第1話 白き町と破滅した街

文字数 17,984文字

 海の向こうから、大きな獣がやってきました。その獣は、海を飲み込み、川を飲み込み、全世界のありとあらゆる所の水を飲み込むと、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に、山、大陸、岩、石ころ、植物、動物、人間、さまざまなものを、その口から外に出しました。世界は昔とは違う形になりました。
 ところが、それでその獣は死んだわけではありませんでした。世界と同じように、形を変えていたのです。身体はばらばらにされましたが、その一つ一つの断片がなお生きています。例えば、星になったもの、歌になったもの、神様になったもの、そして人間を食べる悪霊になったものなどが…。





 ルイーズ=イアリオは、二十二歳のうら若い独身の女性でした。彼女は今歴史の授業で子供たちに様々な国の興亡史を教えているところでした。子供たちは皆真剣に耳を傾けています。イアリオの凛とした声は透きとおり、小さなま四角にくり抜かれた石塀の窓の外にも涼やかに響いていました。
「皆が知っているように、この世界にはたくさんの国が存在して、歴史上、それ以上の数の国が滅びています。盛者は必ず衰えるもので、一度もまったく同じ場所に最初から続いた国はないわ。これは、仕方のないことね。
 でね、もしこの町もそれと同じで、一つの国と見立てるなら、やっぱり、悲しいかな、いずれは滅びるわ。けれど、なくなる運命の王国はその後夢ある人たちによって立て直されることもあるのよ。国とは人々の胸の中にあるものです。失われてしまった国も、現在こうしてある国も、人々の心の中に思い描かれていないのならばないのと同じで、そうしているならば地上から消えてしまってもあるといえるかもしれない。なぜなら、無数の国が、今でも発見されずにいるかもしれないし、それ以上のたくさんの国が、誰かに知られぬまに滅亡しているかもしれないから。」
 イアリオは子供たちの面々をぐるっと見渡してみました。今の説明はどうも難しかったらしく、眉をしかめる生徒が大勢でした。これではいけない、と彼女は手を打ち、もう一度最初から話す構えを取りました。すると、一人の生徒が手を挙げて彼女に質問をしました。
「今の、不思議な言い方で、よくわかりませんでした。でも、この町はいつかなくなるかもしれないってことなの?」

かはわからない。でも

はなくなるわ」
「それってさあ、先生の言い方だと、なくなってもあるってことにならない?それって滅びてるの?それとも生きてるの?」
「先生の言い方が難しかったわ。たとえ滅びても、歴史学者がかの国を書きとめていれば、その国はずっと人々の心の中に残るでしょう?そうした意味で、

と言ったの。でね、もし誰にも知られずに滅びてしまった国があるとしたら、その国にいた人々にとっては

かもしれないけれど、記憶から抜けてしまったら、もう

のと同じになってしまう。そうした意味のことを言ったの。」
 わかった?と、イアリオは教室中の顔を窺いました。みな得心がいったような、神妙な顔つきをしていました。
「変な話になるけれど、私、小さい頃友達と王国を造ったことがあるわ。十五人しかいない、小さな小さな国だけれどね。もし私や、友達がいなくなったらあっというまになくなってしまうね。こんな例もあるわ。」
「先生~、おかしなこと言わないで。またこんがらかっちゃうよ」
 イアリオは「ふふっ」と笑い、ごめんねと言って普通の授業に戻っていきました。
 ルイーズ=イアリオは、目もとの涼しげな豊満な体の女性でした。くだけたしゃべり方が子供たちに人気で、彼女の授業はいつも人でいっぱいでした。くるくるほつれた長い髪を後ろに縛り、鬢に小さな輪を留めていました。これはこの町の一般的な女性の髪型で、結婚式や特別な儀式のときだけ、髪の結いを解くのです。また、彼女の服装は上半身にチョッキ丈のぶかぶかの藍染め綿を羽織り、下半身は膝元まで伸びるゆったりとしたスカートでした。チョッキの下は長い袖の襦袢を着ていて、スカートの腰周りを締める紐に一緒に挟みこまれていました。これは男女共通の服装で、この町に二股に分かれたズボンや外套の風習はありません。またアクセサリーの類は、何らかの式の他に身につけてはならないとされていました。ですからおしゃれといえば、髪留めの色や、チョッキの脇と首周りに長細く付けられる折り返しのあしらいくらいでした。
 イアリオの場合、おしゃれにはとんと無頓着で、いつも飾り気のない黒い髪留めと棒線が二本ずつの折り返ししか着ることはありませんでした。その体つきであるのに、色気はほとんど表に出ず、彼女に女として関心を寄せる男性はあまりいません。ですから今も、彼女は独り身で、独身なりの自由さを謳歌していました。
 イアリオは丸木柱つきの扉の掛け金をはずし、内側に開きました。すると同時に、授業終了のチャイムが廊下に響きました。子供たちは一斉に鞄を持ち、雪崩を打つようにして外へ出ていきました。鞄の中身は小さな粘土盤で、この上に彼らは文字を刻み込み、ノートの代わりにしているのです。他の教室からも小さな人々が飛び出してきました。皆この休み時間の合間に家へ帰り、昼食を食べてくるのです。イアリオの授業は午前中で終わりでした。彼女はこれから自宅へ戻り、食事を済ませてから、午後は用事がありました。
 その用事というものは、彼女の気分を落ち込ませるところがありました。彼女は憂鬱な面持ちで外へ出ました。教室の廊下はむき出しの地面でした。そこは、建物の中ではなく、狭い住宅の小路で、学校はこの道路に面した長屋を借りていたのでした。イアリオは裸足を進ませ(町には「履き物を履く」という慣習もなかった。)、影になりひんやりとした地面の土を踏みしめました。見上げるとこの壁は人の身長の二倍は高く、真っ白く塗られて少しだけ湿った匂いがしました。もの言わぬ塀々が見下ろす中を、彼女は空気を掻き分けるかのように、ゆっくりと歩き出しました。
 やがて、角を出ると、強い陽射しがさんさんと照りつける廊下の外に出ました。イアリオはそれまで胸の中を覆っていたすぐれぬ気持ちを払うべく、新鮮な空気をいっぱいに吸い込みました。陽光に温められた適度な温度が、彼女ののどに滑りこみ、体を温めました。彼女の藍染めの上着は少し特殊な形状をしていて、袖が上腕の半ばあたりまで伸びて、脇の下はゆったりと広く、なだらかに波を打っていました。このチョッキ様の上着はここでは「セジル」と呼ばれていました。普通は肩口から裾へまっすぐ立ち切られたような四角い形をしているのですが、最近はやりだしたものは、このように裾をだぶつかせてあしらうこの町としてはなかなか前衛的なデザインでした。その藍色の染め物に日の光が当たり、まぶしい陽光が潤すこの町の白壁のそそり立つ真珠のごとき街並みの一帯と調和して光りました。イアリオは、坂を下りていって、自分の家に帰り着きました。
 彼女の家は、坂道の中ごろの井戸の近くにありました。井戸といっても地中深くから清水をくみとるものではなく、小さな丘様の街並みの上部から、上水道を通して流した水を貯めおくプールでした。それは石と木とでできており、くみとりの桶から各人の持ち寄るたらいへと移しかえるのは、井戸と同じでした。そこは寄り合いの場にもなっており、昼食時の今は人もまばらで閑散としていました。イアリオは井戸に向けた玄関を抜けて、台所に入りました。そこには丁度準備を始めた彼女の母親がいました。「おかえりなさい」イアリオはにっこりとうなずき、自分の荷物を部屋に置くと、母親の隣に立ち料理を始めました。
「一緒に作ってしまってもいいのに」
 母はそう言い差しましたが、彼女は首を振りました。自分のことは自分で、というのが、十八で成人した彼女のモットーだったからです。たらいには今日取れたての新鮮な魚が入っていました。彼女はそれを取り上げ、三枚にひらき、ぶつ切りにして一部を塩漬けにしました。そして残りを下ごしらえして、野菜と一緒に、鍋に入れました。ぐつぐつと煮えるスープを見つめて、彼女は考えごとをしました。隣にいる母がそれを見たとき、まるで恋愛ごとに真剣に悩む表情に見えたのですが、娘の性格を第一に知る人物は、その予想がけっして当たっていないのもわかっていました。他の物音は一切聞こえないふうの娘を放っておき、母親はできたての料理を奥の間に運びました。
 イアリオは鍋からふっと目を上げ、窓から遠くを見つめました。外は蒼白い空が広がって、快活に鳥たちが鳴いています。彼女は目を細め、目の前の壁に向かって、ぶつぶつとひとりごちました。これから臨む仕事に、ためらいの念が強いせいでした。
 それは地下に行く仕事でした。地下、といっても、どこかの豪邸の床下を調べるといったものではなく、町全体の地面の下に潜ることでした。この町には、古い事件が隠されていました。およそ三百年前に滅びた国が、この下に丸々隠蔽されているのです。そこはとても広大な都市で、どんよりと暗く、灯の頼りがなければ歩くこともできない閉ざされた街でした。彼女はそこに臨むのです。気が滅入らない人間がいないのがおかしいというものです。しかし、彼女はその地下都市に何度も入ったことがありました。先ほど授業でも登場した、十五人ぽっちの小王国は、そこで成立したのです。
 彼女ははっとして、目を覚ました人間のようにぼんやりと中空の一点を見つめました。これから出掛けようとするその場所は、かつて、彼女とその仲間たちが事件に巻き込まれた、忌まわしい空間でした。そのせいで、一人の少年は行方不明になり、もう一人は本当に滅びてしまったのです。そんな記憶のある場所に人は絶対に行きたくないものですが、折りも折り、現在進行中の問題は深刻でした。
 彼女が今日向かう以前に、探索チームがすでに地下都市の調査を行っていました。定期的にここには調査隊が送り込まれるのですが、そこで二つの問題が生じました。一つは、外部からの侵入者が街に潜り込んでいる可能性を発見したことと、もう一つは、子供たちがその暗空間を遊び場にしていることです。イアリオが呼ばれたのは、昔子供の時分に地下を遊び場にしたからでした。どうすれば追い払うことができるか、そのアドバイザーの力を彼女は求められたのです。彼女はむっつりとした表情でその依頼を聞いていました。彼らは世間を騒がせた過去の事件の首謀者の一人に、このような罪滅ぼしを希求したのです。
 イアリオは食事を済ませると、早速出掛ける支度にとりかかりました。憂鬱な気持ちを振り払うべく、彼女は地下の入り口に向かう前に、ある家の前に向かいました。そこは、いろいろな家屋をひと連ねにした大邸宅で、白い塗壁はさんさんと降る太陽の明かりをまぶしく照り返していました。イアリオはこの邸宅の前に立ち、祈るような心地で、一番高いところの飾り鳥を見上げました。この家の住人の一人が、あの時、行方不明になったのです。「ピロット…!」彼女は彫像に向かって囁きかけました。それは、初めて彼女が好きになった少年のいまだ愛しい上の名前でした。

 ここで、およそ二つの事柄について説明を加えねばなりません。三百年前滅んだ国家についてと、イアリオが遭遇した事件についてです。その街はかつて黄金都市と呼ばれ、昔の有力な海賊たちが宝物を集めここに溜め込んだのです。街は、海に面していました。地下都市はその人工的な外壁を取り去れば豊かな港都市のよそおいを日の下にさらすのです。街は、難攻不落の要塞でした。海の外には暗礁がいくつもあり、陸は二方を険しい山脈が切り立ち、西側には深い溝が旅人の足を止めていたからです。この場所を拠点に、海賊たちは栄華を謳歌しました。あまたの金銀財宝が、彼らの手に渡って運び込まれました。海賊たちは、小国家の体裁を内面的に取っていました。彼らは地方の国の国王をわざわざ連れ込み、形だけの冠としたのです。こうしなければならなかったのは、頭に何か戴かなければまとまりがつかなくなるからでした。何せ裏切りと下克上が横行する世界なのです。海賊同士がまとまりをもって活動をするのは至難のわざといえました。しかし形式のみの王国の一員となった暴れん坊の彼らは、いかなる海洋国家も脅かすほどの絶大な力を手に入れました。そうしたわけで、世界中の富を奪うほどになった強大な国家は、次第に己の港湾都市を改築し、より住み易くじめじめした穴蔵の巨大石窟街を切り開いていったのでした。ここで、ちょっと考えてみると、海の上の陽射しや風を好む彼らがまるで土の中の街を好むのはおかしいことと思われるかもしれません。ですが、彼らは形として残る明確な富の象徴を欲したのです。それは何よりも人工建造物でなければならず、一見窮屈げにうかがえるこの穴蔵都市は、彼らの希望で、実際の力の形骸化だったのです。海賊たちは大いに満足し、またこのいびつな港湾都市を広げるために、世界中で略奪横行を繰り返しました。
 その国に起きた、滅びにつながる下克上は、雇われ兵士たちによるものでした。海賊は四方で傭兵を募り、これをうまく引き立てて軍事力を増大していましたが、その時は今や彼らより人数の規模が逆転していました。とりたてて雇われていた戦士たちは、この大陸の西側に属する勇猛果敢な部族でした。彼らが力を持ち、海賊どもに叛旗を翻したのです。翼はたちまち嵐を起こし、それまで支配されていた何もかもを打ち壊し、人々は自由を手に入れました。翼は静まり、辺りを見回してみますと、すっかり片付いた地面の上には、黄金の他に、卑しき賊はもうおりませんでした。海賊国家は戦士たちの統べる国に生まれ変わったかにみえました。ところが、こうしたことで大変な事態が引き起こされようとは、当事者たちは考えもしませんでした。
 詳しく述べることはここでは避けましょう。かいつまんで述べれば、黄金の統治者がいなくなったために、人々の欲望が、むき出しの状態にさらけ出されたということです。戦士たちは、この国を軍事大国にするべく軍備の増強に力を注ぎました。勿論、そうしたために軍隊は連戦連勝、向かうところ敵なしの状態でした。かの国はこれにより海賊たちの統治にあっていた頃よりずっと名を上げました。戦士たちは、いずれ自分たちが世界中を席巻しやがては方々の国をも支配下におく、強大な大国を目指さんとしておりました。しかし、外征よろしく内政はどうだったかというと、これはもう惨憺たるものになってしまいました。政治を司る人間も国外に追放してしまったために、そうした事態に陥ったのでした。ところで、海賊のしこたま貯めておいた財宝は軍部の持ち物となり主に軍事費へ用いられていましたが、人々の暮らしへは還元されませんでした。民衆は次第に暴力を発揮していきました。クーデターを起こしたのは兵士たちでありましたが、平民や奴隷にもそれなりの不服と申し立てとがあったのです。戦士だけの金となり、自分たちに何もおこぼれがないものとわかると、民衆はこの黄金を欲するようになりました。ついに、大災害は発生します。国家規模の自滅の戦争が押し始まったのです。隠れ家のような土と岩とでできた壁に囲まれた閉鎖空間に、怒号が響き渡り、各人が、手に手に武器を持ち、黄金を求めて、むき出しの欲望を吐き出したのでした。ああ、その無残たる無慈悲な戦いは、とてもその全てをここに書き記すことはできません。思いつくだけの、残酷非道と、悦楽と、狂態とが入り乱れ、それはまるで世界が沈むようにも思われるほどだったのです。戦いの火がおさまり、恐る恐る逃げおおせた人々が暗がりを覗き見ると、予想される以上の累々した屍が、彼らの目の前を覆いつくしていました。その様子を見て、誰がいったい、二度とこのような事態を引き起こすべきではないと、全てを監督せねばならないと思わないでしょうか。いったい、人間の欲の尽きる終着点を、まざまざと、人々は眼前にさらけ出されたのです。これが、三百年前起きた、国の滅びのあらましでした。
 人々はこの街を封鎖し、どこからも見られぬよう、慎重に外壁を築き、その上に彼らの住居をたてました。それが現在の白き町でした。さて、このような背景ある地下都市に、遊び場など設けている子供たちへの罰則は甚だならぬものにしなければならないでしょう。しかし、大人たちはこのお話を成人するまで彼らには聞かせませんでした。なぜなら、あまりに無残で、耐え難い先祖の失態の物語でしたから、町人として責任ある年齢に育つまで待たなければならなかったのです。ところが、このことを知らない子供たちにとっては恰好の隠れ家としか、この陰惨たる過去をもつ地下街は目に映らないのでした。そして、イアリオをはじめとした十年前の十五人の子供たちは、過去、この街で探索の遊戯をおもしろく行っていたのでした。そこで、彼らは…。

(ピロット、私を守って)
 イアリオは胸の前で手を握り、鳥の彫像に祈りました。彼女は強い気持ちを持とうとしました。およそ十年ぶりに向かう暗がりの地下は、おぞましいものたちを思い出させるところだったからです。彼女たちが見たもの、それは累々とかさばる人の死骸でした。ある蔵の扉を打ち壊したときに、それは出てきたのです。子供たちは、ちりぢりになり泣き叫びながら、地下を逃げていきました。その後、彼女の親友は行方不明になったのです。暗黒の、悪しき力にあてられて、可哀そうな少年は、その姿を消してしまったのです。もう二度とあのような目に誰かを遭わせてはいけない…その気持ちは誰もが同じでしたが、当事者たる彼女がその当時の気持ちに整理をつけることは、十年たった今でも難しそうでした。
 彼女は胸がぐっと潰されるくらいに苦しくなりました。空を渡る風が、彼女の方に降り、そのほつれた前髪を、前後に揺すらせました。突然、イアリオは面を上げ、はっとした面持ちで愛した少年の生家を見つめました。まるで、今そこに彼が存在するかのように…。彼女は、少年の声を聞いた気がしたのです。「思うことをするといい。自信をもって、大丈夫だから」そのように…。
 かの言葉に導かれ、女は、邸宅をあとにしました。

 最初に、地下に通じる穴を発見したのは、友達の落とし物を探していた、ピロットともう一人の少年でした。彼らは野外授業に出掛け、野草の観察をしている最中でした。近くにいた少年少女たちを、二人は集めました。思った以上にその穴は深く、先があり、好奇心がなんともそそられるたたずまいをしていたのです。十五人の子供たちが集まり、さて、このぽっかりと口を開けた未知の通路をどのようにして探索しようかと話し合いました。そこにイアリオもいました。彼らは授業のあと、もう一度つどい、いよいよと暗い穴蔵に次々と頭を入れ始めたのでした。
 それから十年の月日がたちました。彼女は、当時入った穴とは違う所から、大岩をどけて中に入りました。先導の灯を頼りにうねうねと下がっていく狭い道幅の通路を行くと、途端に広々とした巨大な空間に出くわしました。ああ、と彼女は嘆息しました。また来てしまった、この場所へ。忌まわしい思い出のある、この暗がりに。彼女は胸が締め付けられ、気分が悪くなりました。しかし前へ歩かなければなりません。彼女は強い気持ちをもって、この闇の圧迫感のある暗黒の場所へと、調査隊とともに分け入りました。まず彼らが向かったのは、侵入者と思しき者の付けた跡のある所でした。そこは、にわかに地上とつながっている坂道の角でした。地上への出口はすっかり塞いでいましたが、隊員が少し天井を横にずらすと、まぶしい光がその一角を照らし、問題の跡をくっきりと囲みました。隊員は彼女に壊された入り口の扉のかけらを見せました。大変強い力で砕かねばここまで破砕しえないはずの石扉の残骸でした。その石扉を砕いたであろう人物の足跡と思しき跡を、光は囲んでいました。どうやら犯人は一人のようですが、明らかに扉は内側から砕け、犯人はどこかからこの地下都市に紛れ無理矢理扉を壊し、上の町に潜んで今も隠れているはずだろうと検証されました。
 ところで、これで地下への入り口を全部確かめたことになり、その一つ一つが閉ざされているのがわかって、あとは町の外側に陣を張って建物の隙間などをくまなく探せば侵入者は見つかるであろうとされました。大人たちは緊密に連絡を取り合い、蟻一匹も見逃さぬ注意深き眼を皿のようにしていました。こうしたことは、珍しくなく、いわばこの町の伝統にもなっている警戒の技で、これまで一度も侵入者を逃したことはありません。なぜなら、彼らは地下にいまだ残されている黄金の流出を恐れていたからです。黄金は、人を惹きつけ、心を蝕み、三百年前のような惨事を引き起こします。また、もし海賊どもの失われた財宝がまだこの地にあると外の世界に知れたら、この町は一巻の終わりです。以前は外側の勢力と伍して戦うこともできましたが、いまや時代は変遷し、町に蓄えられた武力のみでは立ち打ちできないことを知っていました。彼らは、自分たちの美しい町の地下にある金銀財宝の類を、恐々としながら守らなければいけない立場だったのです。ですから、当然警戒の目はまったく怠りなく町中を見張っていました。
 さて、イアリオの目の前で隊員はわずかに開けた(そこからはとても人一人入ることのできない小さな穴である)採光窓を閉じ、再び彼女を案内して先を行きました。その場所からほんのわずか離れたところで、彼らは屈み込み地面を灯で照らしました。あちこちにたくさんの足跡があります。どれも大人のサイズより小さく、ここを子供たちが遊び場にしていたまったくの証拠たる足跡でした。どうすればいいものか、と隊員らもイアリオも考えました。彼らはイアリオの言葉を待ちました。彼女の中にあるアイデアが閃きました。そのアイデアに、隊員は全員賛同しました。
 どの子が地下を遊び場にしているのか、目星はついていました。このようなことになってから、侵入者監視の連絡は全町民に向けて発信されていましたし、と同時に、子供たちの監督も注意されていたからです。侵入者は厳罰をもって臨むとしても、子供たちへの対処はその時結論は出ずに、持ち越されていました。イアリオは、その時に彼女が知っている子供が遊び場に来ているのを知り、このこともどうしても彼女を再び暗黒の都市へ赴かせる要因になっていました。彼女は、ひと芝居うつことで、皆を地下から追い出そうと考えました。そのあとで、彼らの発見した入り口を塞ぎ、まるで何事もなかったかのようにしてしまえばいいのではないかという案は、一番よさそうに隊員たちの耳には届きました。子供たちに教え込む必要があるのは、この場所はとても恐ろしいところだということです。それを、三百年前の事件を詳しく教え込むことではなく、印象深き体験を施して身を引かせることで、植えつけてしまおうというのです。
 準備は整い、役者が勢ぞろいしたのは、その後三日たった日でした。人々は白装束と太鼓と化粧道具をとり揃え、イアリオの到着を待っていました。彼女はそこで、恐ろしき女戦士の亡霊に化けるのです。こんな話が、町には伝わっています。それは昔話で、炉辺で誰もが幼い頃聞いていた物語でした…。ある理由で地下室に閉じ込められた女戦士が、村中の人間たちを呪いながら死んでいくという話です。その女性は男などかなわないくらいに力が強く、勇壮で、豪胆でした。戦場へ行っては必ず功績を立てて帰ってきます。得物は黒い剣で、どんな相手をも打ち負かしてしまう研ぎ澄まされた刃を持っていました。彼女はその剣でもって武勲をたてて、村に富をもたらし、それがために村中は、彼女をほめそやします。
 ここまでなら、突飛な女性戦士の勇猛談なのですが、その女は、自分の力を過信して、ある時恐るべき魔物と対峙してしまうのです。ここで、女は魔物に喰われてしまいます。その魔物は、人の心を読み取り、人間の悪意を否応なく増大させる、魔の力を持っていました。女はその力を受け継いでしまいます。人は、彼女を前にして、誰もかなわなくなってしまうのです。女は、その村に一つとてつもない悪を働きました。誰かの恨みをその女が代わりに果たしてしまったのです。彼女をしてその誰かの恨みは人一人殺害することはわけがありませんでした。ところが、その女はこう宣言したのです。「私は、この者の命令によって罪を犯したのだ!」と。その者は狼狽し、いいや、そうではないと否定しますが、彼女の言うとおりひどい悪意を相手に対して抱いていたものですから、はたしてその行いは、自分の命令だったかどうか、わからなくなってしまいました。
 しかし、村人たちはその人の言うことを信用し、女を地下室へ閉じ込めてしまいます。女は、かの魔物の力を受けていましたから、人々の心の語る悪意にまみれ、それ以外の心を読み取ることがなく、人々を呪いつつ蔑みつつ滅びたのでした。
 化粧をされ、死人を思わせる白い装束を着せてもらったイアリオは、なんともお話の中の女戦士にそっくりでした。ちぢれた髪など迫力満点で、いかにもいそうな風貌の幽霊です。この姿で子供たちの前に現れれば、彼らは十中八九先の物語を思い出し、てんでに逃げおおせることは想像がつきました。演出もばっちりです。ところで、もう一つこんなお話があります。祭囃子に乗せられて、悪い妖精が現れるというものです、この妖精も、なかなかあくどく、子供たちの心理に鋭い影を落とす魔物でした。ここでその詳細は避けますが、彼らはきっと、これから打ち鳴らされる不気味な音楽に対して、それと同じ恐怖を体感するでしょう。
 そろりそろり、一団は足音を立てず、例の穴から中に入りました。耳を澄ますと遠くから、子供たちの歓声がどことなく聞こえてくるようです。というのも、この地下では時々得体知れない音が鳴ることがあり、それかもしれなかったからです。しかし、やがてそれは本物の彼らの足音だとわかりました。一団は打ち合わせどおり打ち物と数珠と(これは式典の飾り物に使われるもので、決してこのような試みに使われるものではなかった)を用意して、そろそろと、太鼓を打ち始めました。とんとんとん。とんとんとん。始めはほとんど聞こえないほどの大きさから、次第に音量を上げていきます。とんとん、どんどん。子供たちが物音に気づき出します。遊びはやめて、遠くの方を何事かと振り向きます。とんとんとん。どんどん。音は、だんだん不規則になっていきます。祭囃子のあのリズムに乗せて、焦燥と喧騒をうまく表現した土俗の音楽を奏でるのです。子供たちは不安になりました。いったい、突然この暗がりの中で、誰がこんな手の込んだいたずらをするでしょうか。もしかしたら、これは…自分たちの知らない、悪意ある存在が鳴らしているかもしれないぞ…!
 子供たちは一気にパニックになりました。そこに、音楽とは違う方向から、思いがけず正体不明の白い衣に身を包んだ女らしき影に向き合いました。もう、そこは驚異渦巻く混乱の極みに達しました。まるで蜘蛛の子を散らすように、一斉に子供らはその場から逃げ出しました。不思議なもので、大人たちはこの様子をひどくおもしろく思い、もっと驚かせてみたいと考えました。しかし、彼らがどこかへ潜ったり行方不明になっては本末転倒なので、これも打ち合わせどうりに、太鼓の音なり白装束なりで、うまい具合に誘導していきました。子供らの大部分はまっすぐ秘密の入り口と思われる方向へ逃げていましたから、そこへ向かって、包囲網を狭めていきました。イアリオはいささかほっとした気持ちになりました。ここまでくれば、計画は半分以上も成し遂げたことになるからです。けれど、彼女は今暗い街角から出てきた男の子を見て、ぎょっとする気分になりました。彼は、一見騒ぎに呑まれて方向を失ったあげく、袋小路に差しかかってしまったと思ったのでしょう、半泣きになって慌てて飛び出したようにも見えたのですが、彼女がしっかり見てとったその表情には、虚ろな、なまなましい驚きにあった気分を物語る色がありました。まるで、いましがた出会った驚異とは別の、何かに遭遇したあとのような…。彼女は彼のこの表情を忘れられませんでした。ふいに彼女は、街角の高い壁の上を仰ぎ見ました。真っ暗でその先は何も見えませんでしたが、そこから、人の視線を感じたのです。もしかしたら、侵入者ではないか…?そんな疑念が浮かびましたが、ここから追いかけようにもどうすることもできなく、彼女は周囲の大人たちと一緒になって子供たちを追いかける場に行きました。
 あちこちに散逸した少年少女たちは、どうやら皆同じ穴から外へ出ていったようでした。イアリオは、坂の上方にぽっかりと口を開く亀裂が見えました。それは、地下を覆い隠す目的で埋められた木組みの天井でした。脆くなっており、木材の一部が腐食しています。これで、彼らは閉ざすべきもう一つの扉を発見することができたのでした。

 とにかくこれで、一連の事件は収束したかにみえました。侵入者と思しき人物はまだ捕まっていませんでしたが、それも時間の問題と思われました。町人は監視の手を緩めず怠りなく互いに注意深き目を交わしていました。しかし、イアリオには一つの懸念がありました。子供たちを追いかけていたとき、感じた誰かの視線がその理由です。偶然か幻か、それはわかりませんが、とにかく彼女には尾を引くような感触を与えたのは事実です。彼女は、町の評議会に直談判して、自分だけでも再び地下の調査に当ててくれないかと直訴しました。
 これに、議会は承認を付与しました。というのは、彼女の感覚を信じたわけではなく、彼女自身が大きな信用を勝ち取ったからです。過去の罪滅ぼしを立派にやり遂げたのですから、その自由をいささか保障するのは当然の心理でした。こういうわけで、イアリオは単独で地下の暗闇都市の間を観察し徘徊する権利を獲得したのでした。ですが、それ以後、侵入者らしき人間はまったく発見できませんでした。しかし、半年と何日かたつと、人々はもしかしたら町人の誰かが下に落ちて、死に物狂いで地上を求めて脱出しただけかもしれぬと判断し始めました。こうした例は、過去にも幾度かあったからです。何度か地下都市の捜索を行っても、何人か入り込んだ形跡はまったくなく、この判断を後押しする形となりました。ただ、イアリオだけが、不気味に存在する自分を見たらしき人物の眼差しの感触を覚えただけでした。
 子供たちは、ある噂話が半年ほど持ち上がりました。震える暗闇の幻の都市に、お化けが出て、自分たちをこらしめにやってくるというものです。あのとき暗黒都市で遊んでいた彼らは入り口も忽然と閉ざされてしまいましたので、まるで夢のようだったと思わざるをえませんでした。ですから、大人たちがそんな子供らの噂を聞くと、うまいこといったなと、イアリオたちの計画を賞賛する心持になるだけでした。しかし、ことはそう単純で楽観できるものでは、実はありませんでした。暗黒が忍び寄っていることを、最も敏感な感性の持ち主がキャッチして、彼らにそうした話をしているのです。ですが、このことを述べるには大分あとになるでしょう。恐ろしい、驚異なる巨大な力が、今にも押し寄せんとしているのを、まだ誰も感づいてはいないのです。

 かつての黄金都市の上には、木組みと土壁とがかぶさるように広がり、天井を塞いでいました。そこへさらに固い土台を築き、倒れぬようにして、都の上に彼らの白き町はできあがっているのです。海側は塗壁で遮りその外側に岩を組み、苔や蔦などで覆い、ただの岩壁にしか見えないようにしています。都市は、丘様のドームに覆われて、ほとんど暗闇の中にありました。ただし、海側の上方に若干の隙間が見受けられました。そこから淡く外の明かりが差し込んでいますが、頼りになる光はこの陽だけで、地面は暗い帳に深く覆われていました。ここに今も上の町からの出入り口があるのは、外側から黄金狙いの盗賊が現れたときに、人々を送り込む必要があるからでした。しかし不用意に入ってはならないよう、入り口には仕掛けや工夫が施されていました。二人以上の大人の男がいないと動かない大岩で塞いであるもの、鍵が必要なもの、少し特殊な開け方を知らなければならないものなどです。イアリオは、そのうち一つの入り口を使い、地下へと潜っていきました。その場所は、かつて彼女たちが子供の時分潜ったことのある穴とは大分はずれた所の、建物の少ない野原の茂みの中でした。土を払うと扉が見えました。しかし、その扉は見た目真正面にある荒れ家の蔵か何かに通じる小戸の感じがしました。その入り口は鍵の必要な玄関でした。彼女は、小さな青銅製の鍵を取り出して(こうした鍵は評議会預かりの倉庫にある金庫に保管されている)、石扉のくぼみの隙間に差し入れました。かちっと音がなり、イアリオはそろっと扉を手前に引きました。大人一人分の大きさの真四角の穴が、外に向かって冷たい空気を吐き出しました。彼女は周りに誰もいないのを確認して、するりと穴の中に入っていきました。
 そこは懐かしき街並みの広がる石組みの路地でした。イアリオは、ここから子供の頃皆で遊んだ街の一角はどのあたりにあるだろうと想像しました。ですが、今はそんなことをする目的でいるのではありません。彼女は、視線の主を探しにいかなければならないのです。彼女がそれだけその感触に拘ったのはわけがありました。袋小路から飛び出てきたあの少年の面差しが、彼女のよく知った人間に似ていたからでした。アステマ=ピロットは、十二歳のときに行方不明となりました。その彼が、当時侵入してきた二人組みの盗賊と、いろいろと話をしたあとの表情にそっくりだったのです。少年の面差しは、彼を思わせました。それでいてもたってもいられなくなったというのが、本当の理由でした。眼差しの人物がいたかどうかは、この際あまり関係がなかったのです。けれども、それは彼女自身がそう意識しただけで、本当の感じは、むしろ、事実でした。
 彼女はこの場所に入るのは最近で三度目でしたが、もはや勝手知ったる様子で、すたすたと恐れも知らず歩いていきました。松明の灯を手がかりに、まだ知らない街並みを進む脚にも、相当に慣れた感じでした。それもそのはず、彼女は仲間たちと一緒にこのしんとした街の探索に、十分な時間をかけていたからです。子供の頃とった杵柄は、今でも生きています。彼女は、十年ぶりに入ることになったこの暗闇の世界に、非常な恐れを抱いていましたが、いざ挑んでみれば、懐かしい感覚が蘇ってきたのです。それは、山野を飛び回る子供時代を過ごした大人が、思い出の山を見て感じるうきうきした気持ちでありました。彼女は、この暗闇がいかに恐ろしいものであるか今では十分に承知していましたが、やむにやまれぬ感情が、体全体をこの地に行かせたのでした。今でこそ見えてくるものが、溢れんばかりにありました。そして、彼女は祈る気持ちになりました。
 この場所で、彼はいなくなった。私は、いったい何ができただろうか。
 子供であった頃の当時…彼女は、それが自分のせいだと思いました。なぜなら、盗賊たちと通じたピロットの言うことを無下にして、自分は大人たちに通報してしまったからです。黄金を狙いにやってきた二人組を、彼はなんとかして己の力で追い返すと言っていました。その時、もう一人の行方不明の仲間がいたからです。すべてが明らかになってしまえば、もう二度と、彼らは地下の興味深き探索の遊びに行けないどころか、折角培ってきた十五人の運命共同体も、脆くも崩れてしまうのでした。けれど、どうしても彼女は通報せざるをえませんでした。約束をした彼もまた行方知らずとなり、言う通り一日だけ待った彼女のところへは、なんの報告もなかったからです。イアリオの報告の直後、大人たちは次々に地下都市へ繰り出し、盗賊たちを追い詰め、これを退治しましたが、その後ピロットは完全の行方不明となり、死かあるいは生かの消息をも絶ってしまいました。彼女は、非常な苦しみを覚えました。天に祈らざるをえませんでした。そのときと同じ気持ちに…今なっていたのです。
 彼女はすべてを思い出しました。イアリオはすべてに祈り念じたい心でいました。蔵を壊し、出てきた無数の死骸にも、子供の時分の自分たちにも…。彼女は、ふと思い立って、かつて仲間だった人たちと会話がしてみたいと気づきました。今なら、十年ももうたったのだから、あのときの話を、自由にできるかもしれない…彼女は、この思いつきがとてもいいことのように感じました。イアリオはつと出口に向かい、はたと足を止めました。そうだ、テオルド、彼はどうだろう。彼女は現在図書室の司書を務めているカルロス=テオルドに、まずこのことを相談してみようと決めました。
 恐ろしいことは、この時、彼女の身の上に起こりました。いいえ、それはずっと以前から、霊魂の結び付きといえるすさまじい過去の忘却された記憶から、いみじくも彼女が授業で伝えたような、忘れられし歴史の国の影から、それは現れてきました。彼女が見たものは、白い影でした。それはふわふわと地面の上を浮遊し、つとこちらを振り向いたように見えました。彼女は、目をしばたたきました。初めて幽霊というものをこの目で見たからです。いいえ、当然、この暗黒のなかにはそのような存在がいてもおかしくはありません。ところが、こんなにもはっきりと見えたのは、子供の時分でもなかったのです。不意に冷たい風が背後から吹きました。ぞくりとした気分が背筋を覆いました。彼女は身構え、自分が演じたのとは違う本物の亡霊を前に、恐れおののきました。亡霊は薄い白色の衣を着ており、引きつったような薄皮の唇を、真一文字にきゅっと閉じています。その目は大きく、まるで過去か未来を見据えているかのような、遠い眼差しをしています。その焦点がこちらに合いました。彼女は、強い胆力をもってこの眼差しを受け取ろうとしました。というのは、もしかしたら、彼女らが誤って(それこそいまや誤りだったことが、彼女にはよくわかっていました)打ち壊した蔵の幽霊かもしれないと考えたためでした。彼女は自分の子供時代にも、またこの地下街の全体に棲まうであろう亡霊たちにも、済まなさがありました。そのために彼は、いなくなったかもしれないのですから。
 幽霊はまるでその目を恐れたかのような、妙な素振りを見せました。正面からの眼差しを受け止めきれなかったのは、あちらでした。しかし、不思議な風が巻き起こり、イアリオをその霊の方へ押しやるように吹雪きました。その時、霊は何事か言いましたが、震える糸のようにか細いものでしたから、なんとなく理解できたこともはたして正しかったのか、彼女には判断がつきませんでした。ですが、「おいで」と誘っているようには見えます。彼女は、幽霊のあとをついていくことにしました。
 亡霊は、一見して男性か女性かわかりませんでしたが、後ろ姿は女性のものでした。風貌はまこと性別の判断が難しく、見え透いた眼光は超然として不思議なものそのものでした。背丈は彼女より若干低く、髪型も女もののようなのですが、どこか威力ある存在感は女性が醸し出すのとは別個のものでした。しかし、背中をくるりと向けるとそれは「女」を訴えていたのです。この女こそ三百年前恨みを吐き散らしながら死んでいった未亡人だということは、今も未来も彼女の気づくところではありません。
 前を行く幽女の霊気は冷たく後を行くイアリオに降りかかってきました。冷たさが下から這い上がり、身震いするほどの寒さが満ちてきたことに、吐く息が白くなってやっと彼女は気づきました。そこまで寒冷が町を襲うことは滅多になかったために、イアリオもこの亡霊の持つ力を恐れ始めました。すると、前を行く女が足を止めて、こちらを振り向きました。そこは壁の崩れたある大屋敷の真ん前でした。急に冷気が増したので、彼女は危険を感じて、あとじさりしました。
 幽霊の眼光が大きく恐ろしく輝き出しました。ここで餌食にしてしまおうと、彼女を見据えたのです。言い知れぬ危険と、測ることのできない恐怖とが、眼前を駆け抜け、後ろ側に回りました。彼女は囚われた乞食のように動くことができなくなりました。
 すると、天井から光かなにか、さああと降り下り、亡霊の周囲を柔らかく包みました。幽霊は嗚咽しいやいやと首を振りました。その女にとってなにかいやらしいものが下りてきたに違いありません。苦痛の言葉を地面に振り撒き、亡霊はゆっくりと天に昇っていきました。その途中、白い衣の女はイアリオに向かって目を細め、真横の庭を指差しました。イアリオは茫然とその様子を眺めていましたが、やがて淡い光に女が掻き消えてしまうと、ようやく自己を取り戻し、体に自由がきくようになりました。
 彼女は、女の指差した庭の奥の方を、崩れた壁から覗き見ました。そこには無骨な佇まいの一個の岩と、その足元の黒い背表紙の本があります。彼女は、おそるおそる邸宅の庭先にお邪魔して、その本に近づきました。そしてはっと、身を翻しました。近くに人の骨があおむけに転がっていたからです。彼女はじっとその骨を見ました。どうやら女のものではないと思いました。ただし、骨格は大人のもののようにがっしりと整ってなく、子供のものが、そのまま大きくなったような妙な印象でした。
 彼女はこの遺骸に手を合わせ、そして岩の麓に置かれた黒表紙の書物に手を伸ばしました。ゆっくりと、それを持ち上げると、黒いインクが揺らめく炎に光りました。よく見ると、黒に黒を重ねていたので読み取るのに大変でしたが、昔の文字で「我が日記」と書かれていました。もしかしたら、三百年前、この地で死んだ人間の著したものかもしれません。彼女はその下に小さく筆者の名前が飾られているのにも気づきました。目を細め、なんとかして読み取ると、そこには「ハルロス=テオルド」と銘打たれていました。(テオルド…?まさか、カルロス=テオルドの、御先祖様なの?)これで、なおさら彼女はテオルドのところへ行ってみる必要がありました。評議会の決定事項として、地下から何も持ち出してはならないことになっていたのですが、もし直接に現在の町人に関係するもので黄金と何も関わりがないものだったら、咎められることはないだろうと彼女は思いました。
 イアリオは、黒い本を掲げ、この町全体の暗黒に向けて、宣言しました。この本は、まだ暗闇の所有物だからです。私はこの本を持っていく。どうか、そのことに耳目を置かないように。いにしえの人々よ、私を許してください。そう彼女は念じたのでした。
 どこからか応えがあったようです。彼女は背後を振り向きました。死んだのか生きているのかわかりませんが、彼女がいまだ愛している彼が、そっと傍に立って、亡霊たちを慰めていたように感じたのです。その時、イアリオはまたいてもたってもいられない衝動に駆られました。ここにいる亡霊たちを慰めなくては。ずっと地下の暗がりにいて、誰もが顧みてこられなかったのだから。誰もが封印され、上の町の人々に供養されてもこなかったのだから…!彼女は静かに目を瞑り、地下の静寂に耳を傾けました。暗黒の内部にひっきりなしに嘆く人々の怨念と想いとが渦巻いて聞こえました。そうにちがいないのです。この街は、忘れられしふるさとで、その子孫からも忌み嫌われる魔の国なのです。ですが、彼女らの祖先なのです…!
 誰かが慰めなくてはならない。このある一人の女の中に起きた衝動は、三百年たってようやくかの町に芽生えた正確な心情でした。それまで、人々はこの暗黒を恐れて、過去を恐れて、未来を恐れて自らを呪縛していたのです。しかし、自由は苦しみを伴います。これから紡ぐ物語はそれこそを語っていくのです。
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