第14話 北の森

文字数 39,056文字

 イアリオの目の前には、こんもりと生い茂る森と、その頭上に高く天を突くように聳える険しい山がありました。彼女は自分の荷物を確認しました。食料と、予備の着替えと、包帯と、いくつかの薬を入れた箱と、火打石と松明と、縄と靴が鞄には入っていました。彼女は早速レーゼがくれた鏡入りの筒を、目の所に持っていきました。彼女はガラスを見たことがありませんでした。本当は、子供の頃地下で大屋敷の二階でそれを見たことがあるのですが、彼女はそれを忘れていました。ですから、そこに何か嵌っているように見えても、きらきらと光るその表面を、覗き込むには勇気がいりました。透明なのはこの町ではただ水だけなのです。彼女は、まるで水が硬物のように硬くなって、この形になっているのかと思いました。思い切ってそれを覗くと、何が見えているかわからない景色でした。辺りは曙を迎えて、来光がだんだん地面を温めてきていました。澄んだ空気が湿けた気層を吹き払っていきました。望遠鏡が見せたのは生い茂る木の葉の重なりでした。イアリオは、鏡を傾けてもっと高くを覗こうとしました。すぐに、鏡は青くて白っぽい絵の具を重ねたような、変な空域を映しましたが、それは勿論、望遠鏡をはずしてある空でした。空は、この鏡を覗き込むと、こんな風にも見えるのだということは、イアリオの心を温めました。ですが、それが拡大して見ている空だとはまだ彼女は判っていません。
 風が起こり、立木が揺すぶられました。彼女は、では、森の木立はどう見えるだろうと覗き口を下方に下げました。すると、その中に狩人たちの集落が、すっぽりと収まって見えました。彼女は望遠鏡を上げて裸眼と見比べました。当然、鏡を覗いた方がまったくはっきりと目に映りました。イアリオは何度も何度も、鏡の見せるものと裸の目が捉える景色とを交互に確かめてみました。あっけに取られた彼女の顔つきは、不思議なものに遭遇し、その正体を知った時の子供のものでした。
「これって凄いな」
 彼女はこんな貴重な道具を貸してくれたレーゼにいたく感謝しました。そして、少しだけ寂しくなりました。これは、間違いなく行く手に危険があるかどうか、確かめるためのものだからです。彼女は行かなければなりませんでした。彼やハリトと、このおもちゃを使って楽しむことはできないのです。イアリオは自分の行路を確かめました。彼女は普段町人が見張りを立てている山越えの道は避けて、狩人たちの土地を突き進む計画を立てていました。彼女は狩人たちの生活のパターンもじっくりと調べていました。彼らは何日かに一度村を挙げて狩りに出掛けることがありました。今日がその日であることをイアリオはわかっていました。彼らが狩場を視界に納める前を横切らなければ、見つからずにある程度の所までは進めるはずでした。ですが一番の問題は、目の前に立ちはだかる山を、どのように越えていくかでした。彼女は山登りなんてしたことがありませんでしたし、登山が可能なルートだと思われている所には抜け目なく町の人間の目があったのです。
 しかし彼女は、町人の罪人の記録を洗った時、町から出て行こうとして処刑された人間の諸々の情報を参照できました。その際に、一人だけ、山脈を乗り越え、その後その向こう側からこちらへ侵入しようとした人間がいたことを知りました。彼は、一体どの道を辿って向こう側に渡ることができたのか、資料には書いてありませんでしたが、この記録が細い糸のような可能性をともかくも示してくれました。もとい、イアリオはせっつかれるように山越えを目指さねばならなかったのです。天女の言しかり、ハオスの言葉しかりでした。当たって砕けろの精神ではないにしても、彼女は、強い精神力でもってこの無謀な挑戦に臨んだのです。自分の生命は自分に懸かっていました。ですから、無謀であっても恐れてはいませんでした。山登りのために、オルドピスから贈られた本を見て、もしくは自身の歴史の知識から、必要な道具は自分で作りました。靴もそうですし、縄で製作した滑り止めの手袋も用意していました。木登りと山登りでは言うまでもなく勝手が違うでしょうが、木登りの得意だったイアリオは、その時の武器だった縄を最大限利用して登る覚悟でした。彼女は自分のチャレンジを必ず出来るものと信じていました。
 ですが、今こうして、朝空の下を山の肌に目を向けて立っていることが、どうしても不思議でした。これからの冒険が、まったく未知の世界に踏み出すことになるのです。どうして自分は、こんなことを望んだのか。考えるまでもないことを、イアリオは考えてみましたが、わざと首を振りました。その時、彼女のまぶたに、つい火が灯りました。熱い火がめらめらと燃えて、揺らめき、うっすらと人の目がその中に見えた気がしました。彼女は目を開き、一体今の幻は何だったのだろうかと振り返りました。オグ…その単語が閃いて、イアリオは唾をごくりと飲みました。そして、一歩を、森の方へ踏み出しました。
「さあ、行こうか」
 覚悟の足は、明るい日差しを、夕暮れ色に押し潰さんと、未来へと進みました。さて…イアリオは、もはや町を振り返りませんでしたが、ピロットのことはどうしたでしょう。彼女は記憶を失った彼を一人、洞窟に放っぽいて帰ってきました。それは、その時彼女はあまりに喜び過ぎて、彼が生きていたことを不可思議ではなく必然に捉えたからでした。どうあっても彼は一人で生き抜く力があったのだと、信じ込んだのです。彼女は彼を心配するより彼の能力を信じました。そして、彼女はハリトとレーゼに後を任せました。イアリオはもうピロットのことを考える余裕はなかったのです。彼のことは、すでにもう解決していたのです。その再会によってとてつもない喜びを得たとして、それが後ろ髪を引くことにはなりませんでした。ピロットの帰還こそ、オグの導きがあったことだとしても、それはまだ、彼女に働きかける力ではなかったのです。
 冷たい地下水が揺らぐ上に、かの魔物はいました。その場所は世界の原初でした。生まれながらに体に悪を宿すのは誰でしょうか。そして、生まれながらに人と人との間にあるのも。
 森林が、斜めに生い茂っています。繁茂するつる草は、とげがあり、熱い匂いを立ち込ませていました。草木はとても元気よく育っていて、イアリオは、この森の中が心地よく感じられました。それは、幼い頃この辺りに遊びに来た記憶と何ら変わっていない感覚でした。その時は、確か、ピロットもテオルドも傍にいました。保護者同伴で、大勢でここに来ていたのです。彼女は、高い木を目指して突き進み、樹に取りつくと枝葉をかき分け登っていきました。ロープはこの樹に使う必要がありませんでした。大人になった彼女に樹木はやさしく枝の手を、方々に差し出していたからです。彼女は苦もなくするするとてっぺん近くに到達しました。そこから、早朝の狩人の村をまた偵察してみました。青々とした茂みの真ん中に、やや禿げた土地があり、そこに藁葺きの家がいくつも建っています。村人たちは、たすき掛けにしたきらやかな編み物と、腰蓑とを身に付けていました。そして、一様に盾と槍とを持った男たちが整列し、歳若き長老に挨拶をしました。女共は彼らを見送ろうと表に出ています。やはり、彼らはこれから狩りに出掛けるのでしょう。しかし、狩場がこれからイアリオが行くルートに重なっているのかどうか、そこまでは窺えません。彼らの狩りは山脈に沿って連なる広大な森の中で行われ、町人たちの管理する田園までは下りてきませんでした。彼女は、このまま彼らがどこへ向かうか見てから行くか、それとももう少し先へ進んでから、また様子を窺ってみるか、判断しました。彼女はするすると樹を降りました。どちらにしても、町から彼らに自分がいなくなったことの連絡がつかないうちに、是非にも山を越えなければなりません。彼女は行程に彼らの邪魔が入らないよう祈り、歩を進めることにしました。
 先日は雨が降ったためか、地面が相当にぬかるんでいました。イアリオは山登りなどほとんど初めてですから(丘を含め、急な斜面を登ったことはありました)、かなり登山にてこずりました。足を擦りながら、道なき道を背を屈め渡り、やっと、目標の平地に辿り着きました。森の切れるまでの距離の三分の一を経て、イアリオは改めて高い木に登り、周囲を見渡しました。レーゼから借りた望遠鏡を覗き、狩人たちはこちらとは反対側の森林で狩りを行っているところを確認しました。彼女はほっとしましたが、まだ行く手に障害があります。先住民の部落はこの上側にもう一つあるのです。そこは彼女の登った木の高さとほぼ同じ高度にある湖の、やや上手側にありました。イアリオがその部落に鏡を向けると、住民たちは煙を立てて御飯の準備をしているところでした。丁度正午を回り、イアリオも空腹を感じていました。彼女は目を細め、裸眼でそちらに注意を向けつつ、背中の背負子からパンを取り出してかつかつと食べ始めました。木の上の食事など子供の時以来です。あの頃はわくわくした食事も、今は喉を通らぬ心地がしました。あそこの住民もやはり行く手の森を狩場にしています。しかし今日はそこは集団狩猟の日ではないようなので、食後に人々がどちらに出向いてくるのか、まったくわかりませんでした。彼女は意を決するしかないと思いました。緊張がずっと続くのを覚悟して、彼女はするすると木から降りようとしました。
 その時でした。彼女の目線と標高の同じ湖から、わっと何かが立ち昇りました。イアリオは目を瞠りました。巨大な雲が、湖面から怪物のように立ち上がったのです。それは意思持つ者のように、頭を巡らし、じっと、南方のあの墓丘のほうを見遣っているようでした。イアリオはごくりと唾を飲みました。すると怪物の目が、こちらに向き自分の視線とぶつかった気がしました。彼女は全身の神経が逆撫でされる感じがしました。しかしすぐに雲の獣はふんわりとかすんでいって、やがて、霧と消えてしまいました。
 その湖は飲むことのできない水を湛えていました。その水は、地下に降って、あのオグのいる地下の湖水となっていました。その水には金属が含まれていました。飲めば体に変調をきたします。実は、その水をテオルドもピロットも飲んでいました。そしてまた、この水の中の成分が、じっくりと溶けて固まっていったのが、あのゴルデスクとフュージでした。オグは浄化された水辺よりもこうした人を憚る水の近くに居を構えました。彼に、その場所を求めさせたのでした。
 山腹の狩人たちがこの湖の周りを居住地としていたのは、他に水場があって、また狩場にも適していたからですが、湖畔に住む人々だけでなく原住民の彼らの間では、湖は神聖な人間の還るべき故郷とされていました。何かの重要な儀式をする時、彼らはその湖の水で禊をしました。また、山頂にいてそこから我々子孫を見下ろす先祖たちが、新月の晩にその湖面に集うと言われ続けていました。死霊たちの光がともし火のように、明るく森中を照らし出すこともあり、その際に、子孫にある警告や、啓示や予言を持ってくることもあるのだと言われました。さて、イアリオが見た雲の塊は、一体何だったのでしょうか?それは先祖たちだったのでしょうか?それとも地下の水脈を伝って、もしかしたらオグが姿を現したのでしょうか?生きている人間たちが様々に解釈をすることで、現象はいくつにも喩えられます。ただし、彼女が感じたものは、その怪物と目を合わせたということです。彼女が逆撫でられた、その全身の反応は、その後、再び味わうことになりました。イアリオはこの驚異の感覚を経て、一日で森を突っ切るつもりだった方針を改めてしまいました。不安がもたげたのです。その目に見られたということで、ますます狩人たちのどこに光っているかわからない目を意識したのです。
 彼女は、慎重に行動していこうと思いました。本当の目的はオルドピスへ行くことなのですから、ここで無理して捕まってしまっても何の意味もありません。彼女は、夜になるまでここで待って、深夜、動こうと決心しました。それまで、彼女は望遠鏡を使ってこれからの行程を頭に叩き込みました。新月の翌日ですからほとんど星明りだけを頼って森林を進んでいくのです。方角は無論判らなくなります。目指すは山脈から山稜が落ちて西南に伸びている、その山陰です。イアリオはそこまでの起伏と高い木の目印をしっかり頭に入れました。そして夜を待って、いよいよ、暗闇の山登りに挑戦しました。その頃山肌は乾いてぬかるみが減っていました。水捌けの良い地面でした。ある程度山登りにも慣れたイアリオの歩調は、にょっきり突き出た根や岩石を、元気にほいほいとかわしていきました。ぴしりと膝や腕を叩く細くしなる枝や、引っ掻くトゲなどもありましたが、気になりません。まして、聞いたこともない動物の偏狂な鳴き声に、耳を貸す余裕はなく、足元をかすめた小動物らしきものにも構ってはいられませんでした。イアリオは森に棲む者たちを大股でずんずん飛び越えていきました。かすかに頭上で遊んでいる音がする、リスかモモンガの様子にも、心和ませずに、ただ歩き続けました。
 目的地まで、夜明けを待たずして彼女は辿り着きました。方向感が優れて良かったのでしょう、ほとんどまっすぐに予定の行路をやって来れました。イアリオは月の見えない夜空を尾根に透かして見上げました。風が、さらさらと森林の頭を撫でていく音にやっと休息を感じました。どっと疲れが押し寄せてきました。イアリオは、小さく歌いました。それは山の夜空を星々が巡る、ロマンチックな歌でした。

           かつて遠くへ行こうとしたけど
           やっぱりここへ戻ってきた
           昔からそれは決まっていること
           私はまあるく巡りまわる

 つっと細い涙が彼女の目の横から垂れ落ちました。イアリオは少ししんみりしてしまいました。まだこれからなのに、最大の困難はすぐ明日なのに、心がいっぱいに張り裂けました。自分の選択に後悔はありません。しかし、置いてきたものが、たくさんあることに、置いてきて初めてわかったのです。イアリオはこの場所で眠りました。予備の着替えをくるんでいた布に足を突っ込み、布団代わりに巻きつけて、ぐっすり、すやすやと寝てしまいました。二十五歳の女の頬に強い日差しが照りつけて、彼女は目を覚ましました。低い尾根を越して、北東へと駆け昇った太陽が、きらきらと美しく光り輝いていました。イアリオは目を細め、ああ、とあくびをしました。そして、意外なほど体が強張っているのを気にしました。眠ったのは岩場の上でしたから、体の骨が、柔らかい肉に食い込んでいる感じがしました。彼女は少しストレッチをして、さっさと荷物を片付け、パンを一切れ千切って頬張り、水を一口飲みました。まったくここまではうまくいったものだと思いました。ですがこれからが大変です。彼女は頭上に聳える山肌を見上げてみました。目の眩む高さにその頂が見えました。ここまで来て初めて彼女は山越えのルートを見つけ出すつもりでした。彼女の木登りの腕で、越えることのできる道筋は果たしてあるのでしょうか?彼女は、北側に立ちはだかる岩壁の中でも一段と低い尾根に、レーゼから借りた望遠鏡を向けてみました。その頂に辿り着くまでに、つるつるとして見える岩肌を、どうにかして克服しなければなりませんでした。低い背丈の草が、岩壁に取りつくように生えていて、それくらいしか手に掴むことのできるものはないようです。イアリオは別の所を窺いました。すると、なんとかして登り切ることのできるルートは、ここからまっすぐ北に向かって、険しい絶壁ですがともかくも岩肌はごつごつして取り付く島のある急激な傾斜坂しかないようでした。イアリオは微笑んでみました。決して無理だと思わないこと、勇気は必ず心にあること、何事かなすためにはそれが必要だと、彼女は両親に教わっていました。自分の中に余裕を確かめ、彼女は、行けるぞ、という気持ちになりました。イアリオは鞄から縄と、手製の靴と手袋を引っ張り出しました。手袋といっても形は袋っぽくなく、滑り止めのために縄地を使った指抜きの宛てがいでした。それに、靴は彼女の町では履く習慣がありませんから、資料から類推して製作した、馬革を使った巻き上げ紐の、簡素な草履でした。イアリオは山越えの時だけこれらを使用するつもりでしたから、滑らなければ良いのでした。早速それらを装着し、感触を確かめ、よしとして、彼女は手近な岩石によじ登ってみました。思ったよりも登りやすく、これなら木をよじ登るのとは勝手が違うものの、体力さえ持てば、あと天候さえ変わらなければ、行けそうだなと感じられました。肌を切るくらい鋭い角を持つ岩肌を彼女は猿のようにすいすいと乗り越えていきました。しかしさすがにずっと全身を使うハードな運動ですので、歩くよりもはるかに早く体力が消耗されました。まだ正午にもならないうちに、慣れないハードワークにすっかり息を切らしてしまいました。ですが、休めるような場所がありません。依然厳しい傾斜が続き、麓から同じ距離をさらに上方に進まなければ、岩棚にも到着できませんでした。イアリオは一口だけ水を飲むと、再度勇気を奮い立たせて、次の岩石に手をかけました。とにかく勇気は必要でした。背後を振り返ればずいっとそそり立つ絶壁のように行程が垂直に落ち込んで見えました。登っている時は斜めに進んでいるようでも、上から見下ろすと相当の傾斜があったのだとわかります。もし落ちれば…と考えてしまえば、自分の命はそこで終わると判ります。
 登る意識に集中すれば、ともかくも恐怖を後ろに残せます。イアリオは、我慢強く体中を使って山の岩壁をゆっくり、じっくり、呼吸を整えながら上がっていきました。その間、少し心が和んだのは、近くの草の実をついばみに、長い嘴の小鳥が飛んできたことでした。茶色の毛並みはふさふさとして、思わず触りたい気持ちになりました。イアリオは、しばらくちゅんちゅんとついばむ小鳥の仕草を見ながら、体を休めるべくリラックスしました。そして、またよじ登り始めました。
 それからは一方的に立ち塞がる岩壁の魔物との格闘でした。彼女は、空を見てどのくらいの時間をかけてきたか確認しても、目も眩む高さに現在いながら、遠くから見た岩棚にあとどれくらいで着くか予想もつきませんでした。瞬きをした途端に、右手に掴んだ岩ががらっと崩れ、少し油断もしていたイアリオは慌てふためきました。ここからは縄も上手に使っていった方が良さそうに思いました。ロープをしっかり腰に巻きつけ、円形に縛ったその先を尖った岩に引っ掛けながら、安全をできるだけ確保していきつつまた岩山を登りました。やがて、上に伸ばした手を掛けた岩面がはっきりと平なところまで来ました。上体を持ち上げると、広々とした腰かけ椅子のような岩棚が眼前に開けました。正午からすでに二時間は過ぎていました。彼女は平面に体を投げ出し、はあはあと空を仰ぎながら、うっすらとレーゼのことを考えました。そうすると、なんとしてもこの山を登り切ってやるという一念が、休憩所に来たにもかかわらず沸々と煮える思いになりました。彼女はここで昼食を取り、二時間ほど休んで、再び過酷な登山にチャレンジしました。
 のちに、彼女はこの時の冒険を振り返ってこう考えています。その話し手が匿名であれば、人は好き勝手に噂話も立ち上げられるが、もし一人の言葉が責任あるものになれば、恐れるのが普通だろう。言葉は気持ちを伝えるもの、そして人を惑わすもの。私が自分に宣言した言葉は、その両方の性質を持っていた。なんとしても天女の文言にあった現象を調べるために、町を出て行くということを選択した、無謀なチャレンジは、身を隠すための機能と身を現すための機能を、同時に持っていた。自分は、言い知れぬ感覚に埋没もしたければ、はっきりとそれを意識しようともしていた。それが迷いにつながっていた。…途方もない山登りをしながらそうした言葉の性質に操られている。いくらエアロスの伝説になぞらえてあの言葉を感知していても、彼が自分を支えても、盲目的なこの挑戦は、きっと果てしなく頽廃の香りを醸造して匂わせていたのだ。
 彼女の考える通り、この道程は誰にも褒められたものではありませんでした。勇壮な岩壁登山は、虚しくも誰かしらに知られる必要のまったくない試みに違いなく、それを黄金都市の頭上に生活している人々が咎めてそれまで何人も処刑していたとして、絶対的な怯えがその背景にあるのだとして、世界が注目するはずもないことでした。イアリオは自分に酔うことと共に、不安や不可思議を呑み込んで生活することのない行動へと突き進んだのでした。それが彼女の性格だといえ、芯からしっかりとした一人の人間の人格が、山脈のとある岩棚で休息を取っていたのではなかった…そのように、後になって彼女は自分を振り返ったのです。
 しかしかかる女性の一人生が、このようにして現出しているだけでした。それでも命が懸かっているという…。ほぼ絶壁を上へ上へ進むにつれて、彼女は空気がだんだんと冷たくなるのを覚えました。また、呼吸も不可思議な苦しさに変わってきました。彼女は山越えを三日か四日かかるものだと考えていました。山を越えた後は、その後一、二週間で、最低でも村か町を見つけ出すつもりでした。食料はそれを考えて用意して食べていました。彼女は一心不乱に登りました。その甲斐あってか、また彼女の運動神経が実はよほど良かったためか、いつのまにか、少しだけ首を上げれば山脈の尾根を視界にするまで高度が高まっていました。もうそろそろ夕闇が立ち込めてきてものの形がはっきりとわからなくなります。どこまで今日は進むべきか、眠れる場所をどこに取るか、彼女は考え始めました。自分の息遣いだけが間近に聞こえ、遠く沈んでいく太陽がゆらゆらしながら赤い光線を送ってくる、この断崖で、またふとイアリオはレーゼの顔を思い出しました。小休憩を取りながらもここまで運んできた体はもう動けなくなるあたりまできました。筋肉の痺れは言うまでもなく、肩も、首も、足の裏も、あちこちがこちこちに固まっていました。ですがほとんど気力で来たこの道程を、遥かに下方に臨んで、彼女は、まだまだ行けるものだと気を奮い立てました。そして、数回、全身を伸ばして岩に手を掛け足掛けていった時…。
 ふと目の前が、何もなくなりました。イアリオは、尾根の頂上に来たのです。その時彼女は真っ直ぐ絶壁を登っていたのではなく西の方へ斜めに足がかりを探しながら進んでいました。尾根が今まで視界にしていた向こう側でほぼ垂直に落ち込んでいて、下からは見えなかった狭い崖と崖との間に、彼女は到達したのです。あっと思って、まじまじと、切り開かれた北の方角に目を凝らしてみると、そこには見たことのない外世界の風景が、茫漠と広がっていました。南側よりも広大な森林がどこまでも広がり、どこまでつながっているのでしょうか、滔々と流れる大河が二本、北と南から伸びて西と東に、ぐねぐねとくねりながら、森の中を横切っていました。イアリオは、ふるふると震えました。彼女の目が、感動で開きました。言い知れぬ感情が、どこかで沸騰しました。もうここは、町の規定の支配する土地ではなく、その足で、このまま、どこまでも行くことができる天然の大地なのでした。彼女は、つとあのアバラディア古王国の物語を思い出しました。亡びの一途を辿っていた国から一人だけ出る力を具えた、あの厄災を呼び込んでしまった、森を切り開いていった男が自分自身に乗り移ったかのように思いました。
 私は、ひょっとしたら彼のように、何か災厄を呼んだりするのだろうか?そうかもしれない。何しろ、町から出て行くということはそうなのだから。
 彼女はぎゅっと目を閉じて、それでも新世界を、まるで自分の一部のもののように見つめました。これから行く道程にある、未知の物語は、真下に広がる森の中に、その外側に、あるのですから。内側と外側。大地が続いているのに区別されてしまうその領界は、絶対的な区分のもとにありました。左右に股を開いてその両側に足をかけるということは、第一の禁忌でした。イアリオは今、そのどちら側にもいました。そうしたことは、かの町では忌み嫌われるのです。なぜなら、恐怖はこの場所にあるのですから。習慣とはそうしたもので、習慣化してしまった恐慌も、変化することを望まなくなったのでした。町の人間はそれに気がついていません。いにしえから抱く病の力は、流出を恐れて、怖がっていました。皆が一つの希望に縋りついていました。それは、いつまでも、ずっと、世界はこのままであること。
 変化を望むことは、すなわち、ただちに身の危険と破滅とを想起させるから。
 イアリオは両側をまたいで考えました。私は今どちら側にいるのだろう。これから行く場所は、勿論外側であるけれど、私はあくまで町の人間だ。でも…そんなことを考えても、どうしようもないわ。今日は寝て、この場所でゆっくり休んで、また明日の冒険に備えなきゃ。彼女は、鞄から出した布切れにくるまり、そのまま眠ってしまいました。
 朝起きると、彼女は茶けた岩石のやや下向きにカーブした面の上に、胎児のように膝を抱えていました。全身が痛くて呻きましたが、眼下の世界をはっきりと眺めて、首を振りました。山裾で小声で歌ったうたは続いています。ここで終わりではありません。イアリオは、鬢をかき上げ、東から昇った太陽の光に黄色く輝く切れ目ない広大な森林を見下ろして、これではすぐに村なんて見つからないわと思いました。まずは、ここから降りたとしても、森を出て行くことが先決でした。しかし、どちらの方向に行けば、最も近いオルドピスの開かれた町へ辿り着けるのか、彼女にはわかりませんでした。あの国の領地とこの山脈は地続きだということは知っているのですが、山脈の北側がこのようにすっぽりとジャングルに覆われているのですから、仮に彼らの村がこの下にあったとしても、見つけるのは骨が折れそうでした。でも、きっと東に向かっていけば、オルドピスの人々に出会える確率は高いと思われました。なぜなら、町とオルドピスの接する領界は、北と東の山脈であると定義されていたからです。(ちなみに、彼女が町から東に聳え立つ山脈を目指さなかったのは、そちらに鉱山があり、山肌に向けられる町人の目が多いと思われるからでした。)とにかくも山を下り、東へ抜ける森のルートを探し出さねばなりません。麓を伝って行くのが確実でしょうか。それとも大河に沿って行くのが正しい道でしょうか。人間の集落があるとすれば、それは必ず水の周りでした。万が一水や食料が尽きることになった場合、川まで行けばそれらは確保もできます。イアリオは狩りは苦手でしたが、漁は並以上の腕を持っていました。けれど、まだまだ十分な糧秣は残っていますし、川に行くにも危険はありました。山脈のこちら側に何が棲んでいるか知りませんから、いつ何に襲われるかも当然わからないのです。森の動物たちが集うところには、それを狙う肉食獣も当然やって来るでしょうから。森を突っ切っていくのがいかにも危ないのなら、いつでも山側に逃げられる、麓周りを辿っていく方が、結局は安全だろうと彼女は判断しました。ジャングルを抜けられれば、見通しが利きますから、それからならば川沿いを行ってもいいだろうと考えました。
 さて、そうと決まればとにかく山を下りるルートを見つけ出すまでですが、上りよりも下りの方が、かえって道筋を正しく判断することが難しく思いました。ここから下方へ見通しは悪く、登ってきた南側よりももっと急激な斜面が、絶望的にイアリオの足元に落ち込んでいたのです。しかし、彼女は北側の絶壁の左手に、やや崖がゆるやかになる、降りていけそうな岩場を見出しました。もっとも全身を開き、ロープも巧みに使いながらでなければ降りていけない岩場でしたが、活路はここに見出そうと、イアリオの意志が働きました。パンと干し肉とゆで豆を齧り、水を飲み、トイレもその場で済ませると、荷物をまとめ、彼女は両腕を伸ばしました。痛い箇所は体のあちこちにありましたが、それほど気になりません。一応彼女はこの登山に向かう前から自分なりに激しいトレーニングを積んだりもしていて、それも効果があったのでしょう。ですが、この時は明らかに肉体を精神が凌駕していただろうと、彼女はあとで振り返っています。硬く結った縄を岩の出っ張りに引っ掛け、彼女はそろそろと崖を這い下りていきました。それは、登山時よりまったく違う、より落下の危険が身近に感じる恐怖との闘いでした。まず下を見下ろしながら行くので、いやでも高度を体感しないわけにいきません。それに、山脈の北側の方が南側より風が吹いていました。彼女は運良く天候に恵まれていましたが、ここにきて、どうも怪しくなってきたのです。もくもくと雲が、山の上にかかり出し、冷たい西風が真横から吹きつけてきました。イアリオは慎重に慎重を期する下り方で、ゆっくりと地道に距離を稼いでいきました。ところが、あいにく豪雨があっという間に断崖絶壁をくるみました。岩と岩の間に挟まれたところで、イアリオはじっと嵐をやり過ごしました。しかし、この雨で岩壁が滑りやすくなってしまったことを彼女は恐れました。もっとも森へ下りるまでどこかで睡眠場所も確保しなければなりません。彼女は自分の体力と相談しながら、正確な決断を要求されました。ともかく天気の様子を見て、晴れそうなら少しは行こうと思いました。
 イアリオは山肌に背をもたれて、この岩壁の裏側にしてしまった自分の故郷を思いました。どきどきと心臓が高鳴るのを気にしました。子供の頃に初めて遠出をしたような気持ちにもなっていました。そんなに甘い望郷のヴェールで気持ちを覆うのもどうかと思いましたが、まだ、この一枚の山脈を隔てたところに自分の町があるという感覚は、彼女に少女時代の幻影を見せたのです。赤色の甘い木の実も、ぷりぷりとした川魚も、牛の匂いも、地上にもあった廃墟の町も、自分は皆置いてきた。ああ、こんな所に私はいるんだ、どうしてここにいるんだっけと、水玉を落とす憂鬱な空の模様を眺めながらそうした気持ちにもなりました。しかし、雨空は上がり、少々鬱屈した気分に落ちた体を、嫌でも動かさなければならなくなりました。まったく空は晴れ上がり、少しも雲は見当たらなくなってしまいました。風も、穏やかになり、いかにも冒険を後押ししてくれる天候になりました。まだ正午を少しばかり過ぎただけでした。イアリオは崖の影で、この日の昼食を細々と取ると、意を決して、降下に挑戦しました。
 いいえ、下へと伸ばした足と手は、まだ、ためらう思いが乗っていました。これまでの冒険の中では珍しくその一歩は躊躇の念がありました。彼女は、惑いながらも、決断を下してきたのではないでしょうか?本当のところでは、イアリオを後押ししていたのは、彼女自身の意志のようで、そうではないこともありました。彼女は流されてきた部分もありました。エアロスの感覚は確かにあっても、こうしたことが自分の決断だったと、思い込もうとも、していました。どうしようもない力を背後に感じても…自分の意識は、そうでないところに常にあったのです。こうしたことに、雨脚に遭って、彼女は気付き始めました。自分は唆されていたかもしれない、何かに操られるようにして、出て行ったのかもしれない、などと、町を後にした今イアリオは考えるようになっていました。しかしそこはまだまだ冒険の最初です。無謀であると分かり切っていたチャレンジ、そのほとんど冒頭です。ですが彼女は、自分の意識とはまた別の、その瞬間は忘れてしまった覚悟の方からも力を感じていました。がっちりと岩の先端を指は掴み、奇しくも幼い頃の木登りの感覚を携えて、両手と両脚は彼女を安全に降下させていきました。裸足に履いた馬革靴も、順調に仕事をこなし、ロープ捌きも、極端に注意せずとも的確な判断をされました。体はこうして降りていくことに全力を尽くしたのです。しかしそれとは裏腹に、頭脳は絶えず別のことを思い、ためらいの気持ちが十分に強まっていきました。そして、崖の中ほどに到達した時、辺りは夕暮れを迎え、ここで一泊することになりました。岩壁の端に身を寄せ、寂しく独りで空を仰いで、町を出てからまだ四日しか経っていないのに、彼女は山の裏側の故郷のにぎわいが恋しくなりました。あの子供たちの笑顔にまた会いたくなりました。レーゼとハリトと再び地下にも潜ってみたくなりました。ですが、いい加減、今日一日付き合ってきたこのどうしようもない女々しい感情に、見切りをつけて、またちゃんとどのようにしてオルドピスへ行くべきかを考えていきたいと思いました。
 イアリオは眠り、その夜に夢を見ました。子供の頃、共に遊んだ、ピロットとテオルドの顔が浮かびました。そこへ、レーゼとハリトも一緒になって、皆でわいわい騒ぐのでした。火をも囲み、彼女はレーゼに打ち明けました。私は、ピロットのことが好きなのに、どうしたら気持ちを伝えられるかわからない。名渡しの儀式をしようと思うのだけれど、どのようにして彼を誘ってみたらいいだろうか?レーゼは答えました。あなたの思う通りにやればいいじゃないか。タイミングさえ合えばいいんじゃないか?イアリオは頷き、ピロットの所へ行こうとして、立ち止まりました。レーゼは、立ち上がり、彼女を迎える仕草をしました。そこで、イアリオは目を覚ましました。

 まだふるさとから遠出してきたとは言い難い道程でした。強く目を瞑ると、涙が滲み出てきました。これで二十五歳の人間としたら、幼過ぎると彼女は思いました。激しい望郷の思いに不意に駆り立てられたイアリオは、自分の体を鷲掴みました。そして、気力を奮い立たせて、なぜこの場所までやって来たのか、理由を確認しました。軽く朝食も済ませ、再び岩壁に足を掛けて、彼女は、斜面をそろそろと、ゆっくりと下っていきました。
 下へ下がっていくにつれて、彼女は次第に降りるのに苦労をしなくなりました。傾斜が緩やかになってきたのではなく、岩壁がでこぼことして大分行き易くなったのです。探さずに道は見つけられました。ロープもこれであれば必要はなくなりました。イアリオは自分の手製の手袋と靴を確かめてみました。ここまで来るのに、擦り切れ始めた両者は十分な働きをしました。彼女は手と足からその両方をはずしました。岩石は尖りを失くし、もう裸手裸足の方が勝手よくどんどん行くことができそうだからでした。彼女は道具に口付けして、鞄に戻しました。鞄は、牛革でできていて、イアリオの背中いっぱいほどの大きさですが、非常に軽くて丈夫でした。それは灰色に色付けしてありました。別に町を出て行く際に目立たぬようにしたのではなく、この色が背中にしっくりくるからでした。鞄に結わえた紐を腰と肩に結び付ければ、どんな体勢でもそれは体から落ちることはありませんでした。イアリオはこんもりと膨らんだ鞄を背に背負い、大きく息を吸いました。頼りになるのは、自分の感覚と、この鞄の中身だということを、もう一度確かめたのです。
 いよいよ山裾まであと少し。森はすぐ近くです。木の匂いが漂ってきます。山の上から見た森は密集していてその樹の形はよく分からなかったのですが、この辺りの木々は、イアリオの故里の付近にあったような育ちのいい木々ではありませんでした。育ちがいい、とは、まだまっすぐで、しゃんとして立って、それほど互いに枝葉を重ねて自己主張をしていないという意味です。山脈の北側の森の樹木は、もっといびつで、奇怪で、ぐるっと湾曲した幹枝がぐんぐん上に迫っていました。緑も濃くて、むっとして、気をつけなければくらくらする臭気を放ちました。イアリオはこの森に入っていくのは躊躇しました。できるだけ山側を辿っていって、早く森の切れ目まで行きたいという印象を持ったのです。しかし密林は諸手を上げて彼女を歓迎しているように見えました。ですが、その中に、安心や安全といった言葉は浮かんできません。屈曲した枝葉が手を伸ばしていても、決してフレンドリーではない手の平でした。それでも岩壁を辿るよりは土の上の方がまだ歩き易いのは確かです。少しも森に入っていきたくはなく、ジャングルの隅を、こそこそと進まざるをえないようでした。裸の岩場を跳ねるように降りていって、イアリオは地面に到着しました。そこで、あまりに用意周到に、森林は彼女を出迎えたように感じられて、イアリオはしかめっ面をしました。初めての外世界での遭遇は、こちらは歓迎せざる、未知極まりない古代から息づく捻じ曲がった旺盛な植物たちでした。
 鬱蒼とした木の下は、じめじめと湿って、知らない動物たちがきっと弱肉強食を繰り広げているでしょう。しかし、こういった樹の幹を、彼女はどこかで見た思いがしました。それは、幹ではなかったのですが、あの地下でレーゼとハリトと共に見つけた、ハオスと初めて会った地下道の手前にあったいびつな根っこに、とてもよく似ていました。あの死滅した街の中で、いびつな生命を主張した奇怪な根の隆起に出くわしたことにその時は驚いたのですが、恐ろしいフィード・バックがこの森林にて起きました。言わずもがなではありますが、あの滅びの街に、根を張る生命があったのです。そして、それは同時にこの生命溢れるジャングルに、滅びが同居していることをも示唆しているのです。
 ですが、そここそが、ふるさとでした。万人の、あるいは万物の。気候でいえば亜熱帯に属するこの一帯は、原生林をそのまま残して、熱っぽく息づいていました。じわじわと地面から立ち昇るものは、命だけではなくあらゆるものたちの息吹でした。土も、石ころも、自らは動かぬものたちが、その存在を自己主張していました。驚くほど一つ一つの無機物は、植物と我を張るように突出して目に映りました。その頭上に覆い被さる絶対的な森林の覇者は、決して足元にそれらを捻じ伏せてはいないのです。イアリオは頭がくらくらとしました。昔のままの姿をした、命と無機質の世界は、やはりこちらに手を寄越すも、そう容易くはこちらから近づくことはできないのでした。彼女は自分の町の下にした滅亡した都とここの情景が、重なって見えました。奇怪な根っこの同質性が両方にあったために、一方が死で一方が生の極端な現象だとしたら、それらはなるほどまったく別の存在ではなく、共に同居する世界の一部なのでした。それに…。
 ぐるぐると考えたり迷ったりしてもしょうがないと、イアリオは足を動かし、山脈を右手に行き出しました。黒い土はふかふかとした所と、ずぼっと穴のようになっている所がありました。木の根は張り出していちいち避けて進まなくてはなりませんでした。枝葉はかさ張り生い茂り、垂れ下がるも行くのに邪魔でした。こちらをようこそと歓迎してくれるのはいいものの、この独特のお出迎えは、背中を仰け反らせるのに十分でした。これは山登りよりも大変な行軍でした。オルドピスの人間も、この森を通ってきたのでしょうか。それならば彼らは彼女が下ってきた道よりももっとはずれた所から山を登ったのでしょうが、それならばと思えば、森の中を進んでいくにも少しばかり勇気が湧きました。森のきわを歩きながら、彼女は危険を身近に感じました。森林にあるあらゆるものは、こちらを向いているようで、無関心でもあるような、曖昧とした視線を送っているように思えました。ですが、この森全体が、自分の存在を知覚していると彼女は感じました。ということは、肉食獣も、甘い肉の匂いを漂わせた滅多にありつけない得物を捕まえようとして、動き出しているかもしれません。しかし、そんなことは恐れてもしょうもないことでした。この異様な景色に、圧倒されて、イアリオは意識をまるごと森に呑み込まれてしまった心地になっていたのです。母親に抱かれて頭を撫でられれば、それにも近い心地になったでしょう。でも、今ここで立ち合っている相手はとても見知らぬ、突兀(とつこつ)とした化け物じみた、原生林の抑圧的な支配でした。
 化け物は、どちらも向いていないのです。今入ってきた異物も、己自身も。ただ端然としてそこに居座り、じっとして動かない。もし、自分の母親を砕いて壷の中などでぐちゃぐちゃに混ぜてみたら、こうした色とりどりのジャングルにでもなったかもしれない、などと、彼女はとりとめのないことを考えました。
 山際を練っていくイアリオの行く手に、縦にひび割れた大きな大木が立ち塞がりました。彼女はそれを横にして避けていきましたが、何となく気になって背に回したその大木を振り返ってみました。すると、ぎょっとしました。ぼんやりと木肌に浮かんでいたのはまるで自分の顔だったのです。そのように見えただけで、やはりそれは幻だったのですが、それでも幻影が現れたということは、何かをそこから受け取るべき態度が彼女に存在したからでした。イアリオは、気になりませんでしたが、大地が裂けたかのような鋭い亀裂が、山を越えて、越えることによって、その心の中に走ったのです。黄色い地面がびきびきとひび割れていく様子を、彼女の体は知覚しました。その背中は裂けていたのです。それは、本心とは裏腹の彼女の行動を揶揄していました。彼女の本当の目的は、本当に自分に収めたかったのは何だったのでしょうか。勿論、天女たちの言葉の意味を探りに、焦燥を収めるために、矢も立てもたまらず飛び出してきたのですが、ずっと裏切れなかったのは、町を愛する心でした。
 本物のふるさとでした。
 原生林は、まるで彼女の心のふるさとを現象として見せてくれていました。その光景は決してまったく異質なものではなかったのでしょう。捻じ曲がった木の幹は、捻じ曲がりながらも力強い生命の意志の力を見せていました。かさ張る枝葉は、混沌のようでいて、自分と、大切な人々、そしてその他の人間たちとが折り重なる似姿でした。つぶらな紫の木の実はイアリオに豆料理を思い出させ、土や石の色は、彼女が毎日のように触れてきた石版や粘土板、あるいは糸巻きや刺繍棒、パン釜に差し入れる木製のピールなどの道具たちと、同じ色でした。彼女はその色に親しみを持っていました。
 無論、彼女にそんなことを気づく余裕はなくて、一所懸命に、道を掻き分けていく努力に専念するしかありませんでした。彼女に見えていたことはただ一つ、自分のやるべきことだけでした。
 人間にとって黄金とは何か…?死滅した街と生き生きとしたジャングルに、同じ生命がありました。街にあった捻じくれた木の根は、一体どこにつながっているでしょう。すっくと立つ私たちの大地に、必ずその緑の葉は下ろされたはずです。取りも直さず、白き町は、破滅の街の上に立っているのですから。黄金は私たちの過去でした。それがなければ、現在の私たちは成り立っていないのに、それを否定してもどうしようもないことは明白です。そうしたことに、本当に気づくのには、厖大な時間がかかるとでもいうのでしょうか。隠したがっているものとは、間違いなく、私たちの恐怖であるのに、恐怖に恐怖を覚えることで、あの町は、ほとんど死滅しているのです。イアリオは、彼女の故郷にどうしようもないものを感じて、町を出てきたわけですが、彼女が町人としてそれを受け入れないで、如何ともし難いのに、まだ気づいてはいないのでした。
 このように、イアリオは彼女の町の印象を、そのままこの原生林に見出していました。所変われば品変わる、ありのままの森林を、彼女は見ていたのではありませんでした。彼女自身は怯えていました。それは、町の人々の抱く怯えと同一でした。未知のものは、まさしく未知のものとして見えていたのです。ですから、危険ばかりを肌に感じました。町人としての彼女の性格そのままに、こうした密林も意地と度胸で乗り越えていこうとしていますが、背筋を走る先のひび割れは、イアリオの脆弱性を表していました。すなわち、心と体は同期していないのです。彼女は体で行動を起こし、実は魂は故郷に残したままだったのでした。
 もっとも、ふるさとには帰るつもりでしたので、それも当然なのですが。彼女の関心がまったく外側を向こうと、その実はずっと内側を向いたままでした。オグとは何か。天女の言葉の真意は何か。その答えを外側に追い求めたとて、オルドピスという、まったく知らない国に行けばと思ったとて、真に起きつつあること、進行中のことは、皆彼女の町の内側にありました。彼女はそれが許せないのでした。なぜなら、これから町が辿るべき変化を、受け入れられる状態にないからでした。町の内部に、オグがあり、変化の兆しがあり、そして彼女自身の辿るべき変化がありましたが、彼女の肉体がそれをほとんど拒絶したのです。
 レーゼがそこに居残ったのは、そうした変身を身を持って受け止めようとする覚悟があったからにほかなりません。彼もまた、イアリオのように、この町にどうしようもないものを感じていましたが、違和感を抱きながら、彼の夢は噴水を広場に造ることだったのです。…イアリオに、純粋な夢はありませんでした。自分の町で、何かしたいという望みはありませんでした。それに気づくことはなかったのです。彼女は誰にも心を寄せていませんでした。彼女の心は彼女だけのもので、それを人に預けたことはなかったのです。
 いいえ、預けようとした人間は一人いましたが、彼の事件は片付いてしまいました。ですから、再び彼と出会っても、もう一度、この町から出て行く理由を確認したに過ぎず、彼女の根は、もはや町にはないことを再度知ったのです。どうしてピロットと共に生活する手段を思い描けなかったのでしょうか。彼女は間違いなく彼と再び会いたいと言いました。再び会いたいのであって、今寄り添いたいではありませんでした。彼女の心は、その時にはもうオルドピスを向いていました。
 しかし、外側に出なければ確認ができないことがあるのであれば…それは命懸けの冒険にもなりましたが、戻ってきても、相当の冒険になるのです。彼女は町へ戻ってきた後に、本当の苦しみを味わうのです。

 歓迎のあまり慌てて差し出された枝葉の腕は、単純に行く手を阻む邪魔な存在になりました。こちらを迎え入れようとしてびっくり気味にぴょこんと突き出た木の根は、間違いなく進行を妨げるのに一役買っていました。登山時はそうでもなかったのに、イアリオは少し進んだだけではあはあと息を切らせました。こんなにも森の中とは歩きにくいものだったでしょうか。むっとする熱気も相まって、息苦しさは相当なものでした。彼女は水を飲みました。どこかで水を補給して、たっぷり飲みたい気分にもなりました。パンをかじっても、栄養が体中に行き渡る感触はなくて、足元から、それがこのジャングルに流れ出しているように感じました。これほどしんどい思いをしながら森林を彷徨って、彼女は道を掻き分けるのにあまりに精一杯で、いつしか右手に望んでいたはずの山肌は、どんどん遠くへ遠ざかってしまいました。はっとするとここがどこだかわかりません。イアリオは慌てて高い木を探しました。場所を確認しなければなりません。都合の良い木を見つけて、その樹木に近づいた時、根元にふんわりとした形の巨大な赤い花が、獲物を取り込もうとして待ち構えていました。花は、胞子を撒き散らして、獲物に毒を盛ろうとしました。人間であるイアリオはそのむせ返る胞子に、手足の痺れを感じましたが、それよりも何だか良い気分になり、ふらふらと森のさらに奥に分け入って行きました。小動物ならその場に転げ回ってしばらくして、徐々に花の根に絡みつかれてしまうのですが、彼女の手足は大手を振って楽しげに森を回り始めました。しかし、毒の効果は短く切れて、我に返ると、どこをどう行ったのかまるでわからない知らない景色に向き合い茫然としました。そこは、鬱蒼と胸の高さの立ち木が茂返る緑の濃い場所で、少し屈むと、耳に痛いきーんとした音が聞こえました。イアリオは眉をしかめて、早くこの場所から立ち去った方がいいと思いました。そこで、また背の高い木を探して、方々を眺め回しましたが、この辺りはでこぼことした木は少なくて、肌がつるんとしていて、奇妙な蔦が絡みつくも細くてとても登りがけられない樹木ばかりでした。そんな中見つけたようやく取りつけそうな木は、枝ぶりは短いながらもしっかりしていましたが、それほど高くはありませんでした。それでも山脈がどの方向にあるか分かればいいと、彼女は枝に足掛け登っていきました。
 ところが、やはりその木は頭上の枝葉を透かしても山脈を望めるほどの高木ではありませんでした。イアリオはがっかりして、渋々降りていこうとしましたが、少しばかり周囲が望める木の上で、休息を取ろうかと考えました。こうして森の木々の狭間にぽつねんと一人でいると、自分が何をどうしていいかわからなくなりそうです。わさわさと熱を持った頭を冷やすためにも、ゆっくりと気持ちが落ち着くまで、時間をかけて、彼女は木のかしらに取りつき待とうとしました。しかし、その時彼女の背筋を焦りが突き抜けていきました。それは、故郷でいくらも感じていたあの焦燥でした。こうしてはいられない。一刻も、早く、かの国に辿り着かねば。
 木の上に取りつきながら、そこで落ち着きを取り戻すはずが、彼女は繰り返し街でも考え抜いたことを頭に巡らせました。自分は一体何を知ろうとしているのか。こんなにも木々が押し迫った森林を彷徨して、勿論それは目的の国へ到るためだけど、こんなことに一人きりでチャレンジする価値がどこにあるのだろうか、と。しかしそれは、道にすっかり迷ってしまったために、迷ってしまったという感情が、同じ質の別の感情も混ぜ込んでいただけでした。
 いやいやとイアリオは首を振りました。焦ってもしょうがない。もう一度、木を探そう。そう思い、結局は休息もほどほどに、まだ頭脳もかっかして熱いうちに、この背の低い立ち木より丈のある、登れそうな樹木を探して、目星をつけました。彼女は木から滑り降り、そちらに向かって走り出しました。彼女は、いったい不注意なままでした。またあの危険な毒を撒き散らす花のような生き物に、出会ってもおかしくないことを念ぜられませんでした。彼女は行く手の背の低い木の幹に隠れていた巨大な虫に気がつきませんでした。虫は、じっくりと獲物を確かめ、その行動を予測しながら、イアリオが自分のそばを通り過ぎた後わさわさと木の陰から出てきました。カブトムシのように角を突き出した丸い胴体ですが、その高さはイアリオの膝まであり、角から尻にかけては彼女の足から首の長さまでありました。その昆虫は肉食でした。森の王者とまではいかないものの、獣もひとたまりもない硬い顎と押し付ける重量とがありました。人間は、明らかに彼が今まで食べてきたものよりも動作が遅く、捕食し易い目標でした。イアリオは走っているうちに、背後から不気味な羽音がして、それがこちらに向かってきていることに嫌でも気づかなくてはなりませんでした。しかし、その音も耳に届いているはずが、いたずらな焦燥に突き動かされて、一直線に走るばかりでした。もう獲物は捕らえたも同然でした。虫は、大きく顎を開けて、柔らかい肉の動物を背中から押し潰さんと空中で構えました。その時でした。
「危ない!」
 人の声がして、おかげで彼女は咄嗟に身を屈められました。地面に突っ伏すと、頭上を猛烈な羽音が飛び過ぎるのを聞きました。ぞっとして、恐る恐る頭を上げると、虫はいなくなっていました。
 危険が過ぎたという実感はありません。ですが、さっきの声は、誰のものでしょうか。イアリオはすぐに人の影を探してみました。すると、背の低い少年らしき影が、森の奥に揺らめいて見えました。けれど、すぐに人影は木立に混じり、見えなくなりました。
 何だったんだろうと思いながら、彼女は立ち上がりました。そして、急いでまた目標の樹へ向かって走りました。この時、彼女に人影を追うという選択肢は浮かびませんでした。なぜなら、それ以上に、山際へ退いて正しいルートを取らねばならないと思い込んでいたからです。道はそちらにしかないと考えていました。イアリオは喘ぎ喘ぎ大木を見上げて、登れる箇所に手を掛けて、かい上っていきました。その大木は木肌がごつごつとしていて、枝ぶりはたくましく、筋肉隆々の男性のようでした。ところが木の葉は際限なく幹の方まで生えていて、登ってはいけるものの、葉を掴まないように苦慮しました。彼女は必死になって上がっていきました。花にも虫にも襲われてしまい、地上はやはり決して身の安全を図れる場所ではないとわかったのです。もし地面を行くなら、速やかに、次の木登りのポイントまで緊張して行かなければならないと、彼女は考えました。山際まで戻れたとしても、山肌に取り付いてできるだけ土のない道を行くのが妥当だと思いました。ところが、木の上でも、見知らぬ者たちが溢れ返っていました。彼女の木を登る手が止まったのは、大きな芋虫がすぐ上の枝に寝そべっていたからです。イアリオは慎重に芋虫のいる枝とは反対側へ上手く移動して、さらに登っていきました。今度は鳥の巣を発見しました。幾重もの葉の皿に、細かい枝葉がびっしりと収まって、その中に可愛らしい雛鳥が口を開けていました。虹色の毛並みをした鳥で、大きさは手の平ほどでした。彼女はまた反対側に移らなければなりませんでした。そしてようやく山の頂を見上げられる高さまで辿り着くことができました。イアリオはあの山頂が彼女の下ってきた尾根の落ち込みからみてどの位置にあっただろうと考えました。ここから最短の山裾までの方向を正確に測ろうとしたのです。ですがそこに邪魔が入りました。さっきの雛鳥の巣の守護者が帰ってきたのです。暗い青色の羽をした鳥で、その大きさは胴体が彼女の胴とほぼ一緒で、羽を広げれば人の腕よりもはるかに伸びました。鷲もこれほどの大きさではありません。イアリオは仰天してしまいました。その鳥はいかにも硬質な鋭い嘴を、彼女に向けて、威嚇しました。あんなものに突かれたらたちまち皮膚に穴が空くでしょう。一巻の終わりです。
 彼女は素早く木を降りざるをえませんでした。ともかく山際に逃げることが肝要でした。ところが、生憎滑り降りた枝に、あの芋虫が寝そべっていました。イアリオは足の裏に嫌な感触を覚えて、そのまま木から転落してしまいました。ここは、彼女の町から、たった山脈一枚隔てたところでした。なんという世界がそこにあったものでしょうか!こんなにも生き生きと危ういほど生命が繁殖していたことに、何より意味深長さを彼女は感じてしまいました。イアリオは彼女が落下したすぐ隣に、共に落ちてしまった芋虫が無数の肢をざわつかせて引っくり返っているのを、ひくつきながら見ました。芋虫は…ピンク色の体をしており、胴の長さは人の腕ほどありました。その小さな複眼にイアリオは目があったような気がしました。芋虫の背中からは嫌な匂いのするものが流れていました。彼女は身を起こして、もう逃げるしかないと走り出そうとしましたが、さっきの大甲虫が、取り逃がした獲物にのしかかろうとその近くでひらりと宙に舞いました。その羽音は、とても嫌な予感を彼女にもたらしました。しかし今度は敏感にそれに反応ができました。体を横転させて、イアリオは直線に飛びかかってきた甲虫から身をかわしました。土煙が立ち、運悪くイアリオと共に地面に落ちてしまった芋虫が、彼女の代わりに甲虫の六足にがっちりと抱き締められ、無数の足首をがちゃがちゃやりながら空を飛んでいきました。それを見て、彼女は訳知らぬ痛切な気持ちを抱きましたが、もどしそうな熱気のこの界隈から一刻も早く立ち去らなければいけないという、焦りの方が勝りました。熱気はひたひたと肌にまとわりつき、のどの奥をむせ返らせ、まるで汚物だらけの夢を見ているようでした。イアリオは潔癖主義ではないにしても、こうした環境にとても馴染めないものを自分に感じました。あまりに清濁混交した我が町を嫌悪を持って眺めていた、その時の自分が顔を出しました。彼女は、そんな町から逃げ出したところもありました。逃げた気はなくとも、あとから考えれば、町から出てきた理由は逃避にもあったと考えられなくもありませんでした。彼女は、この森からも逃げたく思いました。
 知りに行く、とは一体何でしょう。彼女はオグを知りに、クロウルダを知りに、あの天女の文言を知りにここへやって来たのです。まだ途上でした。でも、逃げ出すのも一つの手段で、そうしたからといって、道を間違えるというのでもありません。彼女は山の方角をきちんと感覚していました。ともかくもあちらに走って、逃げて、まずは岩に登ることを、彼女は一念しました。

 その道中も目にした珍しい生き物たちは、その一々を書き綴っていたら日が暮れてしまいます。植物ですら目に余る色のものや、奇妙な形だったり、匂いだったり、大変な特徴がありました。ここは幻想世界のようでした。森のほんの入り口をさして、生命力の旺盛なジャングルだと形容しましたが、中に入れば、これ以上の現象を目の当たりにしたのです。生命は、変化に富み、捩じくれて、様々に支配領域を拡大しようと切磋琢磨していました。無論自己主張は激しくなりました。土の小石すらもそうだったのですから。ちらちらとした色合いが無数に閃いており、彼女は眩暈で倒れそうでした。強烈な色彩と猛烈な熱気が、まさに、混沌としてごった煮返していました。そこから逃げてゆく彼女の背中をただ焦りと恐怖が突き動かしました。
 迷う、ということは、道がわからなくなる、ということで、その途端に、両脚は浮き足立ち、地面を正しく蹴ることができません。五里霧中の真夜中を走り回るのと同じで、そこで見た夢は、本当の現実とは似ても似つかぬものでした。
 そうした夢幻の中を抜けて、彼女はようやく山際に到達できました。生命のない無機質な岩肌は、ここにくるともはやぬくもりを感じるくらいに温かく見えました。彼女はその落ち着く黄色に取りつきました。すると、背後からざわざわと木の葉を掻き分けて、のっそりとした生き物が現れました。イアリオは目もくれませんでした。きっと自分を危害する相手だろうから、もっと遠くへ、高い所に逃げなければと、急いで岩山を登ろうとしました。
 ところが、その生き物は間延びした奇妙に穏やかな声で鳴きました。彼女はぬるりと緊張が解けてしまいました。その鳴き声は、家畜のように、いかにも草食動物の喉から出されるのんびりした声色でした。イアリオは体を止め、後ろを振り向いてみました。するとそこにいた動物は、鼻の長い、肢のずんぐりと短い、つぶらな瞳の、可愛らしいバクでした。(バクは想像上の生き物とされる所では、夢を食べる幻獣と言われています。)その動物の瞳がうっとりと彼女を見上げていました。体は馬ほどの大きさで、肌はやや桃色にかかった茶毛に覆われています。尻尾は長く、地面を掃いています。彼女の目と彼の目が出会いました。
(か、可愛い動物だな)
 バクは、もう一度牛よりも高い音の声で鳴いて、彼女を待ちました。彼女はどうやらこの生き物は人間に慣れているようだと思い、先程の少年の影も思い出して、もしかしたら、この辺りの人間に飼われている動物かもしれないなと思いました。イアリオは周囲が安全かどうか確かめ、岩を下りて、このバクの所に寄っていきました。そして、そっと耳の辺りと思われる箇所を、手で柔らかく撫でてみました。すると、バクは、本当に心地が良さそうに小さな目を細めて、「うおーん」と唸りました。イアリオは頬がかっかと熱くなるのを感じました。あまりにダイレクトな反応に、手足が痺れ、感動してしまいました。バクは膝を折り、彼女に丸い背中を傾けて、この上に乗るように催促しました。
 もしかしたら、村まで連れて行ってくれるのでしょうか。イアリオは意を決して、この動物の背中に乗ってみることにしました。その感じ易い魂が、ゆらりゆらりと揺れながら、大柄な獣の背中に乗り込みました。実に広くて座り易くて、とても安心する居心地でした。それまでどこかに行っていた、希望が胸に戻ってくるようでした。彼はただの家畜動物ではないようでした。バクは、夢を食べる者とされるなら、そうして悪い夢が良い夢となるよう、人間の手伝いをしているのかもしれません。イアリオはぞくぞくとしました。毛を握って、揺られるままに移動していくと、この動物が、どれほどゆったりと、慌てずに、自分の歩調で進んでいるかを上から感じ取ることができたのです。それは、彼女にとって、まさに、望むべき速度でした。この獣が本当はどこに連れて行くのか判りません。でも、この背中に乗っていないと、踏み外す何かを感じました。拙劣な行動が曖昧な判断を寄越していたのだとするなら、この上に乗っているだけで、それが適当にまとまってきました。彼女は、山際から葉を透かして山を見上げ、その岩壁の中腹辺りに、獰猛なハゲタカの集団を見つけました。彼らは鋭い嘴を持って、生きているもの死んでいるもの、あらゆる肉を欲しがりました。鳥よりも、哺乳類が好みのようでした。なぜなら、今しがた飛んできたオスは猫の胴体を運んできましたし、巣には、人間の腕と思しきものが垂れ下がっていました。イアリオはぞっとしました。できるだけ森の外を伝っていこうとしても、待ち受ける運命は、森の中とそんなに変わらなかったのです。道理で、ゆっくりと足を運んでいくバクは、彼女にとって唯一の道標でした。
 彼女は命拾いしたと思いました。まさにこの動物と出会って。しかし彼女をぞくぞくとさせたのは、自分の歩みはこれほどゆっくりでいいのだという発見でした。
 そうでなければいけませんでした。第一まるで未知の場所に分け入ったのですから、警戒怠らずして、しかるべきでした。彼女はそれを怠ったのです。森に誘われるままに、入ってしまったその孤独な魂は、その感じ易さを食べられて、排泄されようとしたのです。森とあの町の地下とで、そんなに違いはありません。子供の頃と同じ過ちを、彼女は再びしていたにほかなりませんでした。子供の時分であれば当然受けるべき保護の過程は、彼女の場合(他の子供達も)足りなくて、今もあの暗闇に怯えている暮らしを続けていました。地下世界に比べて実は同程度の未知のこの場所も、危険を広げて待ち構えていましたが、彼女は何も抵抗できず、危うくもう一歩で殺されかねなかったのでした。
 急流のような動きの速さは本当はいりませんでした。そしてそれに流されるままなら溺れ死にました。正しい道はともかく進んでいたのです。彼女は、一心不乱に山を登り下りて、その気分のままこの森林にも臨んでいました。同じスピードで出て行くつもりでした。可愛らしい獣との唐突な出会いは、彼女に自分自身を取り戻させました。獣は、その種類にもよりますが、昔から人にとって不可分のパートナーとしての役割を持っているのです。
 いつか山際から森の内側へと、バクは進路を取りました。イアリオもそのままバクの歩きたい方に背中に揺られていきました。その穏やかな歩みで進んでいった先に、清冽な泉と、細長い水の流れがありました。泉に流れ込む水は西の方から来ていて、出て行く水は東へと向かっていました。爪先もあるかないかの小川がたくさん筋をつくり、水泉を中心に、それが扇子状に広がっていました。木が環状にこの空間を守っていました。ここは周囲に比べしんとして静かで、水の流れる音だけがちろちろと鳴っていました。激しく自ら主張していた、植物や土の色は、その背景に下がりました。森中の存在が、この聖域には触れてはならないとして、自ずから退いているようでした。
 イアリオはそこで髪を洗いました。長い縮れ毛が美しく水飛沫を上げる様を、バクが、目を細めて見ていました。うららかで甘い匂いは泉の水のものでした。彼女は水筒を空けて、その水を汲み、思う存分飲みました。小魚が中に棲んでいました。ですがイアリオは獲ろうとは思いませんでした。水だけで十分腹は肥やした感じがして、もっと何か欲しがるなら、それはよくないことだと思われたのでした。バクも鼻を鳴らして彼女の傍に寄って、水を飲んできました。イアリオはやさしくその耳の裏側を掻いてやりました。
「どうして」
 イアリオは彼に尋ねました。
「どうして私を乗せたのかしら?私は多分、この森には合わない、餌になるべき身の上じゃなかったの?」
 バクはじっと、彼女に目を注ぎました。彼女が何を言いたいかわからないといった風に。彼女は小さく笑いました。
「どうも、いじけてしまって、気分が良くないわ。思いがけない歓迎に、きっと萎縮してしまっているのね。こんなにも私は弱い性根の持ち主だったのかな?まるで弱虫だな、こりゃ」
 ずっと…町から出て、それは感じていたことでした。彼女は周りに人間がいるから自分は強いのだと、ここに来て知ったのです。あの地下でも多分そうでした。今一人でまったく知らない場所に侵入してみて、なんて自分は頼りないのかと、思い知りました。慌てるだけ、焦るだけで、浮き足立った気分では、遅かれ早かれ猛禽の肥やしにもなったでしょう。彼女は愕然と己の実力を認めました。意気地がないわけでもなく、目的が曖昧でもないのに、気を逸してしまったのは、しっかりした足取りで進むことができなかったのは、気分と認識が一つになっていないためでした。体の調子と意志とが別々になっていたからでした。彼女はまだ望郷の念すら抱いていたのです。情けない、中途半端な意思が、ここに来て、その威力を発揮してしまったのです。ただ焦るだけ、オルドピスに向かわなければいけないだけで、かの国へ辿り着くことはできないのです。彼女はこの冒険を通じて、嫌でもその本当の理由に還らなければなりません。
 バクが、哀しく鳴きました。その哀切な声が、なんともいえず、彼女は自分が責められている気持ちがしました。分かってはいるのです。彼女は自分を哀れんでいるだけでしたから。そうした心根が、いつも町にいても体に巣食っていたのです。自分を嘆く邪まな思いが、彼女をして、町を飛び出させたのでした。ピロットを失った悲しい自分を、彼女は慰めるために、オグのいる地下に臨んでいたのでした。彼女は何も判っていません。どうして町まで出て何か知ろうとしているのでしょうか。彼女はレーゼすら町に置いてきてしまったのです。こんな心根の腐った人間は嫌われて然るべきだと、あとから彼女は思いました。ですが、子供たちは、彼女を信頼していましたし、彼女の母親は、強烈にその背中を押しました。イアリオは正しい判断をしました。とにかくも町から出て行き、オルドピスへ行くことは、彼女の、ただ一つの人間らしい冒険に違いありませんでした。
 それはゆったりとした歩みに他なりませんでした。焦って慌てて、何か掴めるという旅路ではなくて、気づくための、本当の意味で知るための旅になりませんでした。彼女はここにいました。ここにいるだけで、十分でした。どこに行く必要もありませんでした。だから、ここにいることで、集まってくるのです。次の歩みが。その次の思考が。その先の出会いが。
 焦りと不安と、意志が望む人生は、時折違う方向を向いているようです。内臓を半分縦に割って前後で異なる機能を有しているようです。前と後ろで違いはないのに。
 いじけてもしょうがありません。圧倒されても仕様がありません。かつて、世界の水を飲み込んだ途轍もなく大きな獣がいました。その獣は、海を呑み込み、川を呑み込み、違ったものを吐き出したといいます。再びの海の他に、川の他に…その獣は、ばらばらになってなお生きています。歌や、星や、神になって…。何が世界を創造しているのでしょうか。自分は、どんな風に、世界を見ているのか?自分を受け入れるが、ただ一つ、確かな人生の答えのようです。
 イアリオはふと、あと何日で自分の誕生日が来るのだろうかと思いました。彼女は夏日生まれでした。夏の日に生まれて、重湯に入れられ、体を拭かれ、一声大きく泣いたのです。わずかに動かせる指は、母親の指を掴みました。ぎゅっと握って、放そうとしませんでした。
 さあ、リフレッシュは済みました。イアリオは元気になりました。彼女はバクにお礼を言いました。そして、泉を背にしました。もう大丈夫です。歩むべきペースと道のりを、心は確固としてものにしました。そのペースで、彼女は今度は一人で森を進んでいこうとしました。ともかくも東へ進むべきです。夕方になれば、自然と寝床を探すでしょう。しかし、その時はきっと安全な場所が見つかるはずだと、彼女は自分を強く信じることができました。
 そんな彼女を、バクは察して、進行方向に先回りしていました。彼は、まだ背中に乗っけてあげると言ったのです。
「もう十分だわ」
 イアリオは目を細めて、バクに感謝を表しました。
「私、あなたのおかげで、自分を取り戻せたもの。もう大丈夫。この足で、行けるから」
 それでもバクは動こうとしません。彼女は彼の耳の裏を一撫で撫でて、ぽんぽんと叩き、彼に跨りました。二人は泉から、動物たちの分け入った跡のある、茂みの窪みへと向かいました。
「ねえ、あなたには名前があったりするの?人に慣れてるのだもの、人間があなたに出会っているならば、きっと、素敵な名前を贈ろうとするから」
 バクは鼻を鳴らしただけでした。でも、どうやら彼女の言葉どおりのようでした。
「へえ…知りたいなあ」
 その時、彼らの後ろ側で何かががさごそと音を立てました。でも、イアリオはこの動物の背に乗っていれば安心だとよくわかっていましたから、注意はそちらに向けませんでした。褐色の肌の少年が、彼らの後を追いかけていました。

 学術の国オルドピスの書庫には、この動物について詳しい生態が書かれた本があります。その中でも、注目すべきはそれが森に住む人間から神聖視された獣だということでした。彼は「ヒマバク」と呼称されていました。非常に大人しく、象のようにゆったりと歩き、体皮がとても硬いので、天敵はおよそいませんでした。しかし、森に突如発生する肉食蟻の大群に出遭うと、たちまちに溶かされるように食べられてしまいます。ヒマバクは決して人間の家畜になったことはなく、その肉は固くて食べるのに適してはいません。また、大量の排泄をし、森の土で彼の肥料の恩恵を受けていない土壌は皆無だと言われていました。ヒマバクがなぜ神聖視されているかというと、彼が森中の土を肥やし、みずからも小さな蟻たちの糧になる諸相から、いったい、この動物に回転する宇宙を見て取っているからでした。彼は森の総意をあらわしていると思われ、転移する命のめぐりそのものを体現していると信じられました。
 イアリオを乗せたヒマバクは、道の途中で背を丸め、彼女に降りるように催促しました。ここで降りろという命令に、彼女は意外な顔をしました。人の住む村まで彼は案内してくれなかったのです。それに、降りるにしてもこの場所は中途半端で、なんら今まで辿ってきた道中と景色は変わりませんでした。ともかくも彼女はバクに感謝して降りました。バクは行ってしまいました。
 イアリオは気を取り直して、ついでにバッグの中身を確認して、起伏と木の根とがうねうねと続く森林の奥へ一人で歩き始めました。すると、チチチチ、高い声で鳴く見たことのない鳥を木の隙間に見つけました。まるで虻のように巧みに飛んで、長くてへらのような嘴を持っていました。およそ鳥らしくないなと思って、イアリオは彼にハチドリと名前を付けてみました。本当にそのような名前の鳥がいるとは知らず、急にそうしてみたくなったのです。ですがこの名前も、付けてみれば、鳥はずっと昔からそんな名前だった気がしました。大木を、藪を、灌木を押し分け避けて、曲がりくねりながらひた歩いていくと、また背後で、がさごそ、がさごそと物音がしました。しかし、彼女は放っておきました。もしも肉食獣が彼女を食べようとずっと前から追いかけてきていたとして、イアリオにはもう仮にも食べられる覚悟がありました。ここで人生が終わりならそれでいいのです。それほど潔くて、始めて冒険ができたのです。ましてこの危険な森の中を単独で行くならば(それしか方法がないのならば)、人間一人、鍛えるべきだった精神力は相当に強靭で揺るがないものにならなければなりませんでした。森に入る時、彼女にはそれがありませんでしたが、元々なかったわけではなく、まして、
 町から出て行く時に、働いた感情と力は、様々にあったものの、その揺るぎない心の力もまたあったのでした。彼女は気づきませんでした。小さなリングを回って、少しだけ、幾日か前よりも高い所に、成長の螺旋を登っていたのです。
 背後のがさごそした物音は、けれどそんなに危機感を煽る足音ではないようでした。もし彼女をつけ狙う者がいるとすれば、それはずっと狡猾で奸智に富んだ生き物で、無闇に音など出さないでしょう。まして、さっきのバクがそうした危険を彼女の周囲に残したまま退散したとは考えられませんでした。物音はわざと出されているようでした。早くこちらに気づかないかと言っているような、不躾な騒音でした。ですから放っておくのに越したことはないと、わざと無視することもできたのでした。もしかしたら、あの甲虫に襲われそうになった時に、自分を注意した誰かなのかもしれないと、イアリオは見通しをつけていました。よく足音を聞いていると、まあ確かに人間が出しているもののような気がします。彼女はなんだかこの下手っぴな追跡者が可愛く思われてきました。彼は、恥ずかしがり屋なのでしょうか。
 そうこうしているうちに、ついに追っ手が前に回り込み、行く手に立ち塞がりました。
「止まれ!」
 目の前に現われたのは少年でした。彼女は彼の行った言葉が「止まれ」だと分かりました。ここで一つ、注意しておくことがあります。彼女の町は、三百年間ほとんど他の国と交渉のない歴史を歩んできました。それならば彼らの言語は周囲諸国と異なったものにならざるをえませんでした。言語は常に変化しているのですから。しかし、彼女の町の人々はオルドピスから言語的な指導を受けてきました。評議員たちがその言葉の教育を受けて、上意下達で、町人の最新の言語感覚を養ってきたのです。それは、先の二人組の盗賊の件でもそうでしたが、相手の言葉がわからなければ、自国の存亡にも支障が生じると考えられたからでした。町の人々は、自分たちが所持する時代遅れの武具などもずっと変えずにいては、守る力もなくなるとはっきり認めていました。そこで、オルドピスと手を組んだという歴史的な事情があったのです。
 少年は黒っぽい顔をしていました。特徴的な大きな目は、きらきらと輝き、まるで穢れを知らぬようでした。髪はゴワゴワとしていて、黒く、筋のある首がなんとも幼く可愛らしく見えました。少年は袋と槍を持っていました。少年は怖い目をして彼女に相対しました。彼の名前はマズグズといいました。彼は言いました。
「これからどこに行く?答えろ!」
「ああ、あなた、オルドピス人なの?すごく嬉しいわ!」
 イアリオがこう言ったのは、世界が統一された言語ではないと知っているためでした。…その森に住む民族は元々彼女が理解できる言葉とは違う言語を話していました。ここにはオルドピスという強かな国が仕組んだ、壮大な計画がありました。かの国は、すべての民族が同一の言葉を発しなければならないと考えていました。森の民族はオルドピスから介入を受けて、徐々に徐々にその言語構造を変えられていったのです。このことはこの物語の中ではあまり取り上げるべき話ではないのですが、世界にとっては非常に重要でした。言葉の世界統一は、学問を国の力として標榜する国家としては、一つの大きな意思が世界を支配する可能性を展くために志向した手段でした。「この世界は分割されているのだ」とは、かの国のいつかの大臣の言です。「それは不幸なのだよ。人間が自ら望んだことであれ、幸福は見えざるものへと変貌してしまったのだから。」
「これからどこに行く?答えろ!」と言った褐色肌の少年の呼び掛けに、イアリオは両手を差し出して喜びを露わにしましたが、少年は、かの国の名前を聞いて顔をしかめました。
「お前、オルドピスに用事か」
 その警戒するような口調と表情に、イアリオの顔も言葉も停止しました。少年はむっつりとしたまま押し黙り、どうするつもりかと考えたようですが、すぐに、「ついて来い」と言いました。
 この辺りは、どうやらオルドピスの領土ではないようでした。彼はどうもかの国のことを嫌悪しているようでした。なぜかはわかりませんが、それならなるべく自分は口を噤んでいた方が良いと彼女には思われました。彼は、草で編んだ腰蓑をつけて、首輪と腕輪をしており、むき出しの胸に肌色がかった白い模様を描いていました。一本線と小さな丸が三つ、単純な絵柄ですが、力強く迫力がありました。そしてまた、森の住民であることを否が応でも表していました。ですが、少年のその恰好を見て彼女は何だか恥ずかしくなりました。肌を露出したファッションというものは彼女の町にはありません。素肌を相手に見せることの意味は、やはり同姓の親しい付き合いかまたは好いた相手との交流を思わせるのです。イアリオは前を行く少年の背中にピロットの面影を乗せました。そうすると釣り合いが取れて見えましたが、どうもまだ夢幻の合間を彷徨っている感覚になりました。少年の迷い無く前を進んでいく姿は、彼がどれほどこの森を知っているかを表していました。先に立って彼女を連れて行く様子は自分が何かを代表しているのだという態度に見えました。そういえばピロットは個人プレイしかしないような性格だったけれど、そんな彼でもこうした後ろ姿を見られたかもしれないなと、イアリオは思ってみました。
「アピタ!」
 少年は突然、イアリオの知らない言葉で叫びました。すると、どんどんと、棒か何かで地面を突く音が行く手から鳴らされました。
「今行く!」
 茂みを一分け掻くと、そこに、目の高さほどの細い木の藪に取り囲まれた村が不意に出現しました。イアリオは垣越しにその住居を見ましたが、家は草で覆われていてどれも円錐形でした。彼女は少年とともに壁垣を回り、その途切れる門へと進みました。中を覗くと、家々は村の真ん中の大きな岩を中心に同心円状にたくさん建てられていました。
 続々と彼女たちの前に、村人たちが集まってきました。皆、女性たちも、少年と同じように、腰蓑を付けてむき出しの胸に白いペイントをあしらっていました。そこには赤ん坊を抱いた母親と、その娘たちがたくさんいました。男は少なくみられましたが、それは狩りに出掛けているからでした。老人が進み出ました。一人、二人、三人と、老人たちは村人たちの前に出ると、イアリオの形姿を確かめるように、指を出して、彼女の輪郭と服装とを追う仕草をしました。
「これはこれは」
「ヒマバクを追ってきて、この人間を見つけた。ヨグが優しくしたから、ここに連れてきた!」
 少年は声を張り上げました。しかしイアリオはその声をよく聞くと、彼の言葉は理解できるも、自分の町とはイントネーションが大分違うことに気づきました。町の人々は語尾と語頭をスラーで(滑らかに)つなぐ癖があったのに対し、彼のは一音一音のアクセントがはっきりとしていて、彼女の耳にはたどたどしく聞こえました。それはこの蒸し暑いジャングルの中で意思を疎通し合うのに、はっきりした口調が求められたからかもしれません。それに、森の人々はやや巻き舌でした。
 イアリオは、今自分の運命がこの村人たちに握られているとはっきりとわかりました。どうしてあのバクは、この村にも辿り着かないあのような半端な所で降ろしたのか、それはまだ判らないことでしたが、こうなっては仕方がないと思いました。
「ヨグは神獣の息子だ。確かに、この村へ来るのにふさわしい。マズグズ、よくやった!」
 ヨグ、とはあのバクの名前でしょうか。村人は拍手して少年を褒め称えました。マズグズはイアリオをその場に残し、彼らの中へ入りました。すると、少年は周囲に混じり、たちまち目立たなくなりました。
「さて御客人、ようこそ我が村へ。言葉は大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫です。この村は、オルドピスからまだ遠いのでしょうか」
 オルドピス…!村人たちがざわりとしました。
「かの国への用か」
「ええ。でなければ、クロウルダという民族に、会う用事があります。ご存じないですか?」
 彼女に話しかけた老人が首を振りました。二重の意味が存在しました。
「何用かと問うことはすまい。お客には早速我らがもてなしを受けてもらうことにする。何しろ、ヨグが懇意の者であるから!」

 そのもてなしは大層なものでした。まず、柔らかな獣の肉が出されましたが、それはよく火が通されていて、緑色の香辛料がまばらに撒かれていました。香ばしい匂いはほとんどパンばかりを食べてきたイアリオの腹にはこたえる香気でした。確かに、味わいは匂いの通りでした。次に運び込まれたのは野菜でした。彼らは畑を持っているのでしょうか、上質な菜物がぴりっと縁を立てて、獣肉の次に食するのにまったく似合った形をしていました。これもまたおいしく味わいました。それらは香辛料に近い辛さを持っているのですが、むしろ水気を含んだおいしさの方が勝っていて、爽やかに口当たりが過ぎていきました。果物が出てきました。梨のような柔らかい果肉で、種を取り除かれた淡い桃色の実のみ、むき出しの状態で籠に入れられて出されました。数々の美味はイアリオの心を繊細に撫でて、落ち着かせました。彼女は自分の身代が彼らに握られているとはいえ、それほど気分の悪さは覚えませんでした。彼女はまだ警戒していました。捕まった以上仕方がないと諦めていますが、ほとんどこの歓待の意味を知らないままで、村人が、こちらを好奇の目で見ているのも、居心地の悪さを感じることだったのです。しかし、食事は明らかに彼女の心理を溶かしました。ようやく打ち解けたと見た村の長老が、おもむろに彼女のそばに来て、話し掛けました。
「この村のしきたりでは、まず客人をもてなせとあります。それがお互いのためなのです。友情はいかなる困難も克服されるものだと信じているからです。御客人は、ようやく気を楽にしたようだ。我々の歓迎を、気に入って下さったのですか?」
 イアリオは頷きました。
「ええ、とっても。こんな気分は初めてです。私の国は…そう…閉じられていますから。隣人は時に敵同士にもなります。滅多なことでは相手を歓迎いたしません」
「それは可哀そうだ。我々の真似をすればいいのに。楽しむことは、友を作ることだ。そして、慎ましい贈り物をあげることだから」
 この言葉に彼女の心は一挙に惹かれました。なんと魅力的な言葉でしょう。自分の町も、こうした風に、もっと隣国と手を結ぶことはできないかと、彼女は空想しました。
「まあごゆるりと。ところで、お互いをもっとよく知るために、我々の歴史を少しだけ紹介してもよろしいだろうか?森の民は、閉じられてはいない。知ることこそよき隣人の条件であるから」
 というわけで、イアリオは眠たくてもういいと言うまで、たっぷりとこの民族のあらましを聞く機会を得ました。歴史教師として興味深い話をうかがうことができて彼女は満足でしたが、実は、それほど穏やかな気分でその物語を聴けませんでした。それは、話が進むにつれてむしろ彼女の町の歴史が比較されて浮かび上がってきたからです。彼女からはこの夜自分から何も話しませんでしたが、心の中に、窮屈な思いが蔓延していくのをイアリオは感じました。黄金を守ろうとする民は、その存在が一人びとり、大変な命運のさなかにあると彼女はわかっていったのです。欲望の権化である、大量の金が、あの町にあったことが外に知られれば一体世界はどうなってしまうでしょうか。彼女の口は、それをしゃべってしまうかもしれない口です。その身体は、大変な宿命を背負っているのです。彼女は深い孤独を感じました。村の人々の話を真剣に聴くも、心のどこかで、そうした暗い気持ちが燻り続けました。
 森の人々の歴史は、かのオルドピス国でも研究されていて、その書物に詳しく載っていますが、イアリオはのちにこの時長老たちから聴いた話を記述しています。それは、彼女の町と、彼らの村が、同時期に存在していたということが大切な事象であると思ったためでした。自分たちの町が、恐怖に怯えていたずらに閉じ籠もっている最中に、いえそれ以上に大昔から、彼らは森に棲みついていたということを、彼女は感慨深く記しています。歴史教師としても興味深かった話を筆記する時、彼女はわくわくしました。「どうしてかわかりませんが、この世界は一旦大潮に呑まれて滅びてしまった後で、再興しますが、彼らはその頃から誕生したばかりの森林に執着したそうです。森から恵みを貰い、彼らは、少なくとも一万年以上は継続してその頃と同じ文化を守っているのだといいます。言葉は変わったかもしれませんが、出立ちと狩りの方法と、料理の仕方はずっと維持されてきたのでしょう。彼らは民族として存在していず、ただの『森の民』でした。ここに棲めば、皆がそのように呼ばれるのです。つまり、出て行く者も、入って来る者もいたということです。彼らはこの森に棲まない人々から尊敬されました。なぜなら、奥深い森林の神秘は人に太刀打ちができるものではなく、彼らはそこで、森と共に生きているからです。彼らを尊敬するということは、森林に敬意を表するということでした。しかし、近年はオルドピスが学問的研究ということで、この森を荒らしているのだといいます。相手は平気で炎を使い、獣たちと争いを起こすのだそうです。火は特に厳重な取り扱いが必要でした。森の民も火は使いますが、それは深く掘った穴の中で、決して炎の先端を地面から上に出さずに燃やすやり方でした。
 彼らには神がいました。名前はありませんが、神の意図は、めいめいの方法で森林に現れるのだそうです。例えば、川の流れが位置を変えたならば、人も住居を移すべきとし、なぜなら神がそうして世界を変革したのだから、と考えます。例えば蟻の大群が出現したら、その年は肺病に気をつけよ、雨が多すぎたために、神が乾燥した風を寄越すのだから。など、そのお告げの例は多様でしたが、中でも注目するべきは、私も会った、あのバクについての伝説でした。ヒマバクは、聖獣とされ、神の意図がよく発現するのはその獣においてだと考えられていました。彼は、森を肥やし、自らも土になります。彼は長生きでした。彼を襲うのはこれも神意の発現と思われる肉食蟻の軍勢だけでした。ですから、ヒマバクは常理の獣共の運命を辿らないのです。彼の一生はすべて神の手に拠るもので、それを人の目に目の当たりにすることがあれば、それはかの動物を通じて神意が届けられたのだと、森の民は森に棲む者としてそう自然に感覚するのです。彼らは、一年に一度、ヒマバクのうち一匹を村人総出で世話をする習慣がありました。そして、世話をした最後に彼らは蟻塚の前にバクを連れて行きます。もし、バクが蟻たちに食われるようであれば、その年は大きな変化が訪れる一年で、良い事と良くない事が一辺に起きるから、用心しなければならない。神も意図しない事が、その年には起きる、と言われていました。
 森の人々はヒマバクを『聖獣』であり『神獣の息子』と称します。彼らにとってその神獣はバクのような姿をした、しかし雲のようにずっと体が大きく、素早く空を飛ぶこともできる気高き威容を具えていました。ヒマバクはその神獣の写しと捉えられていました。ですが、最近は『神獣の息子』というと特定のヒマバクを呼ぶ名前になっていました。それがヨグでした。ヨグは、どうやら彼らが一年に一度村に迎え入れるヒマバクの一頭を、選別しているらしいからでした。神意の体現者とされる者たちの中に、さらに選定者がいたということです。」
 近々、その選定が行われる季節でした。それで、村の少年マズグズはヨグを探していたのですが、そのヨグは、イアリオをまるで選定して連れてきたのです。村人たちは歓迎せざるをえませんでした。彼女を良き隣人として迎えたのは当然でした。オルドピスの名前をその口に上らせたからといって、ヨグが彼女を背中に乗せて来たのなら、この神意は何ぞと問うて然るべきなのでした。
 長老たちの話から、このようなことが分かりましたが、しかしイアリオにはこのバクの名前が気になりました。それは連想にすぎませんが、ヨグとオグ、あの、ハリトを襲った悪の塊とされる魔物と、わずかに違う名だったからでした。どうにも関係がないようにも思いましたが、この晩彼女はその事に囚われ、眠るまで、ずっと二つの名前が頭の中でぐるぐると回っていました。

 朝起きた彼女はすぐにも村人に礼を言ってオルドピスへ発つつもりでした。この場所に長居はまったく無用でした。そのためにどんな困難があるのか、今はわかりませんでしたが、とにかく克服していくつもりでした。しかし、村人は彼女を離そうとしませんでした。
「できるならばこのままこの村にずっと住んでほしいものだが」
 二番目に年寄りのお爺さんが、しわくちゃの目を開けて言いました。
「あなたはヨグに選ばれて助けられたのだ。我々にとっても、あなたの存在は大切なものだから」
「いいや、この女性の決意は固い」
 一番の年寄りが言いました。
「だがかの国は何やら調べ尽くそうとしている。しかし、その態度は極めて不愉快である!あなたはあの国へ行こうとしているが、あの国は大き過ぎるのです。大き過ぎて、小を見ない。小を大事にしない」
 どういうことですか、とイアリオが尋ねると、それに若者が答えました。
「長老様。正確には言葉が足りないですよ。あの国の人間は自分たちの領域でものを考えるのです。そこから、絶対にはみ出そうとはしない。頑なな思考の持ち主なのです。森の声に耳を傾けようとしない。彼らの大事は、その学問にあるらしいのです」
「一体それにどれほどの価値があるというかね?共に生きるという態度は、外敵を作ることではない。じっと耳を済ませて、しかるべき位置に望むことだ」
「つまり、調和を求めるということだね」
 若者はまるで老人の言葉を翻訳するように、イアリオに話しました。
「あなたは、ひょっとしたらオルドピスのものの考え方に懇意なのですか?」
 イアリオは若者に尋ねました。彼は色黒で、ひしゃげたような頭をしていました。ですが、どこかで学問をしたことがあるような、真っ直な眼差しをしていました。
「自分は元々かの国にいましたから。けれど、ここに来ました。森に救いを求めたのです。かの国は四方にすべて法があり、ルールに基づいて非常に有機的に動いていますが、そのために人間の尊厳というものが、はっきりしなくなったのです」
 イアリオはよくわからない顔をしました。
「ハハハ、つまりは私にとってここの方が居心地がいいということなのですよ」
「オルドピスに案内して下さらないでしょうか?」
 彼女は彼に頼みました。若者は首をすくめました。
「私が決めることではない。この村が、森の意図を通して、決めることですよ」
「あなたに二つの選択肢を与えよう。このまま我らが村に住むか、それとも出て行くか。どちらにしても、まず最初に会ったマズグズと、しばらくは共にいてもらうことにする。なぜなら、入り口となった最初の形が、出口にもなるからです。マズグズはあなたをかの国へは案内しない。しかし森を出るところまではついていくだろう。あなたの心には一つしかないかもしれないが…森の願いは、何事か、私たちは知りたいのです」
 森の村人たちは自分に何を期待しているのか、この時の彼女にはよくわかりませんでした。イアリオの意思とは正反対の、もう一つの選択肢をこそ、望んでほしいといわんばかりでしたが、彼らは彼女を恐れていたのです。ヨグが、人間を運ぶなど初めてのことだったので、どのような態度でそのことに臨めばいいのか、誰にも分からなかったのです。彼らの話す口調は、彼女を萎縮させるものでした。まるで彼女がどう答えるかによって、彼らの知りたかった神の意思が、明らかになるような物言いだったのです。
 マズグズは、ヨグから降ろされた後の彼女の前にすっかり姿を現した時、怖い顔をしていましたが、それは彼が彼女を畏怖していたからでした。
「ごめんなさい。私はあなた方の期待には応えられないわ。もし一人でもあなた方を振り切って行こうとするならば、私はオルドピスの人間と同じように、頑なな心を持った人物と捉えられて、嫌われるかしら?」
「いや、そうは思わない。我々が思う森の意思は、きっとあなたをここに留まらせるということなのです。しかし、森や神は、いつも我々の心の範囲を超えて動く。あなたがそうした選択をするならば、それはそういうことになるのです」
「私、心苦しいわ。ここまで親切にしてくれたのだもの。できるだけ、この恩義に報いたいとは思うけれど、やはりどうしても行かなくてはなりません」
「ならばそうして下さい。我々は止めません。あなたがそうするのなら、それが森の神意だと、我々は思うから」
 こう言われてしまってはもう反論もできませんでした。彼女は、まるでシャム爺や町の長老の話を聞いているのとおんなじだと思いました。彼女にとって、町の意思と、個人の意思は、元来異なるもののはずで、町人である以上はこうしなければならないという法があるなら、それ自体を理解する努力を人々がお互いにしないで、とても正当化はできないと考えていたのでした。彼女は、そこまで議論を尽くそうともしない人々が嫌で町から出て行ったわけではありませんが、人同士の様々なやり取り無くして、個人が社会に帰順はできないものだと思っていました。
 ところが、森の民たちは、彼らが帰順しようとした判断に、彼女という存在を入れようとしませんでした。彼らにとっての森の目、神の目を通してしか、彼女という存在を取り扱おうとしなかったのです。そうした彼らの態度をイアリオは受け入れるしかありませんでした。そこに居心地の良さはありませんでした。
 彼らとしては彼女の自由を束縛するようなことは何もしていないつもりでした。ただ彼らの願望を伝えたにすぎず、彼女の思うように、心苦しさを与えようとは微塵も思っていませんでした。それは、シャム爺や、町とて同じことでした。彼女としても、ヨグに感謝し、村人に感謝し、その厚意に甘んじつつも、出て行かなければいけないと言うだけで済むことでしたが、社会の非合理な力を感じ続けてきたからこそ、そのように心苦しかったのです。
 イアリオは、彼らの希望を辞し、彼らの裁量をありがたく頂戴しました。彼女はマズグズと共に、森の出口まで案内されることになりました。
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