死に損ない

文字数 1,666文字

 嗄れた深澤の声が田辺を読んだ気がしたのだ。心臓が一際大きく脈を打ち、田辺はその衝撃に大きく息を吸い込みながら瞼をカッと見開いた。途端に死んでいた全ての感覚が一気に目覚める。屋根や地面を叩く雨音、嗅ぎ慣れない他人の部屋の匂い、古いアパートのしみったれた天井、酷く痛む頭、激しい鼓動で胸骨が内側から破壊される様な衝動、それら全てが洪水の様に流れ込み、脳みそを撹拌し田辺は混乱した。電気系統が一時的にエラーを起こした田辺の体は、ほとんど反射的に、田辺自身の意志や思考とは関係なく立ち上がる。
「く、くくみちょう」
 駆け寄った健二の腕を力強く振り払い、足を踏み出したが、上手く地面を捉えられずに田辺は左側へと大きく傾いた。押し入れの襖に倒れた田辺は、そのままずるずると畳の上にへたりこむ。健二が田辺の肩を抱き、渦潮の様に脳内をかき乱した混乱は、脱力とともに田辺を置いて去った。いつ戻ったのか、いや、どれくらい眠っていたのか?健二から、わずかな汗の匂いに混じる石鹸の匂いを嗅ぎ取った。向こうに見える狭い室内のどこにも大峰の姿は見当たらない。ふーふーと肩で息を繰り返す田辺の背中を撫でる健二は、巻き込まれた自身の感情を抑えきれずに嗚咽していた。
「大峰……」
 帰ったのか?そう尋ねかけた田辺の唇に、健二のそれが重なり、田辺は思わず健二を向こうへと押しやった。今はそんな気分になれない。尻餅をついた健二は赤く濡れた目で、田辺を睨みつけた。
「なんだよ、その目は」
 健二は唇をきつく結び、田辺の問いかけに答えるつもりはない様だった。背中の落書きにしろ、今の態度にしろ、どういうつもりなのか、今日の健二はいつもと様子が違っている。なんにせよ、ガキの心境など知ったことかと、田辺は振り返えった。カーテンのない窓の向こうには、日の落ちた暗い空があった。数時間、意識を失っていたということか。田辺は大峰が締め上げた首元に手をやった。今もまだ大峰の手が締め付けているような錯覚があり、田辺は人差し指でネクタイを緩めてやる。まただ。と、田辺は人生で何度目かになる、死への対峙にため息をついた。それは諦めにもにている。また死に損なった。
「いさみ」
 そう呼んだ嗄れた深澤の声に呼び戻されたのだ。死に損なった時、田辺はいつだって自分の名前を思い出す。極楽へ行けないことはわかっていたが、地獄へも行けないのか。と、田辺は自分を嘲った。
 酷い倦怠感と、筋肉が千切れるような痛みが体中にある。それに、まだ酷く頭が痛かった。この雨の中、一人で事務所に戻れるような気もしない。迎えを呼ぶか、と、田辺がジャケットのポケットに手を入れたところで、田辺は正面からの衝突に、仰向けに転がった。一度手にした携帯電話が、ささくれた畳の上をすべっていく。古いランプシェードの蛍光灯が、田辺の真上に影を落とし、腹の上に跨った健二が田辺を見下ろしていた。健二は、田辺のベストのボタンを、引きちぎらんばかりに、乱暴に外していく。体が完全に目覚めていないのか、倦怠感のぜいなのか、田辺には健二を押しやる気力も体力も削げ落ちていた。
「よせよ」
 呆れる田辺に構うことなく、健二は続けてシャツのボタンを外しだす。よせ。田辺は健二の手を掴んだが、田辺の声など聴こえていないのか、健二は一心不乱にボタンを外し続ける。
「おい、健二」
 シャツのボタンが全て外れるなり、健二はネクタイへと手を付けたが、ネクタイを締め慣れない健二の手は、上手く解くことが出来ないでいる。片方を引き抜けば、簡単に外れるということも健二は知らない。苛立った様に唸り声を上げると健二は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃなった顔を田辺の胸に押しつけた。健二は握った拳を、見事な雲額の掘り込まれた田辺の胸に、一つ、二つと打ちつける。鍛えられた筋肉が、健二のそれを受け止めた。健二のそれらが、大峰への強い嫉妬と、葛藤である事に、田辺はまだ気付いていない。金髪の伸び切った小さな頭を眺めながら、田辺はただじっと、臓器を震わせる健二のくぐもった咆哮を聞いていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み