第6話 喜びの気色(けしき)

文字数 21,089文字

 芸術は、どこの国にも時代にもあるものです。人々の暮らしの中で、それはきっと力を持ちます。芸術にも様々な顔があるでしょう。音楽、教育、絵画、彫刻、演劇、剣戟、生活の中にも、会話される言葉の中にも。
 ハルロス=テオルドにとって、それは言語でした。彼はさまざまな国の言葉を知りました。彼の能力は役に立ちました。彼は有能な官僚になれる逸材でしたが、父親の背中を追って、強い兵士になりました。その頃、戦士たちは海賊貴族どもを追い払って、港町を我が物にしておりました。
 ある時、ハルロスは父親からこんなことを聞きました。この街はいつか滅びるかもしれない。私の力では、どうにも抑えがたいのだ。他の土地へ移住した方がまだましかもしれぬから、お前はそれができる場所の候補を挙げておいてくれないか。…新しい都の候補地を挙げる間もなく、国はがらがらと落ちましたが、ハルロスだけは、戦士たちの中で生き残りました。
 海賊どもが追われてから、戦士たちは、彼らの思うがまま、他国侵略を繰り返していました。彼らの手には圧倒的な財力があり、それを武器に、連戦連勝の戦闘を繰り広げました。
 一方で彼らの都には不穏な空気が漂い始めていました。それは、市民たちが圧制を逃れたことをいいことに、秩序だった生活も無視して奔放に振舞い出したことが原因でした。奴隷たちの中にも主人の支配を逃れたり、海外への脱出を試みたりする者が現れました。
 その頃市民たちは飢える心配はありませんでした。元々海賊どもに連れてこられた者たちは、戦える者以外は、建築士や大工、道化、音楽家やコックといった人々で、農作業に従事する人間は一人もいませんでしたが、食料は他国から買い入れていたのです。ところが支配者が変わって、彼らは自分たちの身の処し方に迷い混乱しました。彼らは海賊たちのためにここに来ていたからです。さて、そんな時人々はどのような行為に出るものなのでしょうか。この暗い都市で行われたことは、横暴な欲求の発散でした。地上に出ればその後三百年も町人たちを養った肥沃な土地があるのですが、その価値をわからない人々は食欲以外の欲求を貪ろうと、純粋にそれに従ったのです。例えば、自分より良い楽器を、自分より良い道具を求め、今いるところよりも良い住居、良い活動のできる場所を欲しがり、良い相手、良い恋人、良い妻、良い友人を選び出しました。
 連れてこられ、主人のためだけに奉仕を要求され続けてきた彼らは、隣人関係も主人を通じて結んでいました。強力な支配者がいなくなって、彼らの一人一人が、互いの関係を構築していくことはできませんでした。まとめる者はいませんでした。戦士たちは皆内政に弱く、彼ら自身他国征服を夢見る者ばかりでしたので、そんなことは二の次だったのです。ただし、国の代表者ともなる者はそうはいきませんでした。戦士たちの代表には目に見えて国が荒れていく様子が内憂として映っていたのでした。
 彼こそハルロスの父、ムジクンド=テオルドという、各国の歴史書にも載るほどの勇者でした。彼は息子にも話した憂患を抱いていました。彼自身の手ではとても解決の糸口が見えず、ただ大きな流れに流されている有様でした。大きな流れというのは、市民だけならず、兵士たちまでも、秩序を逃れた個々の欲望に忠実になり出したのです。海賊たちからこの都を奪った当初こそ、兵士たちは近隣国家の征服に一致団結して乗り出していましたが、手元に依然莫大な財宝が遺されたままであることがその目をだんだんと眩ませていったのです。大なる野心よりも小なる野心が疼き、その疼きに従った心弱き戦士たちは、幹部の中にもいました。ムジクンド=テオルドにとって粛清は彼の強権を増大させるにすぎない手段で、彼の理想とはほど遠いやり方でした。彼は何より海賊のやり方を嫌っていましたので、小富をいただきに作為する者たちの行動は放っておきました。その時からもうすでに、彼の手に負えるような時勢の移ろいではなくなっていました。市民にも戦士にも、唆す者が、煽る者がいました。
 彼らはまるで行動にこそ意味をもたらしている様子でした。奪うこと、騙すこと、罵ること、海賊どもが彼らに嫌というほど見せつけた行いを、彼らはそのまま真似しました。海賊時代にはともかくも国として一致していた人々の意思は、どこへやら、その意思は完全に一人びとりの個人へと還ってしまいました。まるで赤ん坊のように貪り、人々は悪を望み出しました。親などはどこにもいないのです。
 こうしたさなか、一人の人間が、物議を醸す騒動を起こしました。彼は幾許も主権のない奴隷でした。海外から連れてこられ、そのまま見世物になった男でした。体躯はびっくりするほど大柄で、あちこちぼこぼこと膨らんだ顔面は、恐ろしさより滑稽さをもたらしていました。しかし筋肉は隆々として触れれば岩のように固く、人々に、様々な妄想を抱かせる危険な香りを漂わせていました。彼らはこの男を檻の中に閉じ込め、外側から眺めることで、満足しました。慰められる思いもしました。
 この男…セバレルと申す異国の人間は、故郷でもその姿のために虐められており、人買いから、海賊が手に入れたのでした。しかし彼は、戦士たちの下克上に遭って檻から放たれました。戦う人間にとってその体は素晴らしく、何よりも優れた戦力になることを認めたからでした。セバレルは戦場で大活躍をしました…このことが物議の要因となったのです。
 活躍を認められた兵士たちには各々褒章が与えられました。セバレルはその中でも目覚しい働きを遂げたので、彼にも栄誉を授けられることになりました。その時、反対する兵士がいました。まだ若者の戦士で、自信過剰なところがあり、なにより愛国心が溢れていました。(すでに個々の欲望が隆起し始めている環境でしたが、彼はまだその毒息にあてられていませんでした。)若者はセバレルに一騎打ちを望みました。周りの人間が囃し立てました。セバレルはそれを受けて立ちました。結果は、無残にも若者の惨敗でした。しかも、その死に様は激しく、大男の攻撃は、彼の骨も砕き顔面など跡形もなく破壊してしまいました。
 途端、辺りに戦慄が走りました。この男を自分たちの仲間にしておいてもいいのだろうかという疑念が生まれたのです。大男の唇はきつと結ばれ、その眼窩の奥の瞳がたたえる色は揺らがず、まるで考えの読めない相貌は、急に不安をかきたてるものとなりました。戦士たちが色めき立ちました。この野性的な獣そのものとも思われる人間を放っておいてはならないと言い出したのです。セバレルはじっと人々を睨み、彼の武器である槍を置いて、一喝し、声高に物言いました。
「それが我々の望みなら、私は受けよう。何びともかかるがいい」
 それを合図にして一斉に、血気盛んな人間たちが、彼に打って踊りかかりました。予期せぬ戦場は…激しく切り結ばれ、遂に、セバレルはその場にいた人間を全滅させました。その場に駆けつけた幹部たちは、あまりの惨状に恐れをなしましたが、一人、戦士長ムジクンド=テオルドは真っ向からこの事実を受け止め、この有様をどのように処理するか、幹部らと静かに言葉を交わしました。彼らは全員、セバレルの力を褒め称えました。そして、今後も国家の貴重な戦力として活躍し続けるよう、彼に特別の栄誉を与えました。
 しかし小心者たちは何とかしてセバレルの力を我が物にできないかと考えました。戦士長以下縦割りの仕組みを確立してきたはずの国の軍隊は、それほど厳格な規律を敷いて、統率を堅固なものにはしていませんでした。セバレルの圧倒的な力と技を見て、幹部たちは彼こそ仲間にしてしまえば恐れなくて済む、と考えたのです。ですがその恐れがどこからやって来るのか、彼らは気がつきませんでした。いつのまにか、取り憑かれた不安は、その正体こそ国家をばらばらに解いていく個々の暴力的な欲動だったのです。セバレルの力はある幹部に預けられ、他の幹部は、それに対抗できるだけの戦力を欲しました。
 そのために、ますます手元に自分だけの財産が必要なように感じました。黄金は、国預かりのものです。みだりに使うことはできませんが、国庫を管理するのは人です。人々はそれの奪い合いを始めました。結果として、このことは彼らの外征の進撃を押し進め、ますます彼らを強国にしていく要因になったのですが、まるで市民たち同様海賊のやり方を真似るようなことをしていることに、戦士たちは気づきませんでした。
 ところで、戦士長ムジクンドは、セバレルと若い戦士たちの一件のあと、セバレルにこう尋ねたことがあります。ムジクンドは異常な力の強大な戦士の前で、剣を引き抜き、ぎらりと刃を閃かせました。
「此度は一体、なぜこのような場にいらっしゃるか。あなたほどの武人、おそらくは我が国などには恐れ多いほどの富をもたらすことになるでしょう。しかし、私の見るところ、両刃の剣のように、その力、手に余るほどのものです。返す刀が我が膝元を打つかのようです。私は立ち上がれないほどの傷を自分にもうけかねない。あなたの力は神のごときものだ。そうでなければ鬼神、いや、悪魔にも等しい。あなたは何者ですか。どうか私に教えてください」
 世界征服の夢を見ていればこそ、武人たちは実力を発揮し、連戦連勝を手にできる。ムジクンドはこのように考えていました。しかし、夢を見る力は強くも、それを維持するためには様々な努力が必要です。夢のためには、足元を力強くすることが大切なのですが。彼らは輝かしい未来ばかりを所望していたのです。けれど、その足元の地面は実は大変脆いのではないか?戦士長は思いました。今の故郷はどこにある?我々の心の中にはない。我々はもはや故郷を持っていない。我々はただ、この街に連れてこられた奴隷なのだ。我々の街は、我々に何を提供してくれる?
 彼一人がその街を客観的に見下ろせたのかもしれません。そしてムジクンドには目の前の大男が破壊の神のように感じられました。
「我々はどうなるのですか?」ムジクンドはまた彼に尋ねました。「沈黙を守るというのならば、やはりあなたは神だ。我らの元に、なんらかの目的で遣わされたのでしょう」
 その言い方は彼が信仰の厚い民族の出身だったからかもしれません。
「あなた方が、それを選んだからだ」
 セバレルはゆっくりと答えました。
「それはあなた方の望みと等しい。私にはそのように思われる。そして、私は何者か、あなたと同様、私も知らない。もし私が神というならば、あなたも同じく神なのだ」
「えっ」戦士長が訊き返しました。
「我らは皆我らの神だ。そうではないか?」
 セバレルによれば、各人の神は各人に潜むといった思考だったのでしょう。汎神論的なものの考えを彼はしていたのです。一人ずつに神は棲み、その神がその人間の行く末を見守っていると。戦士長はこの言葉を聞いてすぐには意味を呑み込めませんでした。ですが、その言葉はムジクンドの心臓をどくどくと脈打たせ、彼の何かを打ち砕きました。彼と彼らが望んだ途方もない夢が、大波となって、彼らそのものを呑み込んでいくような心地を味わったのです。
「あなたがそう望んだのだ。私がここにいることの理由は、それだ。そして、それは私も望んだことだったのだ」
 セバレルはこのように言いました。

 そののち、都には血の雨が降りました。戦士同士が殺し合うようになり、都での利権を主張し始めたのです。それは欲望がエスカレートした上での出来事でした。彼らは外側に自分たちの主張できる武力でもって華々しくいくさを仕掛けていたはずが、もはや目的は世界制覇などではなく、自分たちの膝元にある黄金をこそ、欲しいものとして認めました。外国を支配してもたらされる富よりも、そこにあるものの方が膨大だったのです。つまり、彼らの軍事力は彼らの勇猛さによるものではなく、そこにある莫大な富によるものだったのです。都にある黄金をものにすることができれば、世界中を支配できるのだ、そう彼らは考えました。それはいかにも実際とは違うものの考え方でした。ですがこのおかしな思考を誰も指摘せず、見咎めず、事態は急速に悪い方へと流れていったのです。ムジクンドは自分の未熟さ、ふがいなさを目の当たりにしました。彼の愛するものは自分の家族だけに限り、この街を、戦士たちのつながりを、市民を、ここでの生活を、愛でる感情は一切湧き上がりませんでした。
 いずれ市民にもこの戦闘の波が押し寄せたとき、彼は自分の息子を襲いました。その目的は、自分の息子を助けるためでした。息子は知らぬ間に滅びの街を生き延びました。ですが、ハルロスは、滅びの瞬間を確かに目にしていました。
 黒表紙の日記帳の著者ハルロスは、某邸のバルコニーの積み上げられた荷物の隙間に詰められていました。そこから覗く、地上の様子は、もうすでに血の降りしきった後の、惨澹たる有様でした。それでもなお、人々は互いに打ってかかり、その様子も、疲弊しきった両腕がまるで相手を抱きかかえるようにして、武器を振り下ろしていたのです。愛情か、憎しみか、彼らの動機はわからないものでした。ただ目の前の相手を滅ぼそうと――それは一体何のためか――怯えきった目の色とそれでいてばら色に染まった頬と肌が、ハルロスの目には印象深く強く焼きつきました。両者は相打ちになり、絶命し、斃れました。まるで愛するように組み合って、二人の人間は、死んだ後キスを交わしたのでした。
 石窟の都にまだいる者の中で、彼だけが生き残っていました。バルコニーから下りると、しんとした世界が、闇の中広がっていました。常にぼうぼうと燃え盛っていた灯火は尽き、ぷすぷすとあちこちで焼け焦げたあとの煙がくすぶり、暗がりを曇らせていました。まだ、この時は海の方角は壁に塞がれておらず、水平に光が伸びていましたが、当たりは影に沈み、ぼんやりとしていました。戦士長の息子は、ただただ戦慄をもってこの景色に向かい合い、一体街に何が起きたのか、茫然として考えました。ぴくぴくと震える眉の、下の両目をかっと見開き、強い意志でこれに臨もうとした時、彼は父の言葉を思い出しました。自分の力ではどうにも抑えがたいのは、この国が、自ずから滅びに向かっているかもしれないということだ…。
 それならばこの国はどうして滅びなど望んだのだろう。彼にはとてもわからぬことでしたが、先ほど見た、愛し合うようにして滅んだ二人の人間の有様を、まざまざと瞼の裏に思い描きました。そして言いました。
「まずは、人々を、ちゃんとした場所に葬らなくてはならないな」
 彼は一人きり墓を作りにかかりました。膨大な数の人々を城の庭にまず集め、それから、燃える物を探し出し、火葬を始めたのでした。
 それと同じ頃、残虐な殺し合いから逃れえた人々が都街に戻ってきました。彼らはおかしくなった人間たちを一心に押しのけ石窟から地上に逃れていたのです。しかし、逃げ延びた連中は、決してまともな精神を維持していたのではありません。同様におかしくなりながら、戦うことではなく逃げることを選択したのです。彼らは笑いました。逃げおおせた青空の下で、ひっきりなしに喉を上げ、恐ろしくないように、恐怖を克服するがために笑いました。下では若者が隣に住む老婆を犯し、女性が刃物を持ち狂い、赤ん坊は引きずり出されて殺される、その場の不自然な快楽にすべての人間が耽溺していました。光るものを目にすればふらふらとそちらに行き、誰かがそれを手に入れようとしていればそれを打ちのめそうと走り出す。自分のものとなった宝石は、たちまち誰か他の人間の目にするところとなり、それを守るために、命を懸けて戦わねばならない。そのようなことが、繰り返しどこでも行われたのです。彼らの快楽は暴力が基準でした。それまで押さえつけられてきた怒りと憎しみが(それでも暴力的な主人がいる時ではまだ自分にも他人にも秩序立って接することができた)、一気に暴発し、人々の行為をその方面に誘ったのです。
 恐慌が過ぎて、雲の下次々と我に返り始めた人々にとって、彼らを襲った言い知れぬ現実は、まるで魔物の通り過ぎたあとのようにぼんやりとして実感がありませんでした。彼らは泣き腫らした後のように、ぼうっとしたまま都に戻りました。そこにはありえないほどの大量の死骸が打ち捨てられていました。今までのそれが現実であったことが、戻った人々にまざまざと実感され、戦慄以上の恐怖を覚えさせました。その恐怖は神への畏れに非常に近かったでしょう。彼らがもし何か信仰を持っていたら、おそらくは、この出来事はまがまがしい想像の悪神を誕生させて、奉り祭りを行ったかもしれません。しかし彼らにそのような概念はありませんでした。
 街に食料はたっぷり残されていました。彼らはそれを確かめました。生き延びた人間だけでここで生活していくことは可能でした。
 しかし彼らはこう考えました。我々は戦うことのできる者ではない。我々は市民であり、かつあの惨状を逃げ延びた、精神が駆逐された者たちだ。とても黄金など抱えて、異国と交易などできないだろう。まして、ここにある富を、異国から狙われでもしたら…誰からともなく、しかし、皆がそろって、この街を封じよう、どこからも見られぬようにしてしまわなければならないと、叫び出しました。人々は黙々と仕事を始めました。遺骸の匂いは厄介でしたが、死者には見向きもせずに、近くの岩山から、もしくは石造りの建物から切り出した石を運び、港湾の出入り口から塞ぎにかかろうとしました。彼らの努力あって(その努力も凄まじいものだった)、海の外からはここに港湾都市があったなど思われないよう工夫された岩垣が、ひと月もたたないうちにすっぽり外面を覆いました。
 人形のような可憐な風貌の少女が、人々に混じって働いていました。彼女は奴隷の娘でしたが、その器量を買われて楽師の従者になっていました。彼女が踊れば楽曲が映え、彼女が歌えば慰みも倍になりました。名前をイラといいました。少女のイラは、人々が、作業に従事している間、気になることがありました。彼女は食料の運搬も手伝っていましたが、密かに食べ物が盗み出されたような跡があったのです。食料庫に保存されているものは監視者も立てず彼らは日に必要なものだけ、しかし決まった時刻に、人数分まとめて出していました。保存食は非常に十分にあり、誰かが盗み食いしたとしても大したことにはならなかったのですが、イラは一体何者が勝手に持ち出しているのか、調べようと彼女の担当する倉庫を見張ってみました。すると、武士の風貌をした無骨な男が、毎夜密かにそこを出入りしていました。彼女は男を追いかけ、何者か窺いました。しかし火のない暗闇の中で、いずれ彼女は迷子になりました。そのまま眠ってしまい、朝になり、ぱちぱちと爆ぜる薪の音に目を覚ましてみると、彼女は、すぐそばに人間の死体が無数に転がっているのを見ました。びっくりして小さく叫ぶと、うず高く積み上げられた死者の山裾から、男の顔が覗きました。彼は、驚いた表情でこちらを眺めました。
「気づかれないように行動していたつもりだが」男は静かに言いました。「やはり、うまくはいかないな。さて、私をどうするつもりだろう?」
 彼の声は、イラにとって、海の底からうねるようにたゆたう響きがありました。彼女はどぎまぎして、こう答えました。
「この場所に、鳩の飾り物の付いた時計はありませんか?私はそれを探しに来たんです」
 彼女は一度だけ海賊貴族の持つその時計を見かけていました。彼女が慌てて言ったにすぎないことに、男はくすっと笑い、「これかい?」と時計を差し出しました。
 イラは、時計を受け取り、静かに相手を眺めました。男は言葉を続けました。
「私は彼らを供養しているのだ。地上には逃げ延びた人々がいて、彼らの作業も何をしているのか知っているがね。だが、どうやら死者たちを葬るつもりはないらしい。彼らは巨大な壁を造ったね。外から見えなくするように。それはそれでいい。彼らの気持ちも私にはわかるよ」
 不思議な水のような声が、イラの全身を打ちました。見るからに戦士であるこの男は、たった一人で、死者たちの葬儀を行おうとしていることがわかりました。地上に逃れた人々は、まず我が身を守るためにそうではない行いを選択したにもかかわらず。
 イラは感動してものが言えませんでした。彼女は幾度も自分の唇を動かしました。何か言いたかったのです。その感動を伝えたくて。
「いいかい?」凪いだ海のような口調で兵士は言いました。
「私は私の分だけの糧秣があればいい。それは私にも配られる正当な理由があるからだ。いいかい?この場所は私一人だけに開かれているのではない。私たちのいる所は、おしなべてすべての人間に開かれているのだ。この場所が、一体どんな所だったのか、君にもわかるだろう。すっかり壊滅したものの、それより前は、活気ある我らの故郷だった。人々の心は荒み、その結果、果てしなく陰惨たる結末を迎えるも、実は、魂はまだ生きているのだよ。我々の中に。君も、感じないか?」
 兵士は考え考え言葉を継ぎました。たどたどしい文脈は少女を混乱させましたが、海のように深い彼の声音がある一つの心の場所に、彼女を連れていきました。
 そこは、静かに、命たゆたう魂のふるさとでした。死んだ人間の帰る場所、そこから人が生まれる広場でした。彼は、こう言いたかったのです。またここから、命は始まる。その生命は、きっと地上の人間たちの間に広がっていくだろう。心を癒すために、彼らの今の作業は大切だ。しかし自分のしていることも、また同じくらい大切だ。なぜなら死者の魂が、廻り廻ってまた地上に現れるのだから。その霊魂は新しい命となって、彼らを同じように慰める。私のしていることは、こうした意味があると、彼は口下手に言うのです。
 優れた思想は綺麗な言葉に乗せられませんでした。しかし、少女にはその真理がわかりました。
「あなたの名前は何ですか?」イラは彼に訊きました。
「ハルロスだ。ハルロス=テオルド。君は?」
「私は…」
 自分の名前を言いかけて、彼女ははっとしました。目の前にいるこの男は、大戦士の、滅びる前のこの国の統括者であるムジクンド=テオルドの息子だったのです。彼女はそっと唾を呑みました。彼が生きているともし皆が知れば、きっと、人々は彼を生かしておくはずがないと思ったのです。なぜなら、彼らは都の滅亡の理由を、戦士たちの反乱によって引き起こされたものだと思っているからです。治安が悪化し、人々が己の欲望をいや増しに増大させたのは、彼らの統治能力が弱々しかったために、生じたものだと考えたのです。また、人々は自分たちに戦力が無いと思っています。もし戦士である彼が、生き残った人々の統治者になろうとすれば。彼らはそれを避けられないと考えるでしょう。
 そうならないために、人々はこぞって、彼の命を奪おうとするだろう。イラの目には涙が浮かびました。
「どうしたのだ?」ハルロスは優しく訊きました。
「どうして…どうして生き残ったのですか?」
「えっ」
「それなら私は…こうなる前にあなたにお会いしたかった」
 自分の憧憬と恋の行き先が再びの破滅を用意していることを、彼女はわかりました。しかし、どうにもなりませんでした。彼女は自分の名を彼に伝えねばならなかったのです。
「イラです」
「イラ…」
 そうしなければ、何も始まらないのですから。

 彼らは十ほど年齢が違いました。ハルロスは、聞けばそれまで女性とは付き合ったことがないと言いました。彼には趣味がありました。他国の言語を解するということ、それぞれの文化に触れるということ…彼だけが、どうやらこの国ではそうした趣向を持っていたらしく、誰も理解者がいなかったと彼はこぼしました。ハルロスは、いずれ自分一人だけで他国に渡り、各々の文化を見て聞いて、感じたいと訴えました。国は滅びてしまったのだから、死者たちを慰めるべく弔う他に、こうしたことを夢見ているのだと言いました。イラはうっとりとその話を聞きました。ああ、海の外など彼女は考えたことがありません!彼女の一生はこの街で潰えると思い込んでいましたから!膨大な未来が途端に開け、目の前にはいくつもの可能性が広がっているかもしれないと、彼女はハルロスの話を聞いて思いました。私にも、私にもそんな夢が見られるのだろうか…?この人と一緒に、この街をあとにして。例えば私の好きな歌を、歌いながら気ままに過ごすことが、できるのだろうか…?
 望みは半分だけ叶えられました。彼らはある秘密の入り江に小舟を見つけたのです。他の舟は、生き延びた人々にすべて取り壊されていました。何より木材が大量に必要でしたし、海の外へ出て行くことも、外から入ってくることも、同時に拒まれたからです。彼らは海岸にたくさんの暗礁をこしらえました。何人も界隈に近づけまいと、臆病に、いくつもの方策を講じたのです。ですから運良く出来合いの舟を見つけることのできた二人は、飛び上がるほど喜びました。けれどもそれは見るからに一人用の小さな舟でした。
 ハルロスは死者たちの弔いに一つの区切りを設けました。始めの頃こそすべての人間を火葬しようと死体と木材を集め回っていたのが、どちらも無理があるとわかって、戦場における戦死者に向けた祈りと祭儀をだけ行うように務めていたのですが、それを六十日間続けると決めたのです。彼は、その祈りと祭儀を手伝った経験がありました。旗を立て、それを魂蔵(たまくら)と見立て、霊魂をそれにつどわせ、生き残った者たちと死者たちの霊が共に酒を酌み交わすといったものです。その旗の下には死者たちの装飾品が集められました。彼らの身につけていたものが彼らの魂を呼ぶと考え、イラに見せたあの時計も、そのうちの一つでした。
 日が経ち、彼はイラに外海へいよいよ向かう旨を伝えました。イラは、胸を押しつぶされるほどの不安に苛まれつつも、彼を外へ送り出しました。彼は、意気揚々と海へ乗り出していきました…。
 ハルロスには気になることがありました。彼の母国の滅亡が、今、どのように伝わっているだろうかということです。事に依れば、彼のふるさとは、すぐにも攻められて滅ぼされてしまうかもしれません。亡国には、まだ、貴重な黄金が数多く眠っていたのですから。しかしハルロスは訪れた国々で、そう大して彼の母国が噂にも上っていないことを確認しました。彼らが支配下に置いた町は、逗留者がちゃんと政治と治安を行っており、何不自由なく故郷からの連絡もないことを不思議にも思いませんでした。(外国では彼らはきちんとした統治を行っていました。それは各国に押しつける政治上のルールも流儀もないからで、支配権だけがあったからです。)まもなく、彼らは後ろ盾が存在していないことに気づき、慌てふためいてその場から逃げ出すかもしれません。ハルロスは、各地に散らばる亡国の戦士たちをどうすることもできないと諦めました。彼らが一念発起してふるさとへと戻ろうとも、それを拒むことはできません。そして、彼らがふるさとへの戻り方を誰かに教えたとしても…生き延びた人々の努力が灰燼に帰すともわからない事態になったとしても…仕方のないことでした。彼らは、故郷を守る力を失ったのです。
 各国の言葉を操る彼は、自由な旅を気のままに堪能しました。ここに、イラがいればどれだけ喜ぶだろうかと彼は思いました。今度行く時は、きっと彼女を連れて行こう。そのまま二人は、海外で生活してもいいかもしれない…時折街に戻り、供養を続けるのだとしても。彼は、その未来が見えるようでした。彼の故郷は滅びるも、彼らの行く手は、きっと明るいものであると信じられました。
 彼は戻り、外国で見聞きしたことをイラに教えてあげました。イラは、彼の話を何でも目を輝かせて聴きました。時々頷き、興味ある話題に疑問を差し挟みながら、きらきらと陽光にきらめく泉のごとく輝く未来を、思うままに望める気分に満たされました。
 二人は固い誓いを交しました。いつか、二人でこの場所を出て行こう。そうして新しい命を育むのだと。人々のこしらえた暗礁は彼の舟を沈没させるに至りませんでした。ハルロスは慎重に舳先を進めて、唯一無二の航路を発見していたのです。
 その頃、彼は海外で買った黒表紙の日記帳に、自分のこれまでの来し方を書きつづっていました。内容は、失われた故国への思慕に溢れていました。誰もがそれを読めば、筆者の亡国への愛情の深さに気づかされることでしょう。彼にとって、亡き祖国は、忌まわしい記憶のみを語る暗黒の経験ではなくなっていました。隣にはイラがいます。彼が愛する、彼が愛される、相手です。彼は、いつかふるさとの辿った破滅の物語を吟遊詩人の歌にしてみたいと望むようになりました。各国を経巡って、出会った芸術の数々が、美が、あらゆる思い出を慰めてくれるものだと教えてくれたのです。
 隣にイラがいればきっと叶えられる望みだと思われました。彼女は、歌をもって彼の沈痛な物思いも吹き飛ばしてくれたのですから。…
 ところが――
 人間とはあさましい生き物です。どうして、誰かが自分より優れていると思うと、それを欲しがったり、憧れたり、奪おうとしたりするのでしょう。彼に向けられた人間の意識は、ともに激烈でした。イラは、誤って彼の存在を皆に報告してしまいました。それはしてはならないことでした。しかし、彼女は今こそハルロスのやっていることの意味を、彼らに教えて、自分たちが海の外へ出て行った後も、その志を引き継いでもらいたいと思ったのです。
 人々はただちにハルロスを探し出しました。彼は、すっかり身体も腐れ落ち、鼠たちのなすがままとなった大量の遺骸のそばに静かに寝ていました。人々は彼を起こして、なぜ死者の葬儀など勝手なことをするのか、海外に出るなどどうして我々の身を危険に晒すような真似をするのか、と尋ねました。彼は、彼らにそう言われるだろうことは予想していましたが、歯がゆさと、いたたまれなさを感じました。人々は、彼を罵り、責め、次第に言葉だけでなく行為に及び、彼を捕らえ、晒し、槍の矛先で突付いたり飯を取らせぬようにしたりしました。彼らは非常に悪魔のように混濁した気持ちになっていました。
 磔にされたハルロスは、これも運命だと、笑いました。彼は笑うことができました。あの暗闇から逃げおおせた人々が見せたあの時の笑いとは違う、いかにもさだめを受け入れた微笑みでした。彼の見たものと、人々の見たものとは違いました。彼は、人々が見たものの只中にはいなかったのです。そこにおいてのみ感じられる非常な苦しみと迸る死と生命の慟哭を、かわして、ここにいたのです。人々と彼は違いました。集合は暗澹たる苦痛を味わったために、それに囚われていたのです。
 しかし、何事も当然のように自然に行われるものです。彼の火葬は許されませんでした。人々は彼を地上へ連れ出し、木の幹にくくりつけ、歌を歌い、灯火を照らし、月光の下で、一刀両断の下、彼を退治しました。その時、何かが彼らの間を閃きました。運命が定まったのです。イラは、充血した目を見開き、恋人の死に様をそこに焼きつかせ、人々を強く強く恨みました。
 その恨みに導かれて、彼女は一人の子供を生みました。彼女は、その子供に教育を施してやりました。彼女自身が作った、それはきっとハルロスが目指した非情な美の歌を、彼女は我が子に教え込んだのでした…。

 彼女の恨みの念の強さは、子々孫々、代々に受け継がれました。カルロス=テオルドは、地下から持ち出した彼の先祖の書いた書物を、真面目な眼で見通しました。彼は、忍びやかな冷気が足元から立ち昇ってくるのを感じました。少年は今こそ自分自身の来し方を理解したのです。彼の性質は、代々の母親たちよりハルロスの妻イラにずっと近いものが具わっていました。
 それはハルロスとは違いました。愛情の影に潜む反対の感情を、克服の対岸にあるともし火のような執着を、そして、強烈な思慕の裏側にある歪んだ怨恨を、この時少年は自分のものとして理解しました。彼は…日記の最後に、イラによって書き込まれた否定の言葉を目にしました。彼は、その最後の章を破りました。そこにはこう書いてありました。
 彼の情熱は反古にされた。私の命も反古にされた。二人の明日は断ち切られた。ああ、雄大なる精神と壮大な愛は、一刀の下に、壊された。私は生きる。私の霊魂が、未来の私へ。この思いを忘れぬように、いくつもの歌をつくろう。いくつもの物語をつくろう。私の体が産む者へと、その体がまた産む者へと、あやまたず伝えられるように。きっと人々は否定される。私たちの明日を拒んだ彼らは、未来、きっとこの恨みを受けるであろう。彼らの明日が、反古にされるように。
 …大波が、少年の心に襲い掛かりました。それは、土蔵から出てきた無数の人間の死骸に呑まれた以上に、彼の心を、素晴らしい明日へといざなう役目を果たしました。彼は生きる意味を手に入れました。まるで、三百年前生きた彼の先祖のイラと、同質の魂を手に入れたようでした。
 こうして彼の暗闇はかたちを持ちました。それまでは、その恐怖から自らを守るために、暗がりと同化するような振舞いをしていたのが、闇そのものを手に持つことができるようになったのです。彼は知りました。自分自身のなすべきことを。この町を…潰さなくてはならないだろう。

 イアリオは、ピロットの住む大邸宅の前で、朝方彼を待っていました。それは、森の中で、以前ふいにした名渡しの儀式を彼とするためでした。
 どうしてそんな気になったのか、彼女にはわかりませんでした。彼は、半ば無理矢理に彼女に連れられていきました。ピロットの脳裏には確実に前の敗戦の苦い記憶がよぎったはずですが、それでも強いて拒まなかったのは、彼も彼女を好きだったからかもしれません。
 イアリオは、あの泉の近くで、彼を投げ飛ばした所にほど近い場所で、彼の帯に、手を差し込みました。そして彼に、同じことをするように催促しました。彼女の目は濡れています。その意味を、ピロットもわからないではありませんでした。
 真っ赤になりながら、少年は少女の帯に手を入れました。そして、二人は互いの下の名を呼び合いました。これで儀式は成立です。本来なら、下の名前はこうした儀式を行った者同士のほかに、親が子を呼ぶ時や、結婚した相手を呼ぶ時に用いられるものでした。彼女は言いました。
「私を、これからは人前じゃない時、正確に、ルイーズと呼んで」
「…ああ、嫌だ。なんでこんなことを」
 ピロットは仏頂面になりながらも、彼女の言うことに従いました。そして彼は、イアリオに名を呼ばれました。「アステマ」彼は、目を上げて彼女と目を合わせました。
「呼んでよ」
「…ル、ルイーズ…」
 彼女は薔薇のように喜びました。イアリオは学校に飛んでいき、始めの授業に間に合いました。ピロットは、そのまま辺りを逍遥しました。こんなことがあってからは、おとなしく授業などに出て、人前に顔を見せては、正常な気分でいられないと思ったからでした。彼は弱みを見せてはならない人間でしたから…たった今つくられた、彼の新しい弱点が、思わず外へと漏れてしまうのを嫌ったのでした。
 イアリオは予感していたのでしょうか。これから起こる災いを。この日が、彼と顔を合わせた最後の日でした。
 その夜、ピロットは寝床に訪問者を迎えました。藁ござを敷いた粗末なベッドの傍らに、テオルドが影の様に立っていました。
「おはよう、ピロット。目を覚ましてくれよ」
 少年はびくりと起き上がり、この思いも寄らぬ相手を危険な目で見つめました。テオルドは、風に揺られるカーテンの裾のようにひらひらと音も立てず移動して、目の前に本を掲げました。
「これから、この本を地下に返しに行こうと思ってるんだ。お前も、ついてきてくれないか?」
 ピロットは眉をしかめ、こう呟きました。
「何言ってるんだ、お前は。俺は寝る最中なんだ。放っとけよ」
 彼は夢でも相手にしているように振舞いました。
「バカじゃねえの、あいつ、俺を何様だと思っていやがる。一度やり合ったからって、なれなれしくなりやがって」
「でもさあピロット、お前が来なければ話にならないんだよ。いいかい?お前だけなんだ。一人で、あの事件以来滅亡した都へやって来たのは。僕はお前が好きなんだ。一緒に行こうよ」
 ピロットは鬱陶しく腕を振りました。その腕を、テオルドにがっちりと掴まれ、ありうべからざる力で、ひょいとベッドから下ろされてしまいました。何事か起きたかわからない彼は、茫然と、暗くて影しかわからないテオルドの輪郭を目で追いました。テオルドの影は部屋を出ていきました。
「こんなにもさ、大人たちが侵入者に執着するなんて、思ってもみなかった。これほどの大きな捜索が行われるなんてさ、どきどきするけど、勿体無いよね。だって、あの暗い所に大人数でどやどや行っちゃったら、雰囲気なんてぶち壊しじゃないか!そうだろ?びびりながら、おっかなびっくり、足音を忍ばせて行くことが正式な楽しみ方なんだよ。ちっともわかっていやしない」
 テオルドの声の調子はまるで明るく、対照的にその表情はのっぺりとして、不気味でした。ピロットは彼の後についていきましたが、いつでもそこから離れられるはずでしたのに(彼は人に左右されるということが嫌いでしたから)、そうしなかったのはなぜでしょうか。しかし、彼は心の中で彼女を呼びました。(ルイーズ!)今朝、名前の交換をし合った少女の名前を、彼は思わず唱えました。
「お前には才能があるよ」
 地下へと向かう入り口の近くで、テオルドは言いました。
「歌を歌う才能がある。相手を騙して、脅して、罠に嵌める。そうして一人、高笑いする歌さ。ああ、今更言うことじゃなかったなあ…」
 …その頃、少女のイアリオはすでに眠っていました。幸せな吐息が白い枕を濡らしてそよがせました。夢の中で、彼女は草原を歩いていました。誰かとここに来たいと思いました。
 誰かはテオルドとともに両側に煌々と灯り瞬く穴の前まで来ていました。そこは、大岩で塞いでいた地下都市への入り口でしたが、周りには、見張りの大人が何人かいます。穴の大きさは大人一人がやっと入れるくらいでした。
「ピロット、どうする?どうしたらいいと思う?」
 テオルドが妖しく彼に訊きかけました。その声は興奮しているにもかかわらず、薄い光に当たった顔面は、何事も話さないのっぺらぼうでした。ピロットは冷えたものを感じましたが、ここまで来た以上、決して臆病な素振りを見せてはなりません。相手の前で、彼は挑戦しなければなりません。二人は足元の暗がりに注目しました。かがり火は成人の頭の位置でした。もしかしたら、身を屈めて向こうの股下をくぐるようにしていけば、気づかれずに突破できるかも、と彼は言いました。
 万が一にもうまくいくことがあるものです。番人の交代をしに数人が彼らに近づいたところを、ピロットとテオルドは駆け出し、うまく交代の人間の背中に隠れ、そのまま一気に穴を目指して滑り込みました。誰も「あっ」とも叫ばず、背後から追いかけられることもなく、二人はうまうまと侵入を果たしました。
「やっぱりピロット、お前と来てよかったよ」
 二人は真っ直ぐに地下中央の貴族街へと向かいました。目的はテオルドが持ち出したハルロスの日記帳を、元の場所に返すことでした。しかし、テオルドもなぜそんなことをしようと思ったのでしょうか。彼の先祖のものなら、彼が持っていてもいいはずでしたのに。
 彼らはそこへ到着する前に、非常に運悪く、件の盗賊どもと出会ってしまいました。
「いいところに来たな」
 盗賊どもは風のように二人を攫い、音も無く付近の建物の隙間にするりと入り込みました。少年たちは口にくつわをはめ込まれ、鳶色の目に刺すように見つめられました。
「一体どっちが我々を罠に嵌めたんだろうね」
 しかし、二人には怯えた色も慌てる素振りもありませんでした。「おかしいね」トアロはそれで犯人を見つけることができると思い込んでいましたので、いらいらとしました。アズダルに、周囲を見張れと言って、彼女はぼそぼそ声で話し掛けました。
「お前たちは頷くんだ。それとも首を横に振るかしろ。イエスかノーで、答えるんだ。我々は、神殿のある場所から出入りできる洞窟からしかやって来てはいないんだ。その他に、外へと抜ける道はあるか?」
 少年たちは首を横に振りました。
「我々のことを話したのはお前か?」
 トアロはピロットに顔を近づけて言いました。ピロットは頷きませんでした。テオルドも同じ反応をしましたが、その目は、にやにやしています。トアロはぎくりとその目から遠ざかりましたが、嘘はついていないなと思いました。
「じゃあ、お前たちには気の毒だが、お前たちの身柄と引き換えに、我々の逃げ道を作り出すことにする。逃げられないよう、手も縛らせてもらおう。余計なことは考えるな。お前たちには恩もあるのだ。それは私とて忘れてはいないから、交渉は、すぐ行うつもりだ」
 二人とも縄で縛られ、移動しようとしたその時に、テオルドの懐からごとりと何かが落ちました。トアロはそれを拾い上げて、興味深げにそれを眺めました。
「なんだ、これは?」
 火のないものですから、持ち上げた感触だけで、彼女はそれがどんな種類の書物かはわかりませんでした。彼女はテオルドと目を合わせました。いや、目を合わせられたように、彼女は感じました。ほとんど近くも見えないくらいの暗闇の中で、相手が夜目の利くアズダルならいざ知らず、こんなにもはっきりと少年に視線を交わされたことに、盗賊はぞくりとしました。ですが、そのまま彼女は彼を見続けて、本を彼の手に戻しました。
「大切なものなんだな」
 彼は頷きました。彼は何か言いたげに口をぐにぐにと動かしました。トアロは、何を思ったのか、彼のさるぐつわを緩めて唇を少しだけ自由にしました。
「僕の先祖が書いたんです」
 彼はかすれ声で言いました。
「ハルロス=テオルドの日記帳です。その父親は、ムジクンド=テオルドだといいます。ご存知ですか?」
 女盗賊は雷にでも打たれたような顔をしました。この街を調べるために、色々な文献を当たっている時に、その名前には何度も出会いました。
「なぜお前はその話をしてくれなかった」
 トアロは急に恭しい口調で、テオルドの指にそっと触れました。
「ああ、テオルドなど、ありふれた苗字だと思ってしまったんだな。この近くの界隈にもテオルド氏はたくさんいるからなあ。けれど、見つけたぞ。お前が子孫か」
 テオルドはにっと笑いました。彼は盗賊の特徴をかくあらんと思っていました…一度リスペクトを抱いた相手であれば、相手が老人であれ子供であれ、その態度は変わらないと。トアロの育った街では、自分の利を追求することこそが人々の生き抜く手段でしたが、中にはそんな思考の及ばぬ考えをした人間もいました。大抵はフーテンのなりをした落伍者でしたが、たまに、人々の尊敬を集める哲学者がいました。トアロもその人物に出会い感銘を受けたことがあったのです…。
 彼女には信心深く敬虔な一面がありました。その一面を、彼女はテオルドにも篤く向けたのです。少年は、彼女に三百五十年の都のあらましを語ってくれたからです。尊敬は信頼を越えます。彼女は自分を信じるより前に彼を信じたのです。彼女たちにとって、この町から脱出することが何よりも優先されるべき事項のはずでしたが…。
 ピロットはテオルドの背中の影が大きく揺らいだように見えました。そして、息苦しくなり出しました。くつわの下で、彼は喘ぎました。何かが頭上を覆ったようでした。広い広い体持つ、古の悪魔のようでした。彼は、その魔物には触れませんでしたが、少年と、二人の盗賊に体の一部が触れたのを確認しました。彼は恐ろしくなりました。恐怖など、押し返してしまって決して身体への侵入を許さない彼でしたが、今見た相手は、始めから彼の内側にいたような、途方もない存在に思えました。
 オグでした。古代の怪物が、その時に彼らの頭上にいました。彼は霧状になり、宙を飛んでいましたが、ぼんやりとした暗闇の中で、その体は白い鯨のようでした。いきなりトアロはこう言いました。
「二人を放してやろう」
 テオルドは身じろぎもせず盗賊を見返しました。口元がぶるぶると震えていました。
「トアロ、それは本当か?」
「カルロス=テオルド、お前に会えて、私は本当によかった。手荒な真似をしてすまなかった」
 アズダルの声も無視して、彼女は両者の縄を解きました。すると、くつわもまだ残ったままのピロットが、脱兎のごとく駆け出して、盗賊たちから逃げてしまいました。頭を屈めて、低い姿勢で、頭上の得体の知れないものに触らないように、彼は真っ暗がりの中をどこへとも知れず走り去りました。
「畜生!」
「いや、いいんだアズダル。どうせ始めからこうするつもりだったんだ」
「始めから?」
 その時、トアロはぼんやりと空中を眺めていました。彼女は(なにがし)かに頭の中を支配され、今言った言葉も、他の言葉も、その瞬間で皆忘れてしまいました。
「いいんですか?僕たちを利用して、脱出しようとしていたのに」
 テオルドはわざと彼らを心配しました。トアロはすまなそうに彼に寄り添い、その手を握りました。
「私は邪まな考えをしてしまった。どうか許してくれないか」
 彼女は気づきませんでした。背後に言い知れぬ寒気が忍び込んで、凍えるほどの冷気を吹き付けていたことに。オグが、その上に居座り、じっと佇んで、三者の成り行きを見守っていました。
 彼に意志はありませんが、そうすることが、まるで義務でもあるかのように。
 トアロの体はかっかと火照っていました。背筋を覆う冷気とは裏腹に、内臓が煮え滾るほどの熱が血を通って全身を隈なく巡っています。頭の中はぼんやりとしたまま。しかし、トアロは以前にもその悪の集合に触れていました。海の外から入り込んだ洞窟の終わり、神殿の門柱の真ん中から、気づかぬうちに、彼女はそれと知らず自分の欲望を制御できないようになっていました。まるでそれは、町人たちが普段から恐れている欲望の追及…三百年前彼らの祖先を捕らえたものでした。それは無意識の中で、何よりも代え難い黄金のように光り輝いていました。
 けれど、それは破滅をもたらすものでした。
 その時を生き残った人々は言いました。これが、我々の破滅の終局であるとしたら、永遠に、この事態を隠さねばならない。そのために、我々は努力しよう。人間の意識から永久に黄金にまつわる欲望を閉ざし、封じ込めてしまうのだ。しかし彼らは知りませんでした。太古から生きている破滅の怪物が、彼らの知る破滅以上のものをもたらそうとして、ずっと、その地下のさらに地下に棲んでいたことは…!地下の闇と、大昔の悪意が、今の時代、ようやく出会おうとしています。怪物は目を覚ましました。彼はまず、三人の人間を食らいました。
 トアロはその力に唆されて、自分を見失っていました。ですから、これから、意味不明で支離滅裂な会話をテオルドと交わすのです…。
 その一方で、まったく暗闇の中を、ピロットはひた走りに走っていました。彼は盗賊たちから逃げたというより、まだ太刀打ちできない頭上の鯨のような怪物と今相まみえることを嫌ったのです。勿論彼はそれからもたらされた恐怖も何するものぞと粋がっていました。奴の正体は不明ですが、こちらは触れられても、たぶらかされてもいないのです。彼はしっかりと自我を持ち、この悪魔に、自分がどうしたら対抗できるかを考えていました。しかし、この真っ暗がりで、彼の目はすっかり道を見失っていました。頭の中に叩き込まれたはずの地図は、呼び出すことができませんでした。彼の懐には、火打ちの道具と松明とがありました。テオルドに連れられた時に、無意識に服の隙間に放り込んだものです。彼は近くに明るい灯火を見つけました。見回りの人間が来たのです。彼は瞬時に道具を広げ、わずかな時間近くを横切ったその明かりを頼りに、火口に火打ちを打ち付けて、出来た炎を松明に移しました。めらめらと燃える灯火は見回りの人間にも見つかるはずでしたが、彼らは行ってしまいました。
 すると、突然ピロットの目前にはあの五弁花の連なる不気味な蔦の壁が現れました。彼はごくりと唾を呑みました。花の中からゆったりとした芳しい匂いが彼の鼻腔を入っていきます。それは喉から肺に達し、えもいわれぬ深い感動を彼に与えました。満ち足りた気分が、彼を覆ったのです。豊満な女性の唇のような、性愛を絵にした五弁の花びらが、彼を誘っています。隙間には緑色の蔦が、妖しく左右に伸びています。壁は、物言わぬ圧力を彼に与えていました。しかしその抑圧も、彼を取り込もうと手を広げる熟女のごとき危険な包容さを兼ねていました。彼はふらふらとその壁に近づき、震えた指先で、植物の枝葉と、熟れた花びらに触れました。少年はこの生きた石壁の妖艶な魅力にすっかり魅せられ、この壁を、登ってみたいと思いました。
 およそ、他人に心を許すことのなかった彼をしてたぶらかすことのできる力は、強烈な性愛の予感ではあったかもしれません。ですが、それまで彼の身に起こったことを考えれば、こんな力に容易に心を許したのも仕方のないことだったかもしれません。彼は、十五人の仲間たちと心躍る冒険を繰り広げたのでしたし、その間、以前から気にしていた少女と懇意にもなったのです。彼を「好き」だとはっきり言う少年とも出会いました。彼の心には隙間が生じていたのです。それは、好ましい隙間でしたが、あっというまに彼を虜にするのに十分な、油断と不注意を準備したのです。彼に似つかわしくない、誰かに心を許す瞬間を、その機会は捉え、彼を、ある道程に引きずり込んだのでした。
 彼は石壁を登りました。そこに吸い付くようにして張り付く緑色の蔦は、どくどくと血が通っているように脈打って見えます。五弁花は、死に絶えた破滅の都にありながら、その生命を主張していました。麻薬のような赤を放ち、男性も女性も虜にしてしまうフェロモンを分泌し、果ては、同一化すればきっと無限の力が手に入るような、暗い幻をも映しています。テオルドの母が語っていたような、暗闇の物語に出てくる夢の怪物のように…。少年は赤い花びらの中を覗いてみました。強烈なうっとりする匂いとともに、少年の心と体を刺激する、あの女性の陰部のような情景を、その花は彼に見せました。彼の鼻息は荒く、とめどない溢れる力を感じながら、この壁を登ろうという衝動は、早く、早くと彼を急かしました。早く、早く…きっと初めての交尾のように、ただ快感をむさぼろうと、一心不乱に腰を打つかのようでした。そして、異常に血管の浮き出た腕でもって、その淫乱な岩壁を登りきった時に、彼は…
 足元に、大量の黄金を発見したのです。
 彼の目には、唇には、喜悦の気色(けしき)がのぞきました。これまでにない迸る快感に、彼は眩暈を覚えました。彼はすべてを征服したような気持ちになりました。頼りない灯火にうっすらと照らされた地面はきらきらとしたこがねの絨毯を彼に見せました。その下には、たくさんの人々の遺骸がいまだ眠っていたのですが。
 彼は、相手のいない、一人きりの放射に酔いしれていました。彼の欲望は、この時、追求する何かを見つけたのでした。王様のようにそこに君臨する彼を、下のこがねたちは、黄金色の光を瞬かせて、その喜びの気色を残酷に讃えました。
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