第27話 天女の約束

文字数 36,963文字

 町は、水道が止まっていました。丘の上にいくつかある巨大な水置き場に、川から汲んだ水を流し入れるのは、子供たちの役目でした。朝早くに、夕暮れに、彼らは泉や川まで降りてきて、各々、運べるだけの大きさの桶を持ってよたよたと水を持ち帰ってくるのです。子供たちは、今森の中にいました。町には臭い匂いが溜まり始めていました。
 評議会の人間は、おしくらまんじゅうのように狭い場所に詰められていました。彼らは地下街の建物の一室に閉じ込められていました。
「お腹がすいたかい?」
 そこに、痩せさらばえた上半身を剥き出しにした男がやって来ました。いかにも不健康そうな体躯の男は薄い唇を引き伸ばしていました。
「食事を与えよう。その後、お前たちに訊きたいことがあるのだ」
 男のそばには屈強な異国の戦士が威圧するように立ち塞がっていました。ピロットは盗賊の他にも粒揃いの人間を集めていました。彼は思いのままに人間を捕えて閉じ込めました。議会を襲わせ、混乱の上の町を尻目に、暗がりに下がり、そこでいよいよ自分を生み出したふるさとに何かを叫ぼうとしていました。
「お前たちは何者だ」
 イアリオの父親はそこにいました。彼は暗がりで顔がよく見えない相手を透かし見ました。
「オルドピス人ではない。今までこの地に来たことのある者たちではないな。何が望みだ?ひっそりとこの地に来られたなら、ひっそりと、やるべきことがあるんじゃないか?」
「ああ、おじさん、俺を忘れたの?」
 ピロットは目を剥き彼を見ました。
「悪童ピロットだよ。皆から追われて海外へ逃げ出した」
 静かに彼は言いました。イアリオの父は、目を丸くして相手を見上げました。
「おお、ピロット…」
「イアリオにはもう会った。三年前になるかな。俺は、彼女が好きだった。でももう忘れることにした」
 地の底から響くように彼は言いました。そこには無念さと、悔しさも混ざっているように、聞く者には聞こえました。
「だがその前にやることがある。あんたが今言ったように、ひっそりとね。俺はね、おじさん、あの黄金を、欲しいと思わないし、誰かにあげようとも思っていない。この街が滅びれば、と思っているんだ」
 評議会の人間は耳を疑いました。おそらくは海の外で生き延びてこられたピロットに、一体何があったのかと彼らは考えました。
「今までは、この町も、黄金も、守られてきたろ?だが、人間には裏と表がある。自分の裏側を知る人間は、どうしても、表を目立たせて裏側を隠そうとするんだ。それが普通。善人であれ悪人であれ、表側を守ろうとする。
 でも、それがいけないことのように、俺には思えるんだ。どうしても」
 彼はふいにくたびれ果てた老人のような雰囲気を醸し出しました。やつれた体が年相応の若さではなく逆に年相応の疲羸(ひるい)を噴き出しました。それなのにその体は、生命力をたくし込んでいるような、不思議な印象をもたらしました。
「離れたものは統合されるべきだった。それを選んでいないよね?選択していないよね?この町はさ…俺の言っていること、判るかい?」
 イアリオの父は黙って彼を見つめました。彼が、地下の黄金の(外世界での)価値を知り、欲望に目が眩んだことがあるとは読み取ることができました。ですが、それでは彼が今、何を希望しているのかが分かりません。
「俺はね、知りたいんだ」
 ピロットが底冷えのする声を出しました。それは周りを震え上がらせるのではなく、彼自身が震え凍えたために、おのずとそうした発声になったのです。
「本当に守ってきたものは何だったんだい?この三百年、必死で何かを守り通してきたけれどさ。つまらないことだ。未来がない。強欲はもっと素晴らしいものだ。人間を前進させる、恐るべきパワーがある。俺たちはそれに滅んでしまったことがあるから、ずっと、恐れを持ってそれと距離を取ってきたわけだ。冗談じゃないな。
 それは、地下なんかに閉じ込めておくことはできないものだった。どうしてその力を持つ自分たちにもっと別の感情を持たなかったのだろうか。恐怖でないものでそれを見ることができなかったんだろうか。力は俺たちから分離できないものだから」
「それは、違う」
 年寄りの厳然とした声が響きました。
「若者よ、私たちの町の生き方は、あの時に決まった。黄金を守り通すこと、まさしくそれだ。命を懸けて、町の人間が新たなる紛争の火種にもなりかねないこの遺産を守り切ること…これほどの世界貢献は、ないものだぞ」
 彼は偽りない眼で痩せ果てた若者を見ました。どうして町の子がこのような姿で外海から帰って来れたのか、異常な思想を持ってまでここに帰り着くことを選択したのか、まともにその目から覗こうとしたのです。
「私たちは、それを行っている。出来る限り、未来永劫、これを、行い続けるだろう。それが我々の選択、誇りである。確かに、我々は割を食らっているのかもしれん。オルドピスの連中と話すと、それは感じずにはいられないな。彼らは自由で、我々は、文字通り束縛されているからな!だが、違うぞ、若者よ。黄金を守り切ることは、我らの誇りなのだから」
 すると、ピロットは不気味に笑い出しました。
「悪と同じだよ、それは。守り切るだって?笑ってしまう。それほどの悪の根を下ろしてしまっていたんだな。いいかい?人間はよくできたものだ。俺は、外の世界を見てきた。いくつもの国を巡り、悪を働いてきた。悪を働けたということは、その国に、その町に、綻びがあったということだ。悪が這入る余地があったわけだな。だが連中はそれで悪を経験した。俺の方こそ世界貢献じゃないか?
 この町には、悪の這入る余地がなかった。悪は元々、やりこなされていたから、誰もがそれを、認めるばかりだった。前進ではない、後退だ。新しい悪は生み出されなかったんだ。それだけだ。守る?守り切る?何をだ。そうして排除してきたんだろう。自分にとって恐ろしいものを、怖いものを、繰り返し排除してきたんだあんたらは。イアリオにはそれがあった。あいつには悪があった。俺の目には、あいつ以外、皆死んで見えたよ」
 彼は震えながら語りました。彼が恐れているのは、人間でした。好きになった人でした。
「皆享受しているんだ!何も、疑問を持たずに。それがいいことだと思ってやがる。だがなあ、それじゃ、何にも可能性がない。今までを克服する間隙がない。世界は
 前進しているぞ?俺のせいで、俺のお陰で。三百年前の事件は、俺たちをそう前へ行かせるほど素晴らしい事件だったのでは?何も、隠すことはなかったんだ」
 彼は彼がこれまでビトゥーシャと共に散々撒き散らしてきた悪の種のことを言っていました。それは誰にも分かりませんでした。
「お前の言っていることは間違っている」
 厳しげな声が、他方から飛びました。
「お前は未来がないと言ったが、それは違う。未来は我々の後にできる。黄金を守護し、その役割を後人に託してだ」
「生きるのは俺たちだ。若い奴らだ!」
 ピロットは叫びました。
「古めかしい掟など新たに意味を更新しなければ価値はないんだよ。それはもう

新しさがない。古いものがずっと古い。新しく生まれてくる者たちは新しいはずなのに」
「ではそうするがいい」
 年寄りの弁舌が烈しくなりました。幾多の議論もそのようにして勝利してきたように、相手の意見を封じ込めようと、大声を被せました。
「お前が若者を束ねればいい。お前以外の若者はきっと違う考えだろうから。お前の言う通りにはならぬ」
「そうはならないさ」
 ピロットは顔を上げ、議員たちを見据えました。
「だって、あんたたち、自分が何者かわからないだろう?黄金を守る者だということ以外に。…まだ分からないか?以前若者をけしかけたのは俺だ」
 彼は苦痛に歪んだ顔をしました。
「皆俺の言う通りに、自殺したがな。自分が何者か分からなければ信頼するのは直近の誰かだ。しっかりした考えを持っていると思われる身近な誰かだ。そんなものさ。人の心を操るなんて容易い」
 彼の声は上ずっていました。彼はあの時死んでいったすべての若者の声を聞いていました。一人一人の、言うことを知っていました。
「あんたたちはあんたたちの心を操っていただけにすぎない」
 その一言一言が、重く、彼の身に響きました。
「緩かったんだ。あんたらと、その息子たちとのつながりは!重要ではなかったんだよ。黄金を守護することは」
 評議会の議員たちの中には、それまで野次を飛ばしてくる者もいました。しかし、今は誰もが口を噤んでしまいました。
「大切なものにならなかったんだ。それは放っておかれたんだよ。怖がって、憎んで。自分たちの中に、それがあることを恐れて。それ以上の、悪はない。大きく町ぐるみでその真実を隠しやがって。大きな罪が、今町を襲う」
 ピロットの言葉に、びくりと身を振るわせる議員がいました。彼の言葉は大人たちの中に浸透し始めていました。
「守っていたのは自分さ。皆自分自身が大事だったんだ。それが共通の目的だった。俺たちは悪でつながっていた。それでいい。
 それでかまわない。厄介なのは、そのことを隠していたことだった。裏側に隠し、表では違ったことをする…」
 ピロットは、隠し切れない哀しさを満面に出していました。恐ろしい悲劇から生まれた妖怪のようにその顔中に皺が寄りました。
「俺たちの悪は根深い。もう天秤のようにうまく均衡は取れなくなっている。表と裏と、その両側を克服することを、俺たちの先祖は、今も、望んではいない。崩すんだ。そうした時間が訪れたんだ。壊すんだ。壊れていくんだ。後は何も知らない」
 イラも
 地下に棲む亡霊たちも
 山脈の真上にいる白き霊たちも
 そしてオグも
 皆が彼の言う通りの思いでした。
 町を、守ろうとする者たちの意見は、もっともでした。でも、彼らはその周りにいる者たちの声も聞いているはずでした。その声も、恐らく恐れていたのです。私たちがつながっていたのは過去とです。それを無視してきた自分とです。いつか崩れるとしたら今です。
 そんなものでした。
「俺は俺が何者か、知りたい」
 ピロットは声を張り上げて言いました。
「黄金などすでに守っている。だから、その先が必要だ。俺ほど悪を恐れている人間はいない。それは、誰にも具わっているからだ。俺は悪を信じる。それを信じる。この町が犯した罪を認める。知らないだろう?この町が隠した、地下の街のさらに下に、昔からいる悪魔が居たことを。誰にも棲んでいた悪魔だ。そいつが、今、暴れ出そうとしている」

 扉を開けて、イアリオは、ぎょっとしました。ずっと近くに、雨避けのマントにくるまったテオルドが、立っていたからです。マントは麻地に縫込みがしてあり、肩から掛けるだけのシンプルなものですが、司書である彼にとって水は嫌わねばならないものです。こうして守備隊長の見回りをしても、払う必要の無い霧のような雨の中、その習慣は維持されていたのです。
「やあ、やあ、久し振りだね。そこで偶然見かけたものだからさ。イアリオ!また会えるとは、嬉しいよ」
 彼は彼女の隣にも目を向けて、
「そちらはレーゼ君だね。ついておいで。僕をご存知かな。どうやら、君たちに会っていたみたいなんだが」
 彼の背後には霧雨に紛れない強い白い影が見られました。もしそれが、彼らの恐れる魔物が取る直接の姿なら、今味わう二人の戦慄と恐怖はそれのものでした。
 しかし、二人は動じませんでした。二人はそれを恐れるからこそ、それがこの場に登場したのは、理由があると思えたのです。レーゼはそれが模った人の姿が守備隊の隊長であることは知っていました。しかしそれが、魔物なのか本物の人なのか、彼は区別がつきませんでした。仮に本物の人だとして、イアリオを捕まえに来たなら、堂々としている他に選択はありません。彼は彼女を見ました。
 どうやら彼女も同じことを考えているようでした。二人は、一度オルドピスのキャンプに引き返そうと話し合っていました。町の様子を内側から観察して、どうも、人々は表の町で争い合っているのではないと確認したからです。レーゼも医師から聞いて耳を疑っていましたが、人々は、こぞって地下に繰り出し始めた。そこで出会って、互いに、今まで秘密にしていた黄金を求めているんじゃないかと疑って、撃滅をし合っているらしい…。
 何かに仕掛けられた縄張り争いは、町の人間の懐の思いに触れて、新しく悪の思いをもたげさせて、彼らの三百年来の呪いにまで触れ出している…とは、レーゼの医師がもしやと話したことでした。町には、冷静な人間が数多くいました。必然的に、そうした人々は混乱していく町の様子を三百年前になぞらえて捉えていました。イアリオの母親もまた、そうでした。二人はレーゼのかかりつけ医師が言ったことを母親にも訊いてみました。母親はまるで盲人のような目を開けてじっと耐えるようにその話を聞き、開いた口は、自分も同じような印象を感じていたと述べました。ですが、
「もしかしたら、あなたは、それを三年前に感じていたのではなくて?だから、この町から出ていったのでは?」
 と自分の娘に尋ねました。イアリオは頷きました。
 二人はこのまま地下に臨んでどこまで事態が推移しているか確かめられませんでした。そこまで確認するつもりで町に侵入してきたのですが、町は、静かにこれ以上の二人の侵攻を拒んでいるように感じられました。事態はもっと思った以上に進んでいると思われたのです。危険な状態に。
 おそらくただ人間だけが争い合っているのではないほど、地面の下はもっと混沌としているのだと。勿論、イアリオはそこまで感じて、町から出ていったのですから。
 二人はこうしてキャンプに戻り、作戦を立て直そうと話し合いました。作戦とは、いかに彼らが町の崩壊を見守っていくか、その最期があるならばどの位置で迎えれば良いかということでした。それが間近なら今にも地下に入っていって、覚悟して迎えようと話し合っていました。ですが、町は彼らを放っておいてずんずんと終わりに向かっていました。レーゼとイアリオはもしこの終わりから救われる命があれば、オルドピスに助けてもらおうとしていましたから、彼らにもう少し今より町に近づいて、一人でも多く逃れさせるために、拠点を移してもらおうと考えました。町の人間は、こぞって地下に入り出しているとすれば、地面の表側にはそれほど危険はないと思われたのです。
「テオルドじゃないでしょ、あなた?」
 そう考えて戻ろうとした矢先、二人はテオルドに変身したオグに掴まりました。テオルドはあまり見せたことのない笑い方をして
「ふふっ」
 と口元を緩ませました。
「私を待っていたの?どうして今日私が戻ることが、分かったのかしら?」
「勘さ」
 彼は眠たい目を開いて冷たい光の眼を彼女に向けました。その目を彼女はよく覚えていました。テオルドのものでありながらテオルドのものではない目を、彼女は夢で見ていました。自分以外のものでありながら、自分のものである、目でした。
「イアリオ、今町に何が起きているか、知っているかい?」
「…レーゼから聞いたわ。大変みたいね」
「他人事だなあ。でも君は、そんな町の中をわざわざやって来た。どうした目的かね?ああ、いいよ。答えなくても。おおよそ見当は付くからさ!」
 彼は自分についてくるようにイアリオとレーゼに言いました。二人はおとなしく、彼に従うことにしました。
 テオルドは町を下り、町の北にこんもりと生い茂る暗い森へと連れて行きました。雨は上がったようです。森の中であちこちから、かんかん、かんかん、木を叩く音が聞こえます。賑やかな声がします。女性と、子供たちの声です。
「町は危険だから、ここに子供たちを連れて来ている。大人たちも合意の上だ。僕は今、守備隊の隊長をしているからね」
「ええ、知っているわ」
 イアリオはこの光景に猛烈な違和感を覚えました。オグが指示しているのでしょうか。彼は、子供も女も見境なく悪を刺激する魔物です。彼らの平安を目指して連れて来たのではありません。子供たちを集めた意味があるなら、それは悪の意志に他なりません。
「あなたに感謝しなくちゃならない?」
「おや?まるでこうしたことが起きることを、知っていたような口振りじゃないか。動揺は一切していないイアリオは、僕の到来も予期していたようだな」
「そうね。だから、あなたのことはもうよく知っていると思うわ」
 彼女はそう言いながら、オグに言っているのかテオルドに話しているのか、よく分からない感じがしました。彼女はまだ、テオルドがオグに喰われたことを知りません。すでに彼は、十二歳の時に、体を変えていたことを。しかし、そうした彼と、彼女は付き合ってきたのです。
「もしかしたら、お互い様かしら?二人共、地下の秘密を分け合った仲だものね」
 彼女は慎重に話しました。自分のものの考えが知れたら、どんな付け込まれ方をされるかと警戒していました。彼女は相手がオグである前提で話をしていました。しかしテオルドの姿をしているから、まるで相手がテオルドであるような言い方もしました。
「ひょっとして、私たちは今までそっくり同じことをしていた、のかしら?」
 彼女はテオルドが仲間たちを連れて密かに自分のように地下に繰り出していたことも知りませんでしたが、そう言いました。単に彼女が自分がオグだった記憶を思い出していたから、そう言っただけでした。分かれた自分に言うように。ですから、次にテオルドの姿をしたオグが言ったことは、少なからず刺激を受けました。
「そうだよ。この町に仕掛けたのは僕さ。イアリオ、君の魂の中に眠る影を見つけたかい?だから、こんな町の様子を見ても、冷静なのかい?」
 オグも慎重でした。魔物もまた彼女を警戒しました。彼にとってみれば…彼女にとってもまた…かつて自分であったものが、離れて再びここに登場したのですから。動揺をしたのは、彼の方だったのです。ピロットの侵入も彼は気づいていました。彼の動揺は大きなものでした。まるでそれは、実在のテオルドの魂の感じるように。彼は、魔物として初めてピロットと(人間と)契約を交わし、少年テオルドもまたその悪童と冷たい愛を交し合って、イアリオとも、孤独を温め合っていたのです。
「…生まれ変わりの悪は、こんなことをしない。操られるか、向き合うか、儚く思うかだわ。自らの悪を知ると…人は、混乱をする。何もできず、ただ、委ねるしかないことを知るんだわ」
 彼女は彼女の言葉を言いました。それは何からの概念も思考も借りていない言葉でした。借りた言葉では言葉の何たるかを知っているオグにつけ込まれることを、彼女はよく知っていました。イアリオは魔物に理解される必要のないことをわざわざ言ったのです。
「いいかい、生まれ変わりの悪なんてものはない。皆死ぬんだ。死んで、生まれ変わる。その時に前の世の記憶なんてないのさ。え?そうだよ。皆今の記憶さ。死ぬことのなかった故人の記憶さ。人の世にあるまじきもの、大いなる循環の流れから、取り残された、不名誉な記憶だ」
 オグもまたイアリオに理解される必要のないことを言いました。両者は鏡を挟んで言い合っていました。かえって両者は互いのことがよく判る気がしました。ふと、彼女はテオルドの姿をしたオグの中に、テオルドの姿が見える気がしました。彼女はこの相手が魔物そのものであると看破していましたが、魔物は自分にも化けていたなら、どうしてテオルドなんかに化けているのだろうと思いました。
 螺旋。それは
「…あなたの中にあいつが見えるわ。あなた、もしかして…」
「何だい。夢でも見たかい?」
 元に戻って、少しだけ、前に進むことです。少しだけ、上に昇ることです。
「ええ。私が、あいつに囚われる夢を」
「そうかい」
 彼女は前者の「あいつ」をテオルドの意で使い、後者はオグの意で用いました。オグは一瞬レーゼに鋭い視線を投げ掛けました。そして、彼女もまた、自分が見つけたものを見出したのではないかと思いました。
「じゃあいいだろう。あいつに会わせるよ。あいつもきっとそれを願っているだろう。あいつ、お前が産まれるのに合わせて目を覚ましやがったんだぜ。僕なんかよりも用があるのはきっとイアリオだ。僕はただあいつの体を持っていただけで。イアリオがあいつを産んだのかもしれないな」
 オグは複雑なことを言いました。彼の言う「あいつ」は一定の意味を持っていませんでした。それは、彼自身であり、またテオルドであり、イアリオでもあったのです。彼女は木々の向こう側に、かつての仲間、サカルダとヨルンドの姿を見つけました。その時、彼女は言い様のない感覚に溺れるように浸りました。すべては仕組まれていたかのように。ですが、それは、自分も参画した計画のように。彼女が魔物の意志を見ようとすれば、それは自分の意志も見るように。
 それはまた町の全体の意志と言えるように。彼女は、テオルドの姿を模ったオグをまじまじと見ました。彼女は、テオルドのことが嫌いでした。十五人の仲間となった経緯が彼と結びつきを強めましたが、それでもずっと違和感のある相手でした。しかし、現在はとても近くにその存在を感じました。彼の孤独が、手に取るように分かったのです。
 テオルドは、あのオグに喰われたのではないか。そんな疑念が、彼女に浮かびました。かつての自分のように。そして、ここにいるオグはまさしく、彼の思いや生き方も継いだ新しい彼と言える者になっているのではないかと、考えました。はっと彼女は分かりました。レーゼの報告にあった町の著しい変化は、皆、もしかしたら彼に唆されて始まったものではないか。オグにというより、テオルドに化けたオグによって。霧になって人間に溶け込み悪を囁くことによってではなく、人間の姿をして囁いたのではないか。
 いや、ならばいつ、彼は悪魔に食べられたのだろうか。あの時は…ハリトの兄にあの絵を描かせた時はどうだったのだろうか。天女と自分が出会い、墓丘の上で白い光に包まれた様子を写した絵を。「あっ」と彼女は心の中で叫びました。あの絵は…あの絵の裏に書かれた言葉は…どうして彼の心を打ったのだろう。「未来がもう間もなく破局を迎える。我々は、一連托生だ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから。」私がオグなら、あの言葉に、期するものを感じただろう。あれは、私が言ったのではない、宙に浮かぶ、その他の霊たちが言ったのだから。
 機は今だと感じただろう。
 急にイアリオは前頭が窮屈に痛くなるのを感じました。鼻の奥がつんとして、血だか鼻水だかが詰まり澱んだように臭くなりました。


 聴くということは。立ち会うということは。そして、見守るということは。傍観者とは。
 しかし、彼女はそうなるために、冒険を経てきたのです。


 イアリオは頭の中でかたかたとパズルのピースが埋まっていくような音を聞きました。そして、もう何物も止まることはなくなったのだと分かりました。すべては、何かの意思によってではなく、自分たちの意志によって、動くものだと強く感じたのです。自分一人だけがこの終末をどうにかしようと、いじらしく抗ってもいけない、抗うということは意味をなさないと思いました。そうではない、私は、この終末を早くから感じ取っていた。そして、だからこそ故郷を離れて、この終わりを見届けるだけの自分になって帰って来たのだ。彼女は目の前のテオルドにも何か働き掛けようとは思いませんでした。彼が、本物のテオルドとして、守備隊の隊長としての権限を持っているならば、たくさん頼めることはあったでしょう。おそらくオルドピスの斥候を殺したのが彼からの命令ならば、その警戒を取り外して、森の中に逃げ込ませた子供たちや大人たちを外部に逃げさせるよう口説くことも。オルドピスは、支援を約束したのです。ですがそのために彼女の口は開きませんでした。レーゼも、じっと黙っていました。
 オグは森の中をひととおり案内すると、森から離れて、町に近づく道を取りました。二人は彼に連れられ、雫に濡れた草原とこうべを垂れた瓜畑の隙間を通り抜けていきました。彼らはある穴の前に出ました。穴の傍には大岩がどけられています。中を覗くと、階段状に固めた土の段差がずっと下へと続いています。そこは以前、イアリオがレーゼたちと一番初めに入ることを試みようとした、地下への入り口でした。
 その時も大岩は脇によけられていました。テオルドは二人に松明をそれぞれ渡しました。イアリオにとって三年ぶりの地下が、レーゼにとっても久し振りの暗黒が、目の前に開いています。この暗がりに入っていくことを二人は恐れました。彼らは二人でそこに入ったことがありませんでした。テオルドはゆっくりこうべを巡らし、二人のそうした様子を観察しました。彼は、気に入らない風の仕草をしました。耳に手を当て、耳の外枠を引っ張ったのです。それは実際のテオルドがよく取る仕草でしたが、自分のように、暗がりを恐れたり敬愛したりする態度を他者が取らないとすることが多い癖でした。オグもこの態度を取りました。それは
 彼の方が、圧倒的に二人よりここから生まれ出ずるものをよく知っていたからでした。しかしそれなら彼がややいらいらとすることもなかったはずです。彼の方が、長生きで、二人より経験も思想も深遠だったはずだからです。それは自明の真理で、人ごときに、彼があからさまに苛立ちを表明することはなかったのです。彼は分離していました。彼は集合的な存在でありながら、その集合者たる何者かではなく、一人一人の想いがもはや自立した、個別の存在でもありました。彼が苛立つということは、彼の中の一人一人が苛立つということで、それは確かに集合的な反応でした。或る国を揶揄すれば、その国民は反発するでしょう。或る地域を馬鹿にすれば、その地域に住む人間は誰もが嫌悪を示すでしょう。それと同じく、彼は、二人が暗黒を前にしてただ懐かしい恐怖なぞ感じていることにやや虫唾が走ったのです。その恐怖を生み出す者こそ自分だったという、圧倒的な恐怖は、ここになかったからでした。
 しかしそのようなオグがすっかり参った恐怖にすぐ二人は近づきました。彼らはそれをすでに知る者でした。まるで自分の来し方を知りに行くような、穴の入り口をくぐる両足はそれを感じ取り、震えました。先に両足が感じ取ったのです。そして、その二つの足は力強く前に進みました。そして、二人はこれから突き進んでいく暗闇は母胎の中のようにも閉ざされ、彼らの町だけではなく、あらゆるものもそこから誕生させたような、混沌と悪を内包した姿だったことを自然と思い出しました。ぴちゃっぴちゃっと天井から漏れた雨水が洞窟に滴り、思ったよりも肌寒く感じた空間は、広々として彼らを突き放しています。レーゼはイアリオにそっと寄り添い、軽く腕と腕を触れました。彼らはゆとりのある緩い勾配の通路を進みました。しばらくして下り坂は終わり、壮大な都市空間を眼前に広げた、真っ直ぐ平たい道に出ました。
 ここでテオルドは少し休憩しようと言って、灯火をその場に転がった石の隙間に押さえて立てると、鞄から取り出した動物の干物肉を炙り出しました。イアリオとレーゼは壁に張り付きました。焼け焦げた肉がじゅうじゅうと脂を滴らせ、その肉を、テオルドは二人に差し出しました。
 その頃、別のオグは、夜行へ行く仕度を整えていました。もうすぐ夜です。オグは確かにばらばらに分かれていました。イアリオたちの前にいる者と、実在のテオルドに同化した者と、霧となり動き出そうとしている者と、他にも、それぞれに自在に目覚め働いている者たちがいました。彼は、同時に複数のことなどしたことがありませんでした。イアリオと共に、目覚めるまでは。それが、彼女と共に再び起き上がって、自分の、身体が分かれやすくなっていることに気がつきました。それまでは、がんじがらめに同時に動くことを要請されて、かつてそれに掛けた強力な魔法がその身体を苛めていたのですが。今、魔法は解け始めています。彼らが無意識にも自らその魔法をはずしていったことを、イアリオも、彼も、知りません。それが
 どれほど恐ろしいことかは、悪魔自身も知りません。魔法は、自分が掛けたことを知ると、自然とはずれるのです。螺旋。…レーゼはじっと壁際の隣に座るイアリオを見つめました。この人といると、自分はどうして安心するのだろうと思いました。彼は町の守備隊長を、彼女と会わせてしまったのは自分の責任だと思っていました。扉の向こうに誰かいるのは判っていました。あれほど警戒をしていたのに!ですが、その時に彼が感じた気配は、テオルドに化けた、オグのものでした。また、その向こう側にいたハリトの影も彼は感じていました。しかし彼はそれがハリトだと分かりませんでしたが。
 オグは分離を始めていました。それは、太古から大勢の人間の悪の意識を集めてきましたが、元々はばらばらでした。悪が集合すれば、それは個人に働きかけますが、もういいのです。他人の願望を叶えるのは!悪は人に戻り始めていました。そうしなければならなかったのです。その中にいる一人一人の感情が、其の他大勢の人間の意識など抱えられるはずがないのですから!周りに同じものがいるだけ、人は安心します。でも、それに押し潰される経験もまたするのです。本当の自分自身は一体どこにいるのか。集団に囲まれながら、人は成長するのだとしたら、膨らみしぼむものを、誰しもが感じます。目の前に立つ相手によって、感じる自己は違うでしょう。他人がいなければ自分は認識されないのです。
 悪は、そうしたところにいます。悪こそ自分を含めた他者を食べなければ。しかし、悪は人間と共に成長していきました。人の誕生は、常に、新しい意味を誕生させます。悪は人の中で繰り返されるならば、人の体を通して、成長していくのです。それはいつかまでは、単純な拡大だったのでしょう。社会のように肥大化していったのでしょう。しかし極限まで成長してしまったそれは、どうなるのでしょうか。もう膨張することさえ望まなくなったそれは、たくさんの人の願い事を叶え続けたそれは、同時にまとまり力を発揮するということを行わなくなりました。それは魔力を持っているのに、その魔力は減衰していきました。
「今、町ではね、人間の裏切りが生じているよ。溜まりに溜まった悪は、吐き出される時を待つ。人間、それに気づかなけりゃ、それに喰われてしまうのさ。悪を吐き出すのはそれじゃあない、人間だ。彼は、それから生まれたんだからね」
 イアリオの目の前で「悪」の姿ははっきりとしていました。だから、彼女たちは雲を掴むような得体の知れない存在を前にしているのではなく、しっかりと言葉を交わせました。
「あなたがそれを『この町に仕掛けた』と言ったわね。でも、仕掛けるほどのことだったかしら?私は自ずとそうなっていったような気がした」
 イアリオは呼吸が窮屈になっていく感じがしました。肺も、気管支も、皆狭まり細くなるような。
「オグは僕だ。君は必死で僕を調べていたねえ。そして、何か分かったんだろ?オルドピスまで行って。もしかしたら自分のオグに出会ったのかな?そいつはどこにでもいるからね」
 周りの闇は黒く翳りを見せていましたが、目の前の悪は、白く不透明で自分の存在を明確に露わにしていました。
「あなたの言った通りよ」
「イアリオ、僕は、この町を潰すと僕に誓ったんだ。分かるだろ?そうしなければならなかったんだ。僕たちは戻ろうとしている。
 三百年前、死んだ人々も、戻ろうとしている」
「ようく分かるわ」
 オグのテオルドは、にたりと笑いました。
「さあ、出発しよう。もう夜だ。だがこの世界は、ずっと夜だった。さあ行こう」
 彼に促されて、イアリオとレーゼは立ち上がりました。二人はよろよろとよろめき弱った足腰を感じました。これから行く場所は、どこでしょう。人間が作り出した悪魔によっていざなわれる場所は。そこは、より深く下った場所に違いありません。地底の底へ、ひょっとしたら、物理的にではない時間的にも、深い場所へ。歴史の最初へと。私たちは、どこから出発したでしょう。もし、ある神話のように、初めの二人の人間からなら、その二人が、犯した罪は最初のものとして、永劫に罰を受けるべきものだったのでしょうか。だったら、私たちは何のために生きているのでしょうか。その罰は誰に解消されるのでしょうか。
 罰は私たちのものならば。
 歩き易い地面はすぐに終わりました。彼らは厖大な空間を今も抱える暗き街を左手にして横穴に入っていきました。その道はまだ新しいものではなくクロウルダによって舗装された道で、いみじくも、人間の真理への近道でした。三人はずうっと下るうねり道を下りていきました。亡んだ街を背にして、天井は低くごつごつとした黒い岩に迫られる、一人だけが通れる幅の狭い通路を、ぺたぺたと進みました。何度も何度も大きく曲がり、見事に方角が判らなくなるほど様々な曲がり方をした道は、突然、その古さを脱し真新しく整備された道路に行き着きました。この道をイアリオたちは知りませんでした。あれだけ繰り返し地下に行き、完成を目指していった地図に、その道は記されませんでした。
 ひんやりとした空気が彼らを覆いました。水の気が近づき、辺りに湿気が満ち始めました。テオルドは足を止め、行く手の先に松明の火を掲げました。すると、そこにぼんやりと、白い影が浮かびました。
「ああ、あなたか」
 影から人間の姿が浮き上がりました。女性のようでした。かよわく儚げで、ずっとこの世を嘆いていた様子です。霊は頭を下げて、彼らの道を空けました。
「悪霊だよ。地下に棲む亡者さ。彼ら、最近この場所まで近づいてきているようだな」
 彼の言ったこの場所とは、オグの棲家に近い、奈落の底という意味です。イアリオはぞくりとしました。
「段々と我が身を取り戻してきたらしい。相乗効果というやつだな。北方山脈の幽霊、地下の亡霊、そしてオグの中に溜め込まれた無数の悪意…こうしたものが皆、一つの所を目指そうとしている。どこだか分かるかい?」
 彼女は黙っていました。予想はしていたことですが、霊たちまでも、オグの想いに釣られ出していることは少なからず、彼女に息を呑ませました。どれだけの数の人間の意識が、ここで動いているのでしょう。死者も、生者も、関係なく。
「知っているかい?北の山脈の上には、霊たちが帰るべき巨大な門があるんだ。その前には、無限の数の幽霊たちが、入りたいと願っている…すべての意識が皆オグと共に並ぶなら、彼らもまたそうならざるをえない。彼らも同じことを願っているんだよ!だから!オグに便乗しようとしているのさ。あの魔物の中にはたくさんの人間の過去が宿っているから。それが今役に立つ。最も振り返りたくない記憶が、実は一番、その人間の鍵を握っているのさ」

「着いたよ。ここが、オグの、あいつの棲家だ」
 彼は、二人を巨大な滝の前に招待しました。滝は、二人を眺め下ろすかのように、不気味に、ひっそりとしていました。轟々と轟いてはいるのですが、何だかその音が方々から聞こえてきていて、その滝は自ら音を出していないかのようだったのです。
 滝の前に深い暗がりがあります。覗き込んでも底が見えないほどです。イアリオは縁に足を掛け、下を覗きました。立ち昇る水煙が、彼女の両目を煽ぎました。生臭く、奇妙な湿り気があります。彼女は、ここがあの夢で見た、アラルが彼だったという絶望に打ちひしがれた場所に、ほど近いのではと思いました。
「棲家といっても、その一つだがね。あいつはどこにでもいる者だ。どこにもいないとも言える。そこにはいない。僕たちの中にあいつはいる」
 イアリオはこの空間がぴったりと閉じられている気がしました。純潔を守る女性のように、ぴったりと。
「閉ざされている」彼女は呟きました。「この向こうか。彼がいる場所は?」
 イアリオは彼がここにいるのにここにいないような言い方をしました。彼は分離していました。ここにいる彼は、向こうにいる彼と、同じものでした。向こうにいる彼は、彼女が夢の中で見た、あるいは現世で出会ったことのある、透明な、あるいは霧の怪物でした。
 では、ここにいるものは?彼はもう分離し始めていました。
「いいや。もう、ここにいる」
 盛大に水飛沫が上げられ、それは現れました。大変大きな鯉の姿をしていました。鯉が、滝を登り、彼らの前で身を翻したのです。
 イアリオは息を呑み、立ちすくみました。恐怖がそこにありました。彼女の罪が、悪が、まるごと誕生したのはいつでしょうか。いつのまにか、それは、誕生したはずです。けれど、いつか、それが、悪だったと罪だったと、気づく前に。鯉が、丸裸の男に変化しました。そうです、なんとピロットが、彼女の前に立っていたのです。
 テオルドの姿をしたオグは両手を挙げてそれを歓迎しました。「ピロット、会いたかった…!」彼は裸のピロットに腕を差し出してその中に抱き抱えました。するとお互いに一つになって、融け合って、身を滅ぼしました。二人はいなくなりました。水煙に紛れて、消えてしまったのです。彼女は歯をがちがちと鳴らせました。
「イアリオ…?」
 レーゼは彼女に寄り添いました。彼は、この辺りのあちこちに奇妙な土の塊があることに気がつきました。こんもり盛り上がり、まるで誰かが泥人形でも、捏ねていた跡であるかのようでした。魔法。そして螺旋。イアリオの肩は打ち震え、息も絶え絶えになり、おかしな声が漏れました。手はその顔面を覆っていました。
「おおお!」
 イアリオは呻きました。ぼろぼろと涙が零れました。彼女は真っ赤な目で滝の方を見ました。いつ頃からでしょうか、永遠に零れ落ち続ける滝の涙が、彼女に、声を掛けました。
「精算せよ。破壊せよ。そして、生きろ。お前は、怪物だ。いいかい?人は、魂の数珠つなぎだ」
 その台詞は、アラルが、サルバから聞いた死に際の一言でした。
 イアリオは絶叫し、そしてその場に気を失いました。

 彼女は男のひざの上で目を覚ましました。頼りない松明の火の明かりが目に飛び込み、優しい手の平が額を撫でるのを認めました。レーゼが、石像のようにじっとして、絶えぬ火の明かりを左手で持ち続けていました。
「ごめんね、レーゼ。どれくらい寝てた?」
 彼は目覚めたイアリオに気づき、薄い目を輝かせました。
「さあ…ここじゃ、月も見られないしね」
「そうか…」
 イアリオは今が最大に幸せな気がしました。彼女が愛する人間に、寝かされて、見守られているのです。でも、彼女がついさっき浴びた衝撃は、その幸福を、十分に退けるほど単純で旺盛でした。ピロットは…サルバだったのでしょうか。(いいえ、それは違いました。)数珠つなぎの霊魂が、今、彼女をすべてのあらゆる行為の意味付けを行いました。ここにいる不思議、自分が生きている不思議が、彼女を襲いました。
 前世などあるものでしょうか。ないのならば、どれほど楽でしょう。ここに来て彼女がすべてが分かるという感触を抱いたことも、幻と言えるならば。
「ねえ、イアリオ。ああ、その…ルイーズ。あんた、今俺のひざの上で寝ているね」
「そうね…?」
 二人は互いを見つめ合いました。レーゼの言わんとしたことが、すぐ、彼女にも分かりました。彼らは立場を逆転していました。
「恥ずかしいね、何だか。でも、もうちょっとこのままいさせて」
「いいけれど…」
「あのね、クリシュタ」   
「何?」
「私は…いけないことをしたの。ずっとずっと昔から、生まれる前から、私は悪を働いてきたの。そういう夢を見たわ。あの、オルドピスへ行ってから、世界中のオグを巡る旅の間に」
 彼女は言葉を続けました。
「それが私のものだって。今、気づいた。また、あいつに会って、そして、ピロットに化けたオグを見て。あいつは私、私の中の、悪だった。否定したかった。たかが、夢だろうって。でも、この私があの夢を見たのなら、きっと、そういう意味だったんだろうと思うの。
 今でも、あいつのことが好きだわ。ピロット、いいえ、アステマ…私の心が彼を見て跳ねるの。今でも、心がときめくの。始めの頃と同じように…私はね、罪を犯した。あいつを馬鹿にした。あいつのことをよく知らなかった。ああ…あいつはオグと同じだったんだ。だから私、オグをずっと追いかけていたんだ。人から分離した悪を…悪の塊を…あいつの中に私の中の寂しさを見つけた。私は、あいつにその寂しさを預けた。あいつをコントロールしてしまったんだ。私こそオグだったかもしれない。
 あいつは私からずっと逃れようとしていた気がする。あいつと名渡しをしたよ!でも、その日にあいつは、行方がわからなくなった。あいつは、洞窟で再会できたけれど、傍にはオグがいた。私はあいつの無事を祈っていた。その願いが届いたのだと思った。でも自分の目的は、すっかりオグを追うことだった。あいつは大切な仲間…なのにね。私、自分のことのようにあいつを思っていたんだわ。私はそうした悪を犯したの」
 レーゼは息を呑みその言葉を聴いていました。彼女の言っていることは、そのまま、彼のことでした。
「すべての悪の源は…そんなところにあるのかもしれない…」
 侮ること。イアリオは、またすうっと眠りに入っていきました。レーゼは、彼女の瞼の縁に付いた薄い水玉を指先ですくい取りました。
「俺は、まだ、この人が判らない。ハリトの事も、判っちゃいなかった。判ろうとしたか?いいや…その前に、身が持たなかったんだな。あああ」
 彼は、イアリオに顔を被せ、その両頬にキスをしました。じっとその寝顔を見ていると、勇気が湧いてきます。何にでも立ち向かえる気がします。彼はもう一度ハリトに会わなければならないことを、ここで確認しました。そして、この女性こそ彼の愛する人間なんだと、今、思い知りました。
 天井を仰げは、きっと星空が見えたでしょう。その場所の真上には穴が空いていました。日が昇れば差し込む日差しが見られました。そこは、アラルが透明なオグに食らわれてしまった場所でした。ここで、彼女は自分がオグであることを思い知ったのです。いつか自分が死ぬことを、最も望み難いことを望んだのです。

 現象は流転します。太陽が再びせり上がり、天井の真ん中を通り過ぎていきます。その大きな姿!
 淡い光が洞窟の天井から斜めに届きました。レーゼとイアリオは同時に目を覚ましました。レーゼの腕に彼女は抱かれていました。そこは周りに比べて多少盛り上がっていました。滝の目の前、青い明かりの降り注ぐ、何かの台座のようにも見えるその上に、そうして、二人は寝そべっていました。まるで原初のヒトのように。二人は光の真ん中にいたのです。もやも、薄明かりも混在しない、純潔の暗闇が岩壁に反射した明かりに照らされました。何もかも透明なように。
 ここにオグはいたのです。
 やがて光は青くなくなりました。その青色は、岩壁から突出したゴルデスクとフュージの混合物が通した陽光の色でした。二人は立ち上がりました。いつの間にか、二人は手を取り合っていました。生まれてくる前の、踊り場のようなここから出なければなりません。あるいは死後の、祭壇から。彼らのいた台座から、すぐにはずれると、光はもう彼らを照らさなくなりました。二人はまた天井を仰ぎました。鳥の鳴き声が、空いている穴の向こうの空から聞こえた気がします。
「レーゼ」   
「ん?」
「クリシュタ」
 言い直した名前には、彼女の、言い知れぬ熱っぽさが具わりました。
 ですから、その熱だけで、彼にはイアリオの気持ちが判りました。彼も、同じ気持ちでした。
「ルイーズ」
 出て行く道は、元来た道を選びませんでした。彼女は知っていました。別の道が、あのこの世の境目から流れてくる川に通じていることを。彼女の夢に出てきた方の、暗黒の洞穴を彼らは進みました。はじめは松明を持っていましたが、彼女はその火を消し、レーゼも灯を消火しました。次第に目が暗闇も見通せるようになったのです。灯りの届かない、ずっと先までも。いいえ、淡く、それとは分からないほどに、僅かな光がそこには差していました。新鮮な空気が鼻腔をくすぐり、二人は狭く空が挟まれた深い谷間に出ました。きらきらと輝き注ぐ川の水面が彼らを出迎えました。川は、アラルが来た時よりももっと狭くなったようで、草生う小石の地面が広く感じられました。二人は暗い上流の方を見つめました。澱みはないようでした。滞りなく、さらさらと川は流れています。レーゼはそちらに何かがいるような気がしました。
(何?老人?)
 向こうから、猿のような老人が浮き上がってくるような心地がします。
「どうしたの、レーゼ?」
「いや、何でも…」
 二人は手を離しました。下流へ渡っていくと、小さな島が見えました。アラルの夢の中では緑色の鮮やかな、色とりどりの花が咲く美しい島でした。しかし、その島はもうすぐ水面に沈んでしまいそうなほどに土は削られていて、草花よりも苔が一面に生い茂っていました。
(こんなに小さくなって!たかが、夢?それとも…)
 彼女はこの島に立ちました。レーゼも続きました。人間なら十人が立って精一杯の広さです。柔らかい地面に、倒れた看板が目に留まりました。看板は裏返しになっていました。『キャロセル。僕は逝くよ。あなたの元へ。』そう書いてありました。
「私の、前世だ」
 文字は、果てしなく遠く過去に書かれたものです。その文字は、現在では使われていないものでしたが、読めなくても、そうだと意味が分かりました。
 過去と、現在がつながります。そうして人は生きてきたのです。彼女は彼を向きました。愛する人間が、そこにいました。

 ギャアギャア

 遠くから何者かが騒ぎ立てる声がします。それは、川の上流から走ってきました。老いた猿が、青い石を持って、やって来ました。



 猿はそう言うと、イアリオの手に青い石を押し付け、あっという間に、岩山の向こうに消えました。
再生(イピリス)…」
 イアリオはそう呟きました。石は、彼女の手の上でみるみると表面を削られていき、滑らかになり、まるで、水がその上を流れるかのごとき、流線の光沢を放ちました。それは呪いの石でした。自分に掛けた、邪まな、思いの宝石でした。名を付ければ、それは悪となる。彼女の身体はきっとこれで準備が整ったのでしょう。未来を呪うことのない母親の準備が。レーゼは彼女の持つ青い円盤に、そっくり彼女が映っているように見えました。
 そして、次は自分の番だと思いました。
 二人の背後で、がらがらと激しく崩れる音がしました。オグの塒が、壊れたのです。もう彼は眠らなくても良いのでした。彼はもう、ここにいるのですから。


「この世の中に色々なものがあるのは、みんな夫々に、何等かの意味に於いて、あらねばならないからであらう。
 この世に存在するあらゆるもの、それはそのあるがまゝに於いて可とせられ、祝福せらる可き筈のものであらう。
 この世の中のありとあらゆるものが、夫々に自分としての形をもち、性質をもち、互に相関係してゆくと言ふ事は、何と言ふ大きい真実であらう。
 路傍の石ころは石ころとしての使命をもち、野の草は草としての使命をもつてゐる。」
(「くまさん」まど・みちお作 あとがきより)


 二人はお腹が空きました。彼らは馬の革からできた背嚢を背負っていましたが、その中から、オルドピス製のパンを取り出しました。形は町のものと一緒で四角ですが、縁を除いた色は淡い白色でした。町のパンは少し黄味がかっているのです。
「少し、塩気も混じるんだね。オルドピスのものは」
「そうね。ふるさとのが甘いわ」
 イアリオはにっこり笑いました。誰だって、食事の最中は笑顔になるものです。好きな人が傍にいれば。
 その笑顔を、レーゼは綺麗だと思いました。
「イアリオって本当に二十八?」
「本当よ?」
 そう言いながら、パンを齧って、くすくす笑いました。
「あなた、まだ私の名前、呼び慣れていないのね。ルイーズ!言わなくちゃ忘れるわよ」
「それは、あんたもだろ!まだ一回しか呼ばれたことないよ、俺だって。その…ルイーズ。俺は、ハリトを助けようと思っている」
「うん」
「何があっても俺は、あいつの傍を離れるわけにはいかなかった。あいつのことを、愛しているんだ」
 イアリオは彼の瞳の色を確かめました。それは、遥かに輝き、自分では到底掴めないような高さまで引き上げられている色に見えました。
「判っているわよ」
 そう彼女は言いました。嘘偽りなく言いました。でも、言葉上は嘘だと言えなくはない言い方でしたが。それでも力強く。
「イアリオはいいのか?ピロットさんのこと。あ、と…ルイーズは。まだ、決着付いていないんじゃないか?」
 レーゼは彼女の問題に水を向けました。未解決な事など、進行中の災いに際して限りなくあるものでした。
 彼女は、落ち着いていました。
「そうだね。でも、会うべき時には会うわ。こちらから、追いかけるべきではないと思うの。あいつは、勝手に私の前に現れた。オグの体を借りて、
 本当の私の気持ちを暴いた。だから、決着は、付けるわ」
 彼女は力強く言いました。二人は、ロンドたちの待つキャンプに、無事戻ることができました。レーゼは今彼女と離れるわけにはいきませんでした。彼は町でまだ自分がやるべきことを残しているのをはっきりと感じましたが、それはイアリオから離れて行うことではまったくないとも分かったのです。
 神話は歴史を再現します。歴史は人の感情を再現します。あらゆるものの中心にそれがあるなら、
 ここで、今何を話しても、感じても、歴史と神話はつくられます。
 自分が矮小な存在でなければ、決して歴史はつくられません。自分は芥子粒なのです。しかしそこから波は広がっていきます。静かに。静かに…。世界の中に自分がいるということ。
 それ以外に世界を知るすべはありません。ふたりはつがいになることを、あの地下で、原初の洞窟で、確かめ合いました。それこそ繰り返されてきた、神話や歴史の物語のように。いつか、少女が幸せな夢の枕を自分の吐息で濡らしている時、この町で、二人の少年は邂逅し、その一方は町から逃げていきました。今、一人の女性が人払いをさせて、一人、山裾の森の河原で水浴みをしていると、町では、ある母親が子供を取られ泣きました。またある母親はこの町と心中することを決意しました。まだテオルドの統制下にある警備隊の人間は、子供を捜しました。彼らは子供しか(そして必要のある成人しか)守りませんでした。彼らは評議会の決定で子供らを一時的に保護すると謳いましたが、機能しない議会の嘘をついてもまだある程度は母親たちに説得力がありました。
 夫を殺され、ただ二人の息子を守るだけになったテオラは、知恵足らずのオヅカに恐怖の念を覚えながらも家に居続けました。そこへ、警備隊の人間がやって来ました。オヅカは玄関に仁王立ちになって侵入を阻止しようとしました。
「な、何の用だ。オレは、そっちに用はないぞ」
「こちらに子供はおりませんか?我々は子供を預かりに来たのです」
 彼らは抑揚のない声で言いました。
「はい。町は今非常に危険な状態になっているので。争いは互いの主張をぶつけ合い、より高度な結論に達するために、必要な行為ですが、子供たちはまだそのようなことができません。これは、議会で決定されたのです」
 彼らは嘘をつきました。ですが、それはテオルドに吹き込まれたとはいえ、本当に考えていたことでした。対して、オヅカはそこまで考えていて、行動したのではありません。オヅカでなく、他の、この町で争い合う破目になった者たちも。繰り返されてきた神話の恐ろしさを人は分かりません。重ねられた、歴史の重厚さも、見事に自分と重ね合わせることを人間は不得手にしています。
 争い合うということは、何か。螺旋。人は
 それもわからずに繰り返します。
「そういうことなら、ほら、連れてけよ。ほら!」
 ただし、それをわからないというだけで、それが、築くものは感じています。本当は、誰しもがその中にいることを。そして、その中で繰り返し知ることは、思い知るということも。オヅカは体を開き、家の奥にいるテオラと子供らを隊員に見せつけました。彼はそう言いながらも自分がここを訪れた人間たち以上に物事を考えられないことを感じていました。彼は、自分が劣っていることを否応にもよく判っていたのです。それが、テオラをものにするのに邪魔になっているとは考えませんでした。自分が、劣っているということではなく、劣っていると

ことが。
 彼は、自分がどうしようもないものに突き動かされていることだけが、わかりました。それは、個人のものか、それとも集団的なものか、理解はできませんでした。それは彼だけではなく。皆が。
 テオルドもまた。
「奥さん。しばらく子供たちは町から離れた所へ集めます。他の子供たちはもう大分集められました。こちらに、お渡しください」
 テオラは瞬時にどうすれば自分の娘と息子が安全になれるかを頭の中に弾き出しました。彼女は、訪問してきたこの男たちに信頼を置けるかどうか、眼を覗き込みました。ですが、その眼に彼女が感じたかったぬくもりはないようでした。ぬくもりというよりは、オヅカとは正反対で、自分が優れているという深い自信は。
 あのラベルや、殺された夫に見てきた、彼女が頼ろうとした、自信は。彼女はずっと虚ろな意識を抱えていました。ラベルが死んでから?いいえ、あの地下の暗がりに入ってからです。それは彼女の中で不思議な怒りとなりましたが、それは、ピロットの感じたものと同じこの町に(そして自分たちに)対して向けられたものでした。ピロットは、この怒りを、捕えた評議会の人々に向かってぶつけましたが、彼女はいまだ向けられる方向を指定しあぐねていました。
 彼女は言いました。
「私はこの子たちを守らなければなりません。私も一緒に連れていってくださいますか?」
 それは嘘でした。彼女は守られるものなどないと考えていました。いつも彼女は受身でした。そうならざるをえませんでした。その本当のところを、彼女の母としての矜持が邪魔しました。
「子供たちと一緒にいることが優先なら、ここに居てください。無理強いは私たちからはしません」
 テオルドは皆まで判っていました。それは、この町に生きる人間が誰しも抱える問題だったからです。いくら子供たちを育てても、この町を守ることしか、生きられない定めの。それは吹き曝しの土壌に皆を放り込むようだったからです。いつか、その構造が暴かれるときは、耐えられない憂鬱が待ち構えている、禍々しい、呪いに掛かった。
 母親と(父親と)、子供たちを切り離さねばならない。
「待って!」
 即座に出て行こうとした隊員たちを、彼女は呼び止めました。隊員たちは、子供たちとその親族がまだ深くつながり合っている場合は、彼らを切り離さず、そっとしておくことにしていました。
「それは優先されることじゃないわ。ただ…ごめんなさい、あなたたちをどうも信用できなくて。残念だけど」
 隊員は微笑みました。それも仕方ない、といった風に。彼らは彼女が非常に傷つけることを言い放ったことに気がつきませんでした。テオラは子供たちにも頼ろうとしていました。
 しかし、彼女は彼らの微笑んだ様子を見て、ときめくような人間らしさを覚えました。
「いいわ。連れてって」

 女性は水浴みをしていました。母親はこのように子を任せ、疲労困憊の自分の体をいたわるように抱きました。そして、彼女もまたその女性と同じようなことを思いました。
(これで、やっとこの町と心中ができるわ。私には判るもの。あの暗闇がずっと上ってきて、この町を包んだんだ。変だもの。あの空間がずっと手付かずであったことなんて。死者が、ずっとあの地下に暗闇の中いただなんて!
 私たちはどれだけの哀しみを憐れみを、なおざりにしてきたのだろう。今、昔の人々が、私たちに復讐しているんだわ)
 彼女には墓が見えました。遠い夜空に浮かぶ、星たちに用意された墓石が…あれが祖先の霊魂だと聞いて、彼女には供養すべき幸福な死者たちを敬う気持ちがありましたが、もし星が無数にあるのなら、地下の死者たちにもふさわしい墓がきっとあるものだと思いました。
 彼女は自分たちが永く街を封じてきたことを後悔しました。現在の町の崩壊は必然的なものであると思いました。彼女はぼんやりとした表情のオヅカを見つめました。この男に宿った狂気にもその影響があったでしょう。彼女はひどく疲れていました。もう力が入らないくらいに。
(でも…こんなこと…ありえないことだよね…)
 テオラは気を失って床に倒れ込みました。隣で、オヅカはただまごまごするばかりでした。
 女性が河原で水飛沫を上げている間、四人の人間が処刑台に立たされていました。その中に、十五人の仲間だったハムザスとシダ=ハリトの姿があります。後ろ手に縄を縛られ、暗い目をしています。処刑台は町の郊外の、四方を壁に囲まれた所にあります。警備隊が彼らを取り巻いています。
「どうしてこんなことになっちまった」
 ハムザスは笑いました。もうこの世に生きることを諦めた者の笑いです。
「俺が、兄貴を羨んだからか?兄貴のようになれないとでも思ったからか?兄貴を馬鹿にしていた昔の自分の罰でも当たったか?俺は何にもなれなかった。なれなかったよぉ…」
 シダ=ハリトはうつむいたまま黙っています。彼らは何のために生きたのでしょうか。自分のため?誰かのため?そうではなく、ひとえに町のためでした。町のために犠牲になったのです。彼らを告発したのは彼らに暴力と殺人を任せた人々でした。彼らに彼らの代わりを担わせた者たちでした。オグは、人間の意識を唆して、必要以上の力を発揮してあげると言ったのです。彼らは殺人を犯しました。誰かの、英雄になるために!
 処刑は速やかに執行されて、四人の首は落とされました。そして、その咎を拭いきれない彼らの霊が、オグのように、白き亡霊たちのように、現れ、空中に漂いました。その目を暗く、黒く、青く広げ。来たるべき時の到来を待ち。ぼこぼこと様々な頭の出た黒い塊が、そこら中を飛び回り、辺りを見回しています。悪霊が、そうでない者が、もう、町の隅々まで広がっていました。
 女は水飛沫を上げました。家の暗がりの中で、テオルドが、呟きました。
「みんな、誰かに捧げる血なんだ」
 彼は伴侶を抱いていました。二人の子供が、彼らの周りで寝ています。
「オグはいる。ここに。それは美しい。人間が求めたものだから。人間が生んだものだからね。どうしようもないのさ。これが、神話だ」

 これから母親になろうとする女の体から飛沫が飛び散りました。女体は何を産むでしょうか。何でも産むでしょう。体を清めるその女性の、美を、大地だけが見ていました。
(ああ、小鳥が飛んでいる。綺麗だな…でも、見たことのない鳥だな)
 それはルリコウチョウといいました。山脈を越えた北の森でしか見られない、青い翼に金色の尾をした鳥です。彼は犠牲になり、テイシコウという花に食べられることによって、人に有用な薬を精製します。その物語をまだ彼女は知りませんでした。
 北の森ではヒマバクが森人に世話されていました。ヒマバクは、その長たるヨグが選定をした者を村まで連れてくるのですが、その年は、彼自身が来ました。つまり、彼が森人の世話になり、自分が、蟻塚の前で神の見計らう運命を体現するのです。森人たちに世話された後のヒマバクは、蟻たちに食べられてしまうと、神も想像のつかないことが起きるとされていました。森人たちは緊張していました。もし、神獣の息子たるヨグが、万一にも食べられてしまうようなことがあれば…彼らには、神以上の者でも想像がつかない、とてつもないことが起こるような気がしました。
 しかし、世界は前進します。何事があっても。そうして世界は前進してきたのに、人の考えは、なかなかそこに及びませんでした。
 イアリオの前に姿を見せたルリコウチョウは、彼女の傍の地面に降りてきました。そして、草むらを踏みしめた彼女の足元で、餌をついばみました。イアリオには、この鳥が何かを伝えに来たものだと思われました。そして、どきどきとしました。急に、彼女は子供が欲しくなりました。誰の?もう、決まっています。彼女は空を見上げました。その向こう側の星空に呼び掛けました。
(私はどうしたらいい?)
 決心がつかないのではありません。こうして色々なことを経験した自分が、色々なことを持て余している気がしたのです。彼女は体の底のどこかから、力が溢れてくるのを感じました。どきどきとしていました。そして北の山脈をじっと見つめました。
 そこへ行かねばならない自分を感じました。
(どうして?ああ…)
 あそこから天女たちはやって来たのです。自分に予言を渡したくて。
 焦燥は今最も巨大になりました。不安もまたどうしようもなく、膨れ上がりましたが、それは期待と連れ添って歩く怪物のようでした。来たるべき未来の予感とは、いつもそうです。何かが明日待っているのです。
 輪廻とは何か。
 彼女は川から上がり、布で水気を拭き取りました。そして、肌着を付けて、上着を被って、仕度を整え、レーゼとロンドたちの待つ所へ帰っていきました。そのイアリオの姿を見るやいなや、ロンドなどはぽうっと惚けました。彼女の内側にある心臓の鼓動が、それが、速く鳴る音が、波のように彼らに伝わっていきました。
「イアリオ…あんた、何かしたか?あ、いいや…何でもない…」
 その意味をどことなくロンドは分かりました。そして、彼だけでなく世界中がそれを、待ち望んでいたことを知りました。彼は、こうした女性を何人も見ています。古くからのたゆまない美と、神とつながる神秘さを兼ねた、女という存在の奥深さを表すのは、最初の押し寄せる潮の時か、あるいは、この時かもしれません。ロンドは、今まで彼が愛した女性をすべて目の前に見る気がしました。恋人も、妹も、母親も、従姉妹も、伯母も祖母も、すべて。それ以上に、今のイアリオは神々しく、触れてはならない者のようでした。深い眼差し、ちりちりとほどけた髪、醸される女性らしさと深遠なる自信が、世界をひれ伏せさせるほどの脅威と圧力を持っていました。女の子宮は世界を産み、世界はそれにかしずくのです。
 ロンドやまわりの者でさえこんな状態なら、彼女とつがいとなるべき、彼は一体どうだったでしょう。いいえ、力強く思いました。思わされました。
 この人を、愛している。
 ところが、彼のそばでロンドが急に泣き出したので、彼がその感情により浸りたい気分は壊されました。こんな威丈夫な男がおいおいと泣くのですから、その猛烈なむせびが誰をも驚かせました。
「ああ、どうしただろう、俺は?何だか心が溶けてゆくような感じだ。あんた、まるで女の中の女だ。稲妻よ、轟け!雷鳴よ、来たれ!我が豊作は彼らにありて、あとは野山に雨くだる。…女のしとどに子が宿る。稲の殻に身が宿る。あとは豊作、万々歳!
 …俺の、ふるさとの歌だ。多産の祈願は豊年の祈願でもある。子が宿るということは、天と地が一つになって融けるということだ。世界中が、女を孕ます!だから女は偉大だ。
 俺、子供になったみたいだ。あんたのせいだからな」
 彼は涙を拭い、彼女とつがいとなるべき人の方を見ました。
「男には分かるものじゃないが、あんたなら今感じるんじゃないか?世界中が彼女に欲求しているなら、その彼女が何を欲しているか!」
 レーゼは黙っていましたが、彼に頷きを返しました。でも、まだ、半信半疑でした。彼はあれだけハリトと交わったのです。それでも子供はできませんでした。子供がもうけるものではなくて授かられるものであるならば、彼にその資格があるかどうか、まだ分かりませんでした。
 イアリオにその準備ができたとしても。でも、二人は何だかロンドが彼らの仲人になったようで、お互い顔を見合わせて、気分がほどけました。

   なんだろう、と見れば、それは子ども。私の子ども。
   なれば、この手はその子を抱く?いとおしく、切なく。
   愛情はどこの陰にある?ここに、この場所に。
   女の一番の秘密の部分に。
   まとめれば、すっきりとするだろう。
   しかし、まどろみの中の混沌もまた、人だ。
   人は何によりけり、生きているか。
   可憐な花のよに、むつかしい。…

 ゆっくりと日が暮れていきます。春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も、半ばに達する時節だというのに、この日の太陽は、名残惜しそうに地平線の彼方へと消えてゆきました。


 翌朝、イアリオはロンドと並び立って北の山脈を見上げました。空は晴れ渡り、無敵の色が青々と天に茂ります。イアリオは大きく息を吸いました。
「あの山が、死霊たちの道だって。そこから下って、私のいたふるさとへ月の無い夜にやって来るの。私は彼らに会って、予言を聞いたわ。あの町が、破滅することを…私、どうにもその意味が知りたくて、あの町の地下に潜ったり、オグを調べたりしていたの。よく、あんな所を一人で突っ切ろうと思ったもんだ…でも、こうしてここに来たわね。無事に」
 彼女は巣立とうとする鳥のようでした。どこにも自由に飛び立てるほどの、膂力と意志を感じさせました。町が彼女に宿ったのです。
「ありがとう、ロンド。ここまで付き合ってくれて。感謝しているわ。そうね、願わくば…あなたという男を、もうちょっと知りたいとも思うけれど」
 彼女はロンドの厚い胸に顔を寄せました。ロンドはびくりとしました。離そうにも離せず、彼女に頭が翻弄されます。
「少しだけ…」
「やめろよ。もう、あんたにはパートナーが、いるだろ?」
「そうだけど…あなたのことが好きってことも、本当よ?」
「それは判っているから。だけど、俺が空しくなるだけだろ!」
「ご免なさい。でも、ロンドの胸って居心地いいのよ。まるでお父さんの胸みたいでね!」
「やめてくれって!」
 ロンドは大声で言いました。その後、彼は大いに笑いました。
「そうか、親父か!そっちの関係の方がふさわしいな。そんなに歳は離れていないはずだが」
「あなたは、父親なのよ。どことなあく、ね。立派な父親。あなたはこれから、立派なことをする。うんと素敵になるわ。これからね!」
 それは予言でした。彼は彼女の言う通りになるだろうと思いました。
 ロンドは胸元にある彼女の肩を優しく抱きました。きっと、父親が母親になる、娘を敬おうとする時、抱くように。
「これから、どうする?」
 彼は訊きました。すると、娘のような彼女が向き直り、日のように輝いて答えました。
「見守って。私は、レーゼとあの山に登るわ。上から一度、町を見下ろしてみたいというのもあるけど、できれば…天女たちに会いたいわ。私が、あの墓の丘で会った、先祖の霊たちに。きっと、今もあの町を見下ろしているでしょうから。彼らは、自分たちが私たちと一蓮托生だと言っていた。
 私の声に、応えないはずがないと思うの。彼らは…多くの思いを遺して未だ死に切れていなかった、まるで、地下の亡者と一緒だったように思う…その彼らに、
 会わなければ」
 イアリオは大きく息を吸い込み、豊かな胸を膨らまして、わああと、草原の風のような声を山々に向かって出しました。
「行こう」
 るるるるる。るるるるる。風が、小枝をそよがせて、そんな音を出しています。まるで、猫のくぐもった愛らしい鳴き声のような、小象が、母親に甘えて頭を擦りつけているのを見るような。風は二人を祝福していました。イアリオと、レーゼを。いいえ、もしかしたら…彼らの子供が、今、風になって彼らを撫でているのかもしれません。将来生まれてくる子が。
 生まれた時に、その子が、そうされるように。
 子どもが親を祝福するのです。親になって、おめでとう!と。
 遠い昔からあった奇蹟は、今も受け継がれています。
 善も悪も、そこから生まれたのではありません。しかし、善と悪は、そこから生まれたように思う。
 色んな人間が、この世の中にはいます。
 二人は世界の礎に向かいました。彼らのオグを連れて。この地の深い水底にもし罪の源が、その水源があるのだとすれば、地の果ての苦しみを感ずるあの世の太母が今も罪を垂れ流しているとすれば、その上は…、門は開いているのです。雨はたくさんの土地を経巡り、いつか雲に昇った水滴です。その一粒一粒が霧になり、時に、目の前を曇らすほどになっても。
 門は開かれていました。門は、閉じていました。それは開かれて閉じていました。人のように。人は、自分を、開いたり閉じたりします。でも、それは常に閉じているのでしょうか。それとも開いているのでしょうか。子供の風が撫でていました。死も、生と同じほど祝福される。献花しなければなりません。最も受け入れ難いものを、人は、常に受け入れてきたから。
 イアリオとレーゼは、山腹に広がる湖の畔までやって来ました。対岸に、狩人たちの住まいが見えます。ここまで、彼らは原住民たちと鉢合うことなく、急な斜面を登ってきました。もう夕方です。とっぷりと陽が暮れかける夕闇の訪れのさなか、村の最後の火が消えました。
 イアリオは湖の上にぼんやりと靄がかかっているのを見ました。彼女たちの先祖が、二人を待っていました。
「おかえり」
 そう靄は言いました。
「…ただいま」
 それはたくさんのオグと一緒だったかもしれません。彼女の前に現れた、テオルドの皮を被った彼女の影のように。それは人間の一部でした。ずっと人間から離れていた。
 それがおかえりと言い、彼女は、ただいまと言いました。
 靄は、目に眩しく光り始めました。白い光たちは手を伸ばしました。彼女を囲おうとしたのです。
「いらないわ」
 イアリオはそれをはっきりと嫌いました。白い光はもう、彼女から、生まれていたからです。
「おかえり」
「ただいま」
 両者は挨拶を繰り返しました。白光はびくびくと震え出しました。彼らがあの世へ行けないのは、彼らの門が閉じられているからでした。門は、人間が造り上げていました。人工の門が、そこに、人間を導こうとして築かれて。
 そこには門番はいるのでしょうか。その門番が、現れようとしていました。
「おかえり」
 レーゼが一歩前へ進み出ました。彼は光たちの中に彼自身と思われるものを見つけました。光に紛れていたのは、彼の過去世が置き去りにしたものですが、彼はそれを分かったのです。すると、上方に白光たちの輝きが伸びて、そこにレーゼが感じた彼と同じものを掲げました。そして二人の前の地面にそれを置きました。塊となっているその光は自ら強く発光し出して、その内側に二人の人間の影をちらちらとのぞかせました。その一方は、二人も見知ったヴォーゼらしく、もう一人の方も、女性の影でした。やがて光は収まり、美しいヴォーゼが久し振りに彼らの前に姿を現し、もう一人も彼らに対し左を向きながら背をぴんと伸ばし姿勢良く立つ姿を露わにしました。目をじっと細め、額は丸く、髪の毛を後ろに豊かに伸ばしたもう一人の女性は、ヴォーゼ以上に美しくかつ頗る妖艶でした。
(まるで私…いいえ、違うわ)
 イアリオはそう思いました。尤も、ここで衝撃を受けたのはレーゼでした。レーゼは今ヴォーゼが分かたれた自分の姿だということを認めたのです。そしてもう一人、細目の女性の方も…。(あれっ)彼は頭と爪先が反転した心地になりました。彼はハリトこそ自分のオグだと考えていました。もう一人の自分、心の中の悪意を、共有し合う相手だと…彼の目の前にはかつての彼がいます。彼女は彼のことをよく知り、また彼も彼女をよく知っているようでした。彼らの抱いた苦しみや哀しみは、まったく同じものだったからです。恋人に裏切られたこと、本当に好きな人の想いに引き摺られたことは、その心をかき乱し、その心をまったくその体に居座らせました。だから、彼らはやっと一つの魂を持っていたと確認したのです。それまで、三者ともそれが分からなかったのです。彼らは己が肉体を持つ存在だと感じたことがなかったのです。だからハリトと臨んだ交わりも子を宿さなかったのです。
 彼らは、自分が宿命を持って生まれてきたことに、今まで気づきませんでした。どうして子供は生まれてくるのか。それが最大の自己肯定だと、なぜ、どうして
 いつまでも人は解らないのか。自分から分かれて、出ていったものが、子として返ってくるのです。それが
 おめでとう、と祝福するのは、その親なのに。彼らの二つの目は、等しく同じ女性に注がれました。彼と、彼女たちは満足しました。彼らから出ていったものが、その女性の出すものと
 融合するからです。彼らは肉体を持つ存在でした。彼らはその肉体から離れた霊魂ばかりが恨みを募らせる存在ではありませんでした。今まではそうであっても。
 ところが人は自分の子供に絶望してきました。言うことの聞かない子供らは彼らの築いた世界を壊し続けたのです。
 ところがそこに人はその子供らのまた子供として転生してきました。彼らは上を見上げなければなりませんでした。自分の祖先が、自分に、何を残したか。人は
 上を見上げませんでした。自分のことで手一杯でした。祖先はそこに居残りました。ずっと変わらぬ想いを持って。そして子孫に働きかけ続けました。その
 思念が繰り返し誕生してくる我々に解るのは、我々が、かつて生きていたと知ることによって。我々が、自分自身を、判るまで。
 我々が、自分の子供を、産んできたと分かるまで。
「私たちは、オグを知った」
 イアリオが口を開きました。
「一緒に滅びるの。もう分かったわ。これが運命。町ごとの、私たちごとの、さだめだと分かった。人は生きるためにこれを行うのね。滅びは、再びの生の始まり。町は、自らそれを決めたから」
 彼女は世界を否定していませんでした。滅びてきた世界を、肯定していました。
「天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいない。それは、遠い昔は同じ事。人は、怯え、苦しむと、停滞を望む。不変を願う。変わりつつあることから、意識を遠ざけ、自らの言葉で、不変を括る。それが魔術、悪のわざだ。隣人と共に生きる者の手段ではない。永遠の約束とやらを、自分だけに望む言葉だ」
 ヴォーゼは厳かにもそう言いました。すると、隣に立つもう一人の天女が、二人を向いて、微笑みました。その顔面に、イアリオもレーゼもぞくりとしました。まるで命の不変そのものの顔だったからです。その左目は喩えようもなく美しかったのですが、右目は、異様に大きく、カシャカシャと、不自然な音を立てていました。そして、微笑んだというのは左半分の表情であって、右半分は蛙の様に無表情です。髪も左側だけが背になびくほど長く、右側はすべて剃られ、その代わりに短い針が幾本も直接横側から刺されていました。唇もその右側は木に彫られた彫刻のように口を模り、ピアスが付けられていました。どうしてもその口が開く時、左側は引きつりました。
「命の否定は、命の肯定」
 その凄まじい顔面が左側だけの口を開けて甲高い声を出しました。
「命はつなぎ止められる」
 異常な顔の女は、左右非対称の唇の右の方も開けて、前にかがみ、口から白いものをぼとぼとと吐き出しました。白いものは、地面の上をもぞもぞと這いました。イアリオとレーゼはそれから目を逸らしました。何かとてつもなく嫌な忌まわしいものを見た気がしたのです。彼女の口から出たものは、よく見ればそれぞれが人の顔を持っていました。その顔立ちは一人一人が苦悶し、果てしない寂しさに耐えるような、切なすぎて見ていられない歪んだ表情でした。
「いいえ、そんなことはなく、断絶、絶望、全てがある。この世の中は!人の命など捨てるほどある。生まれも死も、皆汚い、醜いもの。他者に見せてはならないもの」
 彼女はおぞましい大きさの右目を二人に注ぎました。
「お前たち、子どもが欲しいか」

 太古、その人工の門はありませんでした。ただ、魂の流れだけがありました。生まれ来る、そして、死に行く、生物の霊魂の流れだけがありました。
 流れとは、その姿をさまざまに変化させるものです。澱んだり、走ったり、潰されたり、猛々しくなったりするものです。当然、人の霊魂の流れもそうなりました。そして、その流れは、彼らの死後も生前も継続しました。肉体の中にあっても、ほどけてそこから昇っても、個は一個の存在でありながら、また流麗なる流線を描きました。その流線は様々な流れと合流したり、離れたりしました。流れ同士がぶつかり合い、お互いにその速度を高めたり、停滞させたりしました。流れは物質でもありました。砕こうとしたり、あるいは結びついたり、分かれようとしたりもしました。今よりもその流れに触れることの多かった時代、魔法の時代、人は、この流れを支配しようと企みました。なぜならその流れを河と見て大河と見て、あらゆる方向に自在に操れるならば、思い通りにすべてが実現できるからでした。
 彼らは関所をつくるところから始めました。流れを堰き止め、管理することで、より流れの性質が分かり、いくらかそれを自在にできたからです。冒涜が始まりました。
 町の北の山脈にある、人工の門は、古い時代に建てられたものでした。それから長い時を経て、再度その門を見上げたら、その門は、人間の霊魂の流れを邪魔するかつての機能の通りには見えず、世界中の秘密をあずかる、是非開けなければならない魔法の門として見えたのです。人は、その門を使い、世界の魂の流動を押さえるすべをその時に忘れていました。魔法使いたちは、その門のそばに見張りを立てました。そして、門は何度か開かれていました。…そのような門の性質上、それが開く時、閉められる時、余剰の力が周りに溢れました。開けるにも、閉めるにも、多大な魔力が必要になったのです。
 見張りは、その魔力に()てられました。門は、世界を支配しようとして建てられたものです。それを開けるにも、閉めるにも、欲された魔力はいのちの融合を鏡面に反射した、人の集められる魔力に基づくものでなければなりませんでした。たくさんの命、多くの感情、夥しく生まれ来る新しい何某かたちを、そこに鍵として嵌め込まなくてはなりませんでした。門は、流れを堰き止めるもの、つまり、常に新しく誕生するものを、押し留める否の呪いが掛けられていたためでした。生命の誕生と、それを否とする強烈な人工の防壁とが、ぶつかり合う哀しき境界が、設けられていたのです。流れとは何か。それは、常に新しく生まれ来る誕生の流線にほかならず、人は、そこに栓をしていたのです。

 その栓が頭上にありました。イアリオは、この左右(たが)う顔をした女性が、オグとは似て非なる生き物だと思いました。彼があらゆる悪意を身に帯びたなら、彼女は、あらゆる人間の記憶を身に通し、別のものに生まれ変わらせていたのです。そのからだにろ過した思い出は、この世の中につなぎとめられてしまった醜い相貌を数限りなく生誕させていたのです。
「すればいい。愛などは無意味!只行為だけがそれを寄越す。血の行為、殺伐とした、性の行いの意味は。別々の存在が、そこから別になる生き物を吐き出すということだから。その仕草に何ら循環などなく、あるのは断絶、繰り返しの言葉のみだ」
 彼女は言い放ち、背後にいる白霊たちの光を強めました。
「いかなるいのちの物語も頽廃が宿る。断絶は絶望、全て、その澱みに行き着く」
 門番は機械のように言いました。ですが、イアリオにはこの門番の言うことがよく理解できました。
「私が欲しいのは、ただの、ことわざ。素敵な物語なの。甘いストーリーでいいわ」
 性も生命も否定してきた、自分の過去世を窺ってきたから。
「あなたの言うことが、なぜかよく分かるわ。それも、人間の一つの姿ね。でもそうでない意味もあるわ。オグは、そう知った。悪である以前に、自分は人なんだって。
 人は生きるために生まれるから、それは、何者も否定はできない」
「否定の否定は肯定なり。だがそれは、否定をも含む。否定を肯定するのだ。そうすれば目覚める。全てが、偽りと不安に満ちているということが」
 両者は言い合いました。
「それは違うと思う。母親は、裸で子供を慈しむから」
「裸で子供を殴り倒す」
「あなたを、愛しているって言うじゃない」
「言葉は無意味!ただのいたずら」
「じゃあなぜ愛は人を孕ますの?」
「愛は人を嘲る」
「人の笑顔から、子供は産まれるわ」
「微笑みから人間は滅びる」
「どうして」
 イアリオは両方の言葉を遮りました。
「私たちのご先祖様。どうしてそんなに悲しいの?足りないほどに、悲しみが溢れているの?」
 白い光たちは光芒を弱めました。まるで、自分が言いたいことを言い尽くしたあとのように。
「この私こそ、門の番人」
 異様な相貌の婦人も満足した表情をしました。彼女が吐き出した白いものたちが、白い花となって、地面に幻を咲かせました。
「この大門は人間の記憶を閉ざしている。つまり、人の解脱を求めている。あらゆる滅び、執着、この世への想い残したまま死に切れぬ人間たちをここにつなぎとめている。人とは前世の連なり、いくら生まれ変わろうと、常に前に進むのは時間。…ここは循環する流れの手前」
 ヴォーゼが、二人に近づいてきました。夢と紛うことがないアラルの恋人が、死に切れぬ思いを持って、イアリオに寄りかかりました。すると、その体は再び光芒を強めました。
 門番が空を指差しました。すると、うっすらと、空が分かれ、何やら黒々とした赤い門が宙に浮かび上がりました。
「漂流する、意識たちよ!とわに、幾世にも渡ってつつがなくこの世の苦しみを過ごしてきた輩よ!澱み、還ろうとしているな。巨大な嵐と共に、我が門を打ち破らんとしている。いいだろう。我が門を開こう。あのレトラス(循環機構)の偉大な輪廻の潮流に呑まれるために、お前たちは、自ら自身に罰を与えた。狂おしい霊世を自らに課した。
 奇跡のわざと共に、お前たちは還るだろう。子を宿す。その、生命の循環。その、この門のことわりを模せよ。お前たち自身の破瓜が、それ自身を導くのだから」
 それは危険な呪文でした。門は、生命の営みを模してこそ操れる魔法の鍵を掛けられていました。
 しかし、それは留まる霊たちの望みでもありました。夥しい子種のその動きを模すのは彼らです。しかしイアリオはまるで過去を覗き込んでいるようでした。星空を見上げる望遠鏡を覗き込むように。その中に見える光の束は、過去の、呟きです。途方もなく昔に放たれた、今見ることのできる、過去の輝き。使う道具の性能がより高ければ、そこはもっと明るく、神々しいほどになる。
「循環しているなら」
 イアリオは鋭く右顔が木偶の女を見返しました。
「世界は循環しているなら、この門は、必要があって、そこに佇むの?」
 彼女は疑問を持ちました。わざわざそこに浮かぶ中空の門は、開けられる必要のあるものなのか。それともその門があるからどうしても門を越えようとする者たちがいるのではないかと。
「二つは、一つ」
 左右で顔の違う女が叫びました。イアリオは、異なる二人の人間に挟まれていました。男性と、女性と。一人は、今、現世において彼女を慕う者と、もう一人は、以前、過去世において彼女を慕った者とに。レーゼはヴォーゼがまるで自分のように感じていましたが、今の自分が、どうやら彼女の来世らしいと理解できました。彼は白霊たちの正体を何も知っていませんでしたが、あのオグの中に、自分の過去世もあったことを、その魔物との出会いを経て、またイアリオとの冒険を通して、
 ハリトの裏切りを体験して
 イアリオほどではないにしても、それが感じられるほど鍛えられたのです。彼の背負った課題は、その過去世に生まれたものも多分にありました。いいえ、目の前に見る課題が、その過去世を現すこととなったのです。彼は、ヴォーゼがまるで自分から生まれた者のように思えました。真実は逆なのですが!左右違う女が言ったように、常に前に進むのは時間でした。過去は現在から誕生しているようにも見えるのです。いいえ、
 過去こそ、今、誕生しているものなのです。
「破滅こそ行われど、決してそれは奪われることではない。二つが一つにつながること、その彼岸に、すべてある。死者たちの世界がある。その交渉は儀式なのだ。またこの世に生まれる必要のある魂を、この世界に呼ぶために。死と生が宿る。命は必然的に死を孕む」
 死と生を顔に宿す女がそううたいました。そして、二人の見えないところまで引き下がりました。譲ったのです。二人がここで、結合するために。門を開ける儀式を二人がするために。
「おい」
 レーゼが、イアリオにもたれかかる彼の分身に声を掛けました。ヴォーゼはすっかりイアリオの魂に寄りかかり、離れませんでした。イアリオは、いつから存在していたか知れない死者の門番の声を真っ向から受け止めて、心臓をばくばくとさせていました。しかしレーゼは、自分があの門番でもあると感じていました。その通りの霊の軌道は、本人しか分からない自覚をもって本人をもまた混乱に突き落としていましたが、彼は、彼女の後を追うようにして連なる霊魂の真実を素直に受け入れました。後を追う者は、先を行く者の真似をします。
「俺と一つになれ」
 かつてヴォーゼであった、自分の記憶がレーゼに蘇りました。生きていた頃も、死んでいた頃も。彼女は追いかけていました。追いかける相手はその恋人だったというわけではありません。ですが、その恋人の中に、彼女が追いかけるものがありました。
 彼が追いかけるものがありました。魂の連なり。ああ、とレーゼは思いました。覚悟ができたといえるでしょう。自分が一人でありながら、自分は一人ではないことを、一人で生まれてきた顔をしていながら、二人が望まなければ誕生はなかったことを、繰り返し、人間は経験してきたというのに、たやすくそれを断絶させたのは、自分であることを。人は知るために生まれてきた。
 門などないと、彼は思いました。イアリオのように。イアリオはレーゼから不思議な光が立ち昇るのを見ました。青い光でした。崩壊したオグの棲家の近くで、老人顔の猿から返された円盤のような。ヴォーゼは彼の中に溶けていきました。すると、彼の体がかっと熱くなり、同時に震えが止まらなくなりました。
「レーゼ」
 追いかけてきたものに追いついて、はじめて彼は肉体を手にしました。その肉体はそれまで不感のままでいたあらゆる事象に開いていました。そのからだこそ猛烈な不安を抱くもの、すべてを否定したく思うものでした。そう思いながら、それを抱きながら、生を持つ不思議。生と死を孕む不思議さを、
 彼は肯定したくなりました。
 そのような彼を見て、イアリオはどうしたらいいか分かりました。今がその時でした。
「ここに来て」
 彼女は彼を呼びました。彼は彼女の懐へ潜りました。彼女は彼の額に口を付けて、愛しました。彼は泣き叫びそうでした。彼女が先に泣き叫んでいました。彼は強く抱き締めました。その力に身を預けて、彼女は草の上に倒れました。彼女は空を見ました。満月が煌々と夜の空を照らしています。何も無い場所に、何か居てよいことを、思い知らせるように。月こそ消え、欠けて、膨れて、雲に見えなくなり、眩しいくらいに光ります。それは、誕生と死滅を繰り返しています。
 月は、潮の満ち干きを、生き物の子宮に(らん)が下りてくることを、促します。なぜ、私はここにいるのか!月は、闇夜に浮かび、月を見上げぬ者たちにも、等しく光を寄越します。それ自身が変わりながら、それ自身が。
 イアリオは歯軋りして耐えました。彼の愛撫は、この世のものがすべて集ってする愛撫のようでした。嬉しさが体の奥の隅々にまで広がっていくようでした。生まれゆく喜びが。
「待って。服を着たまますることじゃないでしょ。もう、何も纏わなくていいから」
 …先ほどまでいた白霊たちは遠い星空に遠ざかり、しんとして静かな夜が訪れていました。秋の夜、賑やかなはずの虫たちも、恋の熱を上げるというよりは、落ち着いて愛を語らうようなしっとりとした歌声を奏でていました。イアリオは服を脱ぎ、一糸纏わぬ姿をレーゼにさらけ出しました。それは、虫たちの鳴き声のように、愛を語りました。
「私、こうなることを夢見ていたんだわ。でも…いつからが夢で、いつまでがそれに気づかなかったんだろう。まるで、今初めて生じたような気持ちになっている。こうなることが…いいことなのか、わるいことなのかも分からない。でも、
 あなたを愛しているわ」
 イアリオの目は何もかも慈しむように輝いていました。直視できない慈愛が、そこに留まり続けていました。
「…少なくとも」
 レーゼはたまらず目を細め、彼にとってこの世の中の最上の美貌を、泣きそうな表情で見上げました。
「俺もだ。お互い欠けた人間だ。欠けた者同士、憎しみ合うこともあったわけだよ。だから、いいじゃないか。俺はルイーズ、あなたのことが好きだ」
 レーゼは彼の言葉で言いました。その記憶にはあのヴォーゼだった頃が蘇っています。いいえ、それ以前からの、数珠繋ぎとなった連綿たる魂の遍歴のいくつかも。あの門番だった頃も。その記憶が、かつて彼であったものが、その口を通して、彼女に言ったのではありません。今の彼が、そう理解して、言ったのです。
 彼はイアリオの背後に回り、後ろから彼女を抱き締めました。腕に力が籠もり、どうしても熱を上げました。彼は何かを考えようとしました。今、気づくべきことが、無数にあったからです。しかし、彼は今は何も考えなくていいとわかりました。彼女が振り返り、喜ばしく、目を細めて、くちづけを求めてきたからです。
 二人は溶けて、一つにつながりました。子供たちの霊が彼らの上を回っていました。これから生まれ来る彼らの子供だけがいるのではないようでした。たくさんの霊が、二人の上で、子供に還っていたのです。たくさんの彼らが、祝福しました。
 儀式は成就しました。



 そして二人に近づく者たちがいました。青い衣を着た者たちでした。
「こりゃあ、結婚か。罪と罰の結婚か。」
 その中の一番の年配者が、儀式の祝詞を上げています。
「四本の支柱が、天へと渡す架け橋となる。行き先はどこか。大門じゃ。大門の奥に答えがある。
 霧は、その時に晴れようぞ」
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