会合

文字数 2,651文字

 石畳の狭い路地の奥、黒塗りの杉板がぐるりを覆った、数寄屋造りの料亭は花菱の贔屓の店だった。会合となると、毎度ここを選ぶのは、いくつもの路地が迷路のように入り組んだ、神楽坂の街並みが身を隠すのに向いていたのと、早くに主人をなくした女将と花菱が懇意の仲であったからだ。車道から細い路地に入るため、車を降りて徒歩で向かうことになるその道中に、不満を漏らすものもいたが、田辺は花街の情緒ある色合いを残す兵庫横丁を歩くのは嫌いじゃなかった。特に、日が沈んだ後、横丁に燈る白熱電球のオレンジは、同じ区内で同じように街を灯すはずの田辺の知る袖看板とは趣も、役目も違ったように見え風情を感じる。
 黒塗りの杉板に開けられた、人一人が入れるほどの小さな入り口の先は、さらに、そこが新宿であることの喧騒を忘れさせるほどの静寂を生み出していた。
 縁側から見渡せる小さな苔むした中庭には、十分に手入れされた庭木が植わっており、季節によって咲かせる花が違っていた。この時期は、まだ咲き始めたばかりのアジサイの紫と、白いクチナシの花が庭を彩る。しとしとと降り続く雨のせいか膨張した甘い香が、開いた掃き出し窓から湿度と共に流れ込んでいた。
 六月に入り間もなく遠藤組の後を追うように、四次団体の幾つかが花菱一派を抜けていた。親子と言えど、血の繋がりがあるわけでもない、いつぞやの大峰が言った様に、簡単に切れてしまう様な縁なのだ。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったもので、金が動けば人も動く。田辺が聞いた話だと、柏木は質の悪そうな地面師や占有屋を使っては巻き上げた不動産で荒稼ぎした金を、続く三次団体や四次団体にばら撒いているという噂だった。そこまでして手に入れるものに、どれほどの価値があるというのか、田辺には理解しかねる。ただ、それは田辺の属する花菱組も同じ事で、勢力を増やしつつある柏木組に追い越されまいと、近頃では、毛嫌いしていた大陸マフィアとのパイプを作る事に必死になっていた。上手くすれば、安くて質もそこそこの白い粉が手に入る。
 小一時間ほど前から始まった会合では、なんら建設的な意見などは出てこず、
「このままじゃ、いかんだろ」
 と、どこかの組長が言い、すると今度はどこかの組長が
「自分の子分の不始末なんだ、あんたが責任を取るべきだ」
 と返す。なんだと? ふざけるな、ウチだけの問題じゃねぇだろ。と、しばらく罵り合いが続き、今度はまた別の組長にそれが飛び火するという繰り返しで、四次団体を持たない田辺に取ってみれば、対岸の火事を見るようなよそよそしさであった。当の花菱といえば、罵り合う子分を前にダンマリを決め込んでおり、統率を欠いたこの老人会の終着駅はまるで見えない。
 田辺はグラスですっかり気の抜けたビールを見下ろし、健二を呼び出すか。と、時間の無駄にも思える会合で、鬱屈した気分を晴らす為の、この後の予定を頭に浮かべた。
 兄貴の岸本は弟が宙ぶらりんの状態で、事務所に出入りすることにいい顔はしなかったが、田辺は屋上での一件以来、健二がやってくることを咎めることもなくなった。覚えた味が美味かったのか、あるいはいつか田辺が組に入ることを認めるという打算でもあるのか、健二は田辺が声をかければ嫌がることもなく、抱かれるようになっていた。情が移ったというわけでもなかったが、惚れたと言いながら、構ってやらなければすぐにあっちを向いてしまう女と比べ、何を欲しがるでもない健二は田辺にとって可愛いものだった。田辺の掌に、健二の未成熟な果実のような皮膚の感触が蘇る。早々に切り上げたい。田辺はようやく、終点を告げてやることにした。
「遠藤組長が逝ったことで、組対の連中もピリピリしてる。隠そうにもこっちの内情は、周知でしょう? どうです? 柏木組と話し合いを持つってのは?」
 顔を見合わせて組長連中がざわついた。それもそのはずで、この何十年と花菱組と柏木組が膝を合わせることなどなかったのだ。
「田辺、お前、何言ってるんだ」
 肩身が狭かったのだろう、糸島と共謀して柏木に寝返った佐治の親である、植松組組長の真鍋は上座に座る花菱の顔色を伺いながら、会合が始まって以来、初めて声を上げ、周囲も同調するように、野次を飛ばす。花菱のご機嫌を取ることばかりに執心した面々の、情けない顔を田辺はぐるりと見回した。
「だったら、ドンパチでも始めるってんですか?そうなれば組対だって黙ってません。余計なことまでほじくり返される。よろしいんです?柏木組どころの話じゃなくなる」
 ほじくり返されて面白くないのはどの組も同じだった。途端に勢いをなくした年寄り連中は、もごもごと口ごもり、不本意だと怪訝な顔をしていたが、しかし、田辺の最もらしい話に耳を傾けるほかない。
「痛い腹を探られて困るのは、あちらも同じ。だったら、お互いうまくやっていける道を探すほかないんじゃないです?」
「うまくやっていく道ってのは、なんだ? 冷戦協定でも結ぶってのか?」
「和解ですよ」
 和解だと! と誰かが怒鳴り、重厚な黒檀のテーブルがドンと音を立てた。気の抜けたはずのビールがシュワっと泡だち、苦味のあるホップの香りが、田辺の鼻孔をその香気で満たした。途端に舌がその味を思い出し、田辺はゴクリと喉を鳴らす。
「何も同じ土俵に乗ってやることなんてありませんよ、あちらさんが欲しがるものはくれてやりゃいい」
 柏木が欲しがるのはナンバースリーの座だ。どちらにしても、生い先短い三代目の跡を継ぐのが修ならば、花菱組の威厳はすぐさま地に落ちる。そうなれば、今まで黙って見ていた望月も、覇権争いに名乗りを上げてくるだろう。そもそも田辺だけでなく、組長連中もみな同様に、修の組長就任には懸念を抱いているのだ。現に、花菱組一派の直系三次団体組長らが総出の会合に、修の姿がないのがその証拠だった。修が落とす威厳を下から支え上げてやろうというモノなどいないのは、他の組長連中を見れば一目瞭然だ。いっそ柏木と和解し、手を組む方が花菱組の為になる。
「このままじゃ、若頭がかわいそうだ」
 田辺はそう続けて、気の抜けたビールを喉に流し込んだ。つかの間上がった血中のアルコール濃度に満足したように、ふうと田辺は溜息を吐く。
「組長、どうです? 若頭の為に、ここらで手打ちになさっては」
 意地を張ったところで、修のボンクラがどうなるというわけでもないのだ。
 口を真一文字に結んだ花菱は、しばし思い惑ったように目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み