覚悟

文字数 2,763文字

 飲みすぎた酒と不摂生な生活を続けた田辺の足は、酷く浮腫んでいた。
 久しぶりに履いた革靴はみっちりと隅々まで足で埋められたようで、アッパーに締め付けられる甲が、踵を上げるたびに少し痛んだ。かろうじてつま先だけは、余裕があり、足を踏ん張るのに苦労はない。ただ、不快ではあった。雨はまだ降り続いていたし、消毒液とアルコールの匂いが漂う廊下を歩くのは、靴が窮屈に感じるのと同じだけ田辺には不快だ。久しぶりに表へ出てみれば、着いた先が病院だというのも、解せない。歩くたびに靴底がカツカツとリノリウムの床を叩き、天井や壁に跳ね返るその音だけが、田辺の不快感を少しだけ紛れさせた。
 入院病棟のエレベーターを三階で降り、詰所の看護師が田辺を見るや、またか。と、迷惑そうな表情を浮かべる。それはすでに花菱組の面々が、ここを通って行ったという事で、出遅れたかと、田辺は舌打ちした。エレベーターから直線に続く廊下の両側には、相部屋がいくつか有ったが廊下を歩く人の気配はない。それもそのはずで、面会時間はまだ数時間先なのだ。
 人気のない廊下には、病室の開いたドアから、テレビの音が申し訳なさそうに流れ出しており、その廊下の突き当たりに、スーツ姿の男が二人見えた。片方は修の運転手をしている鈴木で、もう片方は花菱組会計係で、フロント企業である金融会社執行役員の小松だった。見た目はそこらのヤクザと変わらないが、日本の最高学府を卒業し、大手銀行に十五年務めた後、極道の道へと足を踏み入れた異色の経歴の持ち主だ。
 鈴木がかしこまりながら「ご苦労様です」と頭を下げる傍らで、小松は足元から頭のてっぺんを舐めるような視線を寄越して「遅いじゃねぇか」とチクリと田辺を刺した。遅れたのは、青果店が開店するのを待っていたからだ。まさか手ぶらで顔を出すわけにもいかない。田辺の手には桐箱に入ったメロンがあった。
「どんな様子です?」
「目ぇ覚めてるよ。うわごとみてぇにお前を呼ぶもんだから、修の野郎が嫉妬してらぁ」
 今朝がた、空がまだ暗い内に田辺を目覚めさせたのは、一本の電話だった。ブーブーと繰り返すバイブ音に目を開けると、暗い部屋の中で着信を知らせる赤いランプがチカチカと煩く瞬いていた。しばらく顔を出していない事務所で何かあったのか? 田辺は勘ぐったが、それより良くない報せであることが安易に想像できたのは、着信を残す相手が修だったからだ。
「はい、田辺」
 アルコールで焼けた喉からは、空気だけが漏れた。酒を飲みすぎたと、反省したのもつかの間、電話の向こうで慌てふためく修の声を聴いた。
「田辺! 親父が……親父が今、病院に……」
 カチコミかと田辺は、深夜三時の緊急電話に飛び起きることになった。
 いい迷惑だ。
 よくよく聞けば、便所で不整脈を起こして、卒倒したというだけの話だった。便器で頭をぶつけはしたが、出血もない。本人は朦朧としながらもプライドの高さが邪魔して、救急車を呼ぶ事を拒んだというのだから、大したものだった。
「田辺です、失礼します」
 スライドドアを引くと、余程慌てて出てきたのだろう、寝巻がわりの浴衣の女が目に飛び込んだ。化粧っ気のない五十代と思しき女で、顔にかかった後毛が疲れた印象だ。小さな鼻におちょぼ口と、美人というわけではなかったが、豆腐のように白い肌が、欠点を覆い隠しており、加えて、表情や仕草には円熟した艶がある。いい女だと、田辺は思う。それからベッドに横になる、枯れ草の様に萎びた老骨の姿を視界に収めた。神楽坂で会ってから二週間とたたずの再会だというのに、まるで何ヶ月も前の事かと勘違いしそうな花菱の変貌ぶりに、田辺は唖然とさせられる。かつて威光を放った眼は、どんよりと表の曇天と同じ色をしていた。もう、そう長くはないか。田辺は花菱の先行きを予想する。
「田辺、遅いじゃねぇか」
 手前の椅子で不貞腐れた修が、小松と同じように嫌味を漏らし、田辺は「申し訳ない」と不本意ながらも頭を下げた。桐箱のメロンを修に押しつけ、田辺は花菱の側へと歩み寄る。老体から発せられる独特な匂いが鼻をつき、これは死臭だと田辺は胸の内で嗤った。
「修、悪いな、おめぇは表に出てろ」
「なんだよ」
 不満だと文句を垂れた修だったが、親の言う事は絶対で、メロンの桐箱を抱えたまま、不機嫌に病室を出て行った。
「組長、あたしもそろそろ……」
 浴衣の女が立ち上がり、花菱がすまねぇなと応える。
 聞き覚えのある声だった。どこで聞いたか、そう遠い話じゃないと田辺は頭の中で引き出しを探った。
「それじゃ、田辺さん、失礼しますね」
 頭を下げて、しなりしなりと歩く後ろ姿に、田辺ははっとさせられた。いつもは紬の品の良い着物に結い髪、化粧をしているので、わからなかった。神楽坂の料亭の女将だと気付き、女が化粧で変わるというのは本当だと田辺は感嘆する。元は芸者として座敷に上がっていた女将は、立方ながら三味線も大層な腕だと聞いていた。寡婦となってからは、芸者当時の贔屓筋だった花菱が面倒を見ている。年をとっても目は腐ってないということか、と花菱の趣味の良さに田辺は舌を巻く。
「良い女だろ? 田辺よ」
「ええ」
「俺が逝っちまったら、おまえにくれてやらぁな」
 他人のお古に興味はなかったが、あんなお古なら悪くない。
「冗談は止してくださいよ……お体の方は?」
「まぁなんとかな……こないだのことだけどな、早めにナシつけてぇんだよ。俺ぁもうそう長くはもたねぇな」
 贅沢な生活をしてきたつけで、花菱は肝硬変を患っており、そこから併発した糖尿病も抱えていた。その上に、近頃は時々、今朝のような不整脈まで起こした。自分の目が黒い内に、なんとか話をつけておきたいという、花菱の気持ちは田辺もわからないでもない。
「他の組長には?」
「手打ちになったら、報せりゃいい。それまでは、内密に動いてもらいてぇんだ」
 やはりプライドが許さないということだろうか。
「あちらもタダじゃ尻をあげませんよ?」
 田辺の本来の仕事は渉外だ。組同士の揉め事が起これば、先陣を切って相手方に乗り込み、話し合いで解決する。ヤクザも逮捕者を出すだけの無益な暴力沙汰は好まず、物別れに終わることはそうそうなかった。ただ今回はそう簡単に話を聞くような相手でもない。
「すぐにでも、若中頭を下りてやらぁ」
 若頭に次ぐ役職である若中頭を下りるということは、花菱が腹を括ったという事になる。それは実質の引退宣言だった。直参の花菱三代目が引退するとなると、修がトップに立つ花菱組は直系となり、その地位が落ちるのは確実だ。自らの権力を放棄してまで、修を守ろうというのだから本気なのだろう。
「承知しました」
「苦労かけるな……」
 花菱はそう言って、窓の向こうを見やった。
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