悪人

文字数 2,307文字

 ターコイズのカフスボタンの袖を捲り上げ、田辺は時間を確認した。短針は午後三時を指しており、田辺らが到着してから二十分経過していることを知らせている。ここまで来る時間を含めると、白い国産SUV車は、小一時間、路上に停車し続けている事になる。
「しかし、よくやるね」
 田辺が感心したのはつい先程、緑色の制服を着た駐車監視員が駐車違反の切符を切ることもなく、SUV車の脇を素通りしていった事だった。よく見れば、ダッシュボードには「駐車禁止等除外指定車輌」と書かれた標章が掲示してある。本来ならば、障害者手帳を持つ、特定の人間だけが所持することを許されるそれを、どうやって手に入れたのか。ケチなチンピラが偽造して、パクられるというのはよく聞く話だが、現役の刑事の話しは田辺も聞いた事がない。
「悪人の手本だな」
 田辺のボヤキに、岸本が笑った。
 標章が本物であるかどうかの判断はつかない田辺だったが、そのSUV車のオーナーの行く末は察しがついた。昔から、刑事となんとかは潰しが効かないとはよく言ったもので、元刑事という同業者はそう珍しくもないのだ。
 停車したSUV車の斜向かいには、遠藤組所有の小さなビルがあり、エントランスには若い男が二人配置されていた。二人は特に周囲を警戒する様子もなく談笑していたが、見張りを立てたくらいだ。中に居るのが三下というのは有り得なかった。糸島か、もしくは、それを尻に敷く佐治のどちらかだと考えて間違いない。二人の見張りが背後を振り返り、間も無く、こちらは周囲を警戒する様に、辺りを見回す濃紺のブルゾン姿が現れた。元柔道選手というだけあり、現役を退いて随分久しいが、遠目に見てもその体躯が屈強であることは分かる。ただし、引退後の生活習慣の乱れからか、腹回りは信楽焼のたぬきだ。顔を見られては困るのかキャップを深く被り直し、男はブルゾンの襟を立てた。いくら顔を隠したところで、その体つきでは一発で正体がわかってしまうというのに。
 数日前から見張りをつけさせたのは、大峰の件があったからだった。大峰はまだ姿を見せなかったが、そのおかげで田辺は一つ、こうして面白いものを手に入れることになった。三十年近くの付き合いだと聞いていたが、こうも早くに見切りをつけるとは。花菱の耳に入れるかどうかは別にして、田辺は一枚手札を手に入れたことになる。
 男の車が世田谷方面へと向かったことで、行く先は概ね予想がついた。案の定、SUVは車は等々力の花菱宅から五百メートルほど離れた、コインパーキングに停車した。花菱組組長の自宅が近いこの辺りでは一時間に一度、警察の警邏があるため、下手に車を近づけることも路上駐車することもできない。特に、悪人の手本のようなSUVオーナーなら、なおさらだ。田辺はブルゾンが車から降りるのを確認したあと、花菱邸へと先回りした。
 花菱組一代目の幸三が、向島の赤線地帯で銘酒屋を開業させたのが花菱組の始まりだった。当時は都内にいくつかの赤線地帯があり、向島は戦前から続く老舗だった。関東大震災の後、訪れた向島のバブルによって、花菱組が大きな財産を築いたのは随分有名な話だ。売春防止法が施行されてからは吉原に居を移し、現在も花菱組の所謂シノギの一つとして風俗店は商売を続けている。閑静な住宅街にあって、その景観を壊すでもなく、ただしかし、住んでいる人間のお陰かどこか違和感のある花菱邸は、十年前に作り替えたタイル張りの外壁がぐるりと周囲を取り囲んでおり、それに似つかわしく無い切妻屋根の棟門は昭和三十五年の竣工から、そこにあり続けている。これらの財産は全て赤線地帯での成功によってもたらされたもので、実力主義のこの業界に於いて、花菱組の代表が世襲であるのも、それが大きく関わっていた。元は一個の組織だった花菱組は昭和バブル崩壊の年に邦正会の傘下となり、現在に至っている。実力も資金も十分な花菱が未だトップに立つことができないのは、世襲を嫌う周囲の声が大きいからだ。
 田辺は棟門の二台の監視カメラの視覚に立つ。しばらくしてこちらに向かって歩くブルゾン姿が視界に収まり、田辺は指先で短いタバコを地面に弾き飛ばした。
「藤崎さん」
 目の前を通り過ぎようとしたところを呼び止めるや、驚いた様に飛び跳ねた藤崎の動きは図体の割に俊敏だった。安心し切っていたところを見れば、警邏のタイミングを把握しているということか。
「なんでぇ、田辺かよ。びっくりするじゃねぇか」
 キャップを持ち上げて、藤崎は頭をゴシゴシと掻きむしった。
「お見舞いですか?」
 つい二日ほど前から、花菱は自宅に戻っている。田辺も先日、高い祝い金を持って挨拶に訪れたばかりだ。藤崎が手ぶらで来たところを見れば見舞いというよりは、小遣いでもせびりに来たのだろうと田辺は思う。
「ああ、いや、まあな」
 藤崎にしては珍しく、はっきりしない答えを返す。遠藤組への訪問に後ろめたさを感じる男でもない。
「こんなとこで、何してんだよ」
「ちょっと、お話でもと思いまして」
 田辺はこつりと、アスファルトでレザーソールを鳴しながら、藤崎に歩み寄った。
「親父さんにか?」
 じっと田辺の視線を追いかけながら藤崎が尋ねるが、田辺はそれには応えず、タバコのケースを引っ張り出して一本どうです?と藤崎に返した。いささか遠慮がちにタバコを口に咥えた藤崎の、それに火をつけてやったあと、田辺は自分も一本咥えて火をつけた。先端がチリチリと赤く燃え、田辺は口腔内の煙を空気と共に肺に流し入れる。
「いやね、今日は藤崎さんにお話があるんですよ」
 田辺はもったいつけたように煙を吐き出した。
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