第12話 オグ

文字数 37,257文字

 イアリオはぐずぐずしていました。これといって手掛かりのない洞窟のこの場から去り難かったのです。さっきの陶酔したような感覚に彼女は囚われていました。ヴォーゼという天女が目の前に再び現われたことで、その前に天と地が逆転したかのような鋭く鈍い情感が無意識に呼び起こされたことで、彼女の裸足は地面に貼りつかせられたのです。何事か深く考えるままの彼女の側にはハリトが付き添って、レーゼは少し離れた場所を探ってみました。岩の廊下には細々した水の流れがあり、壁にはそれが幾筋も見つけ出されました。
 イアリオは自分を見つめました。子供たちにも言った、エアロスという言葉が自然浮かんだあの感覚の中に、何か答えを見つけ出そうとしました。緩やかな流れが突如波立ち、遮るものをすべて壊していってしまう様子は彼らの地上の川にも見られます。エアロスは、その様子をも映し出す機能を持った言葉でした。彼女は焦りました。何を焦るか判りませんが、それでも確かな焦燥が存在しました。
(ぐずぐずしてはいられない)
 しかし、裸足はどうしても一歩も前にも後ろにも出ず、じっと動かないのでした。ハリトが、彼女の影のように後ろに立ち、洞窟を眺め回していました。音もしていないのにキイキイと声が聞こえたように思いました。それは、ドアの軋みではなく、動物の鳴き声のようでした。(後ろを向いてごらん)誰の声だか知りませんが、そう聞いて、ハリトは後ろを振り向きました。そこには何もいませんでした。何も、いませんでした。彼女には見えませんでした。実はこの時、イアリオの身に起きていたことは、町中の人間たちにも起きていたのですが、彼らはそれに気がつきませんでした。ハリトにも、レーゼにも、それは起きていましたが、一番敏感だったのがイアリオということだけでした。
 それが、ハリトに後ろを向いてごらんと言ったのでした。今まで辿った、長い道のり。来るも遥かな道程。言い知れぬ過去が、そう言ったのです。過去が彼らを見つめていたのです。じっと、密かに、動かずに。
 その洞窟はまるで母親の胸の中のようでした。
「一度、戻りましょう」
 イアリオがぼそりと言いました。
「この洞窟も、事前に色々調べた方がいいみたいだわ。ここで、またあの天女に出会ってしまったんだものね。私たちには情報が少ない。町の資料を当たって、できるだけ、ハオスにも質問の必要のない事情を吸収してからが、本当にここに来る時になりそうだ」

 突貫の取材は、効を奏したようでも、そうでないようでもありました。未知は増えて、切り開いたようには思えなかったのです。穴倉は闇に隠れて、立ち入るもその全貌は見えてくるものではありません。彼らには何より知ることが必要でした。しかし、天女の言葉を調べるにあたり、図書館の書物を読み解くのは、遠いことにも感じていました。現在進行中の問題は、実際に現場に向かってみねば感じ取れないと考えたからです。彼らはそれが地下であると感じました。ところが闇は、もっとわけのわからない現象を用意して彼らに何も答えを見せませんでした。
 しかし、この洞窟探険の前、イアリオは言葉にするのも難しかったエアロスという感覚を、二人の子供たちに伝えられました。その概念を共有した二人の同志は彼女の意図するところを正確に感じ取りました。彼女はといえば、襲い来る言い知れぬ予感と焦燥に自分が突き動かされていることを感じながら、ともかくもそれを言語化することで、何とか感覚を理性につなぎとめることはできました。エアロスとは、来たる暴風の予感で、イアリオは天女たちの言ったことがまさにこれから実現しうるという、否定し難い感覚を得たということなのです。
 彼らは今回の探険に当たり、「オグ」や「クロウルダ」など、調べる必要のある言葉に行き当たりました。彼らはそれらが一直線に天女の文言を理解する手助けになろうとは思いませんでしたが、とにかくもそれらのワードは重要であると考えられました。
 オグ、オグ、オグ…それは何でしょう。イアリオは、ハルロスの日記に書かれてあることと、図書館の資料の中に見られる箇所を引き合わせ、色々と考えてみました。「人間の悪の集合体、遥か昔からいた存在!」天女たちの言葉に出てきた文言をそれは超えていませんでした。何より、それが昔からいたことと、伝説のごとく、様々な地方で語られていたということが資料から窺い知れました。きっと、エアロスのように、それは人間が世界を説明するために生み出した概念と同じところにいて、同一のものを各所で感じていただろうと思われました。オグは、この地にだけ棲んでいる怪物ということではなく、おそらくは名前も形も変えて、しかし万人に知られている存在なのです。
 それならばこの存在をどこかで聞いたことがあるという彼女の感覚も説明がつきます。ですが、その感じ方を詳細に眺めれば、それだけに留まらない意味を具えているような気がまだしました。さて、町の管理する図書には豊富なレパートリーがありましたが、これだけの本があるのは、例えば滅びた都から持ち出した分がそれだけ多かったのもあります。人々は大事件を忘れぬように記憶に留めることを選びましたから、過去の国に残された数々の資料はやはり大事でした。死んだ人間を地上に埋葬するより、出来事を記憶することの方が選択されたわけでした。彼らは文化的にも彼らの方針を伝えていこうと決心したのです。そしてまた、新しい文化も、そのために色々とつくられ続けたのです。勿論、その対象者は彼ら自身でした。つまりは彼らという新しい民族でした。
 教育指針はしっかりしたもので、たまに現シャム爺のような迷いの人も生み出すことが往々にしてありましたが、大抵は形作られた生活文化に誰もが勤しみ、その中で励んでいました。疑問はエネルギーを使うもので、それが損と考える人間は多数でした。それはともかく、町の図書館にある資料は亡国のものだけではありませんでした。彼らは唯一オルドピスという国と交流がありました。そこからもたらされた本が数々存在しました。オルドピスは町に本とともに技術も贈りました。その指導のお陰で町の住宅やインフラ環境は劇的に利便性を増したのです。イアリオはオグやクロウルダについて調べるために、神話集や歴史書を当たっていましたが、オルドピスから贈られた資料の中にもその記述がありました。しかし、彼女が知りたいだけの詳しいことは書かれていませんでした。
 彼女はじっと、オグという言葉がもたらす情感に身を委ねてみました。自分の感覚のみが天女たちの言葉を理解する手掛かりなような気がしましたが、やはりそれでは足りませんでした。彼女は普段見ることのできない書物が議会預かりの倉庫に眠っていることは知っていましたが、そこから本を借りてみることは憚られました。彼女は地下に臨んだり墓参りをして町人に疑いの念を掛けられていましたし、父親からも、それとなく最近の行動を咎められるようになったのです。父親は、この己の力を持て余すように見える自分の娘を案じるようになりました。彼女が単独で地下に潜ることを他の議会のメンバーと共に承認したとはいえ、自分の懐に収められなくなりますます我がことのように心配されたのです。今までは、そうした気持ちになったことはなく、彼の妻と同じように放任していたのですが、結婚の適齢期を過ぎたからなのか、否応なく我が娘が気に掛かるようになったのです。彼は、彼女をどこへ行っても恥ずかしくないような娘に育てた自信がありました。例えばどんなに生活力のない男に見初められたとしても、そしてその男を選んだとしても、自ら人生をやり抜くだけの気概と潜在力を育てたという自負がありました。ですが、娘がひとりで生きていく人生は考えたことがありませんでした。イアリオの母親はそれについて落ち着いたものでしたが、父親はそうはいかなかったのです。
 さて、オグについては調べるのに限界がありましたから、彼女は地下都市の地下道や洞窟について尋ね出しました。これについては町の守備隊に詳しい人物がいました。守備隊は、町人が交代でなるよう義務付けられていた役所でしたが、隊長クラスの人間はこの役所に長年在籍したつわものでした。彼らの役目は町の治安維持と、何と言っても外敵の放逐でした。盗賊連中が入り込むことのある亡国の都のことに通じている必要がありました。イアリオはそんな守備隊の長に訊き、地下を調査するにあたってどんな資料が適切かということと、彼らにとって地下道はどのように取り扱われていたかを教えてもらいました。彼らは定期的に地下都市の警備に回り続けていますが、地下道や洞窟まではその範疇ではなくて、滅多に入らないと答えました。しかし、以前トアロたちが侵入してきた時は洞窟の奥から盗み出された黄金を取り戻し、その先を岩などで塞いだと答えました。
「まだあそこから人の気配を感じるのかね?」
 隊長からの問いに、彼女は首を振りました。
「いいえ。だけど、調べたいの。地盤の緩みがそこから起きていることだって、考えられるでしょ?」
 イアリオとその時の隊長は懇意でした。父親を通じて両者はよく活動を共にしていたのです。前回も、子供たちの事件があった時は彼はイアリオと協力して、一芝居打って彼らを外に連れ出しました。イアリオは人々から疑われるようになったといえ、いまだ強い信頼を彼女に向ける相手はたくさんいました。

 幸福至福な人間を見て、恨み募らせる人間がいます。テオルドは、そうした感情をよく理解しました。悪は命の力でありながら、命を壊すことを願いました。悪は仲間を求めました。破壊が唯一の快感をもたらす装置に思えるのでした。苦しみの沼地に悪は潜みました。悪は、ずっとその気分だけに浸れるものではないからです。だったら、幸福にも同じことが言えるのですが。
 しかし、美は悪や命と同義ではありませんでした。美は印象であり、物語でもありました。悪の中にそれを発見することはありました。命の中にもありました。美は命のすべてを使い切った場所に存在しました。人は、悪の一部でした。偉大なる悪の懐に抱かれているから、テオルドは、彼らの人間としての本質の一つを自由にできたのです。ですが、彼は悪の一部ではありませんでした。音楽や歌と、悪は同じものでした。それは人の中にありながら、人の外側にありました。
 この町では、図書館ごとに別々の書物が収められていました。イアリオの欲しい資料はそれぞれにばらばらにありました。ですから彼女はテオルドに頼んで、必要な本をひとところに集めてもらいました。本は基本的に館から出してはいけなくて、貸し出しは特別な事情があることが前提でした。彼女がハルロスの日記を手元に置いているのも、テオルドから書物の管理の仕方の手解きを受け、指示に従っているからでした。本の移動は、管理者が丁重に行わなくてはなりません。それで、テオルドは彼女がどんな資料を閲覧しているのか、職権上監督できました。彼女がどこまで調べたのか彼に全部筒抜けだったのです。イアリオは毎度彼に感謝して、図書室を後にしていましたが、その後、テオルドは彼女にこの箇所は必要ないだろうという紙面を引き裂いてごみにしました。悪は人を騙します。自分をも。しかし、彼は悪の言いなりではありませんでした。
 図書室の冷たい石段を下って、イアリオは真っ白い日差し溢れる町の中へと出ました。今日の日差しはいかにも強過ぎました。時折かの土地にはこのような人心を惑わす強烈に明るい光が差し込みました。それは、人々の意識を狂わせ、特に子どもたちには、彼らだけが持っている、振り返らず未来へ突き進む活力を、否応なしに増大させました。それで、皆元気になり、暴れるようになり、壁に追突したり、乱暴になったりするのです。その明かりは白き町だけに降り注ぎました。周囲の農地や草原には来ない光でした。イアリオは思わず手を仰ぎ、建物の影に隠れました。他の人々も、同じようにそうしていました。この光は、実は彼女を取り囲んだあの白い霊たちの纏うものと一緒だったのですが、守り固い白壁の町は、イアリオが二人に語ったアバラディアの国のごとく、大勢の何者かに監視されているのでした。
 イアリオとハリトとレーゼの三人は、それから何度も繰り返し地下に潜る機会を得ました。彼らは使用人宅の先の洞窟も、不思議な男ハオスと遭遇した地下道も、慎重に、少しずつ調査を進めていきました。あれから、ハオスはつと帰途についたとイアリオは議会から報告を受けました。彼女はついにこの機会に彼に尋ねることができませんでした。ですが、また、チャンスは訪れるだろうと前向きに受け止めました。彼女は他の二人と知識を共有しつつ、徐々に徐々に地下の都の更に奥の深みに足を踏み入れていきました。
 さて、イアリオはかつての十五人の仲間たちを集めて思い出を語り合いたいと考えていました。あれから十年以上たちました。その準備ができただろうと思ったのでした。彼女はマットや、テオルドに声を掛けていました。しかし、二人とも色好い返事を寄越しませんでした。それぞれ事情があり、難しいと答えたのです。テオルドはともかく、マットは、本当に医師としての勤めが忙しくて、そんな余裕はないということでした。しかし、マットはイアリオの心情をよく理解していました。他の全員が揃うようであれば、自分も行かなくてはならないと呟いていました。
 そこで、イアリオは他の仲間たちの様子も見て回りました。まず、ヤーガット兄弟は弟がその家業を継いでいました。彼は、怪我して引退してしまった兄の役目を必死で努めこなそうとしていました。兄のロムンカは、西区の丘地の、総合住宅にいました。そこは、障碍を背負った者やはぐれもの、身寄りない老人たちが住んでいました。彼は、一生をもう守られ、挑戦の潰えた身に落ちたかのようでしたが、しかし、飛ぶように、自由に生きていました。この町において、用いられざる者はいません。老人たちも何事か役割を与えられていました。それを選ぶことができないだけでした。彼は、漁業の網を直す作業をさせられていました。ですが、その網を触っていると、自分もまた川のほとりに立ち、仲間たちと一緒に魚を誘い追い込む気分になりました。彼は比較的、嬉々としてその作業に打ち込んでいました。彼は結婚ができませんでしたが、それも運命と受け入れて、しなやかに己の事情を生きていたのでした。
 彼と話して、イアリオは随分元気をもらいました。そして、彼にはあの事件を持ち出すことができませんでした。町の中で適切に生きているロムンカと比べて、程遠い生き方を選択していると自分を感じたからでした。
 彼と話したことは大きく、彼女はこれまでの目論見がうまくいくはずはないと気づき始めました。それぞれがそれぞれに生きていて当たり前なのです。いくら町の事情を変えようと望んだところで、自分はやはり町の起こりから、その継続する体制からよほどはみ出した概念を持っているのだと思わずにはいられなかったのです。彼女は自分を愚か者かもしれないとも感じるようになりました。彼女はこの町を愛していました。面倒を見る多くの子供たちは可愛がって余りありました。その子供たちがこれからも暮らしていく場所こそ、この町なのです。彼女はいつしか孤独を非常に深めていきました。しかしあの白霊たちと出会った事実はずっと彼女を追いかけていました。それが、言い知れぬ焦燥を絶えず運んでいました。
 また時間が過ぎていきました。季節が巡り、夏から、秋へ、そして冬に変化しました。一年が終わろうとする頃、町では成人の儀が執り行なわれました。レーゼにとって、真に町人となるための儀式が、用意され整えられたのです。空は冴え冴えとしていました。空気が乾き、潮の風も、見てはいけないとされる海から、冬にふさわしい冷気を運んできました。温暖なこの地にも葉が枯れ落ちる枝がありました。山ひだの樅は、ばらばらと実を落として、眠りの支度に入ろうとしていました。夜は、煌々とした灯火が新成人たちをいざないました。地面の下へ入ることのできる入り口の正面へ、彼らはやって来て、そこであの物語を聴くのです。
 レーゼは三百年前の出来事のほとんどをイアリオから聞いていましたが、このような儀式の最中ですと、なぜ町の人間すべてがかつて自分たちの先祖がなした行いを悔いて、憂えて、防ごうとしているかがよくわかりました。新成人たちは火の輪をくぐり、評議会の総長から勾玉に似た曲がった玉の首飾りを受け取り、水の中で禊をして、さっぱりした衣服に袖を通し、木の席に促されました。祝辞があり、それに続いて一人一人名前が呼び出され、さらにその両親の名前を呼ばれ、改めて、町から彼らに個々の命名が授けられました。こうして個人同士が交わすのとは違う、町が執り行なう名渡しの儀式がなされるのです。六年前、イアリオは新成人となったこの時、嫌悪感を自分に覚えていましたが、それは初めて抱くものでした。町人として生きる準備が彼女の中に整っていないからでした。そのいたたまれない気持ちは現在の彼女にもまだ居残っているのですが、レーゼもそれと同じ気分を味わいました。彼は、柳の葉のように鋭く剥いた目を周囲に向けました。夜闇の中で、同級生たちは一様に神妙な顔でした。彼だけが、前もってこの国のあらましを知っていました。彼一人がただこの場にじっとしておれないような心境でした。レーゼは密かに息を吸い込みました。ぱちぱちと爆ぜる灯火の焔がこちらを胸焦がそうとしているように感じ、彼はしかめっ面をしました。妖しげな儀式の雰囲気は、神秘的な影響を彼らに及ぼし、そこで新成人たる心構えが出来てくるのですが、彼だけ冷静で、気持ちが冷めて、周囲が見えていました。
 それでも次第に高揚した気分は彼をも襲いました。周りの大人たちと、そして先祖と、同じ苦悩と歴史を共有し、この町を守らなくてはならないという使命が彼に与えられたのですが、そのなんとも言い難い心地はかつて味わったことがありませんでした。これが、町の人間になるということでした。彼は不思議な気分で儀式を終えました。確かに、自分は変わり、よりこの土地になじんだ気がしたのですが、それは、彼の徹底された自己には何とも耐え難いことを突きつけられているようにも捉えられました。彼の考え、思いは彼だけのものでしたのに、周りと幾分それを共有しなければならないのです。例外は認められないという束縛があるのです。
 後日、再び三人は集まり、彼は、こうした個人的な感想は詳しく明かさずに、成人の儀がどんなものだったか二人に話しました。来年は、ハリトが受けるのです。ハリトは洞窟探検を計画した時のように、興奮して興味深く彼の話を聞きました。
「まあ、凄かったよ。確かに、自分が生まれ変わったような感じだな」
 彼は落ち着いた調子で言いました。儀式から数日がたって、その時に味わった奇妙な奇怪な感触は、すごすごと彼のものになっていきました。まあ、こんなものだったんだろうというところに、儀式の経験は落ち着いてきたのです。
 とにかくこれで、もう彼は一人前の町人でした。三人が集うのはより難しくなってきました。それでも地下道の調査は進んで、少なくとも資料の地図に書き写されている部分を隈なく彼らは歩きましたが、ハオスの言っていた湖はいまだ発見できませんでした。洞窟の方も探索が進み、慎重な侵入は地図の新しい書き込みをより複雑にしていきました。彼らは割と要領よく調査できていたのです。しかし、そうなるほどに、イアリオの焦燥はだんだん膨らんでいきました。町の資料だけでは、うろうろと暗い廊下を進むだけでは明らかに情報が少ないのです。オグについても、クロウルダについても、ほとんど知るべき知識は得られていない感がしました。町の管理下にある禁書に手を出したとしても、そこに書いてある事柄はなんとなく予想がつき、あの天女どもの言葉をすべて解読するのにはおそらくまったく足りないでしょう。彼女は、頬に手をあてて考え込みました。
 いつしか、イアリオは資料に向き合うにしろ地面の下に向かうにしろ、このまま暗い地下を覗き込んでいるだけなら、いつまでも天女の文言は確かめられないという気持ちになりました。それならば、どうにかあんな宣告など忘れてしまえばよかったのですが、そうした望みは、もう希望できません。なぜなら、否応なしにあの言葉の群れは、悲しみと痛みを抱えて空から下へと落ちて降りてきていたのです。彼女は、エアロスという神様の名前とともにそのメッセージを受け取っていました。そのメッセージは絶対でした。いくら幻でも、そのように断言しても、夢とは違う絶対的な、壁に掲げられるような木版と同じ存在の確かさを確固として持っていました。木版は粘土板や石版とは違って、この町では強固な決定事項だけを彫り記すことのできる宣言書だったのです。彫る、つまり、刻み込むのです。心と目と、人々の中に。
 彼女にはもう刻まれていたのです。まるでトラウマのように。そしてその文言は、さらに、彼女をしていずこかへ動かそうとしていました。
 彼女に深まる孤独な思いは、町の内側に、安息を見つけ出せませんでした。しかし、彼らは決して外に出てはいけませんでした。黄金が外部に漏れることを何よりも恐れていたからでした。一度たりとそんなことを望めば、永遠の罰が待っていました。それほどの悔やみと衝撃を彼らは長年受け継いできました。
 だからこそ逆に、町の外側を望むような人物もその町の人間としてごく自然に現れてきました。勿論その者は、罪を問われ、処刑かもしくは終身の檻の中に閉じ込められましたが、その人は外に焦がれたというよりも、どうしてもいてもたってもいられない衝動に突き動かされたのです。未来が見えれば、この町とこの住人のまったく望みのない行く末はある者には暗澹たる気分だけをもたらしたでしょう。現在が見えれば、お互いの力関係を計算しながら、何とも打算的な人生しか我々は送れないのだと気が付いたでしょう。過去は、常に、動かずにそこにありました。そうして見れば、人々は一体、何によってこの町を守ろうとしているか、その償いと自責の念はどこに向いていたものか。その臆病な、その閉ざされた、非常に由々しい不治の病が、ずっと足を引っ張るばかりだということは、改めて言語化する必要もないほどに明瞭でした。絶望などは気が付かなければやり過ごすことができました。しかし、それは実はいつもこの町では日常にへばりつくように蠢き、どこかで、力を発揮しようとしたのです。今まで、かの町に外側の世界を臨んだ人間がどれほどいたか、数えれば実はきりがありませんでした。彼らは悉く刑に処され、また、町から出て行くのを諦めさせられていたのです。
 彼女は(ということは、無意識ではあるにしても、町人すべてが)この感覚の歴史を背負っていました。ですが、うたうように、現実は変化していきます。心の中で、確実に。そうしてつまり、彼女の中で、次第に自分の背負うものが明確になってきたのです。
 落ち着いた、机の上にお茶を注いだコップを置いた生活の午後のほっとした時間に、イアリオは、子供たちを考え、レーゼとハリトを考え、自分の両親を考えて、こんな風に思いました。もしかしたら、私たちは、この一瞬の光のような幸せの気分に、いつもおぞましさや焦りを感じていたのではないかしら?私たちが、犯しかねない、先祖たちの過ちを地面の下に敷き、そのような自分たちのもう一つの仮面を、側でいつも持て余していたから!彼女はこうした結論に達しました。そして、イアリオは、ついに町と唯一の交流関係を結ぶ相手国、ハオスの地下への訪問の手はずを整えた、オルドピスという国の姿を思い描くようになりました。

 ぱらぱらと雨が降りました。天気雨でした。この時間は、女性たちが沐浴をできる時間でした。日差しがはらはらと彼女たちの体を洗い、水がそれを流していきました。沐浴の日は六日に一度と決まっています。町から北西と北東の森の木立に囲まれた川原で、男女は時間を置いて、交互に、体を洗います。ここまで来れない足の悪い人間も、介助されながら、同じ時間に樽や石桶の中で水を浴びました。ぱらぱらとした雨粒をイアリオは仰ぎました。虹色にそれらは光っていました。時間がその一粒一粒に表されていました。彼女は二十四歳になっていました。年々、彼女は集まる人々から離れて水浴びをするようになりました。事実に押し流されるように、彼女は一人の場所を選ぶようになってきたのです。
 彼らの中にいると、どうしても焦りと不安が胸を押し潰してくるようでした。いよいよ天女の言葉が生き生きとしてきて、その中で生きているからでした。あの言葉が、現実のものになるとはまったく思えないはずなのに、それでも真実を伝えてきたという逃れがたい感触がありました。彼女はつらくて、日々を子供たちの笑顔に取り囲まれているにもかかわらず、圧倒的な孤独の感覚と、無念と、取りこぼされた幸福とに喘ぐのでした。どうしてこうなったのでしょう。依然、彼女はあの現象に立ち会わなくて済んだならどれほど良かっただろうかと思っていました。…しかしあの二人に会うと、共にいると、その気持ちは幾らか和らぎました。ハリトとレーゼは出来事の共有者でしたから、この感覚が自分のものだけではなかったと確認できたからでした。それでも、まだ若々しい二十四歳の直感は、ずっと遠くの未来を見通していました。それは彼女だけの見識ではなく、あの白霊たち、天女の見識もそこに混じり、ただならない突き通る細長い釘のごとき予感に、ひたすら貫かれていたのです。彼女は自分がいなければとさえ思いました。自分という存在が、何かに晒されているのです。裸の自分が、衆目の入り混じる天と地から、過去と未来から、見守られているのでした。いいえ、見つめられていました。咎められていました。あなたはこれから何するの?と。あなたは今ここで何しているの?と。あらゆる角度からそのような眼差しに晒され、彼女は、自分が、どうして正気でいるのか不思議なくらいだと思いました。
 沐浴は、安息できる時間ではなく、裸の自分を、こうして晒しているのだと彼女は感じました。誰もこちらを見ていないのに、だからこそ、見えない存在がこちらを向いているのだと、妄想が憚るのです。彼女は胸を抱きました。美しい日差しが、きらきらと髪を洗い、取りこぼして、蓋をしました。彼女という身体を。光は、いくらの眼差しも、その体の中までは入ってこれないのです。彼女の体は、彼女のものでした。まだ男を知らないその肉体は、まだ、誰もその中に入れていませんでした。
 岸辺の草をぱらぱらと踏んで、少女が走ってきました。開けっぴろげなその走り方は、気持ちいいほどでした。裸ん坊で少女はざぶんとイアリオのすぐ脇へ飛び込みました。ハリトはきらきらと飛沫を上げて、歓声を上げました。川原の向こうから、視線がこちらに集まったのが感じられましたが、二人は気にしませんでした。
「あなた、お風呂は嫌いじゃなかったの?」
 ハリトが沐浴場に来ることは非常に珍しいことでした。彼女はいつも草木のにおいを付けて飛び跳ねていました。今も、建物の中で針子の仕事を手伝う一方で、自由な時間は、思い切り外で裸足で駆けていました。野性味溢れるハリトの心は、水を嫌いました。ただ髪を洗うのは好きで、自宅で裸になって桶に汲んだ水で頭を洗い流すことはしていました。がさつく髪の毛を翻すより、さらさらとさせて風に飛ばした方が気分が良かったのです。
「素っ裸になるのは好きだよ」
 彼女はイアリオに答える風でもなく、自分の意見を言いました。
「ねえ。折角だから町の中でも服を着ないで過ごせればいいのに」
 ハリトが珍しく沐浴場に来たのは思い切った決心があったからでした。こうした所でなければ、いつまでも、大切な気持ちは表に出せない、と考えたからでした。ハリトはつつましい胸をイアリオに押し付け、じゃれつきました。こうしていると、少女も安心しました。というのは、彼女も、イアリオたちとは違った不安を感じていたからです。ハリトは三人でいつまでも集って呑気に地下探検など出来はしないことを、十分に知っていました。少女はもっと三人で一緒にいることを望みました。現在も出来るだけそうしていましたが、それだけでは足りなかったと今思い始めていたのです。
「まだ、夜中に下着姿で出歩くのは、好き?」
「勿論。でも、そうしていられなくなるよね。子供だから子供らしくはできるけれど、成人したら、きっとそんな気なくなっちゃうからさ」
「ふうん。そう感じているの」
 ハリトは髪をかきあげました。その仕草に色気たものは見られませんでしたが、どこか真剣さが垣間見られました。イアリオやレーゼが自分の人生と切り結ばなくてはならないのだとしたら、この少女も、そうした運命にありました。三者三様の人生がここにあるのでした。虹色の飛沫が飛びました。子供であれ大人であれ、それは美しいものでした。ぱらぱらだった雨は、さらりと降りしきって、過ぎました。
「イアリオと私って、結構会話が噛み合うよね。他の人だったら、こうはいかなくてさ」
「レーゼは?ああ彼は、また違った噛み合い方かしら?そうね…彼と話すと、なぜか貧乏人が、相手してもらっているって感じがするわ。私の場合ね」
「イアリオも!なぜ?」
「ハリトもなの?そうだね、彼は自分の世界を持っているからねえ。ほとんど彼は人を相手にしないでしょ?自分の都合で付き合う人間は選ぶけれど、ストイックなのよねえ。きちんとしてるとも言えるけど」
 ハリトはこの女性と話しているとたまらなくいい気分になりました。イアリオの飾らない、まったく平行な年齢差のない会話が子供たちには人気でしたが、そうした話し方をする者は、本当に稀でした。
「さて、もう上がろうか。ふやけちゃうわ、これ以上水に浸かっていると」
「あのね、イアリオ」
 ハリトが慌てたように呼び止めました。
「何?」
「イアリオはさあ…結婚はしないの?」
「いい人がいればねえ。探してはいるわよ。でも多分しない気がする。ハリトはしたい?」
「うん」
 ハリトは正直に頷いて、イアリオの様子を窺いました。もっと何か言いたそうにしている少女を、イアリオは持て余してはならないと思い、「誰かいるの?」と、訊きました。少女はまた頷きました。
「へえ。それはいいことだわ。もう付き合っているのかな?」
「ううん。でも、そうとも言えるかもしれないけど、判らない」
 ハリトは俯き、ぼそぼそと唇を動かしました。少女の視線は立派なイアリオの体に注がれていました。自分自身と見比べて、彼女は暗澹たる気持ちにもなりました。しかし、これを確かめるために、彼女と一緒に沐浴場に入ったのです。影になった少女の顔つきを、イアリオは深刻なものと受け止めて、なおかつ思慮深いその仕草を、称えたいとも思いました。
「好きな気持ちはあなただけのもの、大事にしなさい。相手はきっと、それに気づくから」
「本当?」
「ええ」
 イアリオはハリトが誰が好きなのか大体判っていました。勿論、彼女が彼といる所をこちらは間近で何度も見ているのですから、女性としてうきうきとしながら見守ってもいたのでした。
「ひょっとして、あの天女たちが来た晩、星空に架けたかった願いはそれかな?」
 ハリトは思いっ切りどきりとして、まじまじとイアリオを見ました。
「図星、か。かわいいわね、ハリト。もしかして、今の針子の仕事に就いたのも、その目的があってかな?」
 ハリトはごくりと唾を飲んで、力強く、うんと頷きました。
「私、がさつだから。イアリオも相当がさつだけれど、私は本当にしっかりしていないからさ。うん…」
「その人のために、いろいろと努力しているのかな?」
「そう。そうなんだ。でもね…」
「相手は一向にこっちを向いていなくて、それで不安にも思ったりしている?」
「…なんで、イアリオはこっちの思うことを全部当てちゃうの?」
 ハリトは涙の混じった眼の光をイアリオに向けました。
「なんでか、わかっちゃうの。きっと、あなたと私、よく似ているから」
 そう言いながら、彼女の胸中には、ほのかに失くしたあの少年の顔が浮かび上がりました。しかし、ハリトはそれを勘違いしました。
「…私、イアリオには負けたくないと思っている」
「ん?」
「だから、頑張っている」
 その時イアリオは、ハリトの体に黒い影を見た気がしました。しかし、気にしませんでした。その幻は彼女のものではなかったからです。黒い影を見るべきは、いまだ幼い、本人でした。

 ソブレイユ=アツタオロは、かつての十五人の仲間の一人ですが、今は二児の母親になっていました。かつての噂好きの女の子は、落ち着いたお母さんになっていました。彼女は糸車や針やのこぎりといった物を補修する、技師の男性と一緒になりました。生来の話し好きは、驚くほどにめっきり潜み、今は、近隣の母親たちの模範になっていました。ぺちゃくちゃのおしゃべりは卒業していたのです。自分でも信じられないほど、彼女は無口になり、必要なこと以外、まったくしゃべることはなくなりました。
 それは成人してからでした。あの儀式を受けたアツタオロは人々が憎くてたまらなくなりました。その数年前、彼女の昔の仲間だったラベルが自分で命を落としていますが、その原因は、ここにあったのだと彼女は気がつきました。彼女は十余年前のことをずっと飲み込んだまま、事件のその後を生きていました。子供たちに説明ができるくらいのあの地下のあらましを、その時に十分聞いていませんでした。それは成人した時にわかると言い渡されていたのです。十五人の子供たちは、確かに大人たちが厖大な死者の潜むあの危険な場所を知っていたのだとわかって、少しは安心したのですが、成人の儀を迎えていざあらましを聞いてみれば、その意気地のなさと意地汚さが子供たちに隠し事をしていたのだと思い知らされたのでした。アツタオロは元来元気者で、口から生まれたような少女でしたが、隠し事は嫌いな方でした。いいえ、誰かが自分に何かを隠しているということが、我慢のできない性格でした。町人たちの、ずっと過去に怯えている所作は、子供の頃から間近にしていて、何事か感じ取れるものでしたが、成人式を終えたアツタオロは、それに対して深い悲しみを感じてしまいました。それ以来、この町に住む者として彼女は元気をなくしました。それで、滅多にしゃべらない寡黙な男と、結婚したのです。男にはこの町に生きる覚悟がありました。それで、そこに惹かれて彼女は彼を好いたのです。安心したのです。それで、彼女も寡黙で十分になったのです。生粋の話好きならそうはならないかもしれませんが、アツタオロの場合、空回りする元気がおしゃべりにさせていたところがあったのでしょう。農家の娘である彼女のエネルギーは、落ち着くべき所を発見して、また深い悲しみと共にいて、体に籠もるようになったのです。しかし、依然として我慢は続いていました。いいえ、我慢を余儀なくされたから、悲哀が深まったのかもしれません。子供時代しゃべることで発散していた鬱憤は、大人になった彼女の精神をある方向へと連れて行きました。しゃべることができないと、それは恐ろしく自分を痛めるのです。感情が内に沈み、欝へ欝へと追い込むのです。謎を謎としてアツタオロは自分の中で所持できなかったのです。
 アツタオロはイアリオの家の玄関を訪ねました。別に、彼女たちは近隣の付き合いだったわけではありません。今も地下都市の捜査にあたっているイアリオに、アツタオロは用事があったのです。
 イアリオは、勿論驚きました。十五人の仲間たちと話したいと思いながら、まだアツタオロの所には行っていませんでした。しかし、彼女の用事は、彼女の旦那の弟が、ふとこんなことを漏らしたというものでした。
「下の街の、死体のことだよ。あれをどうするかって、旦那に食いついてきたらしいの。彼は成人して初めてあの話を聞いて、すごく興奮したらしいけれど、なんだか納得できなかったらしくてね」
 アツタオロは差し入れに漁師から夫が頂いた魚を桶に入れて持ってきました。イアリオはその返事にと、生徒の家族からもらったクッキーを、編み籠に敷いて彼女に出しました。焼きたての匂いのするクッキーは、それまで粘土板に議会の予告を書き記していた彼女の油臭い手の臭いを、いくらか誤魔化しました。
「ごめんね。仕事中だったもので」
 彼女は気さくにアツタオロを出迎えましたが、これ良い機会と思ったのは勿論でした。アツタオロはちょっと顔をしかめました。臭いに敏感なところがあるので、イアリオが思ったように香ばしさははっきりとそれを打ち消さなかったのです。
「でも、懐かしいね。懐かしい、と言ってはいけないかしら?」
 イアリオは相手の様子を窺ってみました。すると、アツタオロは自分と同じ感じの目をしていました。
「イアリオは、まだあの暗い街の中に行っているのね。なぜ?」
「一応、評議会から達しがあったと思うけれど、あのためよ。けれど、それ以外にもまあ…」
 イアリオは、少し焦らしました。アツタオロはお尻の下に、むず痒さを感じました。丁々発矢のやり取りの方が彼女の望みでした。
「何?」
「言いにくいことだけど、まだ、私の中で事件が整理されていないから。私情ね、これって」
「そう」
 アツタオロはこの女性から、話を聞きにくそうな堅物狭い感じがしました。自分とは最も疎遠なタイプの相手でした。
「私も整理がついた、とは言い難いわ。あの件からこの日までずっと夢の中でも苛まれていたんだもの。成人式で、あの話を聞いても、なんだか納得ができなかったわ。大人たちはずっと私たちに隠してきた!ラベルが死んでしまったのもそのせいだと疑ったわ。実際はどうだったか知らないけれど。でも自分も彼らと同じ大人になってしまったじゃない。同じように守るべき義務として、この町の運命を一緒に背負っちゃったでしょ。だからね、どうしようもないことだとは判っていても、まだまだ受け入れることはできなくて…」
 湯水のように彼女は語り始めました。堰を切ったおしゃべりは、ついぞ忘れていた行為でした。彼女は我慢を強いられていたのです。彼女の従来の噂好きの話し好きの口が、せわしなく動いて、くるくると回って、目の前の女性をあっちやそっちに目まぐるしく連れていきました。イアリオはこうしたタイプの相手とも今まで何度か応対していましたからうろたえませんでしたが、子供の頃のかつての仲間として彼女の話を聞いていると、このしゃべくりも、なんらかの不安がその背中を押しているところがあるのではないかと思われました。
 ようやく話が切れて、アツタオロは息を切らせました。久しぶりの行為はひどい疲労と充実感とを寄越しました。しかしアツタオロの会話は地下のことだけではなく、最近の家での出来事や隣人の不満話もいくらか混ざっていました。彼女は自分が本当は何のことを言いたかったのかすっかり忘れてしまっていました。イアリオも、深い水底から上がってきたような、ほっとする息を吐き出しました。
「ごめんなさいね。私ばかりしゃべってしまって」
「ううん。でも、こうしてあなたの話を聞いているのは、なんだか楽しいわよ」
「そう…そんなこと言われたのは初めてだな。大した人間ねえ。やっぱり、毎日生徒たちの相手をしていると鍛えられるものなのかしら?私はそうはいかないわ!自分の子供たちで精一杯!今度もね、あいつらったらいたずらしてさ…」
 しかし、このままでは一方的に向こうに話されるばかりでした。アツタオロの口調はすっかり甲高くなっていました。このまま世の噂話を全部まくしたてようとする勢いでした。
「近所の人たちも注意しないのさ、私だけで、彼らに目を配るのは限界があって、でも私だって他人様の子供の面倒は見ているのにねえ。でも隣の旦那が目をかけないから私だってしないのさ、なんて言うの。矛盾してるわ、だけど、こちらが何も言わないのをいいことに、押しつけるばかりで、あれじゃあ根も葉もない噂を立てられてもおかしくはないね。私は黙っているけれど、聞こえてくるのよ。あれは、お互いに責任をなすりつけあって、それで子供たちは他の家に出掛けてしまっていて、そちらで問題を起こして、帰ってくれば、どちらもいなくて、また他の家で預からなきゃならなくて、その繰り返しをしているの。でね、醜聞が立ったのよ。おかしな話よ、どちらも恋人を作っちゃってさ、なかなか家に帰れないんだって。そんなことは普通ではないけど、わかる気がするわね。だって私も、そうしたい気分になるからさ。え?自分はそんなことしないわよ!でもあの家じゃそうなったとしても、裏づけがあるから、納得はいくわねえ。え?ああ、こうした話じゃなかったわね。ごめんなさい。でもこんな話もあったのよ…」
 イアリオはさすがに両手で相手を遮って、口を止めました。もういい加減溜まり溜まった相手の気分はすっかり聴いてあげたと思われたからでした。
「まったく、昔と変わらないね、アツタオロは。しゃべり出すとたちまち止まらないわ。でも、そんな話をしに来たんじゃないでしょ?」
「そう、そうだった。でも聴いてくれてありがとう。私、こうして話すことをしていなくてさ、溜まっていたんだねえ。しょうがない」
 しょうがない、と言いたいのはイアリオの方でしたが、それでも元気のなかった相手の表情が輝いてきたので、よしとしました。すると、矛盾した感想が同時に浮かびました。彼女と自分とでは、まったく気分の変え方が違うのだということと、同じように、町への不満は持っているのだという、似ていても異なる、互いの齟齬の人生を確認したのでした。
「なんというか、私もあなたと話せてよかったよ。真面目に十年前の事件を本題にするのかと思った!でも、しゃべり続けて納得するのがアツタオロのやり方なんだね。こうしてみると、あなたの方が、あの事件の処し方をうまくこなしているようだわ」
 アツタオロは唇を閉ざして、不意打ちを喰らったように、目を開きました。ああ、私はこの人を信頼しているんだと、彼女は思いました。二人は二歳ほど年の差があり、母親である彼女の方がしっかりしていそうでしたが、そうではありませんでした。
「あなたと話せてよかったよ」
 もう一度そう言われて、アツタオロの用事は終了しました。しかし、彼女はまだ話し足りない気分でした。イアリオには十分聞いてもらいましたので、今度は別の、昔の馴染みの友達に会うことにしました。それは、空想が好きだった、イアリオと同様かつての仲間だった、セリム=ピオテラでした。ピオテラは今は郊外に住んで、一人で暮らしていました。彼女は一度結婚していましたが、旦那が事故で亡くなったのです。現在、二度目の婚姻を申し込み中の男性がいましたが、相手にはすでにパートナーがいました。
 ピオテラは実家に住みながら両親を亡くしていました。それで、アツタオロも自然と彼女から離れていくことになったのでした。相手が一人を望んだからです。彼女は以前あの事件に遭って、想像の世界に紛れ込み、随分そこで過ごしてから、なんとか回復しました。件の事故は、遭遇した子供たちそれぞれに決定的な打撃を与えました。アツタオロとサカルダの二人は唖になり、ピロットはいなくなりました。イアリオは深く哀しみました。ピオテラへの影響は、どんな人間が側にいても、ぬくもりを感じられない冷たさを肌の間近に常に纏うようになったことでした。彼女は人々に骸骨の頭を見出しました。不可思議な空間を自分で創造して、その中に閉じ籠もりました。それこそ、彼女の感覚を具現化した景色だからでした。天と地は引っくり返り、死と生は逆転しました。両者は本当に近くて、一枚の薄い紙の裏表でした。そうでした。人間は、死ぬと骸骨になるのです。この薄い皮膚の下、骨に食いついた肉も綺麗にそぎ落としてしまえば、体を動かしているものは、ただの骨なのです。あの暗闇で会った、私たちに被さってきた…彼女の世界は、そうしたものになりました。
 ピオテラには子供がいませんでした。彼女は身軽でした。いいえ、重さなど背負えなかったでしょう。骨ばかりの体に、いったい何が持ち運べるというのでしょうか。彼女は軽い存在でした。憎しみは、イアリオとアツタオロの中に町に対して宿りましたが、それはピオテラには持てない人間の熱い心でした。愛情もそうでした。夫が死んでも彼女は深く悲しめませんでした。悲しみはあるのです。けれど、それを十分噛みしだくことができませんでした。ピオテラは野蛮なものからいつも身を引き、ひっそりと暮らしていくことを望みました。今度の希望した相手はまさにうってつけでした。彼女の他にも、妾希望の女性はたくさんおり、もう既に、公開の妾婦は幾人かいたのです。彼女は誰かに面倒をみてもらうことにしました。自分自身で生きていく力がないことは、十分に知っていたのでした。
 それでも、もしかしたら最も軽やかな人生を歩んでいたのかもしれません。それも彼女の選択でした。そうすれば一番安心できる、何事にも波風を立てない立派な人の生き方でした。鼻先のそばかすは前より減りました。身なりもきちんとしています。こんな女性が側に控えれば立つのはまさに男性でした。ピオテラは、愛を激しく表現できませんでしたが、良き良妻になれる素質を持っていました。男の方も、彼女なら相手に良いという者は大分いました。決して面差しは美人ではないのですが、他の人間にはない徳をピオテラは持っていたのです。いいえ、彼女ほど、正直で誠実な感性を持った人間は町中にいなかったでしょう。空想しがちな彼女の人格は、多くの幸せを運びませんでしたが、小さな幸は、注意して気がつけばふんだんにその回りにあったのです。どんな人間よりも、幸に気がつけるのは、彼女でした。
 アツタオロは、そうした彼女と気が合いました。二人はお互いが側にいて気分がいい、そうそうない関係でした。一方は、バイタリティを外に放出しなければならない人間で、もう一方は、その力をさりげなく吸収できる能力に優れた人間でした。アツタオロは久々に彼女と話して、その感覚は、いささかも磨耗していないと感じました。二人は以前のように、また仲良しになり、多くの時間を、共にいることができるようになりました。

 イアリオは、アツタオロと話せて無論気分が良かったのですが、その後、次第に元気を失くしていきました。それは、アツタオロの根源的な不安を吸い取ったからでした。彼女は、友人の話を聞いていて、親身になるも、語られる言葉以上に様々な思いや感情まで聞き取っていたのです。その話し相手がアツタオロであれば、なおさらでした。イアリオはその深い情動まで理解する土壌を彼女と共有していたのです。あの事件です。夕方になれば怯える、世界中がぐらぐらと揺れてしまう、この町の根元が根こそぎ覆ってしまうような経験を、二人はしたからです。イアリオはつらくて、しかしそのつらさの原因もわからずに、ふらふらとしました。アツタオロは、彼女の旦那の弟が地下の今でも捨て置かれている死体をなんとかしたいと言っていた、と話していました。それは、すごく彼女にとって頼もしい感覚でした。そうした仲間を募ろうとしていたからです。ですが、はっきりと、彼女はそれはむつかしいと判断していました。町の、これまで続けられてきた厳然とした生活スタイルをよく見ていると、それらをみんな引っくり返してしまおうとすることは当然無理でした。しかし、アツタオロがその話を導入にして彼女にいまだ地下へ臨む訳を訊いてきました。すると、自分でなくても、あの黄金都市に囚われて、自分のように考えてしまう人間は、他にいくらでも出てくるだろうと彼女には思われました。イアリオは耳を澄ませました。何か音楽が聞こえてくるようでした。遠い星空の向こうから、手に持った近いコップの中から…その音楽は、楽しげであり、苦しげであり、つまらなそうだったり、面白そうだったりしました。ものすごく近くから、ものすごく遠くまで、彼女の意識は伸長しました。ものすごく遠くとは、過去と未来を含めた、この世界の端々でした。それでいて、非常に微細な経験も、家具のわずかな隙間に入った石ころも、皆大切だという感覚でした。一斉に世界は彼女に語りかけてきました。
 どうしているの、ここにいるの、あなたはなぜ、存在しているの…?
 イアリオは首を振りました。またわけのわからない不思議な感じに悩まされました。彼女は、ふと、ずっと前にハリトから聞いたことを思い出しました。テオルドが(と、イニシャルを見て判断したが)、あの天女たちが北の墓丘に降ってきたところを、彼女の兄に絵で描かせたことでした。どうして、彼はそんな絵を欲しがったのだろう。多分彼なりにあの光から受け取ったメッセージがあったのだろう、あの文言も書いてあったし…でも、彼は何を思ったのだろう。彼は、あの現象をどのように感じたのだろう。彼は、私に協力してくれているし、相談にも乗ってくれた。しかし、彼の気持ちは、何も聞いていない…?
 彼はにやにやしていただけだった。私の言葉をちゃんと聞いて、適切な答えを返してくれたけど、あれは、本当に彼の意見だっただろうか。いいや、違う。私に合わせて、返していただけだ。私が欲しがるだろう言葉を、選んでいただけ?彼は、一体どんなことを考えているか、私にはちっとも教えてはいなかった…?いやいや、そうした人間なのだろう、彼は。彼が人と親しく話しているところなんて、見たことないもの。
 私は何を考えているのだろう。無性にテオルドのことが気になるわ。何か、ぞくりとする。何…?彼は…あの暗闇で…子供の時…一人で…いたんだったけれど…?
 何?何?何?イアリオは、ピロットとテオルドと三人で聞いたテオルドの母親が語った物語を思い出しました。今、どうしてそれが頭に浮かぶのでしょうか。かちかちと瞬く間に記憶がピースになりました。決まった形にそれは嵌ろうとしました。一方的な画面が出来上がりました。その画面は、天女の下した宣告と一致しました。この町の破滅を予言していました。誰かがそれを望んでいるのだと思いました。自分ではありません。しかし、彼女もそれを望んだことがありました。否応なく、生まれ故郷を憎んだことがあったのです。あの暗い地下に行っていなければ、多分、そうしたことは感じたことがなかったでしょう。これは誰の思いでしょう。気持ちでしょう。ああ、そうだったとイアリオは考えました。テオルドの母親、彼女の語りには、当時は知らない毒が含まれていました。大人になって判る、様々な言い知れない深い猛毒が、あの話の群には具わっているのだと、彼女は気づきました。どうして、テオルドの母はそんな話をしたのでしょうか。テオルドは…確か…黒い表紙の日記帳の、著者の苗字でした…!
 イアリオは仕事の続きをしに粘土板へ向かわずに、部屋に籠もり、ハルロスの日記を繰りました。その中ごろのいくつかのページは破損していて、そこには亡国への愛とは違うことが書かれていました。前に読んでいる時はそれほど気にならなかったのですが、その箇所では、公然とハルロスが他の生き残りの人々を非難していました。その書き方も熾烈で、容赦ない責めの文句が並びました。こうした鬱憤を文章の中で晴らそうとしたのでしょうが、後で、彼自身が読み返していたたまれなくなって自分で破りちぎったのでしょう。
 ですが、いくつかの白紙をまたいだ最後のページも、破かれていました。そこにも同じようなハルロスの文句が並んでいたのでしょうか。イアリオは、この日記帳を発見した際に出会った女の亡霊を思い返しました。彼女は、この帳面を指差して彼女に託して天に帰っていったのです。もしやそれは、ハルロスの妻だったのではないでしょうか。とすれば、彼の奥さんは、今も成仏せずに、恨みを持ちながらあの場所で何かを待ち続けていたことになります。あのシーンで、光に包まれて空に昇っていきましたが、冷たい凍気を彼女に放って残酷な視線を見せた女幽霊が本を託しただけで満足するでしょうか…?
 彼女の意思は、子孫が受け継いでいるのではないかしら…?イアリオは、そんな突拍子もないことを思いました。そんなことがあるのでしょうか。都の破滅から三百年がたっています。しかし、イアリオたちの伝統は、それからいささかも変化せずに現在に来ていました。
 何事か判りかけて、イアリオは深く息を吸い込みました。今しがた浮かんだぼんやりした印象を、はっきりと頭に描こうとしました。天女の文言が翻ります。この町は滅びる、滅びなくてはいけない…。
 オグ、オグ、オグ…。

 学問の国オルドピスには、イアリオの町にある資料など到底及ばない数の書物が収められていました。その中に、彼女も触れたことのないオグについての記述があります。それによると、
「オグは、人の悪意の塊である。それは、霧のように姿を変え、空中を漂い、人に憑く。それは、かつて悪魔と呼ばれていたり、『謗る者』と呼ばれたりしていた。
 彼の者が現れたのは、遠い昔、まだ人々が世界に対して蒙を拓かれていなかった頃の、人間の仕業によるものだった。彼らは互いに争い、憎しみ合い、大規模な戦争を引き起こした。その結果である。オグは、強烈な力と力の衝突によってできたものである。
 その時は、オグはまだオグではなかった。収束した巨大な力が、その空域に人々の悪意を閉じ込めたのである。離散した人々の意識は空を飛び交い、互いに集まろうとして、合体した。様々な様態の中で、ある時、一斉に悪の意思たちが集合した。それがオグである。高められた文明は滅び、世界は三つに分かれた。人々は生き残ったが、すっかり変化してしまった世界に、新たな秩序と生活を築き上げる努力が求められた。世に言うエアロスの大変革が行われたのである。それを望んだのは人間だった。つまり、オグは人間に求められて生まれた存在だった。彼らは集合した人間の悪だが、人間の悪が、それを求めたのである。旧時代の(くら)き知恵が、かの悪魔を生み出した。だが、今の時代も、決して蒙に完全に拓かれてはいない。いつの時代も、人間はどこかに盲で、その度に新たな問題の種を産み落としていると見るべきである。精算はいつも後の時代の人間が受け取るのだ。我々がそうであるように、我々の後の世代が…。」
 かの国は放射状の街並みを敷いていました。その中心部には、各都市に、必ず巨大な図書館が設置されていました。知恵によって国を治めるというのが学術国家オルドピスの威容でした。それをして、オグは未だに謎多き対象でした。
 彼らは世界中に影響力を持つ大国でしたので、クロウルダともつながりがありました。クロウルダとは、オグを長年追っている民族のことです。彼らはかつて、オグによって国を滅亡されました。それから再興して、危険な魔物を封印することを民族の使命としていましたが、千年に渡るかの魔物との闘いでは、民族の血も減少して、その力を他民族に補ってもらうことを余儀なくされました。オルドピスは多民族からなる広大な国でした。しかし、理路整然とした国家運営は他の国からも賞賛され、非常に付き合いやすい相手国だと見なされていました。学問の国と、いにしえの民族の伝統は、齟齬をきたさず、お互いに有益な関係を築くことができました。クロウルダには、ニングという長がいました。ニングはオルドピスに住まい、かの国で世界中の同胞の情報を集めていました。オルドピスもその作業を手伝い、オグについての研究は、両者が共同で進めていました。
「君たちの同胞のハオス君が、また行くようだね」
 オルドピスの政治運営を束ねる賢者が、クロウルダの長に訊きました。
「彼はこれきりです。もしかしたら、まだ連れて行く人間が要るかもわかりませんが」
「人柱が、あの魔獣を癒す唯一の手立てであることは、今も昔も変わらじ。人間の悪には、人間のぬくもりが派遣されなければならないとは、まるで皮肉な真実だね。そうであっても、仕方のないことか」
「我々の悪なのです。ですから人間が必要です。我らの犠牲で、世界は平穏だ。これしかないのです」
「今は、な。悪を壊し、我らのものにすることができれば、もう少し違った対応ができるというものだ。だが、事は緊急を要している。あの町で、オグが暴れようとしていることが判ったのだから。最善を尽くすには、君たちの犠牲を黙認しなければならないとは、友人として、痛み入ることだよ」
 クロウルダの長は密やかに笑みました。
「それでいいのです。あの悪魔が、実は今生きている人間の生み出したものだったと、最初に気づいたのは我々です。人間は転生する。多くの人々が、無限の因果の中にいる。我らの悪に、我らが応えます。クロウルダのやり方で。それは、悪をこの手で抱き抱えるということ。自分自身を癒すということです。しかしそれは我らにしかできない」

 多くの人が、自分の前世など知りません。それを知っても、どうしようもないからです。一体前世などあるものでしょうか。そのような感じ方や概念があったとて、クロウルダのように、かの魔物を自分から出た悪魔だと捉えた民族は他にいませんでした。
 彼らは自らを犠牲にしてその魔物から世界を救っているのだという発想を持ちました。それはおよそ他の民族には理解し難いものでしたが、オルドピスは手を差し伸べました。実際、クロウルダによってオグの活動が抑えられていたことは学問を用いて立証されたのです。彼らの監視なくしてかの魔獣を放っておくのはオルドピスにとっても危険なことだとされたのです。
 そのオグに喰われ、中身を変えられたテオルドは、その影響力を着実に広めていました。人心の悪を捉える力に長けたその澄明な目は、つぶさにこの町の人々の変化を記録していました。彼は、守備隊に志願し、そこで確実な実績を挙げてみせました。彼の頭脳は他の者たちにはないものだと、思い知らせたのです。そして、彼は守備隊の隊長にも志願しました。要望は受け入れられて、史上にも最も若い隊長が誕生しました。彼には思惑がありました。近年若者たちの暴力や、憂鬱に苛まれる人たちの数が増えてきていることに、ある抗力を用意したのです。彼は、その思惑を実践するために守備隊を鍛えました。彼の言う通りに彼らが動けるように、細かい指導を繰り返しました。イアリオよりも、彼はこの町でこれから何が起きるのかを知っていました。それは、彼自身が起こそうとしていることだったからです。彼の目的は、この町の破滅でした。イラの怨念と、オグの反動が、彼の中で渦を巻き、強大な力を発揮せんとしていたのです。
 その思惑に、彼女なりに近づいたのです。イアリオが、急速に記憶のピースをまとめっていった先に臨まれるある光景は、そうしたことをメッセージにしていました。今は、ただ天女の言葉にあった情景をこそ映し出している画面ですが、あれは、単に見知らぬ幻が見せた訳知らぬ予言だというのでなくて、彼女の鋭敏な感覚が捉えた、正しい判断でした。この世に生きている者たちだけの力が、現在に働いているのではありません。遠い過去から続いている、呼び掛ける思いが、様々に影響を与えているのです。オグしかり、ハルロスの妻イラしかり、あの街に囚われた死者たちも、海賊も、ハルロスら兵士たちも、皆この町に力を及ぼしていたのです。現在と、過去と、未来がつながります。
 では、イアリオは一体どうしなければならなかったのでしょうか。彼女にしか見えない幻像が、否応なく、それを調べなければならないという感覚に駆り立てましたが、どうしようもないのです。調べられたとして、何か、変えることができるにちがいないなどと彼女も思っていたのではありません。それでもその感覚の只中にいる、その体は、焦燥と、不安とに苛まれ続けていました。
 悪にそれは見つかりません。付け入れる隙が、そこになかったからです。イアリオは、ただ自分がなすべきことは何なのか、そうした衝動に突き動かされていただけにすぎないのです。いくら邪魔されようと、人間は、そんないささかの障害など気にならずに動いてしまうことがあります。むしろ、イアリオの場合、障害は自分自身にありました。

 鼓の音が響いています。とんとんとん、とんとんとん。遠くで。静かに。鳴っています。

 彼女はテオルドに疑いを掛けられませんでした。彼は何もしていないのです。少なくともイアリオの目にはそう見られ、焦りがどこか彼を名指ししていても、注意深く観察をしても、彼は、いつものように彼女に応対して粛々と義務を実行しているかに見えたからです。オグとは一体何ものでしょう。彼女はまだそれに対峙していませんでした。今、図書館のカウンターを境に出会っているのに、そうであるとは気づきませんでした。天女の言葉が名指すかの魔物が、まさに町の下に巣食っていたのに、彼女の目には、オグの住処に被さり広がる、彼女の先祖たちが亡んだ、あの街並みしか見えなかったのです。時間は上下に根を下ろします。オグの影響が、三百年前の滅亡に絡んでいたのではありません。ですが、そうしたことに近いことが行われたのは、事実です。オグのような怪物は、どんな現象の影にも居座るのです。時は、誰かの奥底に深く眠っています。眠りから覚めた時、それが、エアロスとなるのでしょう。
 イアリオは鼻水をすすりました。眩暈も少し覚えました。それから数日、彼女は寝込みました。熱が高くてひどい風邪でしたが、見舞い客が彼女の所に大勢やって来てくれました。彼女ほど病で来客の多い人間も珍しいものでした。イアリオからは、人付き合いをなるべく控えるようになっていたのですが、彼女を慕う人々は数多くいたのです。
 病床からようやく起きられて、彼女は外に立ち、ぼんやりと頭上に輝く白い太陽を見上げました。しかし太陽が雲がかっているのか彼女の目が潤んでいるのか、それは霧のような白さでした。ですが一瞬、あの日がこちら目掛けて飛んできて、目の中にすいっと入ったような感じがしました。その途端、イアリオは眼球が潰れてしまいそうな痛みを感じました。そして、目を開けると、一面が真っ白に塗りたくられた世界が見えました。彼女は吐き気がしました。
 その時、大波のような罪の意識が彼女に迫り、ざぶりと呑み込んでしまいました。彼女は喘ぎました。(ここはどこ?)目を伏せて、食いしばり、はらはらと心臓を鳴らせて、苦痛を噛み締めました。(まるで、とてつもない過去が、ここにあるみたいだ)
 けれどそれは幻でした。彼女の鋭く尖ってしまった感覚は、彼女の意識を超えて、いまだ受け入れることができない遠い事実をも見せるようになってしまったのです。

 イアリオは、北の山脈の麓に来ていました。この付近は原住民である狩人たちの住む場所で、彼女の町と彼らは親しく付き合ってきました。互いの収穫物を交換することもあれば、町は石や銅でできた便利な道具をあげたり修繕したりする代わりに、彼らに山の見張りを頼んでいました。町側が守備隊を派遣して山越えなどをする外部者や内部者を監視しているのとは別に、彼らにも内通してもらうことで、より防備を固めていたのです。原住民たちは、その土地から出て行こうとする者はなく、また黄金に関心も示さないまったく古体然とした人々でしたので、町も信用したのです。さて、イアリオがこの山の下まで来たのは、あの白霊たちがこの山を降りてきていたからでした。正確に言えば彼女が見たのはこの山の方角から、でしたが、ハルロスの日記や図書館の資料には、ここの原住民が、その山脈に先祖たちの棲み処があり、先祖たちはそこから下に降って、生者に啓示をもたらすことがあるという信仰を持っている、と書かれていたのです。もし狩人たちにとっての先祖だけがそこにいるのであれば、イアリオの前に現出したあれらの霊たちはそうではないのかもしれませんが、気になって、彼女は一日馬を走らせてわざわざここに来たのです。ですが、当初見られると思っていたのとは違った印象が、山脈を見上げた彼女の脳裏に走りました。私は、どのようにしたらこの険しい山々を越えられるだろうかと、彼女は思ってしまったのです。まだ彼女は、自分が町を出て行くだろうとは考えてもいませんが、そうしなければ、調べるべき事柄は調べ尽くせないと判っていました。山脈を頂まで眺めると、切り立つ岩壁は、ずうっと空高く伸びて、足がかりも何も見出せませんでした。木や草はある高さまでは山腹を覆っていて、それからはごつごつした岩がいかめしい顔で大地を眺め下ろしています。とても越えられるものではありません。彼女は諦めたように振り返り、山を後にしようとしました。
 すると、洞窟の中で見かけたあの死相の天女が、去り際にどこを眺めたか、稲妻のように閃きました。こちらだったと、勘が告げました。なぜあのヴォーゼはこの山の上を見上げたのでしょう。暗い壁に囲まれながら、まるでその分厚い岩壁を突き抜けて、どうしてこちらに眼差しを届けたのでしょう。これは勘にすぎません。ですがイアリオは再び山の上を見上げました。そして、そこからやはり、あの白霊どもはやって来たのだと感じました。だとしたら…?
 あのハルタ=ヴォーゼという輩は、この上にいるということなのでしょうか?
 山を越えるという意味は、多様でした。彼女がもし運命を受け入れなければならない瞬間が訪れたとしたら、いくつもの意味が、そこに重なりました。越えなければ見えないものがあります。しかし、見たところで、苦痛ばかりが襲うこともままあります。それでも受け入れなければならないのは、まさに、身から出た錆でした。
 レーゼは、それほど敏感ではありませんでした。彼は、父親の下に就いて、その働く様子を近くで観察しながら、いつか自分で父親が形成した仕事のシステムを流用して、新しいニーズを作ってやろうと息巻いていました。彼ならばできたでしょう。これから、たちまちに町が壊れていかないかぎり。
 しかし、彼もまたイアリオと同じ焦りを覚えていました。レーゼは新しい需要を掘り起こすことを考えていたので、誰よりも町の政治や人間関係に目を開きたいと思っていました。彼らしい、透徹したものの考えで、町中の仕組みなり構造なりを見て取っていくと、不思議と、彼がしたいことよりも、彼をせっつく何者かの力を感じました。このままであるはずがないという、実感がそこにありました。しかしこのままでなければ、広場に噴水を造るという野望は、実現できません。彼がイアリオたちと地下に潜る理由は随分とそこにありました。彼も、この焦燥が天女の言をはらりと見せていることを感じていました。それは旗のように、たなびいていました。自分を見ろと、主張していました。なぜ、なぜと彼も考えましたが、イアリオほどに、身に迫ってはいませんでした。それは…彼が、この町にいる必要があったからです。

 イアリオは、元教え子の用事である工房にやって来ました。彼は学校をすでに卒業していましたが、職場での自分の仕事振りを見てもらいたい、とお願いしてきたのです。彼の工房には、ハリトの兄であるシダ=ハリトもいました。彼女は、教え子の作品を驚いて眺めました。それはとても小さな銅像で、鋳型を石材でつくる複雑な工程を経て完成する工芸品でした。彼女は立派になったものだなあと思いました。彼は幼少期から知っていますので、彼が本当になりたかったものになれて、とても嬉しく思いました。ところが、その仕事場から出て行こうとした時、シダ=ハリトが彼女を呼び止めました。
 彼女は、彼がテオルドの命を受けて新月の夜のあの現象を描いたことを思い出しました。ハリトの兄は、ぼさぼさと髭を伸ばして、いかにも芸術に打ち込む孤独な影を引いていましたが、目の奥が曇っていました。彼の工場では貴重品の修繕を主な生業にしていました。しかしどうやら、ハリトはそんな仕事はそっちのけで、自分の作品に打ち込んでいる日が一年以上続いていたようでした。
「なんだか変わったわねえ。ハリト、健康そうには見えないけれど、大丈夫なの?」
「僕のどこが変わったっていうんだ?そんな感じはないが」
 彼はくたくたの袖を伸ばして左右に広げました。袖の下の彼の腕は、芸術家らしいエネルギーに満ちているようではありませんでした。不安げな眼差しで、彼はイアリオを見据えると、無理な頼みごとをしてきました。
「お願いだ、地下から僕らが以前見たあの絵を持ってきてくれないかな?どうしてもそれが必要なんだよ」
「なぜ私に頼むの?議会を通して依頼するのが筋でしょう?」
「そうはいかない。僕が変だと疑われてしまうじゃないか。お前だって、そうした嫌疑を掛けられていただろう?あの町に囚われていると、誰からも思われたくないんだ」
「だったら、自分で行くしかないわよ。あなたのために、絵を持ってくるなんてできないよ。物見遊山であそこに行ってるんじゃないんだからね。ちゃんとした仕事だから」
 イアリオは無下にも断りました。しかし、ハリトは食い下がりました。
「どうしても欲しいんだ。あの絵が。僕の次の作品にインスピレーションを与えてくれる、あの絵が、今は命より欲しいんだ!お願いだよイアリオ、どうか聞き届けてもらえないかい?」
 それでも、彼女は断りました。ハリトはすっかりしょげ返って、すごすごと自分の陣地に戻っていきました。
 シダ=ハリトにはテオルドの息が掛けられていました。彼らはずっと密かに地下に潜っていたのです。他に、父親と同じ大工になったヨルンドと、漁師となったハムザス=ヤーガットが、議会にも告げず繰り返し地面の下の街と、地下道と、洞窟とを見て回りました。テオルドは彼らの心理を巧みに唆して彼の目的のために誘いました。一人では、例えば草原の入り口から大岩をどけて中に入ることはできませんでした。イアリオがレーゼとハリトを連れて最初に地下に潜ろうとした入り口は、既に開けられていたのですが、それは自然現象ではなかったのです。テオルドたちは地下に潜り、皆オグに触れていました。それが彼の目的というわけではなかったのですが、ハリト、ヨルンド、ヤーガットそれぞれに、言い難い衝動が起きてその体は侵食されたのです。ハリトの場合、黄金に等しいぐらいの価値のある作品をつくり上げることが生きる主題となりました。それを、一年以上、続けていたのです。しかしうまくいかず、彼の苦悩はどんどん大きくなりました。町にあるどんな印象も彼に刺激を与えなくなって、彼はあの地下都市に思いを馳せるようになったのでした。ところがテオルドが守備隊の長になってから、ハリトたちは彼とともに地下へと向かわなくなりました。ハリトは守備隊に志願したこともありました。しかしテオルドがそれを拒みました。
 ハリトはイアリオに頼むしかありませんでした。その時点でもう彼はあるものを放棄していました。自分自身と向き合うこと。自分が描きたいものは本当は何であるか探求すること。それは彼でしかわからないことでした。本当に地下にある絵を彼が求めているならば、人に頼んではならないのです。彼は気づきませんでした。オグは、彼の中のそうした悪に、自分を放棄するような態度に、甘い息を吹きかけていたのです。
 オグは、ハムザスやヨルンドにも、同様に息吹をかけていました。そして、もう一人にも…。

 レーゼは、シオン=ハリトと共に町の南の丘の頂にいました。そこからは海が見えました。二人は、入ってはいけないとされた、外海から見えてしまう場所に立っていたのです。
 そこへ誘ったのはハリトでした。レーゼはいぶかしみましたが、相手には負っているものもあったので、すごすごとついてきました。
「ここにもあるんだよ、入り口が」
「地下へのか?でも、俺たちだけで行くのか?」
 ハリトは頷きました。レーゼは、相手の言う通り、浅い丈の草が一面に広がる青々とした、蒼穹の真下の大地に開いた、窪地へ、入りました。これほど彼が素直だったのは、今までの冒険の中で、繰り返し、ハリトの気持ちには気づいていたからです。そして自分が、それには応えてないということも少しありました。彼は誰が本当に好きなのか分からないでいました。彼はここにおいて、優柔不断で、はっきりしませんでした。性衝動は当然彼にもありましたが、身体本位で動くことはありませんでした。そうする必要がないくらい、彼には打ち込めるものがあったのです。元来女性を持て余す性格だったのでしょう。我慢ならなかったのは、ハリトの方でした。
 成人したレーゼは海の外へ向かって自分の姿を見せるのがどれだけ町にとってすべきではないことなのか、よく判っていましたが、イアリオのことを思うと、それも大したものに思えなくなりました。むしろ、彼女との冒険があったから、ハリトにこうして誘われたとはいえ、町が拵えた進入禁止の柵も越えて、こんな所にもやって来れるのだという気持ちでした。彼は、海の外へ憧れを持ちませんでしたが、丘の頂から見える、ずうっと遠くまで縞となった穂波が続く、濃い空の下で青く、深く広がる無限の広場、その景色は貴重なものだと思いました。どうしてこの景色を見ることがあの町ではできないのだろうかと、彼は疑問に思いました。それは、明確で、ずっと昔を恐れていたからです。
 町人に喰らいつくいばらの蔦は、無限に絡み合い、お互いに引っ張っていました。しかしその痛みも、生活の中で必須でした。町としての安定をもたらす、根の根だったのです。ハリトと一緒に、イアリオ抜きで、地下に臨むのもレーゼはそう大したことには思えませんでした。彼らは別に、イアリオに一から十までこぞって頼っていたのではないからです。自分たちの意思で彼女についていったのです。鼓の音がします。無限の過去から、足音を立てて、彼らに、迫っています。
 窪地の中は、渦巻くように土が抉られて、その先に草の根の洞窟が掘られていました。なぜこんな穴がここに空いたのかよくわかりません。黄金都市の真上に組まれた縦横の天井の梁が、歪んだり腐ったりして沈下したためにぱっくりと開いたのかもしれません。下の海から見えないところは、岩ではなく、木の梁でもって支えられ、そこに板を敷き土と小石を乗せて、潅木と草の根で蓋をしていたのです。また町人によって地表からも地下からも定期的に点検もされていました。ともかく、その穴は、都市の岩壁まで続いていました。ハリトは既にその先まで調べていました。壁を伝って下まで下りられたのです。
 レーゼを案内して、彼女はイアリオのいないチームで、地下世界に臨むことがようやくできました。彼女はすべてを見返してやりたいと思っていました。彼女を馬鹿にする人間などいないのでしたが、彼女は自分を卑下していたのです。彼女にとってイアリオの傍で出くわした様々な事件は、その意識に過剰な負荷をかけ、珍しい感情と、誘惑と、憧れとに遭遇させられていました。それで、彼女の心はばらばらに解けそうになったのです。ハリトにとって、彼らとの冒険はきつかったのです。そんなことはおくびにも出しませんでしたが、本当はあまりにも刺激的だった冒険が、綺麗な音楽を奏でるのではなく、
 鼓の音をもたらしたのです。彼らがあのハオスと会った、地下道の入り口には、警告のように、赤い文字でその旨が書いてありました。鼓の音に気をつけろ。
 鼓の音に気をつけろ。
 それは、クロウルダから港を奪った、海賊たちが書いたものでした。地下道は、物資を運ぶために造られたものでしたが、大半は元々の洞窟を改造したものです。その洞窟は、クロウルダたちが、あの魔物を監視するために利用していたのです。海賊たちは、何度かオグに遭遇していました。そしてその都度その魔の力を浴びてきていました。ですが、その頃オグの力は非常に弱まっていて、彼らは強烈には魔物に虜にされず、このような警告を残すことができたのです。
 今は、かの魔物の力はどうでしょう。天女たちは言っていました。「人間らしさを失うだろう。かの町には溢れ出ようとしているから。古い魔物、オグと、古い死人、あの街に封じられた人々が。」魔物も死人も、どちらも驚異でしたが、もし魔物が本物の驚異たりえるのならば、その頃とは比べるまでもないほど強い力が発揮されるのでしょう。いずれにしても、その魔物に近づこうとすることは、身の危機を顧みない、愚かな行為でした。
 レーゼはふるふると揺れるハリトの後ろ髪を見ながら、初めて彼女に色気を感じました。当人がそのつもりで誘ったのならば、二人きりとなったその場にいて、よほど鈍感でなければ相手の気持ちがわかりました。ですが、彼はそれに応じるつもりにはなりませんでした。レーゼは不思議な気持ちでいました。何かが自分の中ではっきりとしすぎて、奇妙に、興奮した状態でした。
 二人は一番下まで下り、地面に足を付けて、洞穴を眺めました。暗黒の地下は、手を広げ、まるで二人の頭上でようこそとお辞儀したようでした。
 遠い所で鼓の音がしました。それは、彼らの心に響いたのではなく、本物の音でした。
「不気味だな、ここは。言うまでもないけれど」
 彼らの降り立ったのは街の東部の端でした。いつもイアリオと下りていた工房の立ち並ぶ区画より大分はずれていました。こちらの岩壁には物資運搬用の通路は空いていませんでした。レンガと石造りの塀が並び、丈の低い建物が軒を連ねていましたが、屋根やひさしはなく、つるりとして、建物というより置物のようです。実際、住む人はもういないのですから、オブジェとしても、そんなに興味を引かない滲みたれた家々でした。街の西側や工場とは異なり、東の隅のこちら側は雨の後のような匂いがしました。また、潮っ気も空気に強く混じりました。彼らは、この界隈を南へ下りました。レーゼは街並みを観察して、今まで見たことがなかったものはあるだろうかと探りました。ハリトも彼のようにもの探しをしましたが、彼女にとっては、この探検は人といるためでした。彼と一緒にいるためでした。彼女は彼の傍に寄りました。そして、その服をつまみました。レーゼはそれに気づきません。
「俺、ここにいて安心しないよ。やっぱりイアリオと三人で、来るべきだったんじゃないかな。なあ、俺たちだけじゃ、非力に思えないか?あの人のように、この街を慰めたいとか、霊たちを還してあげたいとか、考えていないだろ?お互いにさ」
 ハリトは首を振りました。
「そんなことないよ。だって、私たち、イアリオと一緒に何遍もここに来て、祈ったでしょ?大丈夫だよ。問題ない」
 ハリトはレーゼに聞く耳を持ちませんでした。レーゼは首をすくめ、はっとして、ハリトが自分を連れてここに来た真意を感じ取りました。
「実は、気になる場所があるんだ。上の方から見ていたんだけど、霧が、この近くの窪んだ場所に吸い込まれていったの。こんな地下で霧なんていないものでしょ。だから、それを調べようってね」
「霧?霧だって?お前、そりゃ天女やハオスも言っていた怪物なんじゃないか。本にあっただろ、もし、そうなら…」
「どうせ調べなきゃならないことでしょ。折角の、手掛かりなんだよ?もしかしたら、ハオスの言っていた湖がこちらにあるのかもしれないし。イアリオを見返してやろうよ」
「見返す?なぜ?」
「いいから、早く!」
 ハリトは自分の中で動いていました。そこに、レーゼはいませんでした。恐ろしいことが起きていました。魔物は仲間を欲しました。ハリトを動かしていた衝動は、人間に(あまね)くあるものです。幻想はくっきりとさせたいものです。形ある愛を欲しいものです。自分に自信がないのです。誰かを好きならば、黙してはいられず、感情の中に、暴発的な愛を潜ませます。受け取る側のことなど何も考えず、危険な賭けを、しなければならなくなる。その結果は当然のごとく自分に跳ね返る、それをよしとするのです。そうでなければ、何が現状を変えてくれるでしょう。そこにたとえ悪魔が潜むも、悪魔に身を委ねねば、何も手に入れないのですから。
 それが、期待したものとは違っても。
「ハルタ=ヴォーゼが…あの時、なんで、俺の前に現れたんだろう。どうして俺はこんな場所に来ているんだろう。ああ、俺はもしかしたら自分の身の方が大事なんじゃないか…」
 ずんずん歩いていくハリトの後方で、レーゼは唇だけをそのように動かしました。やがて、二人はハリトが上から見て霧が吸い込まれていったように見えた、岩壁のきわに着きました。そこには水が溜まっていました。水の奥に洞穴のような道が続いているのが確認できました。手押し車が壊されて底に溜まっていました。その車に積まれていたと思われる、きらきらとした黄金が、水底でこちらの灯を反射しました。
 ハリトはレーゼを向いて、にやりと笑いました。彼女だけの手柄が、ここに見つかったのでした。レーゼはぞくりとする気配に総毛立ちました。そのハリトの表情にではありません。しかしそれも曖昧です。背後から、たくさんの悪意が、かたち成し群れ成して流れてきたのです。それはオグでした。レーゼは振り返ると、あっと叫んで、ハリトの手を引いて地面に屈みました。霧は、彼の上を通り過ぎて、水の中の洞穴へ溶けていきました。
 彼はハリトの肩を叩きました。ようやく安全が図れて、すぐにもここから離れようと合図したのです。ですが、彼女は、霧に触ってしまいました。目を瞑ったまま、ハリトは目覚めませんでした。レーゼの額に冷たい汗が滲みました。動揺した気分を抑えて、助けを呼びに、岩壁をよじ登り、彼は土の穴から外に出ました。
 それくらいなら良かったのですが。レーゼはハリトを背負いながら岩壁をよじ登れる自信がありませんでした。ですから、真っ先に呼ぶべき援助の手に、頼みました。イアリオは飛んできました。彼らだけで、ハリトを上に上げねばなりませんでした。そうでなければ、責めを負うのは全員で、しかも、イアリオはどうなるか分かったものではありませんでした。二人は縄でハリトの体を縛るなどして、迅速に地下から引き上げました。ですが、外でしばらく横たわらせてみるも回復せず、彼女はベッドに伏すことになりました。医者に診てもらうと、症状は軽いもので、熱が出ているが過労のようだと言いました。それでもハリトは、時折苦しげに歯軋りをしました。眉をしかめ、苦痛に喘ぎました。どうやら夢を見ているようでした。長い夢でした。レーゼは、ハリトはきっとあの白い霧に触れたんだとイアリオに言いました。
「俺のせいだ。もっと危機感があれば、こうしたことにはならなかったのに」
 彼の反省は彼女の目覚めぬ日を追い深くなりました。彼は、ハリトの気持ちを理解したのですから、何もあの暗がりで、それを受け取ることはなかったのです。彼女らしい自我や、イアリオに手柄を見せたいという望みも、その性格であれば暴発的になるのも、ずっと付き合ってきた彼ならばわかるはずでした。彼は自分を責めました。

 しかし、それは、彼とハリトが歩み出したそれぞれの第一歩でした。

 レーゼは毎日のように病床のハリトを訪ねました。彼女が目を覚まさぬ原因がオグなのなら、治療法はまったくわかりませんでした。彼には傍に付き添うくらいしかできませんでした。ハリトの両親は、これほど娘の面倒をみてくれる彼を信用し、夜は彼に任せました。イアリオもほとんど毎日訪ねましたが、レーゼがいれば、事は済むように思えました。そうではありませんでした。ある日、突然、ハリトは目を覚ましました。彼女は近くでじっと物思いに耽っていたレーゼに目を留め、艶やかな眼差しで、桃色の頬を膨らませました。興奮した息がつと漏れて、レーゼがこちらを向きました。彼女は服の前をはだけました。目の前には男しかいませんでした。男だけで、レーゼは、いません。いません。どこにもそんな相手はいなかったのです。
 ハリトは唇を近づけて、男に、熱くて官能的なキスをしました。柔らかな頬をべろべろと舐めると、欲情し切った目は、物欲しくて、それを訴えました。
「欲しいわ、あなたが。もう誰でもいいの」
 彼女は男の腰に手の平を当てて、艶かしく触りまくりました。そして、うっとりと今欲しいものを目にすると、そこに自分を押し付けて、彼を押し倒しました。頑丈に動きを遮られてしまったレーゼは反撃ができませんでした。それは女性の力ではなくて、欲望の力でした。
「大好きだから。こ・れ・が」
 ぞくぞくするほど淫らな声は、ハリトのようではなくて、しかし、彼女自身の声色をしていました。「素敵」ハリトはまたキスをしました。「愛し合おうよ」
 ぎくりとする衝撃がレーゼの背中を走りました。このままではいけないと、警告が鐘のように鳴り響きました。彼女の中に、きっとオグが入ってしまったのです。どうするべきでしょうか。彼は思い切り自分を責めました。そして、何があっても、これからハリトを大事にすると、強く心に願ったのです。彼は、どんとハリトを強く突き放しました。ハリトは飼い猫に引っ掻かれただけだという顔をして、困ったものだと微笑みながら、なおも誘惑してきました。
「おとなしくしてよ。もしかしたら、驚いているの?怖い?そうじゃないでしょ。期待しているんでしょ。だって男だもの。そうでしょ?」
 レーゼは気をつけなければ、ふらふらと彼女に近づいて、この妖艶な雰囲気の坩堝にはまってしまいそうでした。しかしその時、ハリトが目の色を変えました。彼女に自分が戻りました。頬に興奮して差した朱の色は、みるみるうちに、青ざめてきました。そして、目を剥いて、今度は顔中を可哀そうなくらいに真っ赤に腫らして、家を飛び出していきました。
「私じゃない!」
 彼女は叫びました。
「私じゃないから!」
 レーゼはハリトを追いかけました。彼は途中で見舞いに来たイアリオとばったり出会いました。
「どうしたの?」
「ハリトが目を覚ましたんだ。けれど、どこかおかしかったんだ!」
 二人は一緒にハリトを探して走りました。ですが、どこを探しても見つかりませんでした。レーゼはがっくりとうな垂れて、力なく傍の石に腰掛けました。
(俺は一体何をしたんだ)
 彼は自分の今までの行動をしきりに思い出してみました。そうせずにはいられませんでした。彼の目は地面を向いて、ハリトの笑顔を空描きました。彼は、悔しくて、何度も、自分の腿の上を叩きました。ふと、視界にイアリオの裸足が入り、彼は顔を上げました。イアリオがじっと心配そうに見ていました。ああ、と彼は呻きそうになりました。ごめんなさい、そう謝ろうとしましたが、それは遮られました。謝ることは、正しくなかったのです。
 自分のやるべきことは、わかっていました。「もしかしたら」彼は呟くように言いました。
「あの場所に、あいつは戻ってるかもしれない」
 その場所は、彼が彼女と二人で入った、丘の上の窪地でした。まさしく、そこにハリトはいました。草に突っ伏して、泣いていました。
 イアリオがこの時、いくつもの意味を、手から零していたと気づくのには相当長い時間が必要でした。彼女がハリトをけしかけたところもあったのです。それが彼女の責任ではなくても、ハリト自身に要因があっても、レーゼが一番深く関わっていても、間違いなく、彼女はハリトに影響を与えていました。太陽のような輝きは眩しかったのでした。彼女は強すぎる日差しを相手に与えてしまっていたのです。
 イアリオはハリトに触れられませんでした。レーゼだけが触れられました。レーゼは優しく相手を抱き上げました。力なく少女の手の平は下に転がりました。
「ごめんなさい」
「なぜ謝るの?」
 イアリオが言いました。
「それは、私が、自分を誤魔化していたから。あの時、私の中で、呼び掛けられた。この男を、奪え、愛しろ、蹂躙して、自分のものにしろって。ああ、分かった。私には。あれがオグだったんだ」
 ハリトは搾り出すように言いました。レーゼの腕の中で、彼女はすすり泣きました。
「私、こんなに汚れた心を持っていたんだ」
 彼女は怯えていました。酷使され死を待つ奴隷のように、寂しくがたがたと震えていました。
「もう、一緒にはいれない」
 ハリトは立って、彼の手をどけて、ただ一人、海の方へ向かっていきました。真っ青な海の面を目を細めて見つめて、彼女は、佇みました。そのまま動かず、死んだように静かになりました。
「俺は、お前のことが嫌いだった」
 ふいに、レーゼがまるで懐から剣でも抜いたような勢いで言い放ちました。
「最初はなかなか気になったけれど、いつからか、そうでもなくなっちまった。お前、大分大人しくなっちまったからな。あの飄々とした自己中心的な態度が気に入っていたのによ、何だか軟弱になっていって、逆に鬱陶しくなっていったんだ」
 ハリトが涙を一杯に溜めて振り向きました。
「でも、お前が倒れて、俺の頭はどうかなっちまいそうだった。なあハリト、名渡しの儀式をしようか?お前が良ければ、俺はそうしたい。お前が好きなんだ。今度のことで、やっと判ったんだ。俺は、お前のことが、一番大事だから、嫌いにもなったんだ」
 レーゼは自分でもよくわからないことを言っているなと思いました。ですが、間違いなくそれは本心でした。嫌いだったとは嘘ですが、鬱陶しくなったのは本当です。しかし彼の言葉には正直さが足りませんでした。多少の嘘が含まれていても、彼にはこう言うことしかできなかったのです。
 彼が正直であったのは、ただハリトの混乱して消沈し切った心を何とかしてあげたいという思いだけでした。側にいるイアリオはそれに気がつきました。しかし、黙っていました。これは二人が応じ合うことで、口を差し挟む余地は彼女にはないからでした。

 しかし、こうしてある破壊が起きたとしても、エアロスの伝説では、対になるイピリスという諸力があります。イピリスは、再生の力でした。レーゼが心を開いたことで、ハリトは今まで以上に彼のことが好きになりました。結果を見れば、これで目出度しだ、ということになります。新月の晩に望もうとした密かな願いはここに花咲きました。
 ですが、そこには太古の魔物である、悪意の亡霊が深く関わりを持っていました。少女の情動を助けたとて、その力はかの悪魔の命令でした。ハリトは気づいてしまいました。自分の本質を、そうしたものがあるということを、どうしようもない秘められた気分が体の中にあるということを、この時に思い知らされてしまいました。そうした怯えは、まだ、彼女の精神に収まる様子ではありませんでした。いずれにしても燻り、彼女の胸を、焦がし続けるのです。
 静かに、彼らの町は、オグによる侵入を受け始めていました。この力が町全体をいずれ覆ってしまえば、果たして人々はどうなるのでしょうか。輪廻する意識は何を用意するか、これから物語はそれを語っていきます。
 過去と、現在と、未来がつながります。
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