第2話 侵入者たち

文字数 25,979文字

 事の発端は、十五人の子供たちが秘密の地下の入り口を見つけたことでした。最初に見つけたのは、たった二人の少年、アステマ=ピロットと、サンパリヌ=ヒトロス=オヅカという

でした。彼らは年下の友人のカムサロスの落としたこまを探していました。当時彼らは十二歳で、まだまだ腕白な小僧っ子でしたが、二人とも周りの人間を恐れさせる何かを持っていました。オヅカは若干の知能障碍で力の加減が難しく、周囲に思いがけない暴力を振るうことがありました。それは、決して彼の希望ではなかったのですが、どうしようもない自分の特徴に、周りの目と合わせて劣等感を抱いていました。ピロットは悪童の名をほしいままにするとんでもない暴れん坊で、彼は年下の者には優しくするものの、同級生かそれ以上の人間をいつもあざ笑っていました。彼らが発見したのは、子供ながらに血湧き肉踊る不思議なぽっかりと口を開いた地面でした。授業中でしたが、それにもかまわず、彼らは周囲の子供たちを呼び集めました。瞬時に皆は、このことを秘密にしておくえも知れない力を感じました。これは、今ここにつどいし十五人の彼らの生涯に渡るであろう重大な秘匿すべきことに思われたのでした。
 子供たちは一度散会したあと、再び同じ場所へ戻ってきました。その時、一番年上だった人間はトクシュリル=ラベルという少年で、十五歳でした。下はピロットたちの弟分のカムサロスで、年は八歳です。そのほかに、少女たちが五人と、少年たちが八人いました。大工の子ヨルンド、医者の息子マット、畜産家の長女サカルダなど…彼らは日ごろ決して仲がよいというわけではありません。ですが、この

の共有のために、たちまち

になりました。それは悪童ピロットやオヅカをしても同じで、普段人前で見せているような態度で臨むことは彼らもありませんでした。他の子たちも、妙にうきうきして、それでいて真剣な、慎重な面持ちで静かに穴の開いた地面を見つめました。「まずはこのことを誰にも知らせてはならない」トクシュリル=ラベルが言いました。
「きっと僕たちだけの秘密にしよう。そうした約束を、今ここで交わそう」
 誰もがそれを疑いませんでした。十五という数字が、不可思議なものであることは皆が知っていました。魔法陣という数並べがありますが、四辺を三つずつ区切った九マスに、一から九までの数字を並べると、どこから一列に三つ足しても同じ数になる、そうした性質を持っています。そのときに出てくる答えが、十五です。また、三かける五という特徴も、この数字の魅力的なところでした。どちらの数字も最初の割り切れない数だからでした。ここに、まったくの偶然その十五の表す人数がそろっています。彼らはぴったりとはめこまれたパズルのピースのように、己を感じていたのです。その面持ちは勿論それを自覚した、神妙な顔立ちでありました。彼らはそろそろとトクシュリル=ラベルのあとに続いて坂を下っていきました。
 穴の先は、一度地上に出ていました。十何メートルかのトンネルをくぐって、丈の低い草木がぼうぼうと茂った草むらへと突っ込んでいました。彼らはこの少し不思議な小旅を関心深く進めました。すると、草木をかきわけそれほどいかないところへ、もう一度、ぽっかりと口が開いたのです。
 そこの中は、とてつもなく広々とした地下の洞窟の入り口のようでした。あんぐりと開けた大地の唇は、奇妙に吊り上がり、意味もなく子供たちを挑発しているように見えました。さて、トクシュリル=ラベルは立ち止まり、皆を止めて、このあとどうすればいいかと訊きました。
「行くべきだろう!」少年が言いました。「ここまで来たんだ。折角、冒険が始まるところだったのにさあ!」不満そうに口をゆがめたのは医者の子マットでした。皆がうなずきました。
 ラベルは一同を見渡し、落ち着いた声で語りました。「まあ、ちょっと待て、ここは慎重に行かざるをえないんじゃないか?だって、僕たちは大人にも黙ってここへ来ている。そりゃあ、町の中じゃそんなこと気にも留めないさ。あるいは、留める必要はまったくない。僕たちは保護されているのだ。けれど、この入り口は別だ。もう町から大分離れているし、この先何があるか、誰もわかってないはずだ」
「びびっているのかよ?情けないぜ、それでも年長者か?」ピロットが、彼らしく皮肉を言いましたが、ラベルは動じません。「慎重に行くべしと言ったのは、この

が、いつ外に漏れるかたまったもんじゃないからだ!いいか、ここだけの話、僕たちは重要な秘匿を今ここで行っているのだ。わかるかい?そうだ、この場所は、この入り口は誰にもばれてはいけない。僕たち十五人だけの

だ。そうした約束をここでしなければならないと言っているんだ」
 それはそのとおりだと、今度はピロットも黙りました。
「僕たちは固い誓いをお互いに交わすべきなんじゃないのか?そうだろう、皆?」ラベルはタイミングよく各人の顔を眺めました。こうすることで、自分の話に説得力が生まれることを、彼自身よく知っていたのです。
「今ここで、僕が提案するのは、僕たちが発見した新しい世界へ名前をつけようというものだが…どうだろう?」ざわり、と周囲がざわめきました。彼を思い慕うテオラという少女が(彼女は彼の一つ下、十四歳だった)、周りを見渡しながら、恐る恐る手を挙げました。
「それ、いい考えだと思う。私は、テルカ王国って名前をつけたいと思う」
「それじゃだめだよ!」と、別の少女が叫びました。「実際に存在する国の名前を言っちゃだめじゃないの?」
「えええ、折角…」
「私なら、こんな名前をつけるなあ!」
 こんな調子で、どんな国名をつけるべきかの大激論が始まりました。彼らはまだ地下の暗闇を覗いてもいないというのに、これから待ちうける冒険の数々を推測して、その熱に浮かされて、待ち遠しくもまだまだ後回しにしておきたい希望を持て余したのでした。しかし、この熱からはずれた人間も当然いました。皆と少しばかり離れたところに、当時十二歳の少女イアリオは、腕組みをして立っていました。彼女はいらいらしながらその様子を見ていました。彼女は非常にストイックで現実的な視点を持っており、こんな夢の中で妄想するようなことよりも早くさっさと地下に下っていきたかったのです。彼女は、現在集まっている人間の頭数を確認しました。すると、議論している連中の中にいない、一人の少年を発見しました。大工の息子、ヨルンドです。穴蔵を下りた方を見てみますと、彼はその奥に滑りこみ、何やらかんかんと音を立て始めました。皆がその音に注目して一時的に論議を中断すると、ヨルンドの後ろを追ってやや下に下りていきました。大きなカーブを曲がったところに、緩やかに弧を描くレンガ式の壁が見えました。その一部を、彼は叩いていました。彼はいつでも大工の道具を握っていました。今は銅製ののみを握っており、その先を壁にあてがい、慎重に当てながら音を聞いていました。やや、違う音がして、彼はにやりとしました。「どうした、ヨルンド!」後方から声がかかりました。「いいや、何も」彼は落ち着き払った調子で声にこたえました。
 ここで、十五人の少年少女たちを全部紹介した方がいいかもしれません。ピロット、オヅカ、ヨルンド、マット、イアリオ、それにトクシュリル=ラベルについては先に説明しました。彼を慕うマルセロ=テオラという少女は、両親が離婚して、今は母親のもとに暮らしています。彼女の父はだらしなく、その反動で常にしっかりしている教師の息子のリーダー格の男の子のラベルを気に入っているのでした。他に女の子は三人います。まず牧童の娘ミロ=サカルダは、十三人兄弟の長女で、なかなかのしっかり者でした。ソブレイユ=アツタオロは、農家の娘で、手に余る元気者でした。先ほどテオラの国名発表を妨げたのは彼女です。そして、空想好きのセリム=ピオテラ、彼女はアツタオロと仲良しでした。
 男の子は全部で十人いますが、あとの五人を並べると、まずピロットの弟分カムサロス、彼はピロット少年と同じ幅広い大邸宅に住み、いつも彼とつるんでいました。ただし、カムサロス少年はいわば本家で、ピロットはどうしようもない分家という見方をされていましたから、家の中でもその立場は微妙でした。あと、石切りを職業としている父親を持つハリト、図書館の司書の息子テオルドと、二人の兄弟、川漁の漁師ヤーガット氏の息子たちがいました。この中で一番年下は先ほども言ったカムサロスで、年上はラベル、十五歳から八歳の子供たちがつどっていました。
 ヨルンドについて、下がっていった口には地下の建物と思われしレンガ造りの住居が目の前に現われました。彼らは、ヨルンドから期待した言葉は出てこなかったので、いささか裏切られた気にもなりましたが、これ以上その先へ進むのも非常に勿体ない気持ちにもなりました。ラベルがそのように操作したのです。気持ちを抑え、押し付け、誰にも知られないようにしながら、この探索を実行していかなければなりません。彼らは非常に慎重な態度を求められました。しかし、それは確実に彼ら自身から、自発的な衝動として認識する必要があるのでした。その後、彼らは国名談義に花を咲かせ、その日は散会となりました。

 その頃…二人の侵入者が、暗い地下世界に足を踏み入れていました。一人は、背の高い大男で、背中に巨大な背負子を背負ってもう一人のあとをついていました。そのもう一人は、大男よりもはるかに小さい、色黒の鳶色の目をした女でした。彼らは盗賊で、身のこなしは軽く、素早い動きと眼差しが注意深く闇の世界を凝視しておりました。その身体の皮膚感覚は敏感で、どんな兆候も逃さず意識できるほどでした。その動きと、目の動作は一致していたのです。彼らはこの街へ長大な洞窟を辿ってやってきました。洞窟の入り口は町の西方にある深々と大地に立てられた亀裂の中ほどの高さにありました。今まで、そんな入り口から入ってこの街にやってきた人間は、一人もいませんでした。
 二人はとある町で、この都市に関した情報を仕入れました。砂漠の出入りに欠けた水を補うべく、オアシスの茂る水場へ来たときに、こちらを窺い微動だにしない商人がいました。二人は瞬時にこの男が自分たちと同じ「冒険者」だということに気がつきました。それは、二人は盗賊でしたが、盗みは手段であり、本当は冒険家を自負していました。冒険家はどうしても入り用な資金を稼ぐべく様々な手段を講じますが、二人の場合、人から盗んでいたというだけです。彼は、商売を利用して金を稼いでいました。ですが、それが単なる「手段」にすぎないとわかったのは、世界中を回りつつ未知の探検に命を燃やす冒険家特有の鋭い眼差しがあったからです。彼らは同じ匂いを感じました。それぞれが近づくのにこれ以上の理由はないというほど、親近感と競争と切磋琢磨の念が波をかたどって両者を呑み込んだのです。
 商人は、まず小さな袋の中から自分の商品をからげました。二人はそんな商人の動きに合わせるべく、いかにも興味を惹かれたかのような仕草をとりました。「あんた、名前は?」女が訊きました。
「ロッソ。地中海の出だが、お前さんは?」
「トアロだ。出は、スグナル国近隣の都市だが、いやしくてなァ、ここで言うにはばかられるよ」
「ああ、それでわかったよ。お前さん、なかなかの盗賊じゃないか。ここでお近づきになれるとは、こっちとしても嬉しいねえ」
「それで?勿論、そちらから何かを

してくれるんだろうね?」

のは勘弁してくれよ。ここではお互いフリーなんだからな」
 三人はずっと頭同士を突き合わせて買い物の相談をしているかのように外からは見えました。ここで、本当に話されているのは無論、冒険者として要求される特別な情報のことでした。しかし、彼らの

がそのまま彼らの性格を表しているので、互いに牽制しあっているのです。この場合、先に情報を持ちかけるのはトアロたちからでした。商人は彼らの性格を見抜き、自分は警戒しているとアピールしてきたので、トアロはまずこちらの誠実さを見せねばなりませんでした。一方、商売人の方は体面上は誠実さを持とうと欲しますので、裏切ることはないと思われます。ところが、これはロッソの方が会話が上手で、トアロたちはまず始めに彼に服従せねばならないことを示していました。トアロにはこれが気に入りませんでした。出鼻を挫かれたばかりか、しばらくは彼の調子に乗ってやらなければいけなくなったからでした。
 彼女の連れの大男は、二人を離れ木蔭の涼しいところにいき何か盗めないものはないかと辺りを物色しはじめました。丁々発止のやりとりは彼のフィールドではありませんでした。トアロはほぞを噛みながら、商人の気の惹きそうな話をいろいろとしてやりました。商人は黄金の眠る町の話を彼女に聞かせました。
「だがそんな話はごまんと世に出ている。もうちょっとましな話はないのか」
「あなたの話も同じようなものだ。少なくとも私にとってはね」
 両者はまた鋭い会話の切り返しのある身を削るような情報交換を行いました。そこで、トアロは相手のわずかな変化に気づきました。彼女にとってはどうでもいいような話題を振ると、ロッソの体はぴくりと動き、しかしさも興味の薄そうな目線をしたのでした。これは釣り上がった、と彼女は思いました。ここで考えるべきことは、こちらからそれに関する情報を小出しにするか、相手の誠実さに賭けて一気に流し込んでみるかということでした。前者はひどく不毛なウソのつきあいになる可能性があり、後者はこちらの立場をとても危うくするものです。しかし、相手は出だしこちらをうまく牽制してペースをつかんだほどの話し上手な男であり、冷静な議論はこちらの側が不得手です。彼女は、後者の手段に賭けてみることにしました。
 予想外の反応がありました。商売人は跳び上がらんばかりの嬉しさを正直に臆面もなく彼女の前にさらけだしたのです。急にトアロは怖くなりました。相手がのぼせあがり、こちらに正当な報酬を支払ってくれるかどうか、測れなくなったのです。案の定、ロッソは短い髪の頭を撫でて、よろしく、これからもよろしくとしきりに手を握り、そのまま立ち去っていこうとしました。
 トアロは彼を呼び止めました。二つの鳶色の目にはぎらりと殺意に似た獲物を取り逃がすまいとする光が宿っていました。ロッソはびくりとし、その意味を感じました。
「これはいけない、私としたことが!」
 彼はすごすごと元の場所に戻り、また小さな袋を開けながら、ぼそぼそと彼女に語りかけました。
「正当な報酬をお約束しよう。これは小耳に挟んだのだが、近頃ごろごろと三百年以上も前の金品が出てきおりだしてな、これはいったい何事かと、冒険家の間でも話の種であったのよ。だが私だけがそのことに関したあることを知っている。死にかけた老人ほど真実をしゃべるということを知っているか?これが呑めなければいけない。勿論、老人たちは妄言もよく吐くけどな。これは私の感覚だから、信用するかしないかはお前さんの感覚にもかかっているし、また私への信頼にもかかっているんだ。いいか?老人はこう言った。かつて、海上を支配したとてつもない都市があったということだ。これを彼は黄金都市と呼んだ。彼の御先祖は昔そこに住んでいたというんだ。深い深い亀裂の先、三方を山に囲まれた絶対不落の要塞都市。彼は海賊だった。その面影もあった。すっかり落ちぶれてはいたがね、あの風貌、潮に濡れた手と匂いと、あの目。海ばかり見ていた野心溢るる冒険者の目。ロマンチスト。彼は親兄弟にこう聞かされて育った。いつか、自分たちの本当の領土を取り戻すべく、活動を続けるんだと。逃げてはならない。怠ってはならない。こうした意志がいつか我々をあの領土目指して進ませてくれるのだからと。彼らは特殊なコミュニティをもっていた。秘密結社といってもよく、限られた人間しか属しない思想共同体だ。彼らの目的は、奪われた黄金都市の奪取。その国は以前彼らの雇い上げた兵士たちの叛乱によって滅亡したらしい。海には新しい暗礁ができていて、陸上を通るも様々な罠が仕掛けられていて近づくにも近づけなかったのだという。どうだ?本物らしい話だろう?
 しかしだ、老人がおれに金品を手放すといって、後生大事にしていた先祖からの宝物を差し出したんだ。おれは驚いて、老人にいろいろ聞いたわけだが、三百年もたっているんだ、子孫もそんな運命に飽き飽きしてきだしたんだろうな。なんといっても海賊だったんだ、そんな気の長い連中じゃあるまいよ。三百年もったというのが驚きだと言うべきだ。だから、この話は真実味があるのだよ、トアロ君?」
 ロッソにはこの時トアロの心が見えませんでした。彼女は一心になって聴いているかのようで、ぶつぶつと口元で呟きを繰り返し、気もそぞろな様子でした。
「これで満足していただけただろうか?では、おれはこれで行くよ。まだどこかで会ったら、ぜひよしなにしてほしいな」
 ロッソはそう言うと立ち去ってしまいました。あとから、連れの大男が近づき、収穫はあったのかと尋ねました。
「ここには目ぼしい宝物はないなあ。皆しけってる」
 男はつまらなそうに唇を突き出しました。男の筋肉は隆々としてたくましく、顔つきは四角くて太い眉毛が彼の膂力の強さを表していましたが、鼻筋、目の奥には一種臆病者ともとれる線の細い造形がありました。彼の体は、まるで作り上げられたかのもので、見る人が見れば、それは実際大したことがない見せかけだけの肉体と思われました。しかし、多少の危険を感じたのであれば、その人こそ人間を見る目がある人間だといえたでしょう。彼の体は、作られたものにはちがいありませんでしたが、それを作られた理由には、人間の危険が潜んでいたからです。
「アズダル、盗みは今回はナシだよ」
 トアロは彼に命令しました。男の筋肉がぴくんと微妙に揺れ、彼女を見ました。その目つきは、異常な信者かなにか、恐ろしげなものを窺わせました。
「なぜ」
「今の話、金の粒が混じってた。これからふるいにかけなければならないが、おそらく、本当のことを聞いたんだ」
「どんな話だ?」
 大男のアズダルはそわそわとして聞きました。トアロはそんな彼の様子を見て、彼を、建物の陰へと連れていきました。
 ひと行為が終わって、彼は落ち着きを取り戻しました。クリシュナルデ=アズダルは、元々はこうしたことをするような人間ではなかったのです。彼は、ある日、彼の家に忍び込んだトアロと出会いました。それまで頭脳明晰で成績もよかった良家のお坊ちゃんは、その日まったく自分の知らない世界の人間と遭遇しました。彼は、彼女は天からの使いかあるいは神様が寄越した唯一無二のプレゼントのように思われてなりませんでした。彼が彼女に唆されたのか、彼が進んですべての生活を置き去りにしていったのか、どちらも定かではありません。ただし、彼はそれからもやしのような体を今の筋肉隆々たる胸まで鍛え上げていたのです。
 こうした事情から、彼がときおり自己を滅してしまうのは仕方がありませんでした。彼女による慰みを受けて、彼は平常心を取り戻しました。さて、一方でトアロは満足しきった表情をしていました。いましがた聞いた商人の話がひどく彼女の心をざわめかせていました。そのわけは、彼女が故郷で、盗賊家業に手を染める前に出会った海賊の男から聞いた話と寸分違わずうり二つだったからです。彼女はこの話を長い間忘れていました。今、急に現実味を帯びた幻の彼方にある世界が、彼女にいっせいに襲いかかってきたのでした。彼女は、アズダルに説明しながら、自分の幼少時代をゆっくり思い出してきました…。

 そこは、石畳の街でした。レンガ屋敷は寄り添うように立ち並び、空は狭く感じられました。彼女はこうした少しごみごみした街で育ったのです。スグナル国は宗教で有名な小国でしたが、その周囲に、このような都市国家が点在していたのです。
 なかでも、「いやしき吹き溜まり」と呼ばれる都市が特別悪名高い街として名を馳せていました。治安などあったものではなく、人々は日々暮らしを立てるために毎日の盗みも辞さないほどでした。こんな中で育ったからには、商人の言ったとおり、なかなかの盗賊になってしかるべしでした。盗賊は手段であって目的ではないのも、自然の成り行きでした。彼女は幼いころからその才能を発揮し、金目のものはずるがしこくどうすれば手に入るか計算し、その都度手に入れてきました。彼女が興味を持ったのは、衣服や宝石の類よりも、歴史の匂いのする物質でした。例えば、くだらない土器や、骨董、書物などです。彼女は自ら先生を選び本の読み方を習い、自分の力で本物と偽物を区別する目を養っていきました。こんなわけで、なまなかな金品じゃ飽き足らない性格をもった冒険家になるのも時間の問題でした。彼女は、外の世界に興味を示しだしました。そこで、こんな話を聞きました…。
 その男は、落ちぶれた海賊でした。彼女にはわかりました。端正な顔立ち、潮に濡れた手足、長い髪の毛、その男は間違いなく海賊の親分だったことを物語っているように、彼女には見えたのです。どこからこの街へやってきたのか、仲間は一人もいないみたいで、目は落ち窪み、相当の困難と辛苦に喘いできたものと思われます。痩せ細った体はまだ頑強でしたが、吐く息にはまるで命が宿っておりませんでした。海賊は目を上げました。正面に立つ少女をぼんやり見つめて、喘ぐように閉ざされた唇を開きました。
「お嬢ちゃん、僕にはなんにもないよ。興味を示したって、どうしようもないさ」
 トアロは興奮しきった声で言いました。「おじさん、海賊でしょ?どうしてここにいるの?」
「残酷なことを訊くお嬢さんだ。よし、いいだろう。今際のきわに、不思議な話を一つ、二つ、聞かせてやる…」
 男は話し始めました。そのおおよそは先ほど商人が話したこととかぶりますので繰り返しはしませんが、彼女は二度同じ話を聞いたことにより、あの商人が言ったより本当に差し迫るほどの真実性を肌身に感じたのでした。
「あの男の言ったことは本当だ」
 彼女は、アズダルにこう言いました。彼は、勿論あの男とは商人のことだと思いましたが、彼女の中では海賊のことを言っていました。それから、二人は黄金都市についてさまざまな情報をかき集めました。本物らしきもの、疑わしきもの、偽情報、すべての言葉と文言をふるいにかけてみますと、正しい羅針盤さえ持っていれば、おのずと光が見えてきます。彼らはそうして辿りついたのです。やっと、巨大な富眠る、三百年もの月日を闇の中で過ごした、かつての栄えし幻の都を。
「あの男が『三方を山で囲まれた』といったのはな、二方の間違いだったよ。亀裂深き場所は、数えてみればそれほど数はない」
 トアロは、「あの男」を商人さして言いました。
「おのずと、目的の場所は探せそうなものだった。しかし、問題は今までなぜそんな国が表に浮上することなく沈黙を守り続けたかということだ」
 彼女によれば、兵士たちの叛乱の憂き目にあった海賊国家の話は比較的多く、どれもたんまり蓄えた富を放出しながらの国家運営だったということでした。それならば、彼女の聞いた話も同じような宿命を辿ったと思われますが、違いました。三百年も海賊がそのふるさとに隠した黄金財宝を探しているなど他で聞いたことがありません。ということは、兵士たちによって運営された都がどこかで沈黙を守っているとしか考えられませんでした。何か、そこでは広大な意図でも目されているのでしょうか。ふところにたくさん財宝を持ちながら、それを軍事に使わぬことなぞ国の性質として思いつかないことです。ある特別な国を別として、それは必ずしも国家を守ったり、発展させたりするのにつながりません。その国は――どこか他の国とは違った側面があるかもしれない、と思われました。
(もはや滅びたる可能性だってある)
 彼女にはそのような予感もありました。ゴルデスク、フュージと呼ばれる貴金属が、その世界にはありました。前者は黄金のようで、その輝きは黄金以上にあやしく、人間をとりこにする魔の魅力を持っています。後者は銀に近く、やはり同じような蠱惑的な力をもつ宝玉です。これらの財宝を、トアロの会った海賊は持っていました。彼女はその男からそれらを盗んだのです。今や航海戦術は時代遅れとなり、海を舞台とする多くの海洋国家は没落の危機に瀕しておりました。海賊もまたしかりでした。人々は海へのロマンを忘れ、陸地へ、内部へ、足のつくしっかりとした大地へ、豊潤な果物を求めて還っていったのです。海賊がうちたてた国なら、その街はおそらく海に面した港にちがいありません。そのような街が、今やどこかでひっそりと粛々とした暮らしを行っているなど想像ができません。まるでこんなところにかつて街があったのかという場所にこそ…もしかしたら、三百年誰もが見つけたことがないところに、この海辺の都市はあったのではないか。トアロは、そのような直感を得ました。
(でなければ話はつながらない。そのような場所があるものだろうか?)
 長年この話を忘れてしまっていたのは、こうした考察があったからでした。しかし、彼女は重要なヒントを商人から得ました。トアロはその言葉に導かれ、いくつかの候補地をあげて、いちいち潰しにかかりました。そのうちの一つが、かの白き町にいざなう目的の行路をとったのでした。
 大地に走るおよそ二十キロほどの断崖絶壁は、古い時代に大地震によって立てられた茶色い牙でした。この世界にはいくつかそのような割れ目があり、人はそれをして「蛇牙」と称しました。蛇のような体躯の恐ろしい魔物が通ったかのようだったからです。蛇牙の真下にはちろちろとした川が流れていました。川は、海につながっており、そこからトアロたちは侵入しました。見上げると鬱陶しくなるほどの巨大な壁がせせり立ち、彼らを圧倒しました。彼らがこのルートを選んだのには、第一に海賊の話にもあった「海は新しい暗礁ができて、陸上を行くも様々な罠が張られている」ということ、第二には盗賊的手法で街に近づくということを、考慮に入れたためです。彼らは小船を岩壁につけて、この巨大な岩壁を登っていく選択をとりました。この方法が、およそ盗賊らしく思われないかもしれませんが、「盗賊的な冒険者」ならば、合理的な作戦でした。彼らはいつ果てるかしれぬ岩壁登りに挑戦することになりました。鉤爪と縄とで上手に登っていくのですが、ところどころ、壁から水が染み出していることがあって、行くには大変な難儀をしました。二人は互いの体を縛り合い、交互に先に行くことで、なんとかこの絶壁をよじ登り続けました。しかし、断崖の半ばでもう日が暮れてしまいました。適当な岩棚を探すにもそれらしき岩壁などありません。岩壁に吊り下がりながら、彼らは眠るしかありませんでした。しかし、これも上手にしたもので、打ち込んだ鉤を足場にして服の四方をも壁の隙間にうずめてしまい、多少、いえかなり窮屈な状態ですが、体を岩壁に固定して眠る手段を編み出しました。翌朝、トアロが目を覚ましますと、一羽の白鳥が目の前を通り過ぎ、甲高いあさぼらけの声をあげました。すると、昨日はわからなかったのですが、アズダルの足元ら辺に、入れそうな横穴を発見しました。穴からはちろりちろり、断続的に水が滲み出ています。トアロはじっとこの横穴を見つめました。そして、自分の勘を信じて、彼を誘いその穴へ入ってみることにしました。
 人から奪えばいい宝物の類など、彼女はなんの興味も示しませんでした。それは、彼女の故郷では当たり前の光景でしたので、それ以上の刺激がなければロマンを感じなかったのです。古い歴史もののお宝などには若干のロマンを感じますが、それだけではなんとも自分の欲望を満たしたことにはなりません。彼女は、今現在このような冒険をこそ待ち侘びていたのです。穴蔵を注視して、その奥に何の危険もないことを見てとると、彼女はアズダルを連れて、またもいつ果てるかしれぬ長い長い迷路を進んでいきました。もしかしたら、彼女にとってこの先にあるだろう黄金宝物のやからはさして重要ではなかったかもしれません。彼女にとって発見がすべてで、歴史的な物事の性質や、他貴重な資料こそ、胸躍る戦利品だったからです。
 というわけで、長い長い迷宮の足取りの最中、アズダルは彼女から歴史談義を聞かねばなりませんでした。「いいか、これは単に私の推測にすぎないのだがな…」彼女はこうして話を始めます。「その街は、海賊どもに支配されるより前、ある神官集団の国だったそうだ。なんでもクロウルダと呼ばれる連中は、生意気に各地に点在していてな、さる怪物を監視する役目を司っているということだが、今やその数は激減していて、町の数も数えるほどだという。どうしてこんな話をするかというとだな。我々が今向かっている黄金の街は、そこかもしれんのだよ。クロウルダは水辺の町をよく築く。それは、彼らが追っている怪物が水辺を好むからだ。当然、それは港であったりもする。何百年も前その港町が襲われたからとて別に不思議ではあるまい。そのうちの一つが、我々の目指している王国かもしれないというのは、こんなことから予測できる。あの断裂、まさにその怪物が立てた傷跡だといえないか?ハハ、こんなことは妄言だというのか。そのとおりさ。だがね、さる町の図書館で見つけた書物にこんな節があるのだよ…。そう、オグという魔物が地下に潜み、町に牙を立てたという話さ。その本は歴史的にみても価値のあるもので、記述は正しいとされる。そんな本が、魔物についての文を残していることが驚きだが、歴史は否応なく当人の主観を伴うものだ。なにより大事なのは、オグと呼ばれるその魔物は、クロウルダと呼ばれる民族の生涯の相手で、かの魔物を封じ込めるために、港町を築いたということ。そして、海賊どもとのすったもんだの最中に、その悲劇が訪れたということだ。港町はその後あまり時を経ずして海賊たちに襲われ消滅したという。怪物の呪いか、または外敵に抗しえなかったためか。この本を、クロウルダたちは重視するのだ。館員から話は聞いたのだがな、どうやらその港に遺恨があるらしく、何度もその町を探そうとして、果たしていないのだという。…アズダル、私はこの港こそ黄金都市の前身ではないかと疑うのだ。ロマンがあるだろう?いやいや、不確かなことをいっているのではない。私は、直感と誠実な推測に基づいてこういっているのだよ…」
 トアロの文言には熱が帯びていました。アズダルはまた始まったという心持ちで聞いていましたが、長大なうねうねと続くこの穴蔵をずっと進み続けていますと、どんどん、何か自分たちがそこにいざなわれているような不思議な感じがしました。トアロの希望にすぎない推測も、本物のように聞こえてくるのです。
 やがて、二人はぽっかりと開いた広大な空間に飛び出ました。がらんと広い、天井の高いドームでした。上方かすかに光が見えましたが、地面までその光は届きません。二人はごくりと唾をのみました。しゅうしゅうとうなる風が、彼らの背後から飛び過ぎ、不気味な音声を残していったのです。何事か、呟きがその風から聞こえました。人々の唸る声、罵る言葉、忌み嫌うすさまじい想念が、渦を巻いてつむじいていました。彼らはそれが、オグだということを知りませんでした。彼らは、また、オグに触れてしまったことに気づきませんでした。その魔物の性質は、人の悪意を増大させる、まさに魔の魔物というべきものでした。
 ぞくりとした感触を意識的に払い、二人は広大な空間を目を皿にして注意深く窺いました。何が通ったのかわかりませんでしたが、そこには何かが潜んでいるような、人の気配を感じたのです。彼らは、松明に慎重に火を付け(そこまでは極力灯を使わないようにしていた。全身これ神経の二人にとって暗黒の穴を進むのにわけはなかった)、周りをうかがってみますと、すっくと立つ二つの柱が、目の前にそびえていました。そこは神殿の出口でした。ゆらゆらと揺らめく火に当てられて、柱は荘厳な佇まいを三百年以上も守り通した洞穴の両側にさらしていました。トアロが上を窺ってみますと、天井にも届かんばかりの背丈で、円形の柱芯の先に尖った三角の頂が三つ張り出していました。
 こここそ、私の推理どおりの神官どもの館にちがいない、彼女はそう確信しました。

 しゅうしゅうと音をたてて、魔物の息吹は通り過ぎていきました。彼は、このようにして地下を、ひそかに巡り渡っていたのです。そのことを上の町の人間は知りませんでした。彼らは、自分たちが先祖の行いを秘密にしておくことでいっぱいで、このような不気味な生物が長年それこそ

守り続けた年月にも潜み続けていたことなど知る由もなかったのです。子供たちが、再び意気揚々として地下の暗闇を分け入ろうとしていることも、彼らはわかりませんでした。十五人の子供らが、彼らの時間に集合して、いざ出陣と意気込むところに、上空から、激しい白い光が降り注ぎました。こうしたことは珍しくなく、この町では時折強い日差しがぱっと閃光のように散るのです。またか、と思い、子供らは空を見上げました。しかし、今度のこの現象は、なにか自分たちを祝福しているように感ぜられました。地面にぽっかりと開いた唇。その先にうかがえるとてつもない冒険の数々を、誰もが思い描き、興奮しておりました。
「さあ、行こう」リーダー格のラベルが、皆に言いました。
「探しにいこう、黄金を。ここにはあると、テオルドが調べてきてくれたんだよ。そうだな?」
 彼は、隣に皆から隠れるようにして立っているカルロス=テオルドをさして言いました。気弱な少年は、ただうなずくばかりでした。
「行こう、黄金を探しに。でも皆、慎重にだぞ?誰にもばれてはならない、これは僕たちの秘密の行いなんだからね。さあ、昨日決めただろ。僕たちの国の名前。なんていったか?」
「十五人の王国(テラ・ト・ガル)!」少年たちが叫びました。「ただし、まだ王様は誰か決めてないけどね」
「じゃんけんか、ゲームで決めようか?」
「いやいや、やめとこうよ、今は。それよりも探検だ。そっちが先だ」
 子供たちはこぞって地下に乗り込もうとしましたが、ラベルがそれを諌めて、再び慎重にと念を押しながら、彼らを二人一組に指名してたいまつを各自に持たせました。
「いいか?サカルダに合図をまかせている。彼女がカンカンと二回鐘を鳴らしたら皆戻るんだ。大体真昼ごろに鳴らすから、音が鳴ったら、探索は中止して、各自、見てきたものをここに戻って話そう」
 彼は注意深く一同を観察しながらこう命令しました。子供たちは真剣な顔つきで彼の言葉を聞いていました。ピロットも、イアリオも、個人行動の多い彼らですら、身に帯びた責任と重苦しいプレッシャーとをラベルの執拗な説明に感じました。誰も彼に反対しませんでした。子供たちは緊張しながら地下探索を始めました。どきどきする高揚感がじりじりと胸を焦がし、子供ながらにその気分を抑えるのは大変でした。彼らの見た風景…それは、そのとき地下に同在していた、トアロたち二人の盗賊の前にも現れていました。二人は神殿らしき場所を離れ、その奥へと行っていました。二柱立つ巨大な空間は少し行くとすぼまり、風景はまた同じような洞穴が続いたのですが、その洞穴を過ぎ去ると、目の前には驚くべき古代の都市が栄えていました。
 といっても、人気などまったくない、死んだ街となって。けれども、往年の賑わいを見るに容易な壮大なパノラマが、そこには展開をしていたのです。
「これは、まるで巨大な幻か?」トアロが呟きました。「信じられない。見事人っ子一人いないぞ。なんて街だ。この街…どうして滅びてしまったんだ?」
 トアロでなくとも、死に絶えた大住宅地がこうして広がれば、誰しもが驚きを隠せないでしょう。そして、なんともいえない憐れみの情を覚えたにちがいありません。すべてに、懺悔して、祈りたくなったかもしれません。これほどまでに見事な保存街などあったことはなく、その全部が暗闇の中、天井に覆われていたのです。かすかな明かりが上方に差し込んでいますが、それも頼りなく、かえって忘れられた地下都市の命運を見守るはかない神様の一瞥にもみてとれました。ここは、そうした運命であったと、滅びるべくして滅びたのだと、そう思わせる超越した意志が、そちらに見えたのです。
 子供たちは、意気揚々、しかし真剣に周りのものを見つめました。ラベルの忠言が彼らの精神をまとめていたのは事実ですが、それでもこのパノラマを目にして荘厳な雰囲気を直に覚えながらの探検なのです。震えるほどの歓喜と、目にしたことのない冷ややかな沈黙と、経験したことのないファンタジーが、ごちゃまぜになっていたのです。彼らは頭がくらくらとしました。それでも、足は止まることなく、思いの向くまま、それこそ、地上にいたよりも自然のままに、進んでいきました。テラ・ト・ガルは、彼らの手にまったく余る国でした。彼らは二人一組になって進みましたが、その組み方はばらばらで、必ずしも仲良し同士が一つになっていませんでした。テオラは、憧れのラベルと一緒になって嬉しさを噛み締めていましたが、イアリオなどは、あまり好きでもないピロットと組ませられてふくれっ面でした。いいえ、これには少しだけ説明を加えねばなりません。イアリオは、昔から彼のことをよく知っているのですが、彼女がこれだけ距離を置きたがる相手もなかなかいません。彼女は個人行動が多く群れたがるのを嫌いましたが、彼だけは別でした。だから、余計に彼を意識するのです。彼もまた群れを嫌うたちでしたが、彼女のそばにいて、それを受け入れるような調子がありました。野性的な魅力のあるピロットに、当時から彼女はもしかしたら惚れていたのでしょう。その自覚はありませんでしたが、気になる人物ほど、自分がどうしていいかわからなくなってしまうものです。
 イアリオは、彼から目を逸らし、周囲のぼんやりと静かに沈黙して並ぶ家々の塀を眺めました。どこまでいっても続くようなレンガの塀は、想像できない過去を、足取り重くその場所に留めているように見えました。彼女は、一旦足を止めて、あたりに耳を澄ませました。何か足音など聞こえないだろうか、自分たち以外の、生き物でもなんでもいいから…彼女は少し怖くなったのです。この街で、自分たちだけが生きているものだとしたら、その重圧は、まだ未成熟なか細い体など掴んで引きちぎってしまいそうでした。ところが、人間の足音と、ぱちぱちはぜる松明の火のほかに、何も聞こえません。彼女は震えてきました。しゅうしゅうと音が鳴りました。それまで聞いたことがない、変に耳に障る音です。彼女は彼の方を見ました。ピロットが、鼻息を荒くして突っ立っていました。
 彼女が彼に声をかけようとしたそのとき、カンッカンッと、鐘が鳴りました。サカルダの持つ銅製の叩き板が、石で叩かれました。
 子供たちは何があったんだとぞろぞろと出てきました。探検は少しも満喫しておらず、きっと正午にもなっていないはずなのに、と。入り口のあたりで、サカルダが少年カムサロスと何か言い合いになっていました。
「どうしたの?」真っ先にイアリオが訊きました。見ると、ラベルがいち早く彼らのところに戻っていました。テオラはあとからぐずぐずと出てきました。どうやら鐘の音を聞いて飛び出していったカムサロスを、ラベルが慌てて追っていったようでした。
「今、こいつが間違って打ったからさ、ほら、まだ太陽があんなに低いのに!」
 少年はいらいらと不満をぶちまけました。
「何もなかったんだってさあ!こんなこと初めてだ。侮辱された気分だよ!ねえ兄ちゃん、聞いてくれよ…」
 カムサロスはあとからやってきたピロットを目に留めると、彼の方に駆け寄っていきました。彼の気性の激しさは、兄貴分のピロットとよく似たところがありました。ピロットはうんうんとうなずいて、彼を外に連れ出しました。
 一方リーダー格のラベルは、サカルダから詳しい話を聞かなければ皆納得しないことを感じました。
「ゆっくりでいい。なぜ石を打ったのか。もしかしたら、何か説明のつかないことが起きたのかもしれないけれど、全員がそれを知りたがっていることは判るね?」彼は優しく彼女を見つめながら丁寧に話しました。しかし、サカルダは何も言おうとしません。目はうつろでふらふらと宙を漂い、まるで今見たものに囚われている風でした。イアリオはこの様子にぞくりとするものを感じて、すぐに、背後を振り向き暗闇の彼方に目を遣りました。いいえ、ちがう、もしかしたら…と、彼女は視線を上に上げました。
 ちらちらと真っ青な空の下に浮かぶものがありました。それは人の顔たちのようにも見えますが、よくわかりません。ただ、こちらをうかがって、何もしないかのようです。突然、カムサロスが戻ってきて、サカルダのふとももを裏から蹴り上げました。そして、彼は一人でどこかへ行ってしまいました。慌ててピロットが後を追いかけていくのが見えましたが、そのとき、イアリオはサカルダのうしろに奇妙奇天烈な人間を発見しました。カムサロスでした。ええ、たった今出ていった彼が、彼女の背後にいるのです。ところが、服装はまったく違い、赤に金色のベルトを仕込み、肩からは御立派なショールを掛けていました。しかし、幻はあっというまに消えてしまいました。
「あの子の幻が見えたの。あまり驚いてしまって」
 普段、無口なサカルダが、厚めの唇を開きました。彼女の綺麗な色白の肌が、その表面を波立たせて震えていました。ラベルがそっと彼女の肩を抱くと、大兄弟の長女は誰にも見せたことのない怯えた顔をしました。
「幻のあの子が、こっちを向いて笑ったわ。そうしたら私、鳥肌が立ってしまって。どこにも逃げられない、てなぜか思って。どこにも、本当よ?空を見たら、太陽がすごく傾いてみえて、それで、いけない、太鼓を叩かなくちゃって思って…」
 彼女は支離滅裂にこのようなことを言いました。そしてこんなことを言っても誰も信じられないだろうといった目を上げました。
「それで、夢から醒めたってわけだな」ラベルが高いところからがっちりと彼女の肩を掴みました。「でも、こんなことはよくあることだ。白い光が強い日差しは、時々こんな不思議なことを起こすんだ」
 全員がそれを知っていました。これは、ごくたまたまのことなのですが、無口なサカルダであればこそ、知らなかった知識でした。彼の言う通り、この町ではよく真っ白い閃光が太陽の方角から散り、そのあかりに当てられると忘我の状態に大人も子供も陥ることがあったのです。だから、大人はこんな日のときには建物の影に隠れるように努め、子供たちに注意するのです。サカルダは一度もこんな経験をしたことがなく、彼女の住まいは白い町から離れた草原にありましたので、大人たちの注意を聞く機会もなかったのです。
「これは僕の失敗だね。彼女を一人表に出していたんだから」
 ラベルは一人反省する風を見せました。
「サカルダが知らなかったとはいえ判断が悪かった。ごめんよ。君にも、ここにいる全員にも、謝らなければならない」
 彼は、皆の方を振り向きました。そんなラベルの態度に、我慢がならなくなった一人の少年がいました。
「トクシュリルだけのせいじゃないよ。生真面目な性格をちゃんと知りながら彼女に任せた僕らこそ悪い!」
 彼はヤーガット兄弟の弟でした。ハムザス=ヤーガットは神経質な少年で、よく周りとトラブルを起こしましたが、根はとても真面目で、曲がったことが許せませんでした。
「これは皆の責任だ。そうじゃないか?」
 彼は、これこそ本当の判断だと言わんばかりに大声でいばって言いました。
「そうだな。だけど、それならどうして彼女は始めから口を噤んでいたの?冷静な彼女にしちゃ、考えられないことだったぜ?」
 彼の兄、ロムンカ=ヤーガットが言いました。そこで、トクシュリル=ラベルが右手を高く掲げました。皆の注意を引き、彼の言葉に注目させるためです。ざわざわとした雰囲気はたちまち静まりかえりました。
「これは僕の意見だが…これからどうしようかということだ。まあこんな日に当たってしまった不幸をいくら咎めたって仕方がないものだ。僕らは全員、これからの探索を心待ちにしている。今も、ここに入る前も、それはまったく変わってないはずだ。さて、どうする?まずは、ほんの少しの探検に終わってしまったが、各自見てきたものを少しでも話してみないか…」
 彼はうかがうように全員の顔を調べましたが、異議を唱える者はいませんでした。
 その頃、トアロとアズダルの二人組の盗賊は街へ調査に入りました。といっても慎重に、抜き足差し足、まるで泥棒に行くかのような足取りです。この界隈に何が待ち受けているかわかったものではありません。いくら人っ子一人、生物の気配すら覚えなくても、構えをほどいてはなりません。確かに彼らは泥棒をしにこの場所へ来たかもしれませんが、二人組を包みこむ闇は圧倒的で、その下に端然と佇む石組みの家々はまさしく不気味な沈黙で彼らを迎えていたのです。
 トアロの懐には何でも入る袋がありました。それは外見ではどのくらいの大きさかわからず、意外なほどの量を収めることができました。彼女はそこから、かつて海賊の男から奪った、ゴルデスクといわれる金属の塊を取り出しました。それは黄金に似た輝きを、この暗闇の中で妖しく光らせました。トアロはじっと塊を見つめてさっと懐に隠しました。長いトンネルの中を進んでいくときも彼女はそうして時折ゴルデスクの塊を見つめました。そうしていにしえの滅びた王国に思いを馳せたわけですが、彼女は意識しませんでしたが、かの塊が彼女を呼ぶように光っていたのです。
 やがて二人は鐘楼のある高い塔を見出し、これに登ることにしました。その周りに動くものの気配はしませんでした。中へ入ると、一階層の部屋はほこりが積もり、調度類が壁際に整然と並んでいるままでした。彼らは足跡がつくのを嫌がり、別の行き道を探しましたが、都合の良い道はなく、手段を選びました。松明のめらめらと燃える炎は爪先立ちでまっすぐに歩くことを提案しました。二人は同じ足跡を揃えることで、まるでたった一匹の狐が通り過ぎたようなほこりの穴をつけられました。狭い階段をぐるぐるっと回り、鐘衝き堂も越えて、ようやく塔の最上階の物見やぐらに出ますと、都市の風景が一望できました。そこは、まさしく死に絶えた国で、息をするにも詰まりそうな、物言わぬ建物がどっさり立ち並び下から侵入者を眺めていました。トアロは鳶色の目でこれを見回しますと噂の黄金はどこにあるやらとありそうな所を探りました。しかし、しんとした街並みはまるで何かを覆い隠すように、不気味な溜息をつきました。トアロは入り組んだ街並みを眺め、まずどこがどうつながっているのかを頭に叩き込み、それから探索を始めようと思いました。彼女は緊張をほどき、大男のアズダルになやましく寄りかかりました。
「どうした?」アズダルが低い声で訊きました。「まあ、本当に誰も、鼠一匹もいそうにないが…」
「この街を見てみなよ。こうしてここにあることが、信じられなくないか?何百年、このままたたずんでいたことやら。私はそれに思いを馳せれば、まったくたまらなくなるよ。噂は真実だったとしても、これほどの真実、目の前にして憚られてしまう気分だよ」
「トアロらしくないじゃないか。いつもの気丈なあんたはどうしたんだ?」
「だから、あんたに寄りかかっているのさ。しばらくこうさせて。天井が作られている…ほら、あそこ。人工的に、穴を塞がれたよう。この街には、人の手が加えられている。もしかしたら、滅びた後かもしれない。
 しかし、たまらない。黄金は本当にこの街にあるのか。それとも、我々は巨大な幻を今ここに見せられているのか」

「まあほとんど

だけ、といったところか。無理はない。でも、ぞくぞくしただろう、皆?この地下の街にいったい何があるのか、奇妙で、不気味で、恐ろしいかもしれないけれど、僕たちの手でそれを解明していくんだ」
 ラベルの言葉に、少年たちは興奮した気持ちで目を輝かせました。彼の弁舌は秀逸で、人の心をうまく掴んでいました。
「慎重に、慎重にだぞ。でも、時には大胆さも必要さ。皆、いいかい?僕たちはまた、あの暗闇に踊りこむ。さっきみたいに、二人一組でだ。そして、今度は僕が鐘を鳴らす。大丈夫、ちゃんと日陰にいて注意するさ。サカルダと、テオラにもいてもらおう。ところで皆、火種はあるかい?」
 彼は一人一人に再度火種を配りました。ぱちぱちとはぜる炎はまた喜び燃え上がったように見えました。そのとき、ピロットがカムサロスを連れてきましたが、一番年少の彼はぐずぐずとしていました。大工の息子ヨルンドが、鋭い目で彼を見ました。片手に金属製ののみを握って、手の中で引っくり返したり、つまんだりしました。
 テオラはラベルに寄り添い、一緒にいまだ怯えの残ったままのサカルダを看病する風体をとりました。そんな彼女の様子を見て、アツタオロは仲良しの少女に耳打ちをしました。噂好きの少女二人は、時々そのようにして、隠れてぼそぼそと話をするのです。リーダーのラベルは坂の上に上がり、遠くはるかに太陽を見上げ、日陰の中に戻ってくると、サカルダを座らせ、自分はそのそばに立ちました。イアリオは地下の壁際に身を寄せ、さっさと中に入りたいもんだと舌打ちをしました。すると、一人するりと脇を抜けて、暗がりへ向かう影を見ました。ヨルンドがのみを持って、昨日打った壁を調べ始めたのです。彼は鼻歌を歌っていました。そして、ある壁の前で得意げにのみを振りかざすと、そっとレンガにあてがい、こんこんと鳴らし出しました。彼の帯には小さなハンマーが挟んでありました。
 彼の出す響きに子供たちが集まってきました。何をしているのかと皆でヨルンドを見守っていますと、彼ののみの先が、ぼろりと崩れて穴を開けました。どよめきが起こり、何人かは拍手を送りました。
「おい、いいのか?勝手に穴なんか開けて」ヤーガットの兄がどぎまぎして言いました。
「ここにある壁は、脆いのとそうじゃないのとがあって、ほとんど交互になっているのさ。なぜそうなったのか、気にならない?」
 ヤーガットの兄はぶるぶると首を振りました。彼には度胸のないところがあって、弟の神経質なハムザス=ヤーガットなどは、そんな兄を軽蔑するきらいがありました。
「この家、ひょっとしたらまだ誰かのものかもしれないだろ?壁がどうのという問題じゃないだろう!」
「ああ、また兄貴の臆病風が始まった!」ハムザスが彼をからかいました。「度胸がないんなら、俺たちについてくるなよ、兄貴!」
「そうだよ、もうここは俺たちの国なんだぜ?我らの領土、我らの王国、それに秘密の住処さあ!」
 元気よく言ったのは医師を親に持つマットでした。「そうだ、そうだ!」あとから、女の子たちが同乗しました。テラ・ト・ガルの合唱が始まりました。だが、じっとその様子を見ているイアリオだけ、おかしな気分でした。ヨルンドは壁に穴を開けただけでしたが、それ以外にも、勿論彼はそれ以上のことを何もしていなかったのですが、その穴から何か這い出てくるような、特別なことをしたように彼女には感ぜられました。
「おい、いいから中はどうなってるんだよ?」
「そうだ、松明を寄越せ!穴をもっと広げて確認するんだ!」
 数人がその作業に取りかかりました。やがて、ハムザス=ヤーガットとマットが穴の向こうに灯を入れました。すると、そこにはたくさんの紙切れが床に落ちており、ほこりの積もった家具が腐って倒れていました。家の内部はがらんとしており、物言わぬ石塀がうろうろと火にかざされて鬱陶しいぞと二人に訴えました。
 少年二人は互いを小突き合いながらやっと体を起こして穴から抜けました。
「どうなってた?」
「紙みたいなものがたくさん落ちていた」
「他に?」
「うーん…」
 二人はうなりました。思ったほどではなかったことを、ここで告げてもなんにもならないとわかった顔でした。そこで、ラベルは提案をしました。彼はいつのまにか皆に混じって彼らの様子を見ていましたが、サカルダの看病はテオラに任せたのです。
「この家の入り口を探さないか?無けりゃもう一度、穴をもっと広げてそこから入ってしまおう」
 彼の声掛けに子供たちは動き出しました。一人の子供が、塚のように盛り上がった土石の上に小さな木戸があるのを皆に知らせました。かがんだ大人がやっと入れるサイズの入り口です。
「やあ、ちょうどいいじゃないか。ここから中の様子を見てみよう。カムサロス!エジゲマ!」
 ラベルは少しむすっとした顔のままのカムサロスを呼びました。
「お前に探索隊の先鋒を任命してやる。一番始めにお前がこの中の様子を見てくるんだ。機嫌を直せよ!慎重に、慎重にだぞ、わかっているな?」
 カムサロスは目を輝かせて彼の言葉にうなずきました。少年は、役割を任命されるとたちまちに大人の顔つきになりました。心配して来たテオラが少年に灯を持たせてやりました。勿論、サカルダもそのあとについてきています。これから慎重なイベントが行われようとしているのに、彼女たちだけのけものとはやりきれません。テオラはカムサロスにいろいろとアドバイスをしてやり、少年を狭い木戸に送り込みました。
「行ってくるよ」
 カムサロスは小さな体をさらにかがめ、扉を開けて中に入りました。もわっとした澱んだ空気が彼の顔に当たり、鬱陶しそうに眉をしかめました。三百年間侵されたことのない領域に足を踏み入れ、するするとくぐりました。テオラとラベルが心配そうに入り口から彼の背中を見つめました。
 散乱した家具や陶器の残骸が物言わぬほこりの中に沈黙しています。少年は炎にぼうっと浮かび上がる家屋の雰囲気に身を竦ませました。彼は、紙切れがたくさん散らばっているのに気づいて、それに火を近づけてはならないと松明を持つ腕を上げました。
 するとともしびが天井を明るく照らし、彼の影を亡霊のように映しました。カムサロスはびくりとして、そちらを見ましたが、自分の影だとわかりほっとしました。彼は少しずつ奥に進みました。「大丈夫?何かある?」心配そうなテオラの声が背中から掛かりますが、無言で台所のようなスペースを抜け、隣の部屋を覗きました。
「エジゲマ!エジゲマ!」
 木戸からピロットとラベルの声がしました。カムサロスは一度その声にこたえようとして後ろを振り向き、そこで大変なものを見つけました。人の死骸が、石の水槽の上に寝そべっていたのです。
 しかし彼は何も言いませんでした。叫び声が出かけたのをのどに押し込み、その骸骨の様子をよく観察しようと松明を近づけました。しゃれこうべの喉元に、小さな看板がかけられています。よく見ようとしてひざを水槽の縁に乗り上げ、骸骨の肩に手をかけ、彼は火をもっと近づけました。黒々とした穴は沈黙したまま彼をじっと見つめています。カムサロスは死体の視線を間近に感じながら、看板に書かれた文字を読もうとしました。けれど、どうやら古い文字だったので、読むことができませんでした。
 彼は看板を骸骨の首からはずしました。そうして紙切れと家具のかけらが散らばる床を、そうっと抜け出しました。
「カムサロス!」
 少年は得意げに戦利品を掲げて見せびらかしました。「こんなものがあったよ!」彼は叫びました。
「石の上にね、人間の死体が寝ていてね、そこに掛けられていたんだ。首のまわりに、こんな風にして…」
 彼は自分の首に看板の鎖を巻きつけ説明しました。しかし、彼の思ったような反応が見られず、きょとんとしました。誰もが青ざめていました。
「死体…?人間の死体だって…?」
 皆はカムサロスを遠ざけるように体を逸らしました。
「そうだ。そうだよ。見捨てられた街だもの。人の死体があったっておかしくないよ」
 テオラがぼそりと漏らしました。血気盛んだった子供たちは、一斉にその血の気を失い、互いの顔を見つめ合いました。彼らの頭上に広がっています。大きく、巨大な圧倒的な闇が。彼らはそちらを見るまいとして、つい首を上げました。聞こえてこないはずの音が、聞こえてくるようでした。日の元に現れてこないはずのものが、そこにありました。彼らは同時に息を止めました。狂気を含んだ恐ろしさが、こちらを襲うかのように感じられました。
 小さな少年は看板を下ろして、そんな全員の顔を茫然と眺めました。ピロットが彼の後ろに立ち、彼の手から看板を奪いました。
「あれ?この字、なんか変だぜ。見たことない」
 ピロットは顔をしかめながらその文字を皆に見せました。少女たちや臆病な少年たちはまるでそこに呪いの文言が書かれているように見つめましたが、司書の息子のカルロス=テオルドは興味ありげにそれを見て言いました。
「昔の文字だ。月明かりに照らされた秘密、この時、薔薇の花は咲いて散り…」
「なんだって。テオルド、読めるのか!」
 ピロットが興奮して言いました。
「赤い光は炎となって燃え、この身を焼き焦がした。そう書いてある」
 しんとした空気が皆の間に漂いました。耐え切れなくなったイアリオが、彼に訊きました。
「何、それ?どうした意味なの、わかる?」
「わからない。詩の一節なのかな。でも僕は、こんな詩読んだことないし…」
「それがなぜ、骸骨の首にかかっていたりしたの?」
「僕に聞かれてもわからないよ」
 テオルドは暗い眼差しを上げて彼女を見ました。本の虫の彼は、普段から俯き加減に首を傾けていました。少し目を上げると、顔の影が眼にかかっていますので、どうしても暗い表情に見えるのです。イアリオは言葉どうり彼の発見はここまでだということがわかりました。
「ともかく、この看板が掛けられていたという死体を確認してみないか?エジゲマ、よくやったぞ。これはお手柄だ。皆よくわかってるよ」
 ラベルがようやく彼をねぎらいました。少年はぱっと笑い、ピロットの影に隠れてその脚に抱きつきました。
「探索隊の先鋒はこのように任務を成功させたぞ。皆、怖がる気持ちはわかるが、僕たちの探索をここでやめにしてもいいのかい?なぜ滅びたのか、どうして死体は石の上に置かれたか、そしてテオルドが言っていた!この街には黄金があるのだと。退くのは簡単だ。挑戦するのは何事も難しい。簡単な方を選ぶというならそうしよう。けれど、その瞬間、テラ・ト・ガルはおしまい、もう二度とこの場所に踏み込むことはない。僕たちの絆もおしまい、すべて夢の中だ。皆忘れてしまおう」
 彼の言葉には誰もが言う言葉を持っていませんでした。皆わかりきっていたのです。これは退くことのままならない探検だと。一度知ってしまった秘密は、ずっと彼らの心を焦がすことでしょうから、耐えられなくなったとしても、地下への入り口が閉ざされれば何も知ることはできません。それこそ一番耐え難いことだと全員が感じていました。
「どうする?退くか、行くか?僕が行くなら、まずカムサロスの見つけた死体を確かめるね。それからあとを考えようとするのだが」
「私、賛成する。この街、想像以上の秘密がありそう。もうあとには退けないよ。それに、死んだ人がどうなっているのか確認してみないと、これから探索するにしたって、どれくらい危険があるのかわからないでしょ」
 テオラが静かに言いました。しかし、いざその目で死体を見るとなると、誰もが尻込みして譲り合いました。そこで、結局ラベルとテオラ、それにピロットとイアリオが、木戸から入っていくことになりました。
「どこだ?」
「ほら、壁つきの水槽の上」
 カムサロスが表からナビゲートして、四人はその死骸を目の当たりにしました。しんとした埃まみれの家の中に、赤々と揺れる炎に照らされて白い骨格をあらわにした白骨の死体は、不安をかきたて、予想だにしないものがふらふらと宙を飛んでいるような空想を可能にしました。テオラはびくっとしてラベルの背後に隠れ、彼の腕を取りました。イアリオはピロットの手首をぎゅっと掴みました。それを、ピロットは鬱陶しげに払おうとしましたが、彼女を一瞥しただけで放っておきました。ラベルはテオラをなだめると、骨に近づき、詳しく様子を調べました。
「この人、女性みたいだね」
「ほんと?」
「ほら、骨格がそうだ。骨盤が広くて男より肩幅が狭い。あおむけに寝ている…誰かがここに運んだのかな?一人でこの上にずっと寝続けたというのは、発想としてないな…」
 イアリオは、自分がいつのまにかピロットの手を握っているのに気づいて、慌てて放しました。彼女は素知らぬふりをして家屋のあちこちを眺めましたが、そばで、彼の鼻息が午前中のように荒くなっていることに気がつきました。しゅうしゅうと、蒸気機関のように。彼は虚ろな眼差しを空に向けていました。彼は古代の亡霊にとりつかれていました。

 一組の男女が、三百年前、その水槽の下で交わっていました。男はその後女を殺して水槽に上げました。男は女の奴隷で、日ごろ彼女に恨みを持っていました。彼が、そのようにして殺人を犯したのは、人々が兵士たちの支配に反乱した日、その同時刻でした。彼は熱に浮かされていました。街の人間は、身分立場にかかわらず、その時皆自由になったのです。解き放たれたのです。自由に黄金を奪う権利を誰もが欲し、それが叶えられたのです。しかし、黄金が指し示すものは、一概に黄金そのものだとはいえませんでした。日ごろの欲望の吐き出し口に、人々が選んだものはさまざまだったのです。
 ピロットに取り憑いた悪霊は、この男でした。男は背後を振り返り、血だらけになってあおむけに眠る女のところを、まるで祭壇のようだと思いました。異常な興奮が突き上げ、彼が外へ躍り出てみますと、誰もが彼と同じような面持ちでいました。これから、かの国の大なる自殺が始められようとしていたのです。老若男女関係なく、皆が等しい、強欲の渦に呑まれ、男にとりつかれたピロットの意識もそこに紛れ込みました。
「ピロット…?ピロット!」
 何回かイアリオに名前を呼ばれ、彼ははっとしました。そのとき、白い影が、ふわりと彼の頭から抜け出てきました。それを見て、イアリオは頭上の太陽が真っ白い光を放ち混乱させる、あのあかりにそっくりかもしれないと思いました。彼の魅力的な黒目が元に戻り、イアリオはほっとしました。そして、どうしてこの街は彼に奇妙な様子をもたらすのだろうと訝しがりました。
 今回の探索はここで終了でした。遊びに入った地下都市で、まさか人の遺骸に出くわすとは誰もが思いませんでしたが、各人収穫はあったような顔をしていました。恐ろしさが、興味となり、さらに深く潜ってこの世界を調べてみたいと思うようになったのでした。こうして子供たちはさらに地下の奥へといざなわれていくのですが、そうして出会った最大の悲劇は、彼らの理解など追いつかない大惨事へとつながるのです。しかし、このときはその片鱗に触れてただ彼女だけが予感したにすぎませんでした。
 ルイーズ=イアリオは、この十年後、再び地下に潜ってハルロス=テオルドの書き残した日記を手にします。彼女だけが、暗闇の中に潜む者達の想念を感じ取ることができたのでした。
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