第23話 動かぬもの

文字数 19,568文字

 その時代、まだ人は一つの神がこの世を治める神話の概念の中にも、また、理智でこの世界を分析してみせる科学の見解の間にも、美しい仏が参り世界中をいずれ救うのだとする教えの内側にも、住んでいませんでした。人は許しの観念を持っていないようでした。許せぬものがあれば、自分をも他人をも、彼らは責めました。
 それは一つの殻を形成しました。殻は、人と他人とを区別しました。殻は、自分と他人とを孤独にしました。殻は、人と自分とをつなぐものを失念させてしまいました。殻を破るのは人でした。もし、オグが無数の人間の意識からできているのであれば、かの魔物に働くのは、やはり、同じだけ無数の人々からの呼び掛けでした。それは、実は限りなく幸せなことでした。そうは思わなくても。イアリオに働きかけた古代の怪物と昔の死人たちは、決して彼女が、アラルであったからそうしたのではありません。誰もがかつて彼らであったならば、お互いに、その時には引かれ合うのです。それは限りなく幸せなことでした。
 生まれ変わったピロットは、暗黒の空間を仰ぎ見て、心に決めたことがありました。ここに、俺の王国を築かねばならない。そうだ、上の町を破壊するんだ。ここは、まだあの町に支配されているから。彼の脳裏によぎったのは、この町に育てられた感謝ではなくて、この町が否応にも支配しようとする彼への権力でした。それは、本物ではなく、いたずらにかの町が繰り返した業でした。それは、人間ではなく、人間から離れた力でした。子供は、もがいて大人になろうとします。早く、早く、ここから僕らを出してくれと。
 怒りは子ども染みた理由で施行されるものです。彼の中の怒りは、たいしたものではありません。ただ、他の人間の怒りを理解するには十分でした。彼はそれを操ればいいのです。勿論彼は、自分のために、他人を操ったつもりでした。しかし、それは本質としては、お願いします、お願いしますと、人に頼み込んだものでした。
 ピロットは上に上がりました。密かに、地下都市を見回りに来た人間についていって。そして、夜の町のみならず昼の町もその目にしました。およそ九年ぶりに見る我が町は、恐ろしいほど変わってなく見えました。いつまでも白く、いつまでも太陽に照らされて輝いていました。それが彼には実に恐ろしく感じました。誰がこの町を愛でるのでしょうか。自分たちが?
 彼にはもうこの町の真実の姿がありありと目の前に映されていました。そこは古い傷口を幾重にも幾重にも塞ぎ、そうしていながら癒すことのない、まるで傷痕の扱い方を知らずいつまでも傷付き続ける弱者の居場所でした。彼は、自分たちを傷付け続けるふるさとの有り様に我慢ができませんでした。
 彼は亡霊のように動きました。彼の姿を町の人間は誰も追えませんでした。彼は悉く故郷の町の人々に悪の芽を見つけ出しました。それの見つけ方はいかにもビトゥーシャから教えてもらったものでしたが、十分に、彼はこの町を出て行く前からそれを見続けていました。人々の、本当の哀しみ、怒り、わだかまりを、優しい彼は感じ取ることができました。だから、彼は、分裂をしました。内臓を縦に半分切ったのです。彼が感じていることと、彼の意志が望むこととが、違っていたからです。彼は、町のへばりつく丘を下り、上の町を見上げる草原に立ちました。大きく息を吸い、かっと目を見開いて。人間の欲望が、その果てにこの町を築いた。ならばすべて、俺のものにしよう。地下の黄金は皆俺のものにしよう。欲しいか、この町が。
 欲しい。欲しい。彼は、そう呟きました。
 そのための手始めに彼は、何からすべきでしょうか。この町をものにするために。彼は地下の黄金を使うことを考えました。それを用いて、外の世界に、多分にできることがありました。
 人手が足りない。彼はこう考えました。かの都の黄金を使って、人を雇うこともできました。しかし、彼はそれではいけないと考えました。外部の人間を使ってこの町を襲わせても意味はありません。彼はこの町の人間が黄金で外側の世界で為すことがあれば、この町を支配する意味になると考えました。彼はそうするために、かつて自分が地下への入り口を発見したように、町人の目にその入り口を見せて、その中にいざなうことを思いつきました。そして、穴の中に誘い込むのは、まだ成人していない、思春期の悩める男子をのみ選ぶことにしました。
 暗黒に落ちた子供を、彼は優しく呼び止めて、見知らぬ人間の姿と暗闇に怯える彼らの警戒を解こうとしました。例えばゴミ街のシャム爺や、北の森の中の泉、東に聳える山脈の麓の鉱山についてなど、子供たちも知っていてかつ詳しくは知らない町の知識を披露しました。子供たちは、彼に関心を引きつけられました。彼は、自分はその昔に誤ってこの穴に落ちて以来、ここに住んでいるのだと嘘をつきました。そして、自分は海の向こうへ行ける舟を持っているのだが、もし、お前たちが行ってみたいなら、連れて行ってもいいと言いました。
 彼は二十一歳になっていました。その精神と見た目は、成人のものであるものの限りなく未成年に近く、少年たちから見ても親しみやすい雰囲気がありました。彼に魅了された子供は少なくありませんでした。あの、シュベルやエンナルも…。未知のものにどうしても惹かれる、子供たちの意志を、ピロットは利用しました。いかに、町の禁則があっても、子供らは彼に心を許し、間違った道を進み始めました。
 タンバリンがシャランシャランと鳴って、歩いてきました。鳴らしているのは、悪魔です。魅惑的な音の響き、それは、委ねれば心地よくて幻想的でした。しかし、音の意味は感ぜずに、たちまちに、虜にしてしまう幻惑の匂いを立ち込ませました。これは、彼らが隠した黄金そのものではありませんでした。そうではなく、彼が持ち去った小金でした。

 山茶花が揺れていました。先祖たちの眠る、トラエルの町の西側の墓地に、人が立っています。彼の名前は、シャドラといいました。シャドラはゴミ街の狭い路地を通り抜けて、この墓地へ来ていました。彼は老いて、すっかり白髪だらけでした。
「もうすぐここへ行くと言いながら、もう、何年か経ってしまったよ」
 彼は死んだ妻に向かって言いました。
「老いるほど、申し訳ないが、私にはこの町の歪みやいびつさ、さても不安や怯えなどがわかってきたよ。なあ、ミラルダ、私は、積極的にゴミ街の管理者などをしているが、それでいいのかなあ」
 シャドラは墓地の東に広がる美しい白き町を眺めました。
「あの下に、巨大な魔物が眠っとるのだよ。我々が埋めた、我々の祖先がな。あれを生き延びた人間が、この墓地に埋まって、あとの人間は、あの地下街に放りっぱなしというのは、なんともおかしな話じゃあないか」
 彼は溜め息をつきました。老人は、歳も歳、いつお迎えが来るやらと思いながらいました。
「未来の無い町というものは、はたしていいものなのかな。私は迷うよ、この歳になって。だが、これは勿論、私だけの理屈だ。ああ、なんだかんだで、私も外側の世界に憧れを抱いたことがあるよ。お前には言わなかったが、実はな。オルドピスとかいう国に、焦がれていたんだよ」
 彼の独り言は続きます。彼の近くの足元に、小鳥が一羽、二羽、降りてきて、可愛らしい雛にあげるための餌をついばみました。
「私の役目は守護の役目、この町の役目もまた守護だ。遠い過去に、取り残された、黄金と欲望の源と成れの果ての、暗き街の監視者だ。ずっと、そうだ。ずっと、この三百年間、そして、未来永劫、この町と町人たちは。そのために、生きるのだ…」

 タンバリンが、揺れました。枯れたように乾いているのは、器でした。その渇きは、人々が、自ら目指した目標です。それが、ついに、溢れようとしています。その時に、彼女は、イアリオは、
 もう一度暗黒の地に行く資格を得たのです。古代の人々がつどう所へ、大きな怪物の待つ場所へ。ここから始まるのでした。精神が、過去が、未来へと本当の想いをつなぐ試みは。過去は、どうしようもなく、再び現在に還ります。心は、命をつなぎます。そして、生命が腹の穴に宿って。
 いくのです。

 彼女が十年前にくぐった暗闇への入り口を、もう一度くぐろうとする頃、三百年閉じ込められた霊たちは何をしていたでしょうか。彼らは言わば眠りから覚めておらず、方々に、散っていました。ただ一人彼らを見返していた人物は、恨みの女性でした。イラは、上の町から人間を、ピロットが行うようになる前から次々と下に落としていました。見返してほしかったのです。けれど、その行為自体、彼女が自分を省みることでした。霊は、意識を固定されます。そして縛されるのです。何のためか。
 それを自分が抱き締めるために。
「ああ、暗い。今どこにいる?ここは、どこだ?体が冷たい…冷たい…体が。ああ、暗い」
 彼女は土の中のっそり起きたつもりです。そうして彼女の魂は、自分の体と分離しました。死ぬとはそういうことでした。イラは自分の体に貼り付く恐ろしげな形相を、じっと見詰めました。土の中に葬られた、虫のような己の顔を。
 三百年前、彼女は幽霊になりました。土から這い出てみると、満天の星が、月夜空に浮かび上がっていました。
 幽霊は、声にならない声を上げました。その声は動物たちを震え上がらせました。彼女は笑いました。身も凍りつくような冴え冴えとした笑い声は、遠く、地下に眠る魔物のオグを、小さく身じろがせました。
 アラルと命運を共にしたオグは、あまりの満腹感に、狂おしいほどの眠りを求めました。彼の中で悶え滾る意思たちの興奮と、絶望と、死への渇望と、悪の決定したその終末とが全体としての彼を大いに満足させました。彼の意志は、その体を構成する一人びとりにも伝わりました。全員が、眠りを求め、遥かな目覚めを待つために、その穴蔵の中で赤ん坊に遡ることを余儀なくされたのです。その後、上の街は海賊どもが接収することとなり、さらにのちに内紛が起こります。戦士たちが、下克上を起こし、海賊どもを追い払っても、オグは眠ったままでした。戦士たちが互いを討ち滅ぼそうとも、奴隷らが黄金の欲望に憑かれて暴れても、数限りない非道がそこで行われても、彼は眠りから覚めませんでした。しかし、遠くから、イラ=テオルドの亡霊の叫び声を聞いた時、彼は片目を開きました。すぐにそのまぶたは下ろされましたが。
 イラの叫びは、悪霊として彼女が生まれ変わった産声ではありませんでした。それは驚異の叫びでした。驚異は人のものにはなりませんでした。イラは、強力なまじないを彼女の子孫に掛けました。彼女のためには墓が用意されましたが、彼女の愛する人とは別でした。ハルロスは、木の幹に磔にされて、その後、川の中に打ち棄てられました。川は、彼を海に運びました。町の人々は、海を決して見てはならないと定めました。「彼の情熱は反古にされた。私の命も反古にされた。二人の明日は断ち切られた。ああ、雄大なる精神と壮大な愛は、一刀の下に、壊された。」彼女の残した詩には、絶望と凄絶な恨みが書かれています。彼女は何を見たのでしょうか。彼女は驚異を見たのです。人々が、彼女と契りを交わしたハルロスを恐れ、怖がって、集団で嬲る様子を。イラは真っ赤に充血した目で、その時のハルロスの死を看取りました。彼女がその時抱いた恨みは
 彼女だけのものではありませんでした。それは、町全体のものでした。町が、抱えるあらゆるもののうちの一つでした。それは、おそらく、普通の社会にあるような、普通の構造と一緒の。どこにもあるのは、幸福と不幸とが、共に在ること。強者と弱者が共にいること。
 彼女は、皆のために呪ったのです。当然、彼女は自分の子供にそのような教育を施しました。誰もが口にしていないような、秘密のストーリーを、彼女は延々と子供に聴かせました。子供もそのストーリーには秘密があることをわかっていました。ですから、そのまた子供へ引き継ぐ時に、あやまたず、イラの心念を伝えることができました。そのようにして延々と、彼女は

。自分の血に、自分の分身に。まるで、それはオグがするような悪戯でした。彼は自分の分身を生み出そうとして人間の悪に囁きかけます。
 テオルドが、オグと同化したのもさもありなんでした。勿論、テオルドはイラではありません。しかし、自分の中に、イラの分身を見るのは、オグの内部にそれを見るのと同じことです。ましてや、血が、そうさせるのならば。(そして、前世があのサルバならば。)彼は苦痛を通り越した激情に突き動かされなければなりませんでした。しかし、もし、子供が親を選んで生まれてくるということが、本当にあったとしたら?
 イラに、愛情がなかったわけではありません。そうでなければ子供は育てられませんでした。彼女の子孫も、丈夫な子供を育てました。テオルドに、愛がわからないのではありません。愛と憎が二つ誰にも宿っているだけです。しかし、彼女の最期は自殺でした。川の中への身投げでした。
 亡霊になり、彼女は、自分のすべきことを認識しました。それまでは、町を亡ぼそうなどとは微塵も考えませんでした。人々に恨みを抱え、人々の明日が反古にされるようにとは願いましたが、彼女はハルロスとの愛の結晶を大事にし、それを育て上げたのです。自分の子供に、自分のつくり出した物語は聴かせましたが。それは死んでからでした。彼女が、町を亡ぼしてあげなくてはならないと思ったのは。彼女は復讐のつもりでした。町を亡ぼすのは復讐のためだと思いました。しかしそれは後にオグと機軸を同じくするものでした。オグは自らに復讐せねばならないと思うようになったのです。イラ=テオルドは、どきどきとしていました。まもなくその冷たい意思が実現されようとしているのに、高揚した感情はいかにも長年の積み重ねてきた怨嗟の思いの解放を
 願うものなのに、そうではなく、そうではないことに、たまらず彼女は心臓を跳ねさせていました。そこに、心臓はないのに。彼女は、募る気持ちをばかり、地上に向けていました。しかし、ですが、そこにハルロスは同伴しているのでしょうか。実際、彼女は彼のお墓にイアリオを連れて行きましたが。彼女は彼のために恨んだのですが。彼女が恐れたのは、本当は、その思いの消滅でした。彼女は、ただそのために自分に呪いをかけたのです。感情を忘れないために。自分のために、それに縋り付きました。
 命は育ちます。何もかも超えて。ですが、この場に留まりたいという欲求をそれは持ちます。成長したくない、という欲求。地下都市の捨てられた黄金はこれを表していました。守られ続けてきた黄金はこれを指し示していました。永遠に変わらない輝きは、個人によって違います。ところが、そのことがただちに呪いをかけることにもなるのです。人はあさましい生き物です。自分に呪いをかけたことすら、忘れてしまう。どこからか低気圧が発達して、台風になろうと、彼らはまだその原因を知りません。自分の、ことが、人はよくわかりません。イラには命が鈴生りのように見えました。それは、見事に自分の鏡像でした。彼女はこの鏡と向き合い、どきどきとしたのです。

 三百年前…ハルロスが町人たちに殺されるより前、戦士も民間人も、全部が、互いに殺し合い滅ぼし合ったあの現場では、死は、あるいは人に希望を与えるものでした。死は苦痛ではありませんでした。それは苦痛を忘れさせるものでした。
 そこにはセバレルという名の大男がいました。彼は海賊たちにその異様な風体を買われ、人々の見世物に連れて来られました。彼はその時名前を失くしました。彼は、誰でもない者になったのです。当時、彼はまだ十三歳でした。あらゆる筋肉が瘤をつくり、顔もその瘤で覆われた彼の異常な体つきは、人々の慰み物になり、滑稽な恰好をさせられたり、非常な失態など観客の目の前で犯して、彼は笑い者になりました。十三歳といえばまだ成長期でした。彼の体はいよいよ大きくなり、丸太のように腕は太まり、風貌も厳めしく雄々しくなりました。人々はこの男に恐怖を感じるようになりました。彼は道化師役から蔑まれ役となりました。彼の、あらゆる痴態が晒されました。糞便をするところを見せられ、唾液を垂れるところを見せられ、涙を流すところを見せられました。
 人々は、そんな彼を見て、自分の抱える恐怖が、この男によってその檻の中に縛られていると思うことができました。恐怖を手放したのです。海賊の国などいついつまでも続くものではありません。しかし彼らは、自分たちで生きる力を育てませんでした。現在だけが彼らのものにするところであり、過去と、未来は望むことができませんでした。そんな中でも生まれた者たちはいて、新たな赤子にとっては、どうしようもなくこの場所はふるさとになるのですが、新しい命たちは、そこが戦士の国になっても奴隷としての身分以外は生き方を教えてもらえませんでした。
 しかし、セバレルはそこで解き放たれました。彼らのクーデターによって、純粋な新しい戦力が欲されたのです。その見事な体躯は漲る膂力を有し、いかにも道化役では収まらないものでした。セバレルは言われるがままに彼らの戦力として戦争に参加しました。そして、その風体に見合う以上の力を発揮して、彼らを連戦連勝に導きました。ところが、次第に戦士たちはこの男のことが恐ろしくなりました。誰よりも力のある体つきだから、あるいはその瘤だらけのおよそ人とは呼べないような姿だから、彼の心づもりこそ彼らは聴く機会を持たず、仲間意識を持たなかったのです。もしかして彼は、人間に恨みを持つ存在なのではないか?そうでなければ、これほど異様な風体を所持せず、人間を紙屑のように戦場で破り散らすこともないのではないのか。戦士としての扱いを受ける前、彼は檻に、閉じ込められていました。当然、その間に受けた扱いを快く思うはずがないのだから。人間を、恨む。もしかして彼は、そのためにそこにいるのではないか。疑心暗鬼は広がりましたが、それは、セバレルに向けた恐怖というよりも彼ら自身の行いや、心づもり、姿勢に対する恐怖でした。彼らはそれを幾許かも省みずに版図を拡大しようと躍起になるばかりだったのです。内政を、どのように敷いていくかを考えるいとまもなかった彼らは、具体的な反省を知りませんでした。他国のことならば他国の者に執政を任せ、自分たちは軍事力を持っているだけで十分でしたが、足元の内国は、どんな状況にあるか彼らは確認ができないまま、いくさを繰り返しました。いつまでも暗い影にいて育つのは、健全でない考え方でした。あるいは表に出た時に伸びる濃い影を、彼らはより濃くし続けました。彼らは自分たちの暗い影に、取り込まれ、その影の望むことを行うようになりました。黄金の奪い合いです。しかしそれは海賊たちが行っていたことで、彼らにずっと見せつけ続けていた行為でした。いいえ、見せられていただけではなく、それが彼らを取り込みました。行いが、人間の行為そのものが、人間から離れてしまって、逆に。
 セバレルは、決して、かの街の滅びの渦中にはいませんでした。ただ、彼に向けられたような恐怖が、人々の中であらゆる人間に対して、行いに対して向けられてしまったのです。人々は、恐怖を手放しました。それは、洞窟に街を穿ち、暗い影の中に故郷を持とうとした、その港の発展当初から始まったものだったのでしょうか。母体の胎内とも言うべき湿った温かいぬくもりがそこにはありました。人々はこの中で退行をしたようでした。
 彼の心は周りの人々のように、狂ったり恐怖に囚われたりすることが、なかったとはいえ、まるで神から遣わされた者のように、目に映った人々の一人一人の思いを汲み取りました。十三歳の頃から、彼はそうでした。閉じ込められた彼は、人間を観察する鋭い目を鍛え上げ育ててきたのです。彼は自分が誰かの慰み物とされるのをよしとし、笑われるのを許しました。彼は彼を見た誰をも許しました。彼は、戦場に行っても対峙する人間を許しました。敵として登場する相手は、たまたま敵同士となっただけで、その刀に掛ける意味もありませんでしたが、敵として現れた者たちも自らのそのような運命も、皆彼は愛しました。そのような彼が、滅びの瞬間に立ち会った時に、自分に求められた役割は、何と感じたか。彼は人間の頭を壊し続けました。狂い、怯え、どうすることもできない激情に駆られたあらゆる人間の意識を打ち砕きました。そうして混乱した意識を揺り籠に戻しました。彼は人々に死を与えました。それだけが目に映る者たちに求められたもののように感じたのです。
 彼によって凄惨な死が積み重ねられても、オグは目を閉じていました。確かに彼はまだ満腹でしたが、彼の意識を呼び覚ますのは、彼の滅びと同軸にある感情や出来事だけでした。イラの想いには反応しても、国の自殺の阿鼻叫喚には、彼は身じろぎもしませんでした。その出来事は彼にとってまだ幼かったのです。セバレルの感情すらまだ幼かったのです。彼は成長し過ぎていました。彼は自分が神とはとても思いませんでした。自分はどこまでも人間でしたから、あらゆる行いが、とても手放せるものではありませんでした。…それから三百年後、十五人の子供たちは、セバレルに殺された者、そして互いを打ち殺し破滅していった者達の言葉を、聞いています。お願いだ、我々をここから出してくれ。
 暗闇ではない、光ある地上へ。
 混沌は未来に持ち込まれたのです。無論、それまでの間はかりそめの秩序を維持されて。それが人の営みでした。神殿は、深い闇の中に隠されていました。ですが、そこはずっと維持されてきました。人間という文字に、表れている意味は何でしょうか。人は
 人の間に棲むのです。それがいかなる意味に、おいても。それは皆で、何か音楽を奏でているようでした。巨大な音楽を。その演奏者たちはとても、身を離して聴くことの、できない。そのうたはどうすれば聴くことができるでしょうか。どこかの神様しか、それを聴くことはできないのでしょうか。
 地鳴りがします。地鳴りがします。

 悪霊は、そうなろうとしてなった者達の集合ではありませんでした。やむをえずそうなったのです。悪霊は、いつまでも人間の一部でした。ですから、本当の魂は、何度も生まれ変わっていました。オグの中にそれが取り込まれても、取り込まれたものは人の一部で、その本体たる魂は繰り返しこの世に生まれ続けていました。でも、それを知らず、思いはいつまでも留まり続けました。どうやら思いは、その消滅を怖がるようです。そこらを漂いながら。
 それは何のためでしょうか。それらはいずれ消滅を望みます。思いが未だ思いそのものであることを、それ自体が苦しむからです。そしてそれらは吸収を願います。まるで再び胎内に戻りたく思うかのように。それは訴えます。自分はここにいると。なぜ振り返らない、と。トラエルの町の北方にある、山脈の頂の真上に集合する人々の霊魂も、このような思いたちでした。自身の思いに囚われて、いつまでも成仏できない者たちでした。
 イアリオの目の前に、彼らは集団で現われました。そして、彼女の前で大合唱をしました。その中心にいたのは、かつて、イアリオの前身であるアラルが愛した女性でした。ヴォーゼは彼らを統率していました。
 死んだ後に、あるいは死の瞬間に、人は様々なことを判ります。その瞬間こそ、その生がまとまるからです。多大な反省と認識とが起こり、自分の生が自分のものとして認められた時、あるいは幾多の行いを自分のものとして許した時、人ははじめて死ぬことが出来ます。本当の意味で死ぬまで、肉体の死後、人は囚われる時間があるのです。ヴォーゼはまだこの囚われの時間の中にいました。他の大勢の浮かばれぬ霊たちと共に。いいえ、実際は、囚われるのは反省の起きない思いであり、自分のものとされない、当人から離れたわだかまりでした。彼らの一部が残るのです。そして、彼らの本体は、繰り返し生まれ変わるのです。
 ヴォーゼの或る思いこそこの世に繋ぎ止められ、その思いは成仏できなくなったのです。それは恋人に裏切られたという記憶でした。複雑なアラルの死の死因は、その恋人にはオグに唆されたものとして認識されました。そうではありませんでした。アラルは自らの想いに囚われたからこそ死んでいました。この世に居残った前世の想いが今と融合し、そして死んだのです。サルバの霊こそ幻でした。彼女が相手にしたのは自分自身の思いでした。それが、彼女を強くし、彼女を恋人から遠ざけ、彼女に悪を働いたのです。彼女はどうしてもヴォーゼに甘えられなかったのです。人を好きになることをどうしても、恐れたのです。その身を裂く思いを彼女は自らつくり出し、本当に身を裂いたのです。
 しかし、ヴォーゼにもその要因はありました。彼女は愛を湯水のように人に手渡していました。彼女は人気のある女性でしたが、彼女の周りにつどう人々は、その明るさや、笑顔、振り撒く美貌に惹かれていました。彼女に悪評は付かず、皆が彼女を大切にしました。本人はそのつもりがなくても、彼女からは平等な愛が溢れてきて、それに触れた人々は満ち足りた思いになったのです。しかし彼女は、時に孤独に陥りました。その孤独にはアラルが寄り添いましたが、ヴォーゼは人に愛を渡しながら、人から別のものを戴いていました。それはそれぞれの人にある孤独でした。
 孤独とは、わだかまりでした。自分の中でわだかまる気持ちがあるからこそ、人は他人と自分との違いを思い、強く独りを感じるのです。そのような思いは、人から離れやすく、人を操ろうとすることがありました。その気持ちを、ずっと彼女は人から吸収していました。彼らは、彼女にその思いをこそ吸い取ってもらうことで、独りではないと思えました。自分を見守る存在がいることを感じられました。ヴォーゼは人から頼りにされて、人の中にある、独りの感情にずっと耳を傾けてき続けました。それで、彼女自身が強烈な孤独に襲われることがあったのです。彼女の傍には、アラルが寄り添いました。アラルは彼女にひとかたならぬ愛を向けていました。アラルは異性に興味が湧きませんでした。元々同性に性的な魅力を彼女は覚えていましたが、ヴォーゼほどの魅力的な女性には会わず、他の男性と同様に、いいえそれ以上に、彼女のすべてを欲しました。そして、自分が彼女と同性であることを恨みました。彼女の将来を考えれば、自分は身を引かなくてはならないと思い込みました。彼女は柔軟な未来を描けませんでした。ヴォーゼの方が、二人のあるべき関係性を、いかようにも受け入れることのできる資質がありました。
 二人は愛し合う運命でした。しかしヴォーゼはアラルを憎むようになってしまい、帰ってきた彼女に、「あなたを愛したくなかった」と言ってしまいました。ヴォーゼはアラルがオグと同化していなくなって、再び彼女には会えないだろうことを受け入れた時、その顔が強張りました。ヴォーゼは
 恋人を自ら手放したことを知りませんでした。恋人は強い覚悟を持って自分から離れたと思ったのです。それは違いました。彼女はアラルの何をどこまで知っていたのでしょうか。アラルが地下の亡霊に修業を積まされていたとはつゆ知らず、彼女が戦場に行くまで、人と殺し合いをするつもりでその肉体を鍛え上げていたことも知らなかったのです。彼女のありとあらゆる行為は、ヴォーゼにつながるもので、恋人への気持ちをそのように表し続けていたのに、ついには自分自身を憎むようになったのです。いいえ、愛を、悪に変えて。恋人に裏切られた…?彼女も彼女と同じように、自分自身を裏切ったのです。自分がアラルをどこまでも慕う気持ちを持っていることに、気づかなかったのです。それは執着でもなく、執念でもなく、真にアラルのことを想っているから出てくる反意なる思いなのです。その反意なる思いに
 ヴォーゼの一部は本人から切り離されました。しかし、彼女は、人々の孤独が分かる人間でした。本人から切り離された心は、アラルのようにはオグと同化しませんでした。オグはといえば、アラルと共にした結末だけで満腹になりました。もうその腹には何も入らなかったのです。ヴォーゼから切り離された魂は、その死後この世に囚われました。そして、エスタリアの町のすぐそばに聳える、山脈の頂の真上につどう、祖先の白霊たちに混じることになったのです。

 トクシュリル=ラベルには、愛する人がいませんでした。彼の心は、人から離れていきました。きっかけは彼が幼い頃、友達に裏切られてしまう目に遭ったことでしたが、もっと大きな傷口が、その同じところに空けられたのです。彼が地下街で遭遇した一件によって。その時、彼の場合、他の子供たちとは違う様相を見せていました。ショックなのは、死骸に抱きつかれたことではなく、自分が、あの街にリーダーとして子供たちを連れて行ったことでした。「僕じゃない…僕じゃない…」そうして責任逃れの呪文を、彼は彼に聞かせました。
 彼は自分を抱え切れませんでした。しかしそれは普通のことでした。自分のためにしたことのように彼はそれを思いませんでした。彼は脆弱でした。その精神が。見た目はとても、頼り甲斐があったのですが。
 この事実を一体どのように受け止めれば良かったのでしょうか。しかし、ラベルが求めようとしていた説明は、誰からもされなかったのです。暗黒の歴史は、当時の彼にはまだ秘密のヴェールで覆われるべしとされて、なおかつ彼の両親は、彼を放っておきました。それは、彼が頼り甲斐のある子どもだったからですが、何より彼から、求めることがなかったからです。彼は自分を放っておきました。いいえ、求める気持ちがあっても、それを披露できなかったのです。…その状態は、十五人の子供たち皆にも当てはまることでした。あの暗黒を、仲間内でも語り合うもできませんでしたし、大人たちがその場所を知っているということだけで、些かの安心を得られて、その些かの安心で安心しなければなりませんでした。しかし、本当はラベルは、頑なに自分の傷を守ろうとしたのかもしれません。それぞれが恐るべき体験でした。幼馴染に裏切られるのも、暗闇で無数の骨に出くわすのも。彼はなにか自分が透明であるような気がしました。内臓も骨も、透けた姿が、世界の前に晒されている気がしました。彼を隠すもの、守るものは何もないかのように。いいえ、そのように、感じただけでした。彼は、ただ存在していたのです。そうした自分を、感じていたのです。傷口に誰も何も塗らなかったから。それは開け放されて、癒されなかったから。
 自己愛の中心に彼はいました。だから、彼自ら望む破滅も、起こってきたのです。
 彼は、十五歳までの義務教育を終えて、教師の訓練を受けました。模擬教壇に立つと、彼は自分がまるごと晒されている気がしました。そうすると、彼の頭脳は明晰になり、たちまち優秀な教鞭をなぞりました。あまりに優秀なので、周囲の人々はさすがラベル夫婦の息子だと、彼を誉めました。彼の両親は、どちらも教師だったからです。
 ところが彼のその力は、心と体を分離したことによって発揮される力でした。なぜなら、彼は非常に健全な身体と精神を元から持っていたからです。人の進むべき方向、人が真に自分自身の能力を発揮する方法を、彼はよく知っていました。ですがその正しい知恵は、彼が向き合っていたもの、彼が負うことになった彼よりも巨大なものを、何かに還元することができませんでした。彼は向き合うものに注ぐべきパワーを自身の健全さが注げるものに費やしてしまったのです。こうした力の出方が、次第に彼の心身双方を蝕んでいきました。あるべきバランスが崩れてしまったのです。人は苦しむ時、いたずらに苦しむのではありません。そこにはパワーを費やしています。本来なら、何か別のものに、非常に健全なものに注ぐことのできたはずと思われるエネルギーを。苦しむことで、均衡を保つこともあるのです。彼は自分の生きる力をだんだんと磨耗させていきました。その生命力は、あと三年ともちませんでした。
 …このようなことを、町の人間が知りえたはずもありません。世界は身の回りで、ぐるぐると回転しているのです。当たり前のように、彼には棺が用意されて、墓穴の中に、納められました。しかし、十五人の子供たちは、このことに少なからずショックを覚えました。彼を慕ったマルセロ=テオラは、この死があまりに悲しいことのように思いました。十五人の子供たちはそれぞれになんとか事件の傷口を広げずにいました。しかし彼だけが自殺などしてしまいました。テオラはその時に怒りました。母親のような怒りをその身に覚えました。
「もう二度と…このようなことが起きてはならない」

 ピロットは、大勢の子供たちを連れて、彼らと約束をしたように、町の外に連れて行きました。すなわち、海の外へ。彼の小舟に乗せて、一回の航海では乗せられるのは少数でしたが、彼らに順番を待たせて。彼は繰り返し子供たちに外側の世界の快楽を教えました。彼には黄金がありました。その出所は、子供たちには教えませんでしたが、湯水のように溢れる彼の財産は、子分たちに十分遊ばせる余裕がありました。特に注力した遊びは娼館でした。彼は男の子たちしか連れて行きませんでした。彼には女の子を掌握するすべがありませんでした。外側の世界の人間を除いては。子供たちに教え込んだ女遊びは次第にエスカレートしていって、ついには殺人にまで漕ぎ着きました。彼はこれを、子供たちに遊びの範疇において教え込みました。外側の世界だからできることとして、町中ではできないこととして。子供たちはこれをよくわきまえました。ピロットは子供たちに現実は町の中にこそあるのだと教えました。町の外では何をやっても許されるが、そこはお前たちが暮らしていく場所ではないから、そこにどんな法律やルールがあっても、町ではやってはならないことを犯してもいい。町にさえ戻ればいいのだから、と。
 子供たちは大いに遊びました。しかし、彼らの心はだんだん憂鬱になっていきました。秘密はピロットに握られ、その秘密を誰にも漏らしていけないからです。外世界でいかに劇的な、強烈な刺激のある遊戯に触れても、その感想や、出来事を町の中では仲間にも話すことはできなかったのです。ですがそれは普通のことでした。誰にでもある、青年期の。誰にでもあることでしたが、ピロットのその誘惑は、その町が長年隠し続けてきた暗闇から発していました。町にだって誘惑はあります。性の争いがあります。間違ったことは起きます。殺人も時には。しかし大いなる間違いを犯すまいとする呪縛の精神がそこには満々と漂っていました。古くから決めた、大なるものに目を向けない、視線の逸らし方をこそこの町は持ち続け、維持してきました。ピロットはこの体制をこそ覆そうと企てました。犠牲になったのは子供たちでした。海外での経験は夢のごときものとして体験され続けてきたのです。現実ではないものとして、向き合う必要はまったくないものとして、経験させられたのです。誘惑は、憂鬱を生み出しました。ピロットはそれをも計算していました。どんなことが連れて行った子供たちに起こるか、彼は分かっていました。
 子供たちは、自殺したトクシュリル=ラベルのように、健全さと自悪との狭間で次第にバランスが取れなくなりました。彼らは町ではいたって健全な子供たちであり、何も間違いを犯す必要がありませんでした。なぜならそれは海外でいっぱい行っているからです。過ぎる程手を出しているからです。決して想像の中ではなく、歌や劇や本の中で芸術として味わうのでもなく、まさに肉体の体験として。ピロットが用意したステージに、彼らは立たされ振り回されました。ピロットはまったくよく子供たちをコントロールしました。町の中では一切外での遊びを口外しないように、徹底しました。ですが
 それはその町の大人たちがしていることであり、まさに自分の親たちがしていることを、彼らもしているだけでした。ピロットは、子供たちに自ら仲間を増やすように指示しました。あの、エンナルは特に彼から目を掛けられました。ピロットから、子供たちの誘い方を教えてもらい、自由自在に、誘った相手の心を掴むすべを心得させられました。こうして彼の自由にできる子供たちは増えていきました。

 彼は暗闇にいました。生まれた時からそこにいるようでした。それは、あのビトゥーシャと等しく共有する、なんとも理不尽な経緯でした。しかし彼と彼女とでは条件が違いました。彼は町にいたのです。その町に育てられたのです。ビトゥーシャは周りの人間にだけ育てられたようなところがありました。その土地に、世界に、社会にはぐくまれたという感触も意識も彼女の中には出来上がりませんでした。
 暗黒は、彼の町が、全体として抱える巨大な代物でした。皆が、この闇を意識し、生活をしながらそれがそばにあることを、ずっと許しながら生きていたのです。彼らは確かにそれから目を逸らし続けました。ですが、そのそばを離れませんでした。彼らは長らく苦しみ続けたのです。その苦しみこそ、本当は彼が気づいたことでした。そして、その苦しみは、あるいは暗黒が自分のそばにずっといるということは、世界中が共有する事実でした。彼は世界を経巡り堪らなくなったのです。どうしてそのことに町の人間は気づいていないのか。
 彼は自分が町のために動いていたとは思いませんでした。彼はただ、この町を解放してあげたく思いました。彼はどんなにかこの町が体制を維持し続けてきて、平安を勝ち得てき続けたか、おのずとわかりました。盗賊どもを殺し、その盗賊どもの仲間だと思い自分を追いかけてきた大人たちの必死の形相を見て、彼はあの町のかたちがどんな力によって支えられて(蔑まれて)きたか思い知らされたのです。ちっぽけな、閉ざされてしまった土地で、彼らはそれを繰り返してきたのに、未だ気づかない本当のチャレンジを、未だにものにしていないことに彼は我慢ができなくなったのです。解放は望みではありませんでした。解放はこの町が自然と向かう行き先でした。この町ほど暗がりが身の傍にあり、人がそれと交流をし続けた土地はありませんでした。彼は、ずっと暗黒と付き合い続けてきました。町の中にいた時も、町から外へ出て行った時も。人からはみ出す力、人を支配する力、人を攻撃する力、人を狂わせる力と。海の外で、殊更それに触れたからこそ、この町の現実が堪えられぬものになったのです。ここへ、戻らなければならなくなったのです。しかし、彼は彼を突き動かす衝動が、どこから来るものなのかは判りませんでした。彼は、無意識に自分を動かし、彼が意識するものも、その無意識から迸る切れぎれの断片でした。
 彼もまた、町に動かされていたのです。テオルドや、イアリオと同じように。
(アイして、アイして、俺をアイして。どうして誰もいないの?皆俺から離れていくの?どうして?どうして?アイ、アイ…ああ、ルイーズ、苦しい、助けて!ルイーズ、ルイー…ズ?誰だ、それは?一体、誰の名前なんだ?)
 彼は、トラエルの町の地下で時々我を失うことがありました。茫然として、夢遊病者となって、あちこちを出歩きました。彼がそんな状態になったのは、彼が、彼だけに突き動かされていたのではなかったからです。彼は海外に出て、あのビトゥーシャと契約を交わした時、自分の一部を忘れてしまいました。町で起きた大事なことを、彼は見失いました。
 彼は名前を交換していました。つまり、彼の名前を相手に、相手の名前を自分に、贈り合っていたのです。彼は、ビトゥーシャにも自分の名前を贈っていました。そして彼女からは、それが本名かどうか分からない名前を寄越されました。ビトゥーシャは、図らずも彼の一部を掌握し、彼を思い通りにすることができました。彼を息子のごとく育て上げ、彼の成長ぶりに目を細められたのは、彼の本当の名を預けられたからです。もし、彼が嘘の名前を彼女に伝えていれば、彼は今よりもずっと彼女から自由であって、おそらく町からも、何からも束縛を受けず過ごせたはずでした。それだけ彼は、自分の名前が、大事なものであることを自覚していました。それは、彼が誰かと名前を交換し合ったからです。
 その習慣はずっとあの町に保存されてきたものでした。名前の交換は、他の土地でも、他の言語の圏内でも見られた文化でしたが、あの町では、海賊たちや戦士らの支配にあった頃はない習慣でした。当時は名前はあまり意味を持たず、従属関係こそ人を人たらしめる意味だったのです。そこからの解放は、多分に名前を大事にされる経験となりました。一人一人が、それぞれの役割を果たさねば、この町を維持し隠していく力にはならなかったからです。それぞれが、滅びの街の暗闇を恐れなければ、残された黄金を隠し通していく覚悟を持たなければ、かの滅びは克服されず、皆が生きていく力にならなかったのです。彼らにとって、名渡しの儀式は、強い絆を結び合う覚悟の表明でした。
 名前は、その人と一つになりました。彼は、強い絆を誰かと結んだのです。それなのに、唯一つと思われる彼の名は、海の外に出て、別の人間にも与えられたのです。当然彼はその誰かを忘れなければなりませんでした。しかし、その誰かはそこにいました。彼が帰ってきた、白き町に。
 彼は、その誰かと交換し合った名前をかろうじて覚えていました。ですが、その名が誰のものなのかを忘れてしまいました。そして、その誰かに自分の名前を預けていたことも、忘れてしまいました。彼は何のために、その誰かと儀式をしたのでしょうか?暗闇を抜けて、彼女が、彼のことが好きだとわかって、彼女がそれを望んだのです。その意図を、甘い気持ちを、誠実な感情を、彼は十分判っていました。なぜならその儀式を試みたのは、それが二度目だったからです。彼は、この町に育てられていました。彼は、その誰かにも育てられていました。誰かはずっと彼のことを見ていました。彼のことが好きでした。彼のことがよく分かっていました。しかし彼はその町を出て行かなければなりませんでした。まるでその町のすべてを否定するために。その町を愛するために、全力で、その町が抱えるすべてを壊していくために。彼はわかっていました。この町が、どのように進んでいくべきか。自らを否定して、自らを肯定するために、どのような方角へと足を運んでいくべきかを。彼は、まるでルイーズ=イアリオそのものでした。成人した彼女が進んで行く方角を、前もって彼が進んでいるようでした。
 そのような彼もいたのです。どれだけ忘れようとも、彼の衝動に、それは混ざっていました。彼が愛された記憶、彼そのものが肯定された事実が。彼は
 本能でルイーズに助けを求めました。彼は恐ろしく堪らない思いをしていました。彼がものにしたはずの人間の悪は、彼など超えていたからです。もっと大きな、巨大な、人間を支配するものとしてそこに君臨するものだったのです。それを彼はよくわかっていました。この町にいて、この町に追われて、この町に帰ってきて。それを彼が犯す場合は自由だったのです。それは自由に彼の手から生み出されたのです。そして、次々に誰かの手に渡っていったのです。それは喜悦でした。心ゆくまでの満足を生みました。しかしその悪は残り続けました。悪が、人間から離れて、再度人間を誘惑しようと、人間を支配しようと、そのためだけに、そこに留まり続けました。彼が最初に触れたこがねはその意味がありました。こがねの下には、無数の亡き骸が、子孫たちに見向きもされずそのまま残されていたのです。そして、子孫たちもまた、その苦しみに囚われ続けていました。今も、黄金は彼らを縛りつける、無意識の恐れを持たせる悪の誘惑を放ち続けていました。
 彼はこの悪に怒りを覚えました。だから、彼は上の町を支配しなければならない、自分があの町の人間を解放してやらなければいけない、などと思ったのです。しかしこの町の悪は途方もない歴史をつくり出していました。何十万もの人間の犠牲がこの町には降ったか。滅びの瞬間のみならず、ここで生きた人間のすべてが、この町の未だ残り続ける悪に、呑まれてきたか。その悪は昔に生まれ、今も人を呑み込み続けることを、彼は身を持って知りました。そのような悪そのものと向き合った時、悪を生み出す人としての自覚を確固たるものにした彼は、自分が悪それ自体をどうにもできないこともまた確かめたのです。その恐ろしさは
 あのアラルと
 まったく同じ感覚でした。そしてまた、そのような悪は、愛とも置き換わるものでした。愛もまた、それ自体をどうにもできないものでした。愛の扱いを未だ人間は知りませんでした。それは、自ずと溢れ、人間が知らないうちに、広がるものだったからです。愛のために苦しみ(悪のために苦しみ)、それがあるから人は人をよく知るのです。ピロットはここにいました。彼は悪と愛の両極にいました。悪と愛は同じ意味を持ちました。どちらも彼が人間に関わり合う仕草でした。

 その穴は、誰が空けたかはわかりません。多分、ピロットもイラも、その穴は空けていないでしょう。子供たちが、その十年前と同じように、その穴から入って暗がりを遊び場にしました。大人たちはこれに気づき、何とかして、子供たちを追い出そうとしました。
 イアリオは十年前の始末を付けるようにと、その追い出しに借り出されました。彼女は、白い衣装に身を包み、彼女の前世と同じ姿をして、子供たちを追い払うべく、亡霊のふりをしました。
 ピロットが、意識を失ってそこに立ち止まっていました。彼は、悪と愛のどちらに自分が傾いて動いているか、わからないような時に、自失して出歩きました。
 一人の少年が、彼を発見しました。その少年は、まだ彼や彼の子分たちに誘惑されていない、太鼓の音とあの女幽霊に脅かされて逃げ出した子供たちのうちの一人でした。少年は驚いて、この男も幽霊の仲間かと思いました。男はトラエルの町では見かけない上着とパンツも着ていたのです。しかし、男がなんだかうわ言を発していて、疲れ切っているように見えて、トラエルの町の人間以外とは話してはならないという約束事よりも、男への心配と不安の方が勝りました。「大丈夫?」少年は彼に声を掛けました。
「ああ、俺は…まずい、早く家に帰らなくちゃ。おい、お前、すぐに帰るって、俺のお袋に伝えといてくれないか?」
 ピロットは自分がイニシアチブを取らない関係となった少年に、自分の子供時代を思い出しました。
「誰?何て名前なの?」
 少年は訊きました。彼に名前を尋ねてはなりませんでした。
「俺は…そう、俺は…ルイーズ=イアリオ…」
「…?女の子みたいな名前だね」
 彼はまた思い出しました。彼は喘ぎました。身を切るほどの冷たさと怖さを思い出しました。胃の中から喉に入れたものが出てきそうでした。
「ルイーズに言っておいてもいい。もし、お前が彼女を知っているなら。もう行けよ。俺はすぐに帰るから」
 その後も少年は彼を心配しましたが、大丈夫だと彼は突っぱねました。そうして行ってしまった少年を、イアリオは目撃していました。虚ろな、なまなましい驚きにあった気分が、その表情にありました。彼女は彼の表情が忘れられませんでした。この街に、彼女たちの知らないものがまた紛れ込んでしまったのではという、疑念を彼女は持たざるをえなくなりました。彼女は誰かの視線を感じました。しかしその視線は思い出したピロットが放ったものではありませんでした。
 静かに、再び動き出した霧の魔物こそ、その視線の正体でした。
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