さなのか」
「そう」
 彼は静かに覚悟が決まる自分を感じていました。自分こそ、イアリオを慕う自分とハリトを愛する自分とを、分けられていなかったのだと、強く彼は自覚しました。それが自分の最大の未熟ざまだったと。恋人が、たくさんの男たちと関係を持ってしまったのは、そのためだったのではないだろうかと、はじめて彼は考えました。
 二人は、ハリトも交えた三人で、共に行き来していた地下への入り口のある、東の市場近くの三叉路まで来ました。そこは、思い出のたくさん詰まった、入り口でした。
「鍵はずっと俺が持っていたよ。でも、そうだ、イアリオが持って行っちまったことに、なっていたな」
 彼は、三叉路の壁の石の留め金をはずす、鉄の無骨な鍵を取り出して見せました。イアリオはくすくすと笑いました。そういえば、自分がいなくなった後も、レーゼとハリトに自由に地下を調べてもらうために、彼に手渡していたのでした。
 レーゼは石壁の隙間に隠された鍵穴にそれを差し込みました。斜めに石の扉が押し開けられ、人一人が屈み入れるほどの、懐かしい穴がぽっかりと開きました。もう二度と、この入り口を使うことはあるまいと、彼女は思いました。
「さあ、行こう」
 その先に、松明の火を入れて、中にかざしました。傍に、あの少女がいる気がします。彼女にぴったりとくっついて、あくまで一緒に行こうとついてくる、可愛らしいつんとした顔の。二人は、その少女と会いに行くであろう路を、慎重に、下っていきました。
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