塚本探偵事務所 塚本

文字数 2,130文字

 その袋小路の細い路地に面して、いくつか小さな飲み屋が立ち並んでいた。男が店に入ってから三十分、連絡を入れてから二十分が過ぎようという頃だ。塚本はタバコに火をつけた。その足下には既に四本もの吸い殻が、捨てられていた。吐き出した煙に、白い息が混じる。塚本はぶるっと短く震えて、モッズコートのフードを被った。東京の方がまだマシだと、塚本は独言る。まさか、九州地方の冬がこんなに寒いとは思いもしなかったのだ。底冷えは、スニーカーの中のつま先を凍て付かせ、随分前から感覚すらない。
「悪いね、待たせて」
 声をかけられ振り向けば、この寒い中、コートも羽織らず、三揃いの男がそこに居た。
「馬鹿が、グズグズしちゃってね」
 立てた親指の向いた先には、若い男が二人、こちらに向かって歩いて来るのが見える。男の部下だと言うには、二人の格好は随分とラフだ。
「槙くんから聞いてるよ?優秀なんだってね」
 塚本に自分が優秀だと言う自覚はない。槙がそう自分を紹介するとも思えず、社交辞令だろうと塚本は受け取った。ああ、そうだ。男はそう言って、ジャケットの内ポケットから、名刺を一枚取り出す。
「田辺です」
 杏葉花菱の刻印された名刺には、田辺いさみの名前が記されている。腐れ縁の幼馴染が持ち込んだ話でもなければ、引き受ける様な相手じゃない。今後の付き合いは、なしだ。と頭の中でぼやき、塚本は受け取ったそれをポケットへとしまい込んだ。
「タバコ、一本いい?ちょうど切らしちゃっててね」
 槙にしろ、田辺にしろ、ヤクザは余程儲かるのか、塚本が寄越したタバコを受け取る田辺の袖は、塚本にも分かる高級ブランドのカフスボタンで留めてある。カフスボタンの相場など、普段スーツとは無縁の塚本にはわからなかったが、装飾品に金をかけるのは金持ちの証拠だ。そんな男が歩いてここまで来たわけもなく、コートを羽織る必要もなかったかと、塚本は首をすくめた。
「で、どこ?」
 田辺の問いかけに、塚本は袋小路の狭い路地を覗き込み「紫の看板の、あのスナックですね」と、田辺に教えてやった。田辺が何を指示するでもなく、若い二人は路地の奥へと入って行く。
 人を探して欲しいと、槙が話を持ち込んだのは、半年前の事だった。
「どこも見つけらんねぇんだと」
 そういった槙がテーブルに投げ出したのは、これまで十年かけて複数の探偵事務所から集められた資料だった。失踪人が優秀なのか、警察や探偵事務所が間抜けなのか判断がつかない塚本だったが、元刑事の男は指名手配や懸賞金をもろともせずに、十年を逃げおおせているという事実だけは理解できた。ともあれ、警察が追う元刑事の行方を知りたいヤクザの事情に、深く首を突っ込むわけにもいかず、しかし、槙からの頼みを断るには、塚本の部が悪い。なにせ、槙には二百万にものぼる借金がある。渋々塚本はこの仕事を引き受けた。
 他の探偵事務所が割り出せなかった、元刑事の居場所を、半年かけて割り出したのだから、田辺の社交辞令もあながち間違いというわけでもない。
「槙くん、元気?」
「それなり……」
 塚本の返事に覆いかぶさる様に、路地の奥から悲鳴と怒号が響き、塚本は続く言葉を飲み込んだ。路地を覗き込んでみれば、件のスナックから、ちょうど男が転がり出てきたところだった。
「偉い痩せたね、藤崎さん」
 十年逃げ続けるのは、そう楽なことでもなかったらしい。田辺の言う通り、元刑事は十年前の写真と比べて、半分ほどに小さくなっていた。
「あの人、どうなるんすかね?」
 そもそも、なぜ田辺が藤崎を追っていたのか、塚本はその理由を聞いていない。十年前、藤崎は川崎のコンテナヤード近くの公園で、警視庁の同僚だった捜査一課の刑事を殺した後、行方をくらましていた。刑事を殺した理由も事情も本人が捕まっていないのだから、誰にも分かる筈もなかった。十年も追いかけたのだ、田辺は藤崎に貸しでもあるのか、槙に多額の借金がある塚本は我が身を振り返り、ヤクザに貸など作るもんじゃないと、ため息をついた。
「どうなるか、見てく?」 
 箱崎埠頭が近い。映画やドラマなら、男の運命はだいたい決まっている。実際はどうなのか?とはいえ、男の行く末を見守るだけの根性を塚本は持ち合わせていない。それに、自分のしたことが犯罪の片棒を担いでいるかも知れないことは、出来る限りなかったことにしたかった。
「いや…遠慮します」
「あ、そう」
 田辺はタバコを指先で弾き、地面に落とした。
「そうだ、領収書、ここ宛に送っといてよ」
 そう言ってもう一枚、田辺は塚本にカードを手渡す。
 激しく揉み合っているのだろう、袋小路からは怒号と喚き声が聞こえている。
「今度、槙くんと遊びに来てよ。安くしとくから」
 田辺はそう言い残すと、袋小路の路地へと入っていった。塚本は、その背中を見送った後、渡されたショップカードに目を落とす。風俗店のものだろうか、住所は吉原となっていた。齢三十二にもなって、浮いた話の一つも聴かない幼馴染の強面を思い出し、それから、この一週間断っていた、喉を焼くアルコールの味を思い出し、今日は飛び切り強い酒を飲もうと、ここへ来る前に見かけた酒屋を目指して歩き出した。

 ほんとにおしまい。
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