第10話 ピロットの行方

文字数 36,361文字

 いつもの日常が明けていきます。その中で、時間を空けて、三人は相談する約束をしました。どうやってあの天女の言った文言を確認していくのか。その言葉の神秘さと言い知れぬ圧力とが彼らを捕らえていました。
 レーゼは日ごろ父親の仕事の手伝いをしていました。この町では、十五歳を過ぎると、職業見習いとして働きに出るのです。それから十八になるまで自分の適職を見つけることになります。十八が彼らの成人の歳でした。この町では仕事は世襲制ではなく、自由な選択ができましたが、子供たちのおおよそはやはり親の仕事場を目指すことになりました。親に反発する者、従順に従う者、それぞれの歩みが十五から始まります。子供たちが一番身近に見聞きした事柄は、やはりその心理に大きく関わってくるものです。ところでハリトはまだ満十五歳ですから、授業に出るのも(学校教育は八歳から始まる。しかし歴史や算数、読み書きなどの必須科目以外は受けるのは自由である)遊ぶのも好き勝手ができました。彼女の家は石工をしていて、兄のシダ=ハリトは芸術家になりました。芸術家といっても石壁の装飾や絵付け、飾り物の調整や、左官工事も担いました。彼が望んだような紙の美術は、まだ手伝うこともできていませんでした。彼はイアリオの一つ上で、今二十三歳です。その妹のシオン=ハリトはまだ人生の目標を立てる時分ではありませんでしたが、レーゼと一緒に新月の丘にやって来て、星々に祈る特別な願望がありました。
 ところがその願望は今や二つになりました。もう一つ出てきた望みは、イアリオと同じことを自分もしてみるということでした。それは、大した望みではないように思われるかもしれません。レーゼのに比べれは明らかでしょう、小さな子供が、人真似をしたいと思うことと一緒なのですから。しかし、ハリトにとっては重大なことでした。彼女は今まで誰の真似もしたいと思ったことがなかったのです。彼女は唯我独尊、彼女もまた、ピロットに似ているところがありました。自分が一番大切で、他のことには気も留めていませんでした。だから、この気心の変化は、大きな変身だったのです。教師と生徒という関係で出会い、北の墓丘でまた出会い、そこで一人の大人の女性の生き方に触れた彼女は、イアリオに憧れ、いつでも彼女のそばにいたいと望むようになりました。イアリオと一緒の、教師に自分はなってもいいのではと考えたこともありました。ぼんやりと一人でいて、町から東の山脈の麓まで広々と開けた牧場の草原などを眺めたりして、彼女は物思いにふけることが多くなりました。
 ハリトはまだ、夜中、ほとんど下着の状態で外を出歩くことがありました。それで風邪を引いたというのに、彼女は懲りませんでした。眠れないのではありません。憂鬱になるといつもこうするのです。ハリトは、よく、鬱屈した気分になりました。それは彼女の溢れんばかりの生命力が、押さえつけられているようにも感じていたからかもしれません。夜風にさらされ、彼女はいい気分でした。一人だけで、真夜中に寝静まった家並みの上にいると、何とも言えない開放した気分になります。彼女にこの町は狭すぎたのかもしれません。人知れず抱えた彼女の鬱憤こそ、ピロットのそれと似ていて、何かに注力できないからこそ、自らを追い詰めることがあるものでした。夜も更けた丑三つ時、ハリトは、前のようにまた少年たちを見つけました。今回は彼らの話したことを、前よりも詳しく聞くことができました。
 彼らの話を聞いているうちに、ハリトは、自分もその少年たちの仲間になってしまおうかと思いました。面白そうだと思ったのです。しかし彼女は、ためらうことなく身を翻しました。このことをレーゼやイアリオに報告した方が、より望ましいと感じたのです。もし、イアリオと会う前の彼女だったならば…いきなり少年たちの前に登場して、自分も仲間に入れてくれと頼んだでしょう。

 井戸から水を汲み上げて、桶に、イアリオは自分の顔を映しました。二十二歳の顔は、まだ張りがあり、十八歳と年齢を詐称してもいいほどでした。彼女は結婚を望んだことがありませんでした。でもふと今、そうしてもいいと思いました。誰も相手はいませんが、それに自分をもらってくれるような殊勝な人間がこの町にいるとも思われませんが、希望は持ってもいいような気がします。
 ふふっと彼女は笑いました。一人笑いなど今までしたことがあったでしょうか。ピロットがまだこの町にいる間はそれができたかもしれませんが、彼を失い、彼女は大事な自分の一部をどこかへ奪われていたのです。彼女は自分からすすんで群れることはありませんでしたが、いつも人の役に立つことをしようとしていました。そうしなければ逆に自分は生きられないような気がしたのです。心の中に、彼を失った責務が無意識を苛んでいて。彼女は、人と笑い合うことはできましたが、一人だけいて安穏としたことがありませんでした。
 それが今できるようになったのは、彼女が、自分の悩みを人に打ち明けたからでしょう。でもそれは誰にでしょう。母親、テオルド、マット、ハリトとレーゼにも話しましたが、そのうちの誰が彼女にとって重要な役割を果たしたのか。しかしそれはさして大事なことではありません。自分の笑顔を見て、彼女は自身が大分変わったな、と思いました。
 お昼御飯が済んで、くしゃみも一つし終えたところに、思わぬ客の訪問がありました。背の低い眉毛の長い老人が、ちんまりと玄関口に立っていました。もの優しい目でイアリオと、家の中を眺めています。
「シャム爺!珍しい、中に入って!」
 彼女は快く客人を招きました。しかし、これは本当に珍しいことでした。シャム爺は(この呼称は本名ではなくて、ずっと西の町に続いた管理者の渾名であった)彼の担当する区画の外に出ることは滅多になく、まして個人的にどこかを訪問することはなかったのです。彼を訪問したいという者はたくさんいるのですが…。
「奇妙な人影が、夜な夜なわしたちの町を徘徊しとるんだ。それに、そいつらはどうも子供らのようでな。西の区域にはいない連中だったが、近頃は、わしとこの連中も混ざり始めていて」
 イアリオは沸かしたお湯にハーブを入れて彼に出しました。少し茶色がかった黒い筋のアクセントのあるその茶葉は、辛目の味がして、シャム爺はこのハーブティーがお気に入りでした。
「ありがとう。わしにも時間がない。わざわざお前さんを訪ねたのだからな。本題を聞いてくれ」
「奇妙な人影って、その言い方、彼らが何をしているのか、シャム爺にもわかってないわけ?」
「ああ、そのとおり。まったく胸がむかむかすることだよ。落ち着きがない。町の人間だとはわかっていて、しばらく様子を見ているうちに、何か判ろうものかと期待していたんだがなあ。お前さんは何か知らないかい?」
「どうして私を訪ねたのか…よくわからないけれど、私にもさっぱりよ。がっかりさせちゃったかしら」
「ふむ。子供たちが来ているから、彼らの事情を、何か知っているかと思ってな」
「そう…」
 その時、イアリオの脳裏にはこの前の子供らの事件がよぎりました。
「おじいさんも知っているでしょ?地下に、彼らが迷い込んだこと。まるで十年前の私たちみたいに」
「ああ。半年ほど前だったな」
「それが関係していたりしてないかな?」
「なんじゃそれは。どのように関係している?」
 イアリオにも判りません。ですが、気になることといえばそれくらいでした。
「子供たちにおかしな傾向はないよ。夜な夜などこかに遊びに行く子だって、普通にいるもの。それが、シャム爺のいる西地区を舞台にしていたっておかしくないわ。むしろ、そこだから、子供たちは燃えるものがあったりしてね」
「燃える?なぜ?」
「あなたがいるからよ」
 彼女は老人にウインクしました。
「案外、あなたを困らせようとしているだけなのかも。今頃、珍しく私の家まで来ているシャム爺の姿見てほくそ笑んでたりしてね」
「やめてくれないか。わしは連中に夜中ずっと引きずられているんだぞ。ああ、でも…お前さんの言うとおりかも知れんなあ」
 老人は頷き、ふうとため息をつきました。
「やつら、すばしっこくてなかなか捕まえられん。どんないたずらをしているものかと老人らしく喝入れようにも、連中がわしで遊んでいるんじゃなあ、取り越し苦労だわ。ありがとう、その通りかもしれん。わしが追いかけるのをやめれば、連中も遊びをやめるかもしれんか」
 ふさふさした眉の下の目を瞬き、シャム爺は腰を上げました。
「どれ、帰るか」
 やれやれと、シャム爺はひょっこりひょっこり、玄関から出ていきました。イアリオは、ふと、あの光の幽霊たちの合唱を思い出しました。「この国は滅びる。滅びなければいけない。なぜなら、行き過ぎたがゆえに、取り戻す必要があるからだ。」…彼らは何を宣告したのでしょうか。そして、その宣告は正しいのでしょうか。彼女は不気味な予感に、ぶるりと震えました。シャム爺のもたらした奇妙な情報は、これとは何も関わりがなく思われましたが、彼女の心の奥底で、ざわざわと様々なことが融合していくように思われました。
 イアリオは、教師の仕事の他に、評議員である父親の手伝いもしていました。それは主に議事録作りで、これからその準備に入ろうとしました。今回は相談事が二件あります。町中を走る水道の修理についてと、臨死間近のおばあさんについてです。その資料を作成するために、議事録用の薄い丈夫な粘土板かあるいは石版をたくさん用意する必要がありました。彼女は父親のところに行き、綺麗に保存されている予備の石版のある倉庫の鍵をもらおうとしました。その時、彼女は父親が面やつれしているのを見て、心配になりました。彼女は知りませんでしたが、相当な気苦労があったのです。丁度その頃、正職に就いたばかりの若者が暴れ回るという事件が起きていました。イアリオの担当していない議事で、議会では大変深刻な問題になっていました。若者は一人や二人ではなかったのです。父親はこの問題の主任で町中を巡り情報を集めていましたが、決定的な理屈がつかめないのでした。若者たちは病棟に入りそこで看病されるほど、つらい心の病に身をもだえていました。
 さて、その日の晩、イアリオはハリトとレーゼを自宅に招待していました。それまで何度か三人は集まってこれからの相談事をしていましたが、三百年前の地下都市についての詳しい事柄と、十年前の事件についてのいきさつを、彼女から二人に話すのが主でした。その間、イアリオは何度かお墓参りにも行き、一人で、ないしはハリトを連れて、ハルロスの日記を読み上げていました。
「予備知識はこれくらいでしょう。あとは、いつみんなで滅びの街へ入ってみるかね」
 三人であの破滅の都市に入り込んでみようというのは、最初の話し合いの時に決めていました。イアリオは勿論抵抗感がありましたが、乗りかかった船に二人を乗せたのは自分なので、その責任をどうしても取らざるをえませんでした。彼女の話が、実際本当であることを見せた上で、墓参りに付き合ってもらうのが通すべき筋だったのです。
「そのことなんだけど」
 ハリトが、手を挙げました。
「奇妙な連中が、夜中出歩いていてさ。奴ら、そのことを話していたよ」
「ああ、前に言った、あのことか」
 レーゼが合いの手を入れました。
「新しいことがわかったんだよ。この前、おんなじ奴を見つけたら、そいつの言っていることを詳しく聞けたんだ」
「…どういうこと?」
 イアリオの目が閃きました。
「前に、黄金の塊を持っている奴を見かけたんだ。今度は違って、鋭いナイフみたいなものを握っていたけれど、あいつが言ったんだ。地面の下に、とてつもない広い洞窟があって、そこに行けば、違ったものが見れるって。洞窟からは外に出られて、海の外へ行けるんだってさ。でね、そこで、秘密のことをするからついてこないかって言うんだ。私もついていこうと思ったんだけれど…」
 三本の蝋燭が明るく机の上を照らしています。その時、ハリトの顔面を虹色が撫でたように、見えました。
「こいつ、下着でよく夜中出掛けるらしいんですよ。また風邪引いた?」
「だから、ついていくのを止めた。洞窟なんて行ったら、風邪どころじゃすまなくなるよね」
 ハリトはその時思っていたことと違うことを言いました。勿論、それは話の流れを受けてのことですが。
「洞窟って…」
「どうしたの先生?」
「まさかねえ?」
 イアリオは妙な気分を振り払いました。地下に入り込んだ子供たちの事件は、もう片付いたはずでした。彼女だってその後一度も地下で彼らに会ったことはなかったのです。
「町の下…黄金の洞窟…言葉…仲間…」
「イアリオの話じゃないだろ。その連中がそんな言葉を言ったって、別の場所かも知れないぜ」
「でも、黄金を持ってた。あれは、その街にあったものじゃないの?」
「黄金とは少し違う、と言っていたじゃないか。小金みたいにさらさらしていなくて、ごつごつした奇妙な石だったんだろ?」
「私は、先生から話を聞いていて、ずっとあの連中が話したことが本当だと思っていたよ」
 レーゼは目を瞑り、首をすくめました。
「だったら連中もイアリオたちみたいに死体を見ているかもしれないだろ?」
「それって、洞窟で見られる違ったもの、かもしれないでしょ」
「ちょっと待って…待って!」
 イアリオが二人の会話を止めました。頭が混乱しています。まさか、もし半年ほど前の子供たちとは違う連中が今も地下に来ているのだとしたら、それはどういうことでしょうか?いいえ、ハリトの言っていることが、はたして正しいことかどうかはまだよく判りません。
「もう一度聞かせて。ハリトは、夜出歩く連中の話を聞いたわけね。夜な夜な密かに、そいつは仲間を募っている様子だったということなの?」
「そうだよ」
「だったら彼が、黄金の塊や、洞窟の話で相手を勧誘していた、ということね?」
 少女は頷きました。
「なんだか西のゴミ街に、下への入り口があるらしいよ。狭い路地から狭い路地へ、人の目につかないように、隠れながら行くのがスリルあるんだって」
「へえ、ゴミ街!あそこから行けるなら、イアリオの言っていた、地下都市しか思いつきもしないな。でなけりゃよっぽど狭くて小さな洞窟のはずだし」
「海にも行けるなら、港から?やっぱりあの連中が言った洞窟は、街のこと?」
 二人は二人だけで町の地図を調べて、イアリオの話から推測した地下街の規模をそこに照らし合わせてみていました。話に拠れば天井に梁を通し、その上に石や岩を嵌めて草木の根で楔を打ち、頑丈な地面にして構成した都市の天蓋は町の南側、ほとんど家の立っていないゆるやかな丘陵の真下でしたが、それより北方は、岩壁をくり抜いて出来た人工の岩窟街で、町全体がほとんどその上に乗っておりました。昔の人々は、地面の下がこのように穴を開けられているのなら、その上に家を建てることなどなぜしたのでしょうか。それは黄金の都を鎮護する役目を背負ったためで、彼らとしては、岩層の強度をきちんと調べて、その上で今やたくさんの建物をそこに並べていました。ゆるやかな坂に、白い歯のように並び立つ家々は、北からの光を受けて、見上げれば燦然と輝き美しい町並みでした。平野や、山裾にも彼らの家がありましたが、それは農家や畜産家のためでした。
「ならハリトの言うとおり、連中は黄金の都に行っている、てことか」
「そうなると色々と問題だよ。私たちと鉢合わせるかもしれないじゃん」
 密かにイアリオは呼吸を大きくしていました。混乱した意識を、しかるべき方向に向かわせるべく、強く、肺の中の空気をかき混ぜたのです。
「何よりも問題なのは、折角解決した事件が、またぶり返してしまったことだわ。あの街に、厄介な存在がいることは明々白々なのに!私の会った女の霊、それに、ピロットを帰らぬ者としてしまった脅威が!」
 イアリオは呻くように叫びました。二人はびっくりして彼女を見ました。
「どうやら、事はもっとおおごとらしいぜ、ハリト?」
「そうか。そうだよね。先生の大好きな人がいなくなった場所…」
 そうでした。彼女は、第二のピロットが出てきてしまうことを、何よりも今恐れていたのでした。
「当たり前なんだ、本当は。あんな未知で危険な場所を放っておくなんて考えられなかった。他の御先祖に天国へ連れて行ってもらうことを期待して、墓丘を建てた?冗談でしょ、何考えてるの!ピロットを返してよ。でなきゃ、もう一度でいいから、彼を、ここに引き止めるために何かを私にさせて…」
 イアリオは独り言を言って、大きく溜息をつきました。
「シャム爺の報告は本物だったわ。夜な夜な出歩く連中の正体を、ぜひ暴かなきゃ。これは、あの天女たちの言葉を調査するよりも、何よりも重大なことだと私は思うわ。地下都市に行く前に…ハリト、レーゼ、いい?まずはこの問題を解決するわ」
 二人は頷きました。彼女の行為を手助けすることが彼らの望みでしたが、彼女といたことで、事件の重大性が彼らにもよく理解されたのです。
 ハリトが隣に座るレーゼの肩に頭を乗せました。少年はそれを鬱陶しく振り払うこともせずに、そのままにしておきました。疲れてしまったのか眠たいか、いずれにしても、この奔放な少女がまた自分勝手に振舞ったと思ったのです。しかし、ハリトは、イアリオの感情を理解して、彼にもたれかかったのです。

 シャム爺への連絡方法はありません。シャム爺が、西の町の困ったことに、顔を出して、解決の道筋を示すのです。たとえば早急に産婆が必要なときは、お産の母親を安心させて、すぐにも赤子を生まれさせる手はずを整えます。また訴訟になりかねない喧嘩が始まれば、両者の言い分をよく聞いて、しかるべき裁判者に登場してもらう前に、詳しいいきさつを調べます。急性の病人が出れば、真っ先に駆けつけ、医師よりも早く症状の見立てをして、本人を看護します。このように彼は問題事の最前線へいち早く到着しました。そのために知識も豊富で、西の町の人々は彼がいることで見えない守り神に護られているような日々の安息を感じていました。「シャム爺」は本名ではなく西の区画に受け継がれてきた管理者の渾名です。いつごろから彼が現れたかというと、およそ二百年前から、人口が増えてきて街並みも複雑になり始めたときからでした。当時は人々の心が荒れていて、問題がよく起こり、小さな勢力が方々で争いを起こしていました。そこで、町は各方面に管理者を置き、町として統一した意思を持つために、裁判所や医師を整備したのです。町の西側の管理者は揉め事の矢面に立って活躍しました。彼自身がごたごたを最初に引き受ける姿勢を示すことで、スムーズに揉め事が解決していく様子を人々に見せたのでした。これは西区の伝統となって、今もシャム爺という渾名にもなって敬愛され尊敬される管理者を継いでいるというわけです。ちなみに「シャム」は、彼らの言葉で「落ち着いた、冷静な」という意味です。
 彼に会いたいからといって町人から彼を見つけるのは容易ではありませんでした。彼は彼が用事のある場所に現れるという存在ですので、人からの用事は聞かないのです。それに、自分の管理地域にいてそこからは出ないものの、常にどこかに移動していて、同じ所に定住はしていないのでした。夜こそ寝床にいるものの、その床はいつも変化していました。ですから彼についてこんなうわさが立ちました。もし彼を発見することができたとすれば、彼の知っていることを何でも教えてもらえるという。
 イアリオは、このつかみ所のないおじいさんの探し方を知っていました。始めは、十年前、闇雲に探してその日のうちに見つけてしまったのですが、なぜか、この時その方法がわかったのです。シャム爺は、人の目につきにくい道路を歩きます。影から人々の様子を覗き、その本当の姿というものを目に留めるのです。人と相対してしまえば、会話せずにはいられませんから、それで自分の判断が鈍るのです。影の中の離れた場所から人々が会話するところを見ることで、客観的な観察が得られるというわけです。ですからゴミ街の人々は、どこかに黒っぽい影を見つけると、あれはシャム爺かもしれないと、どきどきするのです。ですが、彼は尊敬されていましたから、まるで親しい妖怪をそばに置いているような感覚でした。イアリオは、そんな妖怪じみたおじいさんの動き方を、よく把握できるような探し方をしていました。おそらく地下のあの暗がりに臨んで様々なことを知覚したからでしょうか。物陰に潜むものを、暗い恐怖を体験した子供たちは知ることができるようになりました。
 ポイントは、ゴミ街の狭い路地でした。イアリオは朝早く家を発って、人々がまだ寝静まる頃に、するすると路地を抜けていきました。そして、小さな空き家か物置小屋と思しい家の戸を開いて中を覗いていきました。誰かの住んでいる家は、小さな看板が戸口に掛けられています。そうでない家は、持ち主不在の自由な空きスペースでした。ゴミ街ではこうした所を上手に使っていました。持ち家も狭いものですから共同で鍋や食器や調味料などをここに置いていたのです。シャム爺はこうした場所を寝床にしています。彼女もここで寝ようとしていた彼をつかまえて、祈り方を聞き出したのです。
「ああ、いたいた」
 イアリオはにこにこ微笑んで、積み上がった調度品に掛けられた藁に、背中もたれて眠っているかわいらしい老人を発見しました。
「シャム爺は、風邪を引かないのかな」
 彼こそ厚手のチョッキを(セジルという、長方形の上衣です)着ていますが、何も上に掛けていません。それはいつものことで、このような狭い空間はぴったりと戸を閉めればぬくぬくとして暖かいからでした。
「シャム爺、起きて」
 むにゃむにゃと寝起きたシャム爺はびっくりしてイアリオを眺めました。そして、昔を懐かしむような目をしました。
「はは、これは、懐かしい。小さかったお嬢さんがまたこんな所に来るなんて」
 老人は起き上がり、傍に置いたコップを持ち上げてぐびっと一口水を飲みました。
「あの時は、毎日来たこともあったな。毎日わしの居場所がわかるから、さすがのわしも、隠れることが不得手かもしれないと思い込んでしまったよ」
「私がもの探しが上手なだけよ。今日も一発であなたを見つけたわ」
「本当かね?」
「いいえ、嘘です。でも、本気で見つけようと思えば、シャム爺はきっとどんな人でも見つけることができる」
 イアリオはしみじみと言いました。
「そういうお前さんは、いったい何の用事で来られたのかね?いいや、わしは、人の用など聞かん。わしが用事のあることにしか、用はない」
「その台詞、前とまったく変わらないわ。あなたの持ち込んだ疑問に答えるために来たのよ」
 イアリオはハリトから聞いた子供らの情報を、彼に教えました。彼は驚いて、深刻な顔をしました。
「そうか、わかった。わしは放置しすぎていたようだな。あの連中を。わしに隠れて何かしているということが、そもそも気に入らぬことだったが。放っておいたら大変なことになってしまう」
 でも…と、老人は口を閉じました。何かを探る目つきをぐるぐると回しました。
「お前さんのやっていることも、どうかと思うぞ。ずっとあの忌まわしい場所に入り続けて、ましてやいにしえの亡霊たちを慰める。はて、生きているこちら側の者が彼らに取り憑かれるだけではないか?お前さんも、もはやそうなっているのでは?」
「そうかもしれない。でも、違う」
 イアリオは強い目で言いました。
「私を信じて。きっとあの場所は、忌まわしいものではなくなるから。何年、何十年、いいえ、何百年かかるか知れないけれど、墓丘に願ったように、幽霊たちは天国に帰るわ。私たちもしなきゃならないと思うの。先祖たちに、彼らの荒ぶる魂を癒すように頼んだのなら、生きている人間たちも、同じ事をしなければならないのではないかしら?それとも私たちもあのようになる可能性を、大変な欲望の渦に呑み込まれるのを防ぐことも、同時に天国の人々に頼むばかりなのかしら?私たちこそ、そうなりかねないのを」
 老人はうっと呻きました。
「お前さんの言うことはわかる。わしも、昔、同じ事を考えたことがあったよ。なぜ人間はあの暗闇を恐れるばかりなのだ、とな。でも、それがずっと続いた伝統だった。わしは考えるのをやめた。面倒くさくなったのだよ。それよりも大切なことがある。日々の生活を、確かなものにするための努力だ。繰り返し、同じ生活をし続けていくことだ。それが何よりも大切だ。わしは、一番大事なことに気づいたとその時には思った」
 彼は言葉を切り、じっと正面に視線を据えました。
「シャム爺という役職もな、わしは、四十年前に就いたわけだが、今もやりがいのある仕事だよ。だがな、人間の不安は、ともすればあの暗黒から昇ってくることもあるのだということに、だんだん気がついてきた。わしらは向き合いおおせていないのだ。根本的な恐怖から遠ざかるばかりで、どうも最近の皆は、表面的なことだけで争いを犯しているようなのだ。実がない、味がない、人らしさがないところで、罵ったり、不平を言ったりしている。以前は違ったとは言うまい。ごくごくつまらないことで言い争っているうちは平和だということもできよう。だがそんなことは問題ではない。わしはある可能性に気づいてしまったんだ」
「可能性って?」
「お前さんと同じだ。同じ考え方なのだ。この町から、我々が離れるという可能性だよ」
 イアリオはびっくりしました。そんなことは、彼女も考えたことがありません。
「わしは、こんな町捨てて出て行ってしまいたいと何度も思ったことがある。わしだけではない。この町に生きることがすべてだと皆が教えられているけれど、それは体面、昔からの都合と言うべきもので、本心は違う。ただ生きるということを考えれば、この町しかないと誰もが選択しているにすぎない。人間はわかっているよ。選択というものははるかに自由だとな。いつのまに選んでしまったことが、押し付けがましく、また自ら選んだとも思わないで、粛々と実践していくことが正しいと思い込んでいて、それは正しい。確かに正しい。それが強力な力を生み出しているにすぎないのだよ。この町から離れられず、わしたちも、滅びの都を守るためにここにいると思っている。黄金はいづくにも流出してはならないと認識している。だがそれは、我々こそその黄金に囚われていることにほかならない。しかしこの歳になるとそう感じることもつらい。町を出るなどと希望すること自体ありえないことだ。安らかに眠りたい。そのために何事も厄介ごとは起きてほしくない。そればかりだ、今願うことは…」
 老人はつらそうに言いました。イアリオはこのような話を町人から初めて聞きました。シャム爺だけでなく、他にも、町人たちの中にはこんな風に自分の出生の在り様を疑問に思った者はいるのかもしれません。
「お前さんのやっていることに、わしは口出しせん。ただわしのようにお前さんも苦しんでほしくないと願うばかりじゃ。だがそれも、余計な口出しだでな」
 シャム爺はよっこいしょ、と立ち上がりました。
「考えに耽りがちだ、というわしの性格も損なものでな。以前…そう…わしの奥さんに、だったら一度出てってみなさいよと言われたことがある。でもそうすればわしにも家族にも不幸が訪れた。この町は、臆病で、死を用意するのだ。しかしそれも仕方がない。我々は受け入れるしかないのだよ」
「もし、そのために子供たちを地下の誘惑から引き離そうとするのならば、私はあなたたちの邪魔をするわ」
 イアリオがふいに言いました。
「受け入れるしかないだって?そんな弱さ、私はいらない。誘惑は立派よ。もしそれが、ピロットの不幸を生んだ要因になっていてもね。新しい不幸を準備していたのだとしても、それが人だわ。私たちは、三百年前の人々を見限っているのよ?彼らが誤ったことをしたとして、自分たちの中からその要素を排除しようとして、何も認めたがらなかった。ただ恐れるばかりで見向きもしない。見ようともしない。感覚は追い出したわ。あの街に、全部置き去りにしてね。究極の欲望の行き着く先を私は見た。人間の死体が山のようだった。でも彼らは人間だった。亡霊の声が聞こえるわ。なぜこんな暗がりに自分たちを放っておくんだって、光ある地上に運んでほしいって!それができるのは、生きている人間、私たちしかいないけれど、恐怖は物語のように生き残ってしまった。ああ、でも、私も何を言っているのだろう。どんなことを言いたいのかわからない」
 彼女は頭を振り、眉をしかめ、額を強く押しました。
「受け入れがたいのかね?この町が」
 老人は静かに言いました。
「違うわ。あなたと違うところで私は闘っているのよ…」
 イアリオは力なく呟きました。

 もし、ゴミ街に地面の穴が空いているのだとしたら、それはどこでしょう。そこは岩盤の固いしっかりした地面でした。しかし、昔の街の人々は焚き上がる炎の煙を追い出すべく洞窟街から上へ何本か穴を空けていました。そうした掘削した通気口が、下への入り口になっている所がありました。シャム爺をはじめ人々はまずそこを調べましたが、異常は見つかりませんでした。
 夜の人影は以前より増しているように感じられました。大人たちは彼らを放っておき、監視の目怠らずで一網打尽にするつもりでしたが、それでも飛影たちは捕まらず、どこへ向かうのかもわかりませんでした。
 ところが、シャム爺はある日、自分が寝床にした空き家の一角に見知らぬ扉が開いているのを見つけました。その奥は、人工的にくり抜いた真四角の狭い廊下になっていて、すぐに行き止まりになりました。そうした穴はあちこちにあって、それほど奥行きはなく、何かを保存するためのもののようでしたが、それにしても古いものではなくつい最近空けられたもののようでした。
 でも、それらの穴が地下都市への出入り口になっていることはありませんでした。穴のある空き家付近に張り込んで人影を待っても、誰も訪れることもありません。じりじりした気分が町人たちを襲いました。彼らは相手が子供たちだとわかっていながら、手が出せず、むしろ自分たちが監視されているのではという心地になりました。我々が待ち伏せしていることも相手にはわかっているのではないか…?そんな恐れが出始めたある日、人々は長い廊下を発見しました。今は使われなくなった倉にその入り口はあって、どんな穴よりも手入れが行き届いていました。奥へ入ってみると、むっとした臭気が鼻を突き、ひんやりした空気が漂いました。しかし、地下へ下りるべき縦穴は通じておらず、ただ行き止まりになって、枝分かれもない一本道でした。これ以上の不自然な穴はなく、どこかに隠し扉でもないだろうかと色々調べても、それらしい痕跡はまったく見つからず、いい加減人々は諦めました。
 ところが、その日から夜中に走り回る影は著しく減りました。そして、やがて見当たらなくなりました。やはりあの横穴が彼らの秘密につながっていると思われましたが、人影もなくなり、ついにその詳細を知ることはできなくなったようでした。この案件はすでに評議会にも提出されていました。議会の判断は今でもこの現象を深刻に捉えていました。人々は依然監視の目は怠らずしばらく様子を見てみることにしました。
 一人の少年が彼らの網に引っかかりました。名前をシュベルといいました。彼はひどいだみ声の持ち主で、聞き取りづらい発音をしました。
「どうしてその子が捕まったの?」
 イアリオがシャム爺に尋ねました。
「夕方にな、あの横穴の中でごそごそしていたんじゃよ。どうも連中は我々が見張りの目を光らせる夜は活動を停止して、日中にその用事を済ませていたらしいなあ」
「頭のいいこと。やっぱり、こちらの行動は読まれていたわけね」
「いたずらにおいては子供らが大人の頭を飛び越えるさ」
 シュベルは取調べを受けて、こう話したといいます。
「ああ、確かに僕らはつまらないことをしていたよ。つまらないこと、くだらないことさ。僕らはゲームをしていたんだ。誰が、一番最初に捕まるか、てね。結局僕だったわけだけど。これでゲームは終わりです。それだけかって?勿論そうだよ。まあ宝物の取り合いみたいなのはしたけれど、ただ遊んでいただけだよ、僕たちは」
「でもね、十年前の事件は知っているよ。子供たちがいなくなったんでしょ?海のどこかか、山のどこかに。十三人は無事だったけれど、二人だけ消えてしまった。なぜそんなことが起きたんだろうね。思うに僕たちも、勝手に壁に穴なんか掘って、その中に宝物を隠していたけれども、それは悪いことだって誰かに言ってもらいたかったのかもしれない。早く見つかりたかったのかもしれない」
 彼の言葉はあまり要領を得ませんでした。話をまとめれば、各人が空けた穴に置物を置いて、それを探し出すゲームをしていたようなのです。舞台としてゴミ街を選んだのは人目につきにくいから、迷路のようでスリルがあるから、だそうです。ゲームが終わる条件は誰かがシャム爺に捕まるまででした。毎夜、彼らはこうして遊んでいたと言いました。
 シュベルは地面の下の都のことをほのめかしたりしませんでした。純粋に地上で遊んでいたようで、いくら訊いても、洞窟や黄金の話題は出てきませんでした。
「何か変ね。誰かにそう言わされたみたい」
「そんな素振りはなかったようだが」
「シャム爺は取り調べに立ち会っていたんだよね。彼の様子はいたって普通だった?」
「まあ、冷静だったな。いずれ捕まることはわかっていた雰囲気だったが。憂鬱そうではあった」
 それは勝手に穴掘りをした罪の意識からでしょうか。それにしても、こんな遊びのためにあの真四角の立派な廊下は造られるものか、彼女にはわかりませんでした。
 でも、これで問題は解決されました。シュベルに続いてゲームの仲間たちが次々、評議会に出頭して来ました。皆十七歳以下の子供たちで、およそ二十人ほどでした。彼らは謹慎も命じられず、ただ空けてしまった穴を元に戻すだけで許されることになりました。
「それでおしまい?」
 レーゼがハリトと一緒にイアリオの家を訪ね、彼女に訊きました。
「私の見たものは、遊びなんか超えていた気がするけど…」
「でも、黄金都市への道なんかはなかったわ。洞窟にも通じていなかった」
「黄金も連中は持っていなかった。まあ、それは別にどこかに隠している可能性はあるかもしれないけれど」
「私の聞いたことが嘘だったのかなあ。黄金もそう見えただけだった?でもそれでも話はつながるんだよね。ゲームの仲間に誘うためにそうしていたならさ…」
「やりすぎの感はあるけどね」
 それにしても、ハリトが耳にした話とどうも食い違います。ハリトが聞き間違いをしていたというなら、それまでのことでしたが。
「イアリオはどう思うの?」
「言い訳にしてはあちらの都合にいいような気がする。子供らしい遊びだと主張して、他のことを隠しているような。裏読みすれば、大人側に、これ以上は自分たちの領域だからあんまり踏み込むな、て注意している気もするね…でも、どうだろう。同世代として、ハリトやレーゼはどう感じている?」
「イアリオの言うとおりならば、まだ連中は悪いことを隠している、てことになるね。俺は、その読み方もある気がします」
「私は自分の聞いたことに自信がなくなったよ…」
「もしシュベルが彼らにとって必要な嘘をついているなら、何のためだろう?私たちが考えるべきことは二つあるわ。一つは、これが一番大事なことで、彼らは地下の黄金都市へ行っていたかどうか。もう一つはシュベルたちはただ彼の言うように遊んでいただけだったか」
「それは、どちらも奴が嘘をついていた場合?」
「そう。彼らが滅亡都市へ行ってなくとも、もっと悪いことをしていた可能性はあるから。でね、もし彼が本当のことを言っていた場合でも、同じことが言えるの」
「えっなんで?」
「彼が仲間たちと言った通りゲームをしていたとしても、下に潜っていなかったかどうかは確かめていないからよ。そのゲームと地下への潜入は関係がないことだってあるでしょ?」
「つまり、どちらにしてもってことか」
 イアリオは頷きました。
「だから引っかかるの。彼が、十年前の事件を知っている、て言ったことが。なんでわざわざその言葉を挟んだか?あの事件は私たちだけが、テラ・ト・ガルだけが真相を知っている。他の子供たちに何があったか漏らしたことはないし、固くそれは禁じられていた。大人からも漏れることはないでしょう。シュベルの説明も曖昧、私たちは海や山のどこかに行ったんじゃないし、消えたのは一人だけ。でも…もしどこかで、曖昧にも彼がその話を聞いていて、地下都市のことを知っていたんじゃなくてその事件を持ち出したとしたら、その気分は、私はわかる気がするの。後ろめたいことを隠しながら、でも悪いことの魅力に惹かれていくのって、どうしようもないからね」
 イアリオは沈んだ顔をしました。
「彼が反省しているのはわかるの。嘘はついているかもしれないけれど、彼は自分のしたことは判っているわ。苦しみが感じられるの。彼の言い分には。まあ、十年前の事件と聞いて、私自身に引き付け過ぎちゃっているけれどね。いずれにしても、果たして彼らが滅びの都に侵入していたかどうかは確かめようがない。この件は、忘れた方がいいかもしれないね」
 ところが後日、シャム爺がまたイアリオを訪ねてきました。
「どうしたの!こんなに西の町の管理人さんは、外出が多いのかしら?」
「皮肉は結構。大切なことなんだよ。これ以上、危険な目にお前さんを遭わせたくないと思ってな。イアリオの墓参りを知っている人間がいるぞ。彼らは、もしかしたらお前さんの本当の目的を知っているかもしれん。もう地下に入ったりするのはやめてくれんか。それでなくとも、醜聞が立とうとしているのだよ」
「私に、醜聞?へえ、有名になったもんね。それこそ好都合、皆に私の意見を聞いてもらえる恰好の機会かもね」
「やめてくれないか。わしだっている。わしは、お前さんのしていることが心苦しいのだよ。自分自身を責められるようでな。伝統の否定は皆の否定だ。あの街は、存続するべきで、我々が守り続ける、この生活の上にすべての人生は成り立っているのだから」
「そのために…色々な犠牲も支払っているわね」
「その通りだ。皆が知っていることだよ。だから、そんな当たり前の事実をかき乱したりする行いは是非にも謹んでおかなくては」
 イアリオは心配してくれるシャム爺の気持ちはわかるつもりでしたが、彼女の条件は自分の身の安全にはありませんでした。ピロットがいなくなったこと自体、問われるべき事柄でした。
「わかったわ。墓参りはやめる。でも違った形で、同じことをするつもりではいます。時間をかけて、ゆっくりと、皆の意識を変えていくわ」
 これでは答えになっていませんでしたが、どうにも彼女の意識は変えられないと知ったシャム爺は、悲しげな表情をしました。
「ところで…もう一つ本題がある。シュベルの状態が思わしくないようなのだよ。あれから、彼は職業見習いの大工として働いてはいるが、様子がおかしい。ずっと何か思い詰めている雰囲気で、自殺をほのめかす言葉も仲間に掛けているようなのだが。お前さん、教師だろ?彼にどんなことが効果あるものか、ちょっと様子を見て教えてもらえんか?」
「…シャム爺は、西町において緊急の時に馳せ参じて、物事の解決を促す役目、だったよね?シュベルは今、その緊急事態になっているということなの?」
「昨日の今日のことではあるが、奴と知り合いの少年たちも、同じようなことを言っていたのだよ。皆で、同じ感情を抱えているようなのだが、誰一人として前向きになれないらしい。わしにはわからん。近くの教師や親方たちにも言ってみたんだがな。特に、仕事の差し支えになることもよくあって、良薬が見つからんのだよ。わしたちは困っている」
「最近、職に就いたばかりの若者が暴れている、ていうね。彼らも何か、その状態に似ているところがあるように思う。虚ろで、焦点が合わなくて、何かに急かされて、不安になっている感じだった。その中に私の教えた子もいたんで、様子を見てきたの。私が来ると、彼は元気になったって言ってたけど、どうも誰かに甘えたがっていたみたい。わからない。彼らの心の世界に何が起きているか。まあ若者は将来が不安でいっぱいになることがよくあるわ。シュベルたちも、その予備軍になっているとしたら、少しだけ様子を見に行ってもいいかもしれない」
 そういうわけで、彼女はシャム爺に連れられ、シュベルが仕事をしている現場の近くにやって来ました。イアリオはハリトもそこに連れてきていました。ハリトが夜に見た少年が彼であるかどうかを、照会に来たのでした。「ひどいだみ声じゃなかったかもしれないけど、目立つ声をしていた」からでした。
「彼ね。へえ、確かに聞き取りづらい変な声だね。様子は…そうね。やっぱりシャム爺の言う通り、手に仕事がつかない感じね。危なっかしいわ」
「あっ」とハリトが叫びました。シュベルと話をしていた男子を見て指差しました。
「あいつだ」
 もう一人はエンナルという青年でした。彼は見習いではなく今年正職に就いたばかりの新成人でした。彼は非常に特徴的な目をしていました。ぎらぎらとしていて、左右が吊り上がり、横に伸びていたのです。顔面は黒っぽく野性的で、隆々とした筋骨は決して大工仕事で鍛えられた風ではありませんでした。一方シュベルは色白で顔色が悪く、痩せ型でした。筋肉は付いていてひ弱ではありませんが、理性的で文人の顔でした。
「あのエンナルも、自殺なんかほのめかしていたりするのかしら?」
「あいつは健康そのものだがな。だがハリトの話だと、彼がシュベルたちを誘っていたというのかい?」
 ハリトは頷きを返しました。
「そうなるとあまり確かめようがないな。遊びは二十人が出頭してきたところで終了したらしいしなあ。滅んだ街も、改めて調査したが、子供らの足跡は見つからなかったというし。本当に、奴らは地上でゲームをしていただけだったようだが、それにしてもあの様子だから、何とかしたいものと思っとるんだ」
 シャム爺はあちこちにいる少年たちを指差しました。シュベルのように、思い詰めた茫然とした顔面の数は、四つありました。しかし、エンナルが仕事の合間に一人一人に声を掛けているようで、彼らはその言葉にはしっかりと答えるように努めていました。こうしてみると若者たちの世話を一番よくしているのは彼で、何があったか知りませんが様子のおかしい少年らを、気に掛けて元気付けているようでした。
「彼の力を借りるのが一番いいんじゃない?みんなで少年たちの面倒をみることが大事だと思うわ」
「彼に訊いて、少年たちの現状を教えてもらうか。そうしてみるか!彼らの遊びがおしまいになっただけでどうしてあの様子になるのか、皆目わからんからな」
 それはイアリオも同感です。事情があまりによくわかりません。子供たちは不安でいっぱいの表情をしていますが、その原因は、単に未来に対する怯えなどではないと感じられるのです。しかし、何に思い詰めているのか、彼女は面会した教え子にも訊くことができませんでしたが、同世代に話せる人間がいるのならば、彼に任せた方がいいと思われました。
 こうして子供たちが地下に迷い込んでいるのではという不安は、彼女の中からなくなりました。そこで、いよいよイアリオはハリトとレーゼを連れてあの街に行く計画を立て始めました。しかし、彼女はこのことを自分一人で決めていいものかと疑いました。あの白い光たちの現象、まったく不可思議な事物に遭遇したためにつながった三人でしたが、天女が示唆した地下都市のそして白き町の予言が一体どんな意味を持つのか。子供の二人はうずうずしていましたが、やはりイアリオ自身も経験したとおり、そこは子供の身の丈では相当に深い傷跡を負いかねない、危ない暗闇の支配する土地でした。まして、半年前に(そして現在、)せっかく解決した問題を自ら復活させるようなことなのです。彼女は、もしシュベルたちのことがなかったらこのように悩まなかったでしょう。二人と交わした約束事を反故にするようなことを考えたりしません。
 けれど、彼女の心配は本物でした。ピロットに向かって依然残っている感情は、彼女自身の大きな課題となって、今も巨大になっていたのです。彼女は母親に相談しました。母親は、いつものように頷き、彼女の言うことをじっと聞き、彼女のしたい本当の意志を尋ねました。彼女は、もうちょっと悩みたいと言い、計画は進めるけれども、納得するまで考え続けたいと答えました。また、彼女は医者のマットも訪ねました。子供たちの精神的な事情を伺うという目的もあったのですが、その時は心の病の話で持ち切りになってしまい、計画のことは話せずじまいでした。もう一人とイアリオは相談していました。ものはついでと言いますが、またシャム爺の意見を仰ぐことにしたのです。
「まあ勿論、あなたは反対するだろうけど」
 もう一度彼の侘び住まいにお邪魔して、皆まで説明して、イアリオは言いました。老人は憤慨した目をしていましたが、半ば諦めたような、彼女を信頼する視線も寄せていました。
「お前さんらしいか、それが」
 老人は溜息をつきました。
「でもそれがいいらしい。世界を変えるのは若者だという。老いたるは変革の旗手にもなれんのだ。やりたいだけやるがいい」
「許してくれるの?」
「お前さんを信頼しているからな。わしは、もう、初めて見たときから惚れてしまっているのだよ!ルイーズ=イアリオの心骨にな。まったく心に骨のある子だよ。その揺るぎなさ、わしにいくらかあればなあ、いくつか叶えたい夢もあったよ」
 シャム爺は昔懐かしむ目をして床石を見ました。
「お前さんを見るとわしはぞわぞわしてたまらんよ。失われた過去をいくらか取り戻したいという気持ちになる。それは自分の望みではない。未来を変えたいとは望むべきことじゃないのだ。諦めた方が都合がつく。だがそれは、自分を許していないからなのだ。わしはいろんなことを望んだよ。そのうちのいくつか、確かに叶ったはずなんだがなあ。それを忘れ、お前さんに、もうこれ以上自分の心をかき乱さないでほしいと頼んだ。そうしたことにちがいない。わしは自分に拘った。わし自身の拘りが、皆の希望であると思い込んだ。そうしたことにちがいない」
「私はそうは思わないわよ?結局、みんなあの街に囚われているのよ。滅びの都に、そこで起きたことに、ずっと前から自分たちの恐ろしさとしてね。オグという化け物がいるわ。あの街の下に、さらに洞窟があってね。そこにいるらしいの。古い資料に載っていたわ。まだそんな怪物がそこにいるかどうか、それはわからないけれど、なんでもオグは、人間の悪意の集合体だって。オグに触れると、人はおかしくなって、自分のしたい一番の悪を犯そうとするんだって。私たちは、自分の意思で過ちを犯しているわけではないんだわ。何かに唆されて、それでやってしまうことだってある。私たちは、私たちの犯した罪を憎んだ。あの厖大な自殺行為を隠してしまって、自分たちから遠ざけようとした。でも結局離れられなかった。捨て切れていなかった。そうしたことなのよ。私たちは一蓮托生、何をしても、どんな罰を下しても、一緒に生きていることに変わりないわ」
 俯いた老人の目に涙が光りました。
「それはそうだ。そうしたことじゃ。逃れられん、運命だ。繰り返すまでもない。ああ、つぶさに自分の人生を見れば、まったくわかりうることだ。でも我らの真下にあの暗黒空間があるということは、認識が正しくても、それを犯そうとする諸力がいつも自分の側にあるということか…」
 おじいさんは、ぐったりとうな垂れ、苦しそうにしました。イアリオは、ハリトとレーゼをあの場所に連れて行く相談だけで良かったのですが、シャム爺の抱えていた誰にも言わなかったものの考えをこうして色々と聞くことになったのでした。
 さて、エンナルは言われた通り同世代たちの抱える問題を話してくれました。何か特別な不安があるというのではなく、漠然とした取り込むような恐怖があるようだと、彼は説明しました。処方箋はあるかという問いに、それはないと答えました。
「ですが、大丈夫だと思いますよ。一時的なものですから。誰にだってあるでしょう。そんな、一時の気持ちに煩わされることって」
 エンナルはよく通る甲高い声で言いました。彼はその立派な体格のためか多くの人から信頼を置かれていました。人々は彼の言うことを信じて、皆で少年たちを見守る態度は保って、様子を見続けることにしました。いいえ、それは、エンナルが人前で見せた行いから判断しただけでした。彼は、もしハリトの見た通りだとすれば、昼と夜で、別々の顔を持っている可能性がありました。彼らはそこに注意しませんでした。ハリトも、別段彼に注目はしませんでした。

 草原の上で、イアリオは唇を噛んでいました。ハリトとレーゼを連れて、原っぱの中に隠された地下への扉を見つけた時でした。入り口を塞いでいた岩が、横にどけられていたのです。誰が?彼女は慎重に中を覗き込みました。ですが足跡はありませんでした。きっと、何かの拍子で岩が転がってしまったのでしょう。三人はこの入り口から入ることをやめました。
「議会に言わなければならないけれど、私が直接報告したら、私一人でこの場所に来たのではないことを知られるわ。皆でてこで岩をどかそうとしていたのだものね。でも、何かの折に、必ず知らせるわ」
 彼らは開けっ放しの出入り口をそのままにして、別の門からの侵入を考えました。その日はその相談だけで解散しました。
 その後日、ハリトが全速力でイアリオの家に駆け込んできました。息継ぎしながら、少女は木の皮を叩いて薄く広げた紙を取り出しました。
「これを見て」
「絵?どこのかしら?」
 イアリオは紙を受け取って、まじまじとそれを眺めました。神々しい光が丘の上に集まっている、まるで、彼女らが白い霊たちと遭遇したあのシーンを描いているようでした。
「私たちの他に、あの現象を見た人がいたんだね!」
「そうなんだけど、私の兄が描いたのよ、それを」
 イアリオはびっくりしました。
「それでね、裏側を見てよ。きっと近くにいたはずだよ。あの言葉も書いてあるんだから」
 絵を引っくり返すとごわごわした紙面に黒い筆で文字が連なっていました。そこには、「未来がもう間もなく破局を迎える。我々は、一連托生だ。悪は変わる。変わらなければならない。破壊は再生のしるし。天秤の如く揺れる動きの中に、もはやこの国はいないから。」と書いてありました。
「なるほど」
「でね、署名は兄じゃないの」
 裏の言葉の最後には、「カ・テ」とイニシャルが打たれています。ハリトの兄はシダ=ハリトですから、確かに異なる人物のようです。
「まさか…カ・テ、か…テオルド?カルロス=テオルドかな…?」
「兄は依頼されて書いたの。後で聞いたけれど、彼が自分でその紙を用意するはずがないでしょ。そんな余裕はないもの。誰に、て訊いたら、それは言えないって言ってたけど」
「まさか、お兄さんの所からこの絵を持ってきてしまったの?」
「あんまり驚いて。イアリオなら、後ろの署名が誰だか見当がつくかと思ってね」
 ハリトはしゃあしゃあと言いましたが、その理由は、本当のところではありませんでした。兄の描いたものが、我々の大事な交差点とつながっている、ますます私たちは、近い関係ですよね?と、訴えるためだったのです。
「でも、依頼者が私の知っているテオルドならば、彼とまた色々話ができるかもしれないってわけね。そうか、ありがとう。本人に直接訊いてみることにするよ」
 イアリオに感謝されて、ハリトはにこにこと笑いました。ところで、ハリトとレーゼはイアリオを呼ぶ時に先生と呼ばなくなりました。同じ仲間として、同等の間柄として、互いに信用し合うことにしたのです。その感覚は、イアリオにとって、十五人でテラ・ト・ガルの誓いを立てたものと一緒でした。同じ秘密の共有をしながら、慎重に慎重に、行動をしてゆく一蓮托生の国民でした。国とは人々の胸の中にあるものです。失われてしまった国も、現在ある国も、人々の心の中に思い描かれていないのならばないのと同じで、そうしているならば地上から消えてしまってもあるといえるかもしれません。家族という国、友達という国、名渡しの儀式をした者同士という国、町という国。地上にはさまざまな国があります。
 その国が滅びるという天女たちの予言、果たして、いかなるものなのでしょうか。イアリオは二人の子供を連れて行くために、今まで彼女が使ってきた出入り口と違う場所の街への通路を使おうとしていました。できるだけ人の目に触れない、意外な場所からの潜入が要求されました。草原の穴はあまり使う気になれなくなりましたので、思い切って、彼女は町の中の三叉路の角にある、壁の内側に隠された扉から入ることにしました。そこは、東の市場のすぐ近くで、誰がその付近に行っても怪しまれることはなく、それに三叉路は家の玄関も窓もないまっさらな壁の続く細くて狭い路地でした。しかも曲がりくねり、視界は遮られていました。
「仮にここで会っているところを見られても、互いに出くわしたか、待ち合わせをしていたかに見られるということね」
 勿論イアリオはそこの扉を開ける鍵をもらっていますから、議会は彼女がその出入り口を利用したことは知っているわけですが、まさか他に二人も同伴しているとは思いもしないでしょう。草原からの入り口を利用しようと始め考えていたのは、鍵を使用するところから出入りをしたくなかったためで、普段使っている入り口を改めようとすればその理由を必ず問われたからです。イアリオは今回の鍵の変更の次第を、もう少し調べたい場所が街の東側にあるのでその付近の入り口を使いたいからだと議会に説明しました。
「まだ人間の気配があるのかね」
 彼女は父親の隣に座る、どっしりとした大柄な問審官に尋ねられて、
「そうですね。充満する人々の怨念をそのように捉えただけなのかもしれません。私にはもう地面の下へ行く必要はないかと思われます」と答えました。
「ですが、この前地下へ行くことのできる入り口を調べてみたところ、西の草原にある門が岩戸のずれを起こしていました。私たちは子供たちの件で今年何度も入り口の点検をしていますが、こんなに頻繁に地面に穴が空く原因を一度調べる必要があります。私は今まで主に地下都市の西側を調査しました。調査隊が定期的に送られていますが、これまでのやり方での調べ方では足らないように思えるのです。ですから、調査隊のやり方を変えてもらうか、それとも私自身の調査を支持してもらうか、どちらかにしてもらいたいと思います」
 この説明は嘘ではありませんでした。議会は納得し、継続してイアリオを物調べに当たらせることにしました。
 三叉路の角の壁を探ると、その下側に壁の内側に押し込める箇所がありました。押し方にはこつがあって、斜めにずらすように押し込みました。すると、人一人が屈んで入れるほどの穴がぽっかりと開きました。
「こんなに簡単に開いちゃうの?今まで誰かが偶然開けたりしなかったのかな」
「いいえ、あなたたちより先に来て、秘密の鍵を使ったのよ」
 壁と地面の間に溝が掘られていました。この辺りは水はけを良くするために側溝を設けていました。そこに、小さな鍵穴があって、石の留め金とつながっていたのです。白壁の真下に三人は頭をくぐらせ、松明に火をつけると、ずらした石を元通りにして、壁の内側にもついている鍵穴に鍵をきちっと差し込みました。
「よし、行きましょう」
 いよいよ、ハリトとレーゼはそれまで見たこともなかった未知の街へと繰り出すのですが、両者はぐっと口を閉めて互いの目を見合いました。穴の先の、暗闇の向こう側にあるものが急に現実味を帯びて感じて、息を潜め、じっと様子を伺いました。二人の密かに漏らす呼吸が、それぞれの胸を濡らして、あたためました。
「怖い?」
 二人は灯りの中に浮かび上がる二人の尊敬する人間が、別の生き物のように思えて首を振りました。答えはNOとなったわけですが、恐ろしいことがこの先に待っているとわかって、思わずその恐怖にまるごと呑み込まれたのです。子供たちの目は輝いていましたが、それは異常なものと出会った時の反応でした。紫色に薄らいで、確かめようとしています。ですが、怯えた感じの色はしていませんでした。通路は屈んだまま進んでいかなければならず、窮屈な姿勢で三人は奥へ這っていきました。
 彼らの行動を知る者がいました。カルロス=テオルドです。彼は評議会からイアリオが侵入口を変えたと聞いていました。(議会の討議や決定項などは資料化されていつでも閲覧もしくは問い合わせることができた。)テオルドは彼女の行為をできるだけ注意して見ていました。オグと同化して、彼は偉大な計画を実行に移すべく大掛かりな準備を進めていました。その中で、彼女は不穏分子となる可能性がありました。彼の目的は、この町を絶滅させることです。先祖のイラの魂の慟哭やまたオグの中にある数多の悪の霊たちの意識が、彼にそうするように囁くのでした。イアリオが全部いにしえの霊たちの心を慰めてしまうなどとはとても思えませんでしたが、注意するにこしたことはないだろうとテオルドは判断しました。彼は、彼女があの白い光たちに囲まれて、聞いた言葉も知っていました。彼にはあの現象が意味するものは何なのか判っていました。
 イアリオがどこまであの白光どもの文言を理解したかは知りません。テオルドはハムザス=ヤーガットなどに彼女の目付けを任せ、彼女と子供たちの三人が何度か一同に会しているのを、そしてシャム爺を経てシュベルの問題に関わっていることを、報告させ聞いていました。
 さて話は戻り、イアリオと子供たち二人はそろそろと四角い通路を這い進みました。やがて穴は下りになると、一気に落ち込み、危なくなりました。しかし丈夫な鉄の釘が、足場となるように互い違いに打たれており、三人は気をつけながらゆっくりと下りていくことができました。ずうっと下がり、相当な距離を進んだかに思えた頃、彼らはこの縦穴が煙突の役目を果たしていて、煙を地下から外に逃げさせていたのだとわかりました。ごつごつした岩盤に指を当てたところ、奇妙な感触があって、それが濡れた墨だとわかったのです。地下都市の東側は、主に工場が並ぶ一角でした。日用品をつくり出す、あるいは修繕するための釜のある仕事場が軒を連ねている区域でした。イアリオは、鉄釘の足場が途中からなくなることを知っていました。ですから、三人の中で一番下を、そろりそろり足元を調べながら降りていきました。そして、足下に何もないことを確かめると、松明を伸ばして下の様子を覗いてみました。
「ここからロープで降りるわよ」
 イアリオは火をすぐ上のレーゼに持たせて、縄を鉄釘にくくりつけると、さっと滑り落ちていきました。地面に足が付くと、埃っぽい、何百年も人が足を踏み入れたことのない不気味な暗がりに待ち構えられていました。目を凝らすと、奇妙な形の鉄鉱が床にごろごろと転がり、金槌や台、やっとこに鉄床があちらこちらで沈黙していました。
「いいわよ。降りてきて」
 子供たちは慎重にロープを伝ってきました。そして、床に足を付けると、古代の滅びた都の一室を、現実のものかどうか確かめるように探り見ました。明かりに照らされたそこは幻想的な、放置された異空間でした。灰色の衣装をまとって、石のように、すべてが止まって見えました。
「やっぱりここは、大昔に亡びていたんだ」
 ハリトが呟きました。
「ええ。でもここはほんの一部。外に出てみましょう。きっとびっくりするわ」
 橙色の光が鬼火のごとく移動して、暗い場所をほのかに灯しました。暗黒の大空間から見ればその光はホタルかそれ以上の小さな生き物のかすかな命の主張でした。暗がりが呑み込もうとしています。二人の子供らは空を見上げました。圧倒的な天井と、物言わぬ街並みの四角い壁が、こちらを押し潰してしまおうとしているようでした。立っている場所がとても狭く感じました。上のゴミ街と比べたら全然街路は広く自由に走り回ることができるくらいなのですが、イアリオからあの暗い滅びの事件を聞いたからでしょう。無数の生ならざる者どもが、そこかしこにいるのを目の当たりにしているようで、二人にとって身を隠す余地がどこにもない気がしたのです。いかなる空想も、どんなに突飛な噂話も、みなこの暗闇に呑まれそうでした。自分の存在などいかにちっぽけか判らずにはいられない。この場所が、三百年もの間自分たちの過ごす所の近くにあったなど、彼らは知るべくもありませんでしたが、それは、何とも深い真実の有様にも思われました。
「どきどきする。本当に、ここは、地下なんだね?」
「見ろよ、あの近くの天井。濡れている。きっと上の地面から滲みこんだ雨だぜ」
「じめじめしてさ、海賊なんかがここを造ったって信じられないね」
「そこが海賊らしさだと私は思うわよ。他の人たちが考えられないことを彼らはしたがるらしいから。それに、ぎらぎらした太陽の真下にずっといれば、少しは地面の下に潜ってみたいと思うかもしれない」
「でもそれが本当のことなんだよな。物語の中じゃ、連中は海が好きで好きで、それが元で身を破滅させるって話なんだけどな」
 彼らの町では海や山の向こうに憧れを持つことのないよううんざりするような物語を聞かせていました。彼らの世界観は歪んでいました。小説の中ではどんな願望も、ささいで慎ましいものを除けば皆必ず悲劇が待ち構えているのでした。大きすぎる欲望は周囲を巻き込み破滅させる。彼らにとって海賊の話はそのような性質を持っていました。ですが、事実は小説よりも奇なりは勿論のことで、イアリオは、教師としての感覚から、二人にこのような実地の経験をしてもらったことを、嬉しく感じました。
 三人がなぜここに降りてきたかというと、それはあの天女たちの言葉を確かめるためでした。イアリオも、ハルロスの日記を発見して以来の潜入でしたから、前より幾分か亡びの都は違って見えました。ハルロスの愛した、特別な国は、なぜか彼女の先祖の霊たちの言葉によって、汚されたように見えました。彼女は確か霊たちを慰めるためにあの墓丘に祈りに行ったのです。しかし、これは、どうしたことでしょうか。まるでここにいるはずの無数の亡霊が、成仏するのを拒んでいるような気がしました。
(まだいると思われる苦しんでいる霊魂は、実は、この街を愛して去りがたいのかしら…)
 それこそ、我々が忌み嫌いながらも離れることのできないように…?でも、確かに私たちは彼らの叫びを聞いている。いい加減地上に戻りたいという死者たちの希望の、本当のところを。そうではないのか?だがあの光たちは言った。「希望は絶望、我々は学んだ。」「絶望はふるさとへ。希望もふるさとへ。」何だ?あの言葉…。光の集合が言った、未知の連言は…?イアリオの中で、言葉のピースがつらなり確かな絵柄をつくろうとしました。それらの中にはイアリオが過去から現在まで体験してきたことのすべてを含んでいました。最近の出来事も、シャム爺やシュベル、エンナルのことも、カチカチと何かの枠組みに収まる気がしました。イアリオは急に胸が苦しくなりました。あの、白い光と天女の霊たちが立ち去った後の気分によく似ていました。
「イアリオ、大丈夫?」
「前に来た時と感じが違うわ。あれから色んなことがあったのだもの。それも仕方ないわね」
 闇が、眼前に暗く広がっています。目をいくら凝らしても見えないものたちが今います。それは、確かにこちら側をじっと眺め、隙あれば、こちらを取り込もうとしているようでした。相手はいったい誰でしょう?いにしえの怨霊たち、寂しい死者たち、それとも伝説にある魔の怪物でしょうか?いずれにしても、以前の感じ方から大分変わって、この街が全体危険なものに満ち満ちていることが感じられました。
「悔しいけれど、あの天女の言った言葉の意味が、なんとなくわかってしまう気がするわ。破滅の街か…懐かしいわ。けれど、どうしようもないの。彼がここでいなくなってしまったことは。希望と絶望は同時に私を襲ってきた。彼と、名渡しの儀式をした直後に彼は行方不明になってしまったから」
 二人の子供たちは黙って彼女を見つめました。尊敬する人がその人だけの場所で、心を痛め、辛そうにしているのを自分のことのように彼らは思いました。
「行ってみましょう。この街を見て回らなきゃ、私の祈りで目覚めた彼らの言葉のわけも、もっと深く理解できないわ」
 三人は街を南に向かって進みました。街の中心部に最も高い塔があり、そこから全体を眺められるからでした。暗闇は背後に回り込み、退路を断つような仕草をしました。生きている人間は闇のご馳走でした。言わずもがな、そこの住民たちは、一斉に彼らに目を注ぎ、隙あれば主人の暗黒より先に食べようとするのです。しかし、暗闇の毒はなかなか彼らに打ち込むことはできないように思われました。というのも、イアリオは、一人でここに来ているにもかかわらず何度も無事脱出しおおせていたのです。
 彼等は塔に登り地下都市を見下ろして構造と広さを認識しました。この街がほとんど岩窟を削ってできたものとは信じ難い広さでした。天井はあくまで高く、おそらく上部から下へと掘り下げていったのでしょうが、どのような労力を用意してそれを行ったかは、想像するだに恐ろしいことに思えました。海賊が奴隷を引き連れて施工させたのでしょうから、その仕事で亡くなった人々の怨恨も、もしかしたらまだ残っているかもしれないと感じられました。ハリトは塔から見下ろして街の南側にみすぼらしい木組みの小屋の立ち並ぶ一帯を見出しました。岸に沿って延々と続く奴隷用のバラックでした。この街はいかほどの罪を犯してきたものか…!そうイアリオは思いました。ハルロスはここを愛していましたが、彼女は彼の気持ちに理解を寄せるも、他の一人一人の人間はどう思っていたか。兵士でなかった者たちこそ欲望に駆られて暴れ回るに足る扱いを受けていたはずで、それを考えない限り、自分が死者たちを供養し続けて何事か果たすことはありえないと思いました。ですがそれにしても、彼女が考えていたように、今生きている人間が、彼らを敬うようになって、たとえ敬意の籠もった供養をしても何年も何年もかけて死者たちを成仏させ終えることなどできるものでしょうか。イアリオは、もし必要ならばお墓の新設も考えていましたが、眼下に潜む魍魎たちは、彼女の意見などに耳も貸さない気がしました。ハルロスは、本当に正しい感覚を持った人間だっただろうか…と、彼女は思ってしまいました。彼の愛情は本物でも、彼の愛があった時代に街は破滅したのならば、私にいくら誠愛があったとしても吹き飛んでしまうにちがいない。
 それに三百年の歴史は大木のように育っていて、容易には切り倒せない太さでした。イアリオは窒息しそうでした。彼女が願って望んだことは、悉く無効にされ、彼女自身、屍となって風雨に晒された骨と皮ばかりの姿になってしまう気がしました。目の前に横たわっているのは、そうしたずっと変わらない実際なのでした。不気味な地下都市は、人間の本性と、その行く末とを、皆が引き起こしたものの残骸の象りを、厳然として、現象させていました。流されたはずの血液は風化してしまい、そこにあるのは空しさと、言い知れぬ後悔と、怒りと、絶望でした。
「この場所で、彼は…」
 ピロットが脳裏によぎり、彼女は唇を噛みました。彼女にはどうすることもできませんでした。彼がこの街でいなくなったとしたら、元から彼は、まるでこの街の住人であるような気がしました。いいえ私も、私たちも、死んだら天国へ行くのではなく、もしかしたらここへやって来て、暗い地下都市に繋ぎ止められるんじゃないか?
 三人は奴隷バラックの辺りに歩いていきました。岸は、岩組みが乗っかかり、亡霊のような岩壁を支えていました。古代の人々はここから石を積み重ねたのです。その岩壁に、わずかな隙間から外の光を見出せました。何者からもここに古代都市があることを隠す、恐ろしい努力の末に完成された石垣の手前に、奴隷たちの住んでいた小屋の木組みは立ち並び、冷たく青く光っていました。その物寂しい様子に、ハリトはすっかり息を詰まらせました。
「俺たちの町にもこうした区画はあるけれど、まるで段違いだな。本当にここに住んでいたんだろうか、もしかしたら俺の、御先祖様は?」
 そう言ってレーゼは首を振りました。
「上の町には相互扶助の組織があるわ。レーゼの言っているのは丘地の上部の保護地区のことでしょうが、奴隷であれ、働けなくなってしまった人々であれ、人間であることは保証されているものの、自由のない身分の人たちがいるね。でも彼らは彼らにしかできないことをしている。最低でも生きていく余裕を、生活をできるようにしているわ」
「でも、貧しいだろ?貧しさは払い切れないだろ?一生あのまま生活していくんだろ?」
「あら、そうしては駄目?」
 イアリオがレーゼを見つめて訊きました。
「…何の可能性もないだろ、そんなの」
「可能性が、価値のあることというわけではないのよ。何を成したかというだけでもない。可能性と結果は、一つの現象だわ」
「じゃあ彼らのどこがいいんだよ?俺は、ずっとそのことを考えていたぜ。なぜ町に汚らしい住民がいて、連中がずっと保護されているかってね。保護なんて必要か?人生に失敗した奴らだろ?それがなぜ…」
「身分も取り外された、この建物の中にいた、奴隷たちになってしまった方がずっとふさわしいかな?」
「そこまでは言っていない。生き方の責任は自分一人が背負うもので、誰かが保護するなんて、俺はうまく考えられないんだ」
「いい?自分の身の上を受け入れるのも人生の一つのかたちだよ。それが保護されるようなかたちでもね、決して情けないことじゃない。生きている事実が保証されるべきだわ。どうしても蔑んでしまえば彼らの価値もわからない。自分と同じ、母親の胎内から生まれてきたというのにねえ。幼い頃は、身分や障碍のあるなしで友達になるかどうかを決めたかしら?同じことと違うこと、両面あって人は生きている。互いに同じ場所で」
「やはり俺は、納得がいかないな」
「…まあ、あなたの気持ちもよくわかるよ。教師としては、人間を軽蔑するなと教えられるけれど、人としては、どちらとも言えないな」
 ハリトは生真面目な顔をしてイアリオを見つめていました。いったいこの女性の中にはどんな心が潜んでいて、どんな思考が巡っているのか、確かめるように見ていました。三人はバラックから離れて、入江までやってきました。水底には岩が沈められてその上に岸から続く岩壁が延びています。海の中の岩組みは地上ほど密にする必要はなかったので、岸辺には水がチャプチャプとたゆたって、所々が濡れていました。港は大きな船が三隻ほど収容できる広さでした。ただし、この人工の岩壁の囲いの外側にぐっと伸びた岩礁があり、昔の港湾はそこも含めると優に十二隻もの軍艦を納められるほどの広大さでした。子供の二人は不思議そうに入り江の上に並ばれた巨大な岩の群れを見上げました。本当に人力でこの壁を造り上げることができたの?といった風に。
「何か感じる?」
 イアリオは少し教師然とした心持で尋ねました。
「圧倒的…でも、イアリオの話によると、みんな恐怖に煽られて建造したんだよね。国が滅びたのを外から見つからないように」
「そして黄金を外に漏らさないために。黄金は人間の心をそこまで刺激してしまったから」
「そうね。私も度々ここへ来て、そんな空想をするのだけれど、大事なのは、そうして死んでいった人たちを私たちは慰めてきただろうか、ということだと思うの。町の教えでは、黄金に触れてはならない。強い欲望に唆されてはいけない。これは、子供たちにも教えていることだわ。この街の存在を知らなくてもね。でも、」
 イアリオは岩壁に近づき、目でさするように眺めました。
「当時の恐怖を、克服しがたいものだとしても、私たちが、徐々に徐々にでいいから小さくすることはできないかしらね?」
 三百年前と今とがつながります。彼らの祖先が囚われてしまった狂気と怒号と、深い喪失を、今いる女性が撫でておとなしくなるよう、その喉を、背中を掻いています。
「前に言ったわよね。シャム爺が、私が墓参りに行くところを見ている人たちがいるって、教えてくれた。まだまだ上の町は囚われが強いわ。お墓巡りは断念せざるをえなくなった。私は違った方法でそれと同じことをしようと思っているけれど、そのやり方も、ここで見つけてみようと思うの」
 入り江は複雑で、方々に

がありました。そこに小さな船を繋ぎ止める埠頭が点在していましたが、もやい綱を縛るための杭は皆、錆付いていたり腐っていたりしていました。木製のものと鉄製のものとがあったのです。しかし、舟は一隻もありません。勿論、大昔にすべて破壊されたのです。
「係留の跡があるけれど、皆古いものだね。やっぱり最近一度も使われたことがないや」
 レーゼが冷静に分析してみせました。
「万が一、奴らの海外への航路がないものか、疑ってみたんだけど」
「あなた、まだ、シュベルたちがここに来たりしているのではと考えていたの?」
「うーん、引っかかっているんだよ。ずっとね。何が気になるのか、自分でもわからないんだけど」
「あなたはシュベルを直接見たことがないよね?」
「いいや、見たよ。仕事の都合で彼と会う機会があった。どんよりしていて暗かったな、奴は。エンナルも見かけた。あいつら、怪しいぜ。まだ何か計画しているようだった」
 イアリオは首を傾げました。
「どういうこと?」
「一度計画が狂ったところで諦められるものか、てね。あいつらの遊び、少々刺激があったかもしれないけれど、また新しい遊びを開発するもんだよ。まだ遊び尽くしていないならね」
「彼は、意気消沈していたのよ?」
「関係ないよ。悪いことなら尚更ね」
 イアリオはにわかにぞくりとしたものを感じました。
「どうしてそう思うの?」
「そういう目をしていたんだよ。あいつら何も諦めていない。エンナルにいろいろと任せたって話だけど、彼はうまくやったんじゃないか。まあ、でも、この意見は俺の勘を通り越していない。本気にはしないでくれよ」
 イアリオはじっと闇に目を凝らしました。どこからか足音が聞こえてはこないかと待ち構えてみましたが、しんとして静かな滅びの街は、不気味に重く沈んだままでした。この空間にもの探しをしてみようとすれば、途端に気が滅入る気がしました。
「やめておこう」
 彼女は呟きました。
「私も想像の域を出ないわ。彼らが、きっとこの街には足を踏み入れていないことを祈りましょう」
「そういえば」
 と、ハリトが口を挟みました。
「ピロットは、舟で脱出した、て言っていなかった?その港はどこにあったの?」
「そういえば…」
 十年前の事件の後、子供の頃のイアリオはしばらく気が動転し、あの丘の墓地で祈るまでは落ち着くことがありませんでしたが、その後でピロットのいきさつを詳しく聞いていました。人々も、なぜピロットが小舟なんかで海へ脱出したか判りませんでしたが、最後に見た彼の姿は彼らから必死で逃げる、怯えた表情の、およそ悪童ではない彼らしくない恰好だったということでした。イアリオは当時彼女の方が大人たちが知らないことを知っていましたから、なぜ彼が逃亡したか逆に訊かれる立場でした。彼女はできるかぎり説明しましたが、わかることはせいぜい、自分が彼と行方不明になったテオルドを見つけ出すという約束を交わしていたことや、盗賊と彼の間に彼女が聞いた範囲でのやり取りがあったということぐらいでした。もしかしたら彼がなお都市に執着して(もしくは盗賊たちとの対決に向かうために)再び侵入を試みたのだろうとは考えられましたが、いくら想像しても、彼の逃避の決定的な原因は見出せませんでした。
「そうか」
 彼女は小さく頷いてみせました。
「ピロットがどうして逃げたか、彼の足跡を辿れば見えてくるものがあるかもしれないんだわ。…それはともかく、ハリトの言う通りね。でも、彼はその後行方不明になったんだよ。子供たちが、そこから海の外に出ているとは考えられないけれど」
「あ…」
 ハリトはしまったと思いました。イアリオに、余計なことを考えさせてしまったと思ったのです。
「でも確かめてみましょう。レーゼの勘もあるし。私も、そこを調べたいわ」
 しかしその日はそこで解散となりました。後日、改めて同じ場所まで来て、イアリオは話を続けました。
「家の中で考えてみたわ。なぜピロットが小舟を見つけられたか、て。彼らは船を全部壊したはずなのに、どうしてあったのだろう。一つ可能性があるわ。ハルロスの舟ね」
 彼女はハルロスがずっとその舟を隠していると思っていました。日記には、イラの書き残したハルロスの最期のシーンは破かれて、彼女は彼の運命の顛末を知りませんでした。もし彼が殺されたのだと知っていたら、その小舟も壊されたと思ったでしょう。実際には人々は彼の舟を見つけることができず、彼の処刑の後に新たな暗礁を埋めることで間に合わせていました。
「彼の舟があった所を探してみよう」
 三人はまず港の周りを見て回り、水が岩壁の内側に進入している箇所をあまねく巡りました。イアリオはピロットを見送った当時の調査隊の人間にその位置を尋ねていましたが、記憶が曖昧ではっきりしませんでした。込み入った街路を追いかけていたらいつのまにかそこに来ていた、とは言っていましたが。
「港湾にはなくて、ひょっとしたら全然違う所にあるのかな」
 イアリオはハルロスの日記をよくよく思い出してみました。都からの万が一の逃走経路を彼は利用したと書いていました。そこは軍人しか知らないような道だということで、彼女が推察するに宮殿か兵舎から通じているようでした。彼女は思い切って、二人を街の中心部に誘いました。都の真ん中は、豪勢な家が立ち並ぶ歴史的にも価値ある街並みでした。堂々とした分厚い壁に囲まれた海賊の個人宅は、それぞれが個性的でした。金の装飾に華美な彫刻を合わせてまさに贅を尽くした佇まいのものもあれば、まったく質素で外装はつまらない家もありました。しかし外側に余計な贅沢を施していない家屋こそ、内部はきらびやかに美しく拵えていて、そのギャップに家主の性格がうかがえました。海賊を追い出してから、豪華な家は兵士たちに分割して譲渡されていましたが、それゆえに、彼らに黄金への尽きぬ興味が湧き出したということもあるでしょう。ハリトとレーゼはおもしろがって一々邸宅に関心を示していました。イアリオはそんな彼らの様子を微笑ましく見ていました。いずれ、この地下世界が日の目を見て(あるいは永遠に土の中に眠るかもしれない)、すべてがどこかに解決へ向かうとすれば、この街を興味深く探検した記憶はきっと忘れがたいものになるはずでした。イアリオは二人と歩きながら、色々なことを思いました。自分はいったいこの街をどうしたいのか、町の人々と何を交渉していきたいのか、墓参りは禁止になってしまいましたから、もしまだここに棲む怨霊たちを想い癒そうとするなら、ピロットのことも含めて、どの場所で供養するのか…そうして考えながら歩いているうちに、彼女たちは非常に入り組んだ区画に嵌まり込んでいきました。大屋敷の界隈から細かい路地が網の目のように張り巡らされた、下町に入っていったのです。そこは都の中でも古いつくりをした一帯で、石造りの家々は簡素で隣と軒を連ねていました。空中に走る回廊には大小の窓が空いていました。上の町のゴミ街に近い複雑な構造で、住人の数が多くなってしまい、どうしてもあの場所この場所に住処をつくらねばならなくなったために出来た苦心の町並みでした。
「目が回りそう。でも楽しい」
 ハリトがはしゃぐように言いました。
「ゴミ街と違うのは、ここが異様に古くて、埃だらけだということだね」
 しかし、細い路地の一帯を過ぎて広い十字路に出て、二人は戦慄しました。いまだ放って置かれたままの人間の死骸が、そこにたくさん転がっていたのです。
「今まで出くわさなかったのが不思議だけど」
 イアリオが穏やかに言いました。
「それは、ハルロスが昔、本当に彼らを荼毘に伏そうと努力していたからかもね」
 三人は家屋の上に上りました。迷い込んだ住宅地をそこから眺めて、元の道を探そうとしたのです。すると、屋根の上に、仰向けになった死体が無数に置いてありました。そこは兵士たちの激戦の場でした。彼らはそこで倒されて、重なり合ったもの、絡み合っているものなど、多種多様の死に様をさらしていました。下からは見えなかった、この陰鬱極まりない景色の広がりに、三人とも胸の奥をむかむかと射貫かれました。
「なんだよ、ここ…」
「来なきゃよかった?」
「イアリオから話を聞いて、覚悟はしていたけど、あんまりひどいね」
「そうね」
 ハリトは口調こそ落ち着いていましたが、気分の悪さがしかめっ面に表れていました。レーゼはただ喉元にせり上がるむかつきに耐えよう耐えようとしているようでした。先日登った塔の上からはここの位置は遠くて暗闇の中に沈んでいました。あの時は、ただ地下都市の広さに目を瞠るばかりでしたが。
「もしかしたら、私たちを襲った彼らより、惨い死がここにあったのかも」
「これじゃあ、この街を恐れて当然だよ。何があったか知るよりも、封印することを選んでしまう」
「そうね。そうだね、ただただ恐れて、怖がってしまって、黄金も人間も、管理するのを選んでしまった。残念ね。人の本性がこれだって、これじゃあ思い込んでしまうから。でもね、そうじゃないの。ここにあるのは人の一面だけ、惑わされちゃならないの、きっと。けれど、人は人間だから惑わされてしまうわ。どんなことがあっても、ずっと自分自身を失わずにいるのって、ひょっとしたら不可能なのかも」
 やっと、子供たちは落ち着きました。彼らは何よりも傍にイアリオがいるのが心強く思われました。その時、彼らはある一本の道を発見しました。屋上からそれは見えるのですが、どうもその道だけうねうねと下方に伸びており、他の道路と交わっていません。不自然な道だなと三人は思いました。しかし、どこから行けばあの道筋に辿り着けるのか、検討がつきません。
「どうする。行ってみる?」
 胸を突くひどい有様を見た後で、これ以上の冒険も少しつらく思われましたが、レーゼとハリトは彼女に頷きを返しました。彼らは方向感覚を大事にし、近くに立つ最も高い塔を目印にして、灰色の小路を渡りました。ゆらゆらと揺れる松明の火は、たった一組のこの一団を、頼りなく灯していたのですが、その明るさは、まったく温かい光でした。イアリオは気がついていませんでしたが、以前より、今日の暗黒都市は暗さを控えめにしていました。太陽の明かりが都合よく天井からたくさん入る角度にあったからでした。そうでなくば、その道は見つかりませんでした。
 彼らは目指す道を見つけ出すことができました。曲がりくねった道筋を下へ、下へと下りていきました。
 地面の下に何があるといえば、地獄だとよく言われます。この街は、まさにそうした光景でした。しかしそのさらに下へ、下っていった時に、三人は神々しい、光に満ちた、えもいわれぬ美しい景色に遭遇しました。まるで女神が降臨したあとのような、静かな入り江が、淡い陽光に薄く綺麗に輝いていました。遠くからカモメの鳴き声が聞こえて、波の音もしました。彼らにとって初めての海が、目の前遠く、アーチの岩壁の向こうで、きらきらと煌めきうたっていました。「ああ」レーゼが溜息を漏らしました。「こんな景色、見たことがないや」
「ほんと…海って、綺麗なんだね」
 ハリトは目を細めうっとりと見つめました。しかし、イアリオにとっては喉の詰まる、強烈な空虚とかなしみに襲われる景色でした。
「死者たちの街の下にある、ああ…唯一浄化された所なのかな。こんな場所が…」
 彼女はなんと皮肉なことだろうと思いました。ハルロスの都に向けた愛の言葉が蘇ります。イアリオはどこから来るかわからない激昂に胸を打たれました。その昂りを、表に出すまいと、必死に耐えました。
「少しずつでいいから、ここにある明かりを、上の都に持って行くことはできないかしらね」
 レーゼはその時、測り知れない苦悩にのたうつ人の横顔を驚いて見つめました。彼女の抱える真実の思いが、彼に届いたのです。彼は、虹色にたゆたう海面を見遣りました。何かが彼の中で劇的に変わりました。松明の火はいりませんでした。
「埠頭だ。埠頭があるよ」
 ハリトが見つけたのは、地面に突き立てられた木の杭でした。そのうち一つだけ朽ちずに残っているものがありました。もやい綱を縛った跡がくっきりと残っている黒光りした太い杭でした。その跡は、疲れ切った人間が、あがこうとして掴んだ人間の手のようでした。その時彼女は、十年の時間が逆流したように思いました。まるで自分が、ここで彼を見送ったような気がしました。光の中へ消えていく彼を…いなくなってしまった彼を…!
「これ…」
 ハリトが杭の傍に小さな物を見つけて彼女に差し出しました。それは、種でした。乾き切って萎びたヒマワリの種子でした。彼が唯一、彼女に明かした、自分が好きだといったものでした。ああ、ああ…!
 ここで、この場所で、確かに彼は、行ったんだ………!!
「アステマ、アステマ…」
 名渡しの儀式はもうしていました。彼が、失踪したその日に。彼女はピロットの下の名を呼びました。涙が溢れてきて、止まらなくなりました。



 少年アステマ=ピロットは、島民の小屋の寝台の上で目を覚ましました。そこで、彼は傍に座っている美しい女性に目を留めました。女性は彼の荷物を漁り、帯を持ち上げてみました。するとそこから、植物の種が落ちてきました。
 彼の意識は一気に覚めて、女性から自分の帯をふんだくりました。
「わあ、驚いた!あらあら、元気そうじゃない。元気が有り余っているわ」
「お前は誰だ」
 彼は言いました。言いながら、床板に零れたいくつかの種を、じっと見つめました。
「私?私はビトゥーシャ、今この村にお世話になっているの」
 彼女は顔を触れるほどの近さまで少年に近づけました。
「あなた…一体どんな目に遭って、ここまで来たの?びしょ濡れのまま、砂浜に着いたっていうじゃない」
 彼は黙って女を見据えました。「ふうん」女は値踏みするように彼の顔と、恰好と、憮然とした表情を観察しました。突然、はははと笑って、「ごまかしは効かないわ」と言いました。
「私とあなたは同じ匂いがする。立派な悪の匂いよ。人間を翻弄して、そこに快楽を捩じ込む、素敵な職業。ああ、あなた、その入り口にいるのね。でもいいわ。私がゆっくり、教えてあげていくからさ…」
 ビトゥーシャは桃色の息吹を少年に吹き付けました。その股間に手が這い、少年はびくりと弾みました。彼女は彼にキスをしました。その感触は、甘いものではなく、凍りつくようにぞくりとするものでした。ピロットはどくんと心臓が飛ぶのを感じました。その感覚、彼が、暗闇の街の五弁花の咲く奇妙な生命の壁を越えたらそこに、あの黄金を、光り輝く小金たちを見つけた時によく似ていました。唇を離して、ビトゥーシャは少年を眺めました。やはり見込み通り、この子供が無限の可能性を持っているのを見て取りました。彼女の領野である、持ち前の、人間の悪を利用して生きるその生き方の娯楽を、教えてあげられる相手でした。
 少年は、彼女の口付けの意味が分かりました。それは、ようこそここに、入り口があると紹介していました。彼はその門前に立ちました。門の高さは果てしないものでしたが、幅は狭く、その向こうにある道も、細く窮屈でした。ですが、大勢の人間がそこを通っていったことを、彼はよく知っていました。
「いいよ」
 ピロットは呟きました。
「ついてってやるよ、お姉さん。ああ、ビトゥーシャ、それは下の名前なの?」
「ええ、でも、私の名前はこれだけなの。色んな名前があるけれど、本当はこれだけなの。意味、わかる?」
 彼が想像できたのは故郷の名渡しの儀式でした。彼は心の中で小さく悲鳴を上げました。大事なことを、彼にとってとてもとても大事なことを、何かが忘れさせようとしました。
「俺は…アステマだ…」
 その時に、彼は一つの記憶を失いました。それはいらなかったのです。彼が、自由に、悪の道へ羽ばたくためには。
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