第22話 テオルドの計画

文字数 21,028文字

 人間は社会を持っています。その社会から、彼らは箱を預かります。知識の箱、常識の箱です。その中にはこれまでの歴史が、怯えるほど詰まっています。しかし、人は箱の外郭を見て、その使い方を知るも、どんなものが入っているのか、始めは想像することしかできません。何がその箱を形作っているか。どんなものが本当は預けられたのか。
 けれどその箱もまた、人間が作ったものなのです。もしそれが、箱自体が変化を求めたら、人間はどうなるでしょう。元々それは人間のものなのですから、箱が変わろうとすれば、人間も変わろうとするのです。ただし、内なる力が促しているようにではなく、外側から働き掛けられる気がして。また新しい箱が出来上がるのでしょう。でも、きっとまた、それは変化するのでしょう。
 何度も、何度も。まるで、エアロスとイピリスが繰り返しその子供を壊しているように。繰り返し、繰り返し。その箱こそ愛すべきものかもしれません。なぜなら、それは人間がこの世に産み落としたものですから。
 しかし人間は、箱の中に取り込まれて、自分が消えてしまいそうな焦燥を感じる時があります。人の視線を、自分に感じなくて、生まれているのに、生まれていないような、奇妙な心地と鋭い不安がよぎることがあります。ピロットは地下都市の暗黒の空間をこの巨大な箱のように思いました。どこにいても自分が暗がりに紛れてしまう。自分はいるのか、いないのか。箱は、人間のものでした。
 ピロットは、この感傷の中にいる悪をじっと見つめました。人から離れた巨大な力が、再び人を襲い、身に覚えのない力を発揮させる時に起こること…それは、ビトゥーシャがはっきりと示した判りきった悪事とは違う、もっと曖昧で恐ろしいものでした。それよりも、イアリオが夢の中で経験した、アラルの物語の方が彼の感覚には近いものでした。それは自分だった、という、恐ろしさ。彼はビトゥーシャよりもはっきりと自分を突き動かす力を知っていたのです。彼女はそれを知りません。生まれた時から力と合一した意識でしたから、発揮される力が即ち自分で、他に疑いを持ちませんでした。ところが、ピロットはその力が、自分から離れたものであると分かっていました。
 彼の目に鮮やかだった暗黒の壁の五弁の花びらは、自分がなぜそこに生まれたか、知る由はなかったでしょう。花は自ずと開きます。自ずと開く、栄養が、与えられたからです。栄養はどこから来たのでしょうか。それが最も恐ろしいことです。もし、人間が、自分の所在をなくしてしまうほど混乱したなら、絶望したなら、それに目を向けざるをえないでしょう。その足を動かすものが、その目をあちこちに向けさせるものが、本当は何なのか。赤ん坊の頃、誰もが確かに知っていた生まれてきた喜びは、いつから別のものになり、変わっていってしまったのか。まるで昔と比べて、今は手も足も、それがないほど短くなって、
「手足をもぎ取られた痛みがあるんだ。穏やかじゃない生き方がある」
 思ったより伸びないそれらで空を掻いているかのようでした。我が物にできたのは、一途な幼少時代だけで。手を伸ばせられる範囲が自分の空間であると認識できた時代にだけ。手は、いつしか透明になり、新しい手こそを呼び込み使って、人は社会に生きます。そこに、溝があります。二つの手の間に断絶があります。本当の手は一体どこにあるのか…失念して、いつしか、抱いた赤子にその感触を蘇らされて。自分もこうした手に抱かれたことがあると再度確認をして。箱は、自分のためにあるのだと判るのです。何のために生きているのかの感覚など、分かりきったことのはずなのに、なおざりにされてしまうのです。

「でも言葉はそうした真実から事実をもぎ取るんだ。なぜなら、その時に固定してしまうからね。その時が永久に続くかのように。言葉は時間と一つになるんだよ。意味の永続など本当はない。それは人間の中で生きているものだから。しかし、言葉は永久に変わらないように見える。まるで、そう、黄金のようにね」

 なぜ苦しむのかといえば、それが永久に変わらないように見えるから。未来が見えず、絶望するから。だったら、力の在り処は、そこかもしれません。人から離れて、活動する。実は、その力は自分自身が育てたものだという。なのに、それは自分ではないという感覚。いいえ、感傷と呼ぶべきもの。地下世界の亡霊は、雄弁にそのことを語ります。彼らの感傷は、他のものが自分たちを動かしたということに他なりません。彼らの絶望は、意味不明の所からやってきたという認識しかないのです。ですが、三百年前、戦士長ムジクンドに対して傭兵セバレルが言ったように、それは「自分が望んだから」やって来たのかもしれません。絶望を、望む?それこそ、オグと一緒の、構造でした。彼らは、オグと命運を共にすることを自らに命じたのかもしれません。
 死者こそ時間の中に生きています。彼らはそれと、一つになるのですから。生きている人間ほど、何ものにも左右されず。いずれ、解る空間の中に彼らはいます。なぜ、彼らは生者に訴えるのでしょうか。そのためではないでしょうか?もう一度、赤ん坊として、伸ばした手の先に彼らの空間をものにするために。解るとは、自由であると、知ることです。でも、何かに囚われて苦しいと、そこから自由になるためには、痛みが必要になるのでしょう。痛かったと知ることが。
 帰ってきたピロットの耳に、亡霊たちの痛々しい声が聞き届けられました。彼は、ふふんと笑いました。
「黄金か。ただの代替物だ。あれを、自らの欲の入れ物にして、よく互いに殺し合ったものだ。作り出したのは人じゃないか。それに価値あるものとしたのは。まだ自分たちが何に囚われたのか知らないんだな。いいさ、俺がよく教えてやるよ。あの町の住民に、これから本当は何が起きたのか。三百年前を、再現してやる…」
 彼のそばに、イラという亡霊が近づきました。愛するハルロスを殺されて、その想いに未だ取り憑かれている女幽霊は、寒々しい翼を広げて、うきうきした目で彼を見ました。彼女こそ彼を想い人のかつて使っていた舟に導いた張本人でした。彼女だけが海の暗礁を乗り越えていく道筋を知っていました。彼女はずっと彼をこの街から呼び続けていました。願い叶って、さてと、呪わしい言葉を天に向かって投げました。
「ようやくこの時が来たわ。私が破滅のお手伝いをするの。あの町は、壊れたがっているからね。私が私の人を失ったように、もう一度、苦しみが連中に降り掛かりますように!」
 痛かったと、知ることが。大事でした。

 確かに、彼を海の外側へ連れて行ったのはかの女です。しかし、彼を町へと帰らせたのは、彼でした。彼は、イラの霊にだけ手助けをされて、町を出て行ったのかといえば違いました。彼は、発見をしたから、出て行ったのです。まるでイアリオと同じように。彼の方が早かったのです。黄金を見つけて、それを守る人間の必死な形相に、憐れを感じて。
 彼は逃げ出しました。まるで彼女と同じように。町がこのような有様であることを、その原因を突き止めようとして、戻ってきたのです。彼には憤怒が宿っていました。その憤怒は幼い頃、自分の周りにまとわりつくしがらみを断ち切ろうと躍起になった、自由への衝動に等しいものでした。彼は、それを恐れていました。自分を支配しようとしてくるのです。まるで、生まれた時からそこに宿っていたような、言い知れない、不可知の力が。それは、彼の周りにいた人々を悉く捕らえていました。彼らの形相を変えていました。それは、自分の一部でした。自分から放たれた力のようでした。彼は、ビトゥーシャと出会って、その力の認識を高めてここへ戻ってきたのです。どうしようもない、欲への憧れは、皆が持っているものです。異常に怖れることこそおかしいことなのです。けれど、彼の町の人々は、恐怖を忘れないようにしました。同じ過ちは繰り返すまいとして、三百年間、約束を守ったのでした。ですが、その間、犠牲になった人はいなかったわけではなく、黄金に憑かれたり、外の世界に憧れを抱いたりする人間は、皆処刑されました。彼らの方策は、彼らを守るためであって、過ちを繰り返さないことが一番の前提ではないのでした。彼らは、忘れられないだけでした。忘れようとはしませんでした。だから先祖はいつまでも暗がりにいるのだと思い至りませんでした。
 無理からぬことでした。だから、生身の人間の中から、その閉塞を打ち破ろうとする者が現れるのでしょう。自分たちが望んで身に纏ったその閉塞を、例えばピロットは、憤怒を覚えさせる相手に感じられたのです。町が彼を呼んだのです。町が彼を行かせたのです。自分から離れてしまった力は育てられていたのです。誰に?一方で、イアリオは焦燥を、テオルドは、皮肉な自虐感を抱きました。彼らはこの町に育てられた人間です。この町の子供たちです。ですから、この町の未来を決めるのも、彼らです。
 ピロットは、ビトゥーシャにどのようにして別れを告げたかというと、彼は、大事な用があるとしか言いませんでした。それが何年かかるか、彼にもわかっていませんでした。ただ、ビトゥーシャは彼がいまだに大事にしている小袋に入った黄金の砂金を気に掛けていました。それに関することだろうとは当てを付けて、彼と別れる寂しさを、その豊満な体に彼の臭いを染み込ませることで、乗り越えようとしました。彼はもはや彼女の息子でしたから、別れても、その関係は続くのです。むしろ、立派になったと喜ぶべきでした。彼女の思い通りに彼は育ったのですから。
 何年か経って、彼女は、彼のことを思い出して涙を流したことがありました。心配からではなく、愛おしさからでもなくて、何か、突然の衝動でした。その時、ピロットは本当の意味で旅立ったのでした。遠くつながった彼女にそれが知られて、彼女と彼との縁が切られたことがわかったのです。ビトゥーシャはその身に与った拘りに気付かず、彼はそれを克服したからでした。
 彼は、町から出てきた時のような、小船の帆船を手に入れました。およそ海へ向かうのは無謀のような小さな舟でした。しかし、彼には自信がありました。彼はハルロスのことなど知りませんが、あの都に、舟が残っていたのはなぜかといえば、確実に誰かが海を渡る時に使うためだからでした。きっと、必ず海は越えられるはずだと彼は考えました。初めて自分がそれに乗った時は、がむしゃらに帆を張って、行くあてもなく無闇気儘な舵を取っていただけでしたが。ただ風に流され、運良く島に辿り着いたに過ぎませんでしたが。しかし彼は幼い頃の操船の技術しか持っていませんでした。ビトゥーシャとの旅では船を操る機会はなかったのです。けれど、年に何回か、風が彼の流れ着いた大陸から東方へ流れることは知っていて、うまくそれに乗れば、東にあるはずのふるさとにも近づけるだろうと算段をしました。しかし彼の計画は無茶苦茶でした。いくら対岸の大陸の地図とにらめっこしても、本当にここが彼の生まれたふるさとであると確信して目指せる行き先はなく、それらしい所に風が運んでくれることを期待するしかないような航海にならざるをえないのです。本当にただ何の礎もない確信だけが頼りでした。そうなのですが、鋭い目をしたピロットは、海の上に出て、遥かな故郷のある陸地にまっすぐ目を向けていました。その位置こそおぼろげであるはずが、吸い寄せられるように、彼の目はある一点を見つめました。いざなう風は、彼の視線の行く先をのみ目指してなびき、ぶれませんでした。やがて、陸地が見えてきて、とにかく彼は上陸の準備をしましたが、その海岸はどこに上がることができる岸や浜があるか、まったくわかりませんでした。彼はたしかあの地下都市の周囲は暗礁で悉く阻まれていたのではないかと、遠い記憶を呼び起こし思い出しました。
 しかし、十年前の彼はその一帯を乗り越えて、無事隣の大陸に到着していました。必ず道はあるはずでした。彼は海の中に岩礁が埋められている様子を海上から覗き込んで見つめました。小船である分、帆を下ろし、小回りを利かしながら慎重に漕ぎ進められました。彼は徐々に陸に近づきました。彼はふといきなり誰かに抱き締められた気がしました。確かに、彼は誰かに抱き締められるような心を向けられたことがありました。ビトゥーシャではなく、別の誰かに。彼は恐怖に怯えました。その誰かに自分が抱き締められることに。彼が忘れていたものが、彼にそう働き掛けたのでした。
 彼は暗黒の地に降り立ちました。すなわち、彼の舟が出て行った、あの岩のアーチから、滅びし地下都市に登る入り口にまたやって来たのです。ですが、そこは美しく青く光り輝く、麗しい浜辺でした。こんな綺麗な所から漕ぎ出したことなど、彼は忘れてしまっていました。弧に架かる黒岩の、懐から差し込む陽光が、彼の舟を、もやい綱で埠頭の杭に縛らせました。しばらく彼はこの神秘的な入り江の光景に心を打たれて、ただそれを眺めました。彼は震撼しました。彼は暗闇など恐れません。暗闇など、身が肥えるほど喰らってきました。すぐ頭上にはそれがあり余るほど漂っていて、彼もかつてそれに喰われました。頭上からそれが呼んでいるのが分かります。彼はそれを調べに来たのです。しかし、ここは、違いました。この場所は光り輝いていました。
 分離した彼が、呻きました。

「自信をもって描くことができるかい?未来を。多分、それができないから、不安でしょうがないんだ。色んなことが、ありすぎるからね。でも、いいかい、自分は一人だけだ。一人で何かに臨もうとすることなどできない。生まれた時から、誰かの手を借りている。彼らが自分の力だけで、生きているなんて傲慢だ。実際、何人もの人間に出会っておきながら、それを忘れてしまっているだけなんだ。自分は一人だけだから、いつのまにか、色んな人間とつながっているのさ。それを、忘れてしまっているから、不安でしょうがないんだ」

「傲慢なんだよ」

「ああ、そうだ。一つ、言い忘れていた。きらきらとしているのは、星たちじゃない。星を見る自分たちだ」
「あの星に、願い事を掛けられる、私たちだ」
「だろう?」

 がらんとした空洞が、光の中の出入り口から上がっていくと待ち構えていました。そこには、彼がかつて見た、人々の死骸が無数にいまだ眠っていました。耳を澄ますと、声がします。言い知れぬ時の彼方から、響く声音です。そこにいるのは、何も三百年前に死んだ人間のみでなく、そう、もっと大昔からいまだに救われない、破棄された人間の魂の残りが、くすんでいるのです。願いと祈りの、残りの火が。力を持った、言葉たちが。囚われた我々の一部が。ピロットは空を仰ぎました。そこに空はなく、暗闇が広がっていました。星もなく、風もなく、何もない空間に、選んで入っているのはそうした人間の昔からの残滓でした。その場所はあの世と同じでした。安息のない魂は、それを得るまで、永劫の時間を過ごすだろう階段の踊り場でした。大量の黄金がそこにはありました。彼はその黄金に惹かれ、この都に戻ってきたわけですが、さてここで彼は何をすべきなのでしょうか?彼の心は、体のいざないにすべてを託し、やって来ました。すると、体の中からこの場所を憎みしきる憤怒の思いが湧き出しました。どこからか出所のわからない憤りが。
 支配など、支配ではなくて、心の構図です。それが人間らしい、といえばそれまでですが。彼の生まれた故郷のそばにその暗闇がありました。彼は、そこに誕生しました。彼は、過去の自分の残滓をその場所に見出していました。現在の過去も、もしかしたら、もっと先の、前世の過去も。
 ゆったりと何かが漂いました。大きな何か。それは、彼の目の前で立ち止まりました。オグでした。彼はそれの名前を知っていました。オグが二つの目を開けて彼を見ました。
「オグ」
 ピロットは小さくそう呟きました。その途端、全身から一斉に汗が噴き出しました。彼の大元がそこにいたのです。彼を支配しようとしているものは、彼自身に他なりません。
「ちくしょう」
 オグは行ってしまいました。まだ彼女と対峙するには出番がありませんでした。あの魔物に唆されるのはその中にある、自分のかつての悪です。ピロットは、テオルドやハリトなどのように、かの魔物に喰われる条件を満たしていませんでした。痛みを知ろうとはしていませんでした。自分の罪や悪にまだ彼は痛みを感じませんでした。魔物はそれをこそ求めるのです。仲間を欲して。
 でも、いずれ彼もそうなるのです。彼は、生まれ立ての悪でした。

 人間の笑顔がありました。しかし、テオルドにはその意味がわかりませんでした。彼は、自分が笑顔になったことなどないと思っていました。彼はわざと、人間の真似をして、笑顔を作ってみせました。
 彼の母親は笑んだことがない人間でした。彼女の微笑みは冷たく笑いではありませんでした。でも、確かに息子が生まれた時、微笑んだはずです。腹の痛みを堪えて、出てきた我が赤子を見た時に、自分が何であるか、そんなことはどうでもよく、生まれたものが、自分を定義してきたはずですから。そんな彼女にも自分を愛する者がいたのです。その事実は、どうしようもなく覆せないものでした。きっと笑顔を凌駕する憂鬱があったに違いありません、彼女にも、そして息子にも。
 悲劇がなぜ訪れるのかの定義などできません。けれど、それが起きた事は、多分不確かな意味があるのでしょう。誰にも決められない様々な意味が、そこに見えてくるのです。彼が、地下にいざなわれたことも、彼が、そこではっきりとした死者たちに出会ったことも、彼が、盗賊たちと出会って、自分自身を確認したことも、彼が、大切な友人をその場所でなくしたことも。何が違っていたのでしょう。彼と、他人とは?何も違いなどありません。彼はただ憂鬱になり、それに呑まれたにすぎません。深刻な力の力動があったのです。それは常に動き続けるものでした。自然と同じように、言葉と同じように。
「もしかしたら、僕は望んだものになっていたかもしれない。知るために人間は生きているのだとすれば、そのために。階段は下らなければならない。天秤は一度壊れなければならない。そうしなければ、階段も天秤も、なぜそこにあるかがわからないんだ」
 きっと、そうなることで、何かが分かるのです。言わば、果てしない力の循環が、まもなく訪れるある一瞬の中に存在を明らかにするように。歩いていると出会う、小さな石ころのようです。普段は目に留めないのに。そこにあることは、明らかで。
 確かにあるのに、愛せなくて。
 愛があるのに、怖がって。…
「自分は唯一だ。だがそこで愛でているんじゃない。唯ひとりだから、いいんだ。自分の人生は自分のもので、不安も、焦燥も、すべてそうだから。そうした時に、言葉が出る。誕生する。思考が生まれる。自分が、唯一である自分が、何をすべきかわかってくる」
 テオルドはそこにいました。まるで春色の夜空が拓けて、二つ星が降りてきたようでした。それはつぶさに私たちを見回して、滞りを発見しました。停滞する色。土色の希望。その停滞を皆が苦しむばかりに感じてきたのです。そこでは黄金は保存されるべきだとされてきました。しかし保存しなければそれはわかりませんでした。

「僕にとって、この町は暗黒の町だった。地下都市に負けず劣らずね。いいや、ただ僕の心だけがそうだったのかもしれない。みんな明るいよね。みんな楽しく過ごしていた。僕だけがそうじゃないように感じられていたから。幼い頃からずっとさ。母親は、僕を抱いて昔話を聞かせてくれたけれど、冷たい彼女の面影は、僕に笑顔をくれなかったよ。
 唯一、僕を満足させたのは、本だった。それは都合がよかった。父親が司書をしているから、ついていって、たくさん読ませてもらったのだから。でも、本だけじゃ、何か物足りなくて、そんな気分の時、君たちと一緒に遊んだことを思い出すんだ。ピロット、イアリオ、君たちとは仲が良くなかったけれど、よく遊んだね。それは近所だったからもあるだろうね。でも、二人とも、多分僕のように、本当に気持ちを打ち明けられる人間っていなかっただろう?なぜ僕のそばに君たちはいたんだい?いいや、僕は誰も呼ばなかった。勝手に君たちがそばにいた。母さんのお話をよく聞いた。僕たちは興味深く彼女の語る物語を聞いた。
 何か一蓮托生の気がするんだ。君たちとは。僕は本を手掛かりに僕自身を作っていった。僕に影響を与えたのは本だった。だから、僕が空想をしがちでそれがたびたび妄想に近くなっても、気にしなかった。僕は自分が小さい人間だとよく知っている。周りに比べて、そんなに価値のない人間だとよく知っている。僕は人の気を引くものを持っていない。僕はなにより人気がない。
 だから、わくわくしたよ。あの地下世界を発見した時には。どきどきした。物語で読んでいた空想の世界が、本当のものとして広がっていたんだからね。でも、それが本の通りで、僕はひどく驚いた。伝説は伝説じゃなかった。歴史だった。僕は町の禁書を読んでいたからね。でも多分その暗黒の空間に触れていなければそれはずっと空想のお話だと思い込んでいたよ。僕は、おかげで空想ができなくなってしまった。すべて真実だと思った。いや、どんな文章にも真実が隠されているのかもしれない、と考えるようになったんだ。そのお話をなぜ記したのか、とかね。僕は一人の研究者になった。僕が大好きだった本を、一々疑うようになり、その真実を、僕なりに確かめようと試みるようになったんだ。
 そんな折、あの一件があった。みんな、同じような表情になったね。怯えて、怖がって。僕だけが違った。いや、正しくは、僕とピロット、あとイアリオが違った。この三人はずっと知っていたんだ。あの暗がりに棲んでいる魔物を。それは自分の心だって。なぜあの暗黒に惹かれたんだろう。惹かれた、そうだろう、君も、ピロットも、あの場所が懐かしく感じたはずだ。そしてそれは、僕たち自身の心を覗き込んでいたからね。他の町の人間も。彼らはあの場所をずっと手放せずにいた。手放したくてしょうがなかったのに、忘れたくて、閉じ込めたのに。仮にね、もし僕らがあの場所を忘れてしまったとしよう。でもそれはそのままそこにあるんだから、他の人間に見出される。僕らが忘れてしまっただけになる。
 でもこの町は、結局ずっとそばに黄金を残していた。それを捨てなかったよ。なぜだろう。忘れたよ。忘れたよ。三百年前の出来事を、この町の人間は忘れたよ。それが引き起こした事実を。向き合ってこなかったんだもの、当然さ。欲など捨てられるものか。大欲などずっと引き離しておけるものか。舐めているんだ。びびっているんだ。甘えてるんだ。自分に。自分を。だから弱い。強がって弱い。当然さ。黄金は残るんだ。それが捨てられるわけなどない。だって、それが僕たちのご先祖から、あるものを奪ったんだから。自分たちを惑わす光、黄金はそのものだ。それは僕たちのものだった。けれど、今はほら、そこにある。…僕たちから離れてしまって。
 ずっと帰りたがっているよ。元の場所に。産まれた所に。…
 イアリオ、僕は、彼らの言葉を聞いていた。表に行きたがっている死者たちの霊魂は、生霊と、混ざっている。僕たちの思いもそこにある。何も三百年前から変わっていない。僕らはずっとこの国にいた。必要とされているんだ。だから、全員がここにいる。何のために?イアリオ、僕は、君たちとは違うと思っていた。僕は一人だけだと思っていた。僕だけがこんなこと考えているものだとね。真実だって?そんなの僕の感覚だ。誰にも披露した試しがない。あの暗闇に自分が同化するとひたすら心地が良かった。真実を見えなくするものの中にいてね。僕の感じたことなどひけらかさなくていいんだ。なのに、君たちは堂々とまた暗闇に来た。今度は自分のために!ああ、最初は僕を探しに来たんだっけ。でも、あの恐ろしい闇の中に入ることは、否が応でも自分自身との対決だったろ?
 君は、ピロットをうんと心配したね。彼が帰らないのではないかって。でも、彼は帰ってきた。僕にはそれが分かっていた。あいつ、あんなことで死ぬ玉じゃあないからね。あの街のおかげさ。あんな所で死ぬわけがない。君も帰ってきた。それも分かっていたよ。僕たちは一蓮托生だ。死に場所は誰かが定めてくれるんだ。それまでずっと、悩み続ける運命を持ちながら…。
 悩みの途中で死ぬことなんてないんだ。だってそれが生きる目的なんだもの。僕たちは、一緒のことを、ずっと考えてきたんだよ。本当に心地良い居場所は、この先にある。だけどその場所を僕らは追っかけていない。そこに行くことが目的じゃあないんだ。そこに戻ることが最後の目的だ。
 皆そこに行こうとしている。僕たちだけじゃない、死者たちも、三百年以上前の人々も。そうした滅びのストーリーだったんだよ。破滅と再生はセットじゃない。あの二人の神のようには僕たちはならない。だって、彼らはただの僕たちの影だから。僕たちは純粋に生きているだけだ」
 十二歳の彼は、暗闇の街で、我を失いました。彼は、オグの虜になったのです。その時、テオルドは人間の記憶すべてを垣間見たかのような、何とも言えない心地になりました。そこにいたのは、あらゆる人間の悪意ですから、そのように、感じたのも無理はありません。彼は、彼らにフィットしました。なぜなら、彼の肉体は彼らのものと一緒でしたから。三百年間、引き継がれてきた遺伝子は、あやまたず彼女の呪いを告げていたのです。しかしその前に、オグと同化してしまう前にも彼は暗闇と一つになりました。骸骨に抱きつかれてしまって、その衝撃が、彼をしてその空域に引きずり込んだのでした。心を守ろうとして。
 心を守ろうとして。悪を犯すことは、あるいはそれを見ることは、誰の心にもひび割れをつくり出しました。守り切れない心が、悲鳴を上げました。ですが彼は悲鳴を上げませんでした。他の子供のように、黙り込んだり、暴れ回ったりもせず、もっと心そのものを見つめる態度を自分自身に要請したのです。客観的に、冷静に、それを見ることも頗る防衛反応です。そして
 悪は、その目で見つめられました。それはもしかしたらオグが終末期であったから可能だったのかもしれません。そうでなければ、強く彼の力動が、テオルドにも差して思い通りに少年を動かしていたはずですから。彼は自分自身を疑いの目で見つめるようになっていたのです。アラルがそれに気づいてしまったから、他の彼の中にいる意識も、一斉にそれに目覚めたからです。悪ははじめて弱さを自分自身に発見し、それにおののきました。おののいたのは、悪の中に取り込まれた、一人一人の意識、個別の意識たちです。ひたすら悪に同化していたはずの。テオルドは彼らの意識を紐解き理解することができました。もし、その中に彼の前世たる悪意も入り込んでいたのなら、なおさらに、進んだ理解が施されたのでした。
 そんな彼を、じっと見つめる女の子がいました。きっかけは物憂げな彼の顔を間近で見たことでした。彼はその時彼女の持っていた石の破片に興味を示し、覗き込んだのですが、子供の割りに彼の持っている深い眼差しが、神秘的で印象深かったのでした。それは事件の後でした。ピロットの行方は多分海の中だと断定されて、しばらく経ってからでした。女の子はそれ以来彼に惹かれ、同じ授業に出席する時には必ず彼を見ることができる位置にいました。彼女には少年が何か得体の知れないものに見えて、強い羨望を感じました。
 その時彼はその視線に気が付いていました。もはやオグと同化した彼は、町の人間一人一人の心をつぶさに観察することができましたが、オグのように、ただちに人間を唆してしまうことはしませんでした。ただ、彼の中にいるものはそうしたものでしたから、女の子の感情を、自由にできる彼しかいないもののように思われました。
 この時、オグはまだこの体に自分が生まれ変わったということを意識していませんでした。彼は──その終末期には──人の姿をして市井に入り込むことがあるのです。自分自身がそのように姿を変えたことは意識せず。彼自身が姿を変えるという、彼も知らないような恐ろしいことは、人だから、人の間にいる者だからできることでした。しかし、次第にそれはテオルドの体の中で分かってくるのでした。彼は、テオルドの意識と、自分の意識(しかしそれは集合的である)を分けてすら感じることができました。それはアラルと同化した時から少しずつ進化した彼の在り様でした。彼は、少年の体を借りて、目に見えるものは、まるで生きた人間を通して感じられるようでした。ですがその感覚は、元々オグが(その個別の霊魂が)持っていたものに他ありません。自己の多重性に苦しみつつ、しっかりと己の血肉を感じることになったのです。一個の自己であるように。
 肉体を持った彼は、女の子を持て余しました。無数の人格が彼の中で総合し、手を広げるも、霧の風体で多くの人間を虜にしてきた彼は、その時何もできませんでした。元の彼は何をしていたでしょうか。悪をしでかしてしまった人間の人格は、何を思いながら死んでいったでしょうか。その初めの感覚が蘇ることは恐ろしい。その悪の意味も分かりながら。しかし彼はアラルの意識と共にそれを味わっています。だから、彼は却って女の子の心を自由にできなくなったのです。もし、自分が手を出せばそれは必ず悪になるから!
 彼が手を出せるのは、彼の目に弱く見える人間でした。まるで、彼と同じような罪を背負って生きている人間でした。それは、トーマ=ヨルンド、シダ=ハリト、ハムザス=ヤーガット、そしてピロットの従弟エジゲマ=カムサロスでした。子守唄を揺り籠にして、彼らはずっと生きていました。彼らは弱く、甘えん坊でした。カムサロスは、ピロットを失った悲しみを如何ともし難く、同様に神経質なハムザスは、ピロットの喪失がまるで自分の責任だったかのごとく悩みました。シダ=ハリトは、総合的な一つの物事が終わったのだと、自分に言い聞かせていました。ヨルンドは、どもり癖のある自分の性格をよく思っていないところがありましたが、自分が役に立てる状況になら、どこまでも力を貸したくなりました。テオルドは、四人を集めて言いました。
「果たして、ピロットは生きていると思うか?」
「どうして?大人たちは皆あいつが死んでしまったって言ってるぞ。海には外から侵入されないために、ごつごつした岩ばかりがあるんだろう?あいつも、その岩場を越えてはいけないはずだってさ」
「でも、ピロットだよ?煮ても焼いても食えない奴が、こんなところで死んでしまうものだろうか」
「俺だってさ、死んでないって思いたいよ。でも、実際あいつはここにいない。仮に、海の外に出て行けたからって、戻ってこれるはずがないじゃないか」
「でもさあ、死んだとは思えないんだよ。死んだ体は発見されていないだろ?なら、生きているって思ったっていいんだ。そこで、もし、あいつが生きてたら、きっと戻ってくると思うんだ。あいつは、地下に黄金を見つけたんだよ。それで、退治された盗賊と激突して、誤って海の外へ逃げちまったんだ。あいつは欲深だから、誰かに黄金をせしめられちゃ堪らないはずだ。生きてたら必ず戻ってくるのが、ピロットらしいだろ?」
「ちょっと待て。俺たちも見つけただろう、あの街に宝物を?でも、俺たちテラ・ト・ガルみんなのものにしようって決めただろう?あいつだってその一員だった。お前の言うとおり、どれだけピロットが欲深だって、そのルールは守っていたじゃないか」
「違う、違うさ。盗賊が絡んでいたんだ。あいつは対抗心が強くて、そこから自分のものにしたいって思っても、不思議じゃないと言いたいのさ」
 四人は頷きません。しかし、カムサロスが口を開きました。
「もし、そうなら、俺は嬉しいよ。もしピロットが戻ってくるなら、そっちの方がいいよ」
「僕も同感だな。あいつとは仲が良くなかったけれど、テラ・ト・ガルでは仲間だったんだ。実は、まだ、あそこへ戻りたいって思うんだよ。あんなに恐ろしいことがあっても、大人たちが見張っていた場所なんだって分かっても、宮殿で見た美術品を、僕はまったく忘れられない。もう一度見たい。そうでなければ、地上へ持ってきて、いつまでも眺めたい」
 絵描きを志すハリトが熱っぽく言いました。彼の意識は地下に再び潜りたいという願いと、ピロットが無事であるならばいいという思いが、混在していました。
 ヨルンドは違いました。彼は、またあの街に行くことは恐ろしくて堪りませんでした。しかし、彼は人からの要求には弱かったのです。
「いいかい、僕がこんなことを話すのはね、ただあの街を守りたいからだよ。僕たちが独自にあの街を守ってみたいんだよ。テラ・ト・ガルの公約はまだ生きてるかい?それなら、大人たちがしているように、僕たちも盗賊どもに奪われないように、監視したっていいじゃないか。あそこは僕たちの国だからさ。まあ、ピロットが仮に生きていたとして、戻ってくるのは嬉しいことだ。でもあいつの対抗心が、黄金を全部自分のものにすることは許されない。あいつが本当にそうするっていうんじゃないよ?生きてるかどうかもわからないんだから。ただね、そうして僕たちが黄金都市を守っていくことで、あいつが戻ってくるのを待つのはどうだろうか。いいかい、僕たちはそう信じたいだろう?」
 テオルドのこの言に、ハムザスが反応しました。彼は、正義を好みました。
「それは正しい。何もしないよりは、あいつを待って、正しいことをしよう!」
「そうだろう。みんなでピロットの帰還を、歓迎するんだ。そうすれば何もあいつは黄金を独り占めにしたいとは思わなくなるさ。あいつらしく、反骨心で還ってきても、いいのさ。ひょっとすると僕たちがそれを願う分、あいつは本当に戻って来られるかもしれない。みんなで祈ろうよ」
 彼の暗黒はそう囁きました。祈りは誰もが欲しいと思うエネルギーでした。それで何かが実現するのはまったく凄いことなのです。人間はその力を借りて、生きていると言ってもいいほどです。
 祈ることで、様々な悩みが一つの方向へ向かうことになります。心の安定が生じるのです。この祈りを必要としない人間もいました。例えば、テオラは、無数の人骨に遭遇してショックを受けた少年たちを見て、少し幻滅して、怒りを覚えました。彼女は忌まわしい地下に憤怒を覚えることで、立ち直ることができたのです。ピオテラは可哀相に空想の彼方に逃げ込みましたが、それが彼女らしい克服の仕方でもありました。祈りはある種の弱さが求める都合のいい力でした。それがすべてではないにしても、祈る人は、自分の悩みが解消することを強く望むばかりなところがあるのです。それなら、強い怒りを覚えるのも、空想へ逃げるのも同じことではありますが。
 そして、その歩みが次の未来を用意することにもなるのですが。ハリトの妹シオン=ハリトはこの時の兄のことを覚えています。以前から、物思いに耽ることが多かった(それは、きっと自分の将来を夢見ていたのでしょうが)彼は、それからますますどこか遠くを思うようになりました。彼女はそれを冷たい記憶として保存しています。得体の知れない人間として兄を見るようになったのです。彼女もまた兄と同じような気を持っていたのですが…それは、彼女の恋人となった者が、気付くことになることでした。
 ハムザスは憂鬱でした。皆と話し合って再び地下に潜ることにしたのはいいとしても、前の事件の責任を、何も償っていないという思い込みに囚われていました。彼もまた人の役に立ちたいのでした。彼は自分が人の役に立った実感を覚えたことがなかったのです。彼は常にいらいらとして、人の話をよく聞きませんでした。彼に期待する者は誰もいないかのように、彼は考えていました。彼には兄がいましたが、兄へのコンプレックスが、わだかまったまま解消していませんでした。彼は自分に期待を掛けられない若者でした。
 テオルドは彼を憂鬱なままでいいと思っていました。それは、いつか彼が先鋒になって事を起こしてもらうためでした。憂いは晴らされるのを待っているものです。エネルギーが蓄えられるのです。テオルドにとってその瞬間まで晴れる必要はまったくなく、ゆえに彼はそのまま育ちました。地下世界に繋ぎとめられたことで、ハムザスの鬱屈した心理は彼の思い通りにはいかなくなりました。
 そして、ヨルンドは幼い心理のまま、ピロットの帰還を待つという荒唐無稽な願望に身を委ねることを決定しました。ここで、オグはオグらしい一計を案じます。動物を一匹供物として地下に捧げることを提案したのです。前にラベルがあの亡霊の現れた使用人宅に向かって、祝詞を捧げることで、お払いに似たことをしましたが、その代わりになる行為でした。ですが、本当の意図はそこではなく、血や贓物に彼らを慣れさせることで、恐怖を生み出した地下にもっと深く繋げさせようとしたのです。彼らの習慣に神様へ供じる犠牲を用いた儀式は存在しませんが、昔の人々がそのようなことをしていたと学校で習います。もし、町の人々が地下の亡霊たちを慰めるために、ずっと以前から続けてきた何某かの祭事があれば、彼らはそれを参考にして、破滅の街に挑もうとしたことでしょうが、それはなく、彼らが生み出さなければなりませんでした。少年たちは独立した意識でこの難関に挑戦できませんでした。テオルドに言われたとおりに、彼らは血と贓物を用意しました。すると、もうその在り様が地下都市とすっかり重なりました。さっきまで生きていたもの。その中身。あるいは、その生き物を動かしていた本当の力を、悉く目の前にしては。彼らは息を呑みました。死んだものと生きていたはずのものとをつなぐ在り様を、彼らはまざまざと感じました。儀式にはパワーがあります。形骸化すればそのパワーも感じられにくくなるものですが、少年たちは自らそれを生み出したことで、その迫力を実感しました。でも、そうすることで、町人以上に、彼らは暗闇の都市から離れられなくなりました。
 しかしこの試みは有益でした。少なくとも、彼らが恐怖に呑まれることはこれでなくなったのです。テオルドがそうしたように、自分が恐怖の対象となるものと同化して。そうすれば、本当に自分の心は自由になった気がします。暗い場所にいることが楽しくなります。こうして子供の心に芽生えた悪を、大人たちが発見して、ケアできるのは稀かもしれません。彼らは彼らのその心を隠すでしょう。しかし、隠すということは、それが悪だと認識しているからでもあるのですが。
 ただし、少年たち四人にくっついている者は、オグという、誰もが制御できない悪魔の怪物でした。オグは、もっとこの五人の絆を強固にするべく、白き町の郊外に住む農家の若者を一人選び、彼に凄い苛めをしました。四人がそれをできたのは、彼らがそれぞれに現実に無自覚な感覚の持ち主だからでした。道標が、何を表しているかよりもむしろ、目の前にあるかどうかが大事なのです。彼らは導かれようとするのです。その男には目印がありました。激しく損傷した火傷の跡が、彼の口の周りに張り付いていました。それはきっと幼い頃過って受けた傷痕なのでしょう。誰もが責めることができない痕を、指差して彼らは罵りました。引っ張り、突っつき、果ては服を剥ぎ丸裸にして、体の他の部位とその傷痕とを見比べ、本当にお前は人間かなどと罵倒し尽くしました。
 また、彼らは自分の親に対して裏切りの誓文を薄い板にしたためて、川に流すことを行いました。五人が聞ける川べりで、その誓文を水に向かっても言いました。僕たちが正しい、僕たちが正しい!それは、狭い彼らの社会の中で、イニシアチブを採る者たちへの抗議の姿勢を借りていました。珍しくない、思春期の反抗のように。しかしそれは、彼らの中で先の儀式と融合し、より彼らの浸かったまとわりつく世界へ足を踏み入れることになりました。子供たちの世界は、決して混沌が優先するのではありません。自ずからその中から秩序が生まれんとして、成長して社会を築くのです。でも、そこは人の心の世界でした。どんなに揺らいでもおかしくはありません。何しろ、始めから強烈な秩序を求めたかの町の歴史がありました。目を塞がずば気の狂う混沌こそこの町の礎にありました。
 もし、魂が循環するなら、元通りには、戻りません。それは、魂の回帰を困難にします。歴史は不動です。人間が今しか見ないなら、過去は、浮上するまでもないのです。かつて聞いた音楽は、山彦のように心に伝わっても、それは、その時から動きません。
 今聞くものは、例えるならば、水になり、溶け落ちていく、細かい霧の粒子でした。でも、その水は、滔々と未来に流れます。未来を見れば、自ずと過去が見えるでしょう。過去からも、水は流れているのですから。そして、実際にそれに遭うのです。彼らは地下ではっきりとそれを目にしました。彼らは大人たちに塞がれた街への入り口を、自ら開けなければなりませんでした。
 もっと自らを調べなければなりませんでした。
 彼らは、協力して地面の下への入り口を塞ぐ、大きな岩をどけました。地下に入ることのできる場所は、テオルドが書物から調べ尽くしていました。彼らだけの冒険は、危険はなく、するすると破滅の都市に潜っていけました。ハムザスらが遭遇した亡霊の邸宅の隠し階段から下り、その向こうにある洞窟へも、もっとその先へも。彼らはついには湖まで辿り着きました。そこで、テオルドはあることに気が付きました。二人組の盗賊との会話でも彼はそれを知りましたが、オグという怪物が、そこにいることです。え?彼の中にはその怪物が入っているはずじゃ?そうです。その通りです。ですが彼の土くれの体には、まだその認識がありませんでした。
 彼はオグに触れた記憶がありました。その後、すぐに彼は食べられてしまうのですが、オグは、彼の中に入り彼の体にあるがんじがらめの構造に、溶け入っていました。彼の肉体がオグだったのです。光のある場所では何物にも影ができます。オグに支配されずもそれ以前のテオルドから伸びた影は、恐ろしい、怪物の姿を取っていました。彼は自分自身に気が付いたに他なりません。彼が、それと分かったオグは、懐かしい彼の棲家に、その影を伸ばしました。そして、彼だけのからだをそこに現しました。テオルドはそれを見上げました。テオルドの中にいるオグが、自分の存在を認めました。
 アラルが、気付いたように。
 彼の死骸は、黒表紙の日記が置かれていた、あの墓石のそばにありました。
 彼は笑いました。何もかもが、分かりきったことのようでした。彼の中には、アラルの魂もあったからです。
 猛然とした感情を彼は覚えました。それは、オグのものか、それともテオルドのものか、分かりませんでした。
 彼は、空中に浮いた影の体に、若者の首を発見しました。彼は、町の禁書の中に、また先祖ハルロスの書いた日記の中に、『ラエルの地に封じし魔物は出てくることを拒んだが、これを仕留めにやって来る若者がいた。しかし魔物は巨大で、若者はこれに喰われてしまった』という一説があるのを、思い出しました。きっとその若者だ、と思いました。まるで僕のようだ。
「僕のようだ…」
 すると、猛り狂った彼の感情は、彼の先祖のイラと結び付き、傲然と、あの町を滅ぼさなくてはならないという意思に成り代わりました。あの町こそ魔物でした。彼を生み出した、彼を影にした、彼の分身でした。オグと、同化しても彼には思い出せなかったことがあります。彼は誰の来世だったのか。彼の前世はある女性に虜にされたか弱い意志でした。彼の弱さは醸成されたものでした。周りに。町に。
「でも、僕はただの気弱な人間だ。僕に一体何ができるというのだろう?」
 人間たる彼には自信がありませんでした。力も、知恵も、生き方も、彼は皆より劣っていると自分自身を見下していました。彼の目の中で赤色と白色が繰り返し明滅しました。灯火の揺れる明かりに照らされたオグを、テオルドの目は、ばちばちと写生しました。彼は失禁していました。彼の内部にいる悪たちが、いいえ、彼の

、一斉に声を上げていました。彼の内側に潜り込んだそれも、彼を一方的に操った前世のそれも。
 ここは僕たちの場所じゃない、上へ行こう。上へ行こう。
 それは、誰もが社会の中にいる人間として、生きたいと願う思いだったかもしれません。彼らは疎外感を否めず、ずっと苦しんでいました。

人々の中に居場所を見出したかったのです。彼らの見た死は、自分の死だけでした。他の死がどういうものか、彼らには分かりませんでした。悪は、自分が生きていることを、認めていません。私だけが、生きている。その認識は、私という存在が、何で出来ているかをよく分かっていません。彼らの死は、自ずと、後に未練を遺しました。悪はあたかも黄金でした。還元できない、疎外と苦しみでした。
 彼らの生き方は、何と調和して奏でられるべきなのでしょうか。自分は、何と共に生きているか、いくらそれが認識されなくても、真実はそこにあります。彼らの死こそ。死こそ、生をそこに還元して。赤く燃えるのは彼らのからだじゅうの熱です。彼らは燃えているのです。ずっと、自ら主張して。彼らのからだは何でできているのでしょうか。それは、あらゆる出会いの集合でした。産まれてから始まった、冒険の、他と響き合う合唱の縒り合いでした。相手もまた、そうなのです。悪は、生きたいと思う人間のかたちでした。悪は、人間が生み出した、或る希望のかたちでした。
 それは、愛を疑った、心の形象でした。欠けているからこそ貪欲になれる。満ちることのない空腹。

 テオルドの中で、無数の意識がうたいました。彼こそあのサルバの生まれ変わりだったからです。アラルによって各人の澱んだ魂が引き上げられたように、自分の姉の要望を聞き、自分の姉を手ずから殺して、自身もまた絶望し自死を選び、その慟哭する魂を変えられぬものとした者が、無数の魂を呼び起こしたのです。いにしえにオグと合一した者が、現世で再びそれと同化して。繰り返しの命を誰よりも解るようになった命で。この世の不思議と残酷さを体感し尽くした者として。

 涙の代わりに、汚い物を、彼は垂れ流しました。彼は、誰よりも弱い人間になっていました。人間のあらゆる弱さこそ彼の身体を構成したものだったからです。それを
 彼はここで理解したのです。彼は、うたいました。全身で、その声で、霧のような、一粒一粒が見えないくらい小さな叫びを、誰の耳にも届かないような絶叫を。そして到底言葉にならない覚悟を、その時に決めました。皆を、生き返らせなければならない。自分の中にいるもの、自分の外側にいるもの、全員を、光の届くところに再生せねばならない。そのために、ああ、羽交い絞めにして愛そう。あの町を。そうでなければ僕が壊れる。彼らを皆、一人ずつ、僕の周りに連れてくるんだ。言って聞かせよう。君はそのままでいい。他の何にもならなくていい。もう他人の希望など聞かなくていい。それこそ、

と。

 テオルドは、黒表紙の日記帳の著者である、ハルロス=テオルドの子孫です。彼の、婚約者だったイラの子孫です。しかし、テオルドにイラの亡霊は近づくことはありませんでした。テオルドは、彼女の存在に気付いていました。イラの霊魂はその恨みの思いをじっと町中に注いでいました。しかし彼女のは彼とは到底質の違った悪の鼓動でした。テオルドは、彼女を放っておきました。彼から彼女に用はありませんでした。彼を作ったのは彼女でしたから、それ以上の意味もないのです。
 イラは、オグが眠っている間、ずっと町へ関わり続けていました。死して後、彼女の亡霊は地下を浮遊し、深夜は表に現れました。そして、町の人間を誘惑してきました。彼女の手に掛かって、暗黒に落ちてしまった人間は今まで数百人を数えました。ですが、彼女にできることといえば、相手の耳に囁き、嘘を教えることでした。虜にしたり、自由に操ったりはできませんでした。少なくとも百年のうちは。
 あやかしは永く生き長らえると次第に力を増していくといいます。イラの力は段々と大きくなりました。彼女は明確な目標を立てるようになりました。地下には彼女以外にも慰められない自由の身でない亡霊がたくさんいます。海賊だった者も、そのしもべだった者も、兵士だった者も、三百年前に自壊した街で狂い回った者も。彼らの無念を彼女は、堰き立てました。彼女は周りにいた自分と同様の亡霊たちに、声を掛けられるほど意思の力が増したのです。すると、無念を抱えた霊たちは、目標を欲しました。彼女は彼らのために、それを定めてあげました。それは、上に昇ること…。地面の下ではない、光ある地上へ出て行くこと…。
 しかしそれだけで、霊たちは暗闇を抜けて地上に出られませんでした。霊たちだけでなく、地上にいた人間も、自らに掛けた呪縛をはずして、自由にはなりませんでした。暗黒の街は、表の町と、命運を共にしていました。すべてが同じことを望まないかぎり、至るべき変化は起きないのです。私たちは、生きています。でも、自分だけで、生きているのではありません。幽霊がそこにいるなら、彼らを縛っているものは私たちも縛っているのです。それは何も幽霊だけのことではなくて、思考というものも、時代というものも。もしも滅びが必要なら、何のためのそれなのか。地上にいる人々は、三百年前の自らの亡びを消化していませんでした。彼らは故郷をあとにしないで、その忌まわしい大地にずっとへばりついていたのです。それは一体、何のためか。
 イラは、掛け替えのないものを亡くして錯乱した亡霊でした。しかし、死んだ後彼女は大勢の人間の浮かばれぬ悩みをその耳で聞いてしまいました。そうして徐々に、彼女の体が分解していくことが起きました。彼女は自らの思いに他者を巻き込みたかったはずですが、彼女が呼び掛けた者たちは彼女と同様に自分の思いに囚われた人々なのですから、彼らに一つの目標を授けても、その一人一人が思いのたけの違うのは当然なのです。彼女の中に、今でもハルロスは生きていました。だからこそ彼女は町を恨んだのですが、彼の声が、その言葉が、亡霊である彼女にも思い出されました。彼女は彼を愛していました。彼の意志が、そうして死後も彼女に呼び掛けていることを、彼女はまったく分かりませんでした。彼女の悪意は彼を愛する心とまったく一つになっていました。それはほぐされることを嫌いました。嫌いましたが、愛は、人間の心をほぐすものでした。

 テオルドは彼女にこのようにして起きた複雑な変化の事情も、のちによく知るようになりました。しかし、彼の持つ希望は、イラのようにまだ死後三百年しか経っていない死霊どもの願望を含み、超えていました。彼の計画は、こうした霊たちの本当の目的を叶えてあげることでした。死んだ霊に限りません。地上に生きている人々のも。オグが動けば、地鳴りのような、巨大な太鼓の音がします。すべての存在は、過去から、影響を受けぬ者は一人もいません。
 必ず来るのは、その時でした。
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