曼珠沙華

文字数 3,090文字

 管轄が違えど、刑事を事務所に招くのは如何なものかと、田辺は思案した。それに、佐治の偵察隊に顔を見られなかったという確証もない。先回りされていればまた一つ、佐治に弱みを見せることになりそうで、田辺は拾ったタクシーで大久保にある岸本の自宅アパートへと向かった。そこなら邪魔が入ることもないと考えたのだが、部屋に着いてみれば、玄関ドアから顔を覗かせたのは岸本ではなく、弟の健司だった。よれたTシャツにハーフパンツという、だらしのない格好で顔を出した健司は、田辺の突然の訪問に随分と驚いた様子だった。聞けば、岸本は急な電話につい先程出て行ってしまったらしい。健司はどことなく不機嫌そうな顔で、田辺の後ろに立つ大峰にコクリと頭を下げた。
 田辺がここを訪れたのは三度目のことで、最後は刑務所へ入る少し前のことだ。当時一人で暮らしていた岸本だったが、部屋は整理されていた。それが数年ぶりに訪れてみれば、玄関先には靴箱に入り切らないスニーカーやサンダルが、いくつも積み上がっており、小さな台所から寝室に向かって、そこここに、脱ぎ散らした洋服や、ゴミ袋が放置されていた。
「か、か片付ける、ひ、ひ、ひまなくって……」 
 言い訳しながらそれらを拾い上げる健司に続き、田辺は部屋へと踏みこんだ。一間の部屋には敷きっぱなしの布団が一組あり、健司は裸足の足で布団を蹴り上げると、拾い上げた洋服やゴミ袋をその上に積み上げた。確かに、予定してたわけでもない突然の訪問だったが、岸本がこの状況を見逃しているのが、田辺は気にかかる。
「世話んなってんだから、兄貴に迷惑かけんなよ」
 田辺が足元の洋服を爪先で蹴り飛ばす様子に、健司は不貞腐れ「か、か、帰ってこねぇし……」と岸本に対する不満を漏らした。健司が入り浸る様になってから、岸本はあまり自宅に戻らなくなったのだ。どこで寝泊まりしてるのか、ふらっと健司の様子を見に戻って来る事もあったが、一晩居座ることもなく、金だけ残してまた出て行くのだ。健司にしてみれば、避けられている様で、義兄の行動に納得がいかない。毎度、急いで玄関を出て行く兄の後ろ姿を思い出し、健司は窓を乱暴に開けた。
 田辺はジャケットの内ポケットから一万円札を取り出し、健司に寄越す。
「タバコ、買って来いよ」
「タ、タ、タバコだったら……」
 先程まで布団が敷いてあった枕元には、メンソールのマルボロが一箱、汚れた灰皿と共に置いてある。田辺は健司の落とした視線の先には関心がないと言った風に、タバコを買ってこいと繰り返した。
「ほら、行ってこい」
 そう言って自分を押しやる田辺が不満なのだろう。健司は田辺の手を振り解き、そうして田辺の脇にぼんやり佇む大峰を睨みつけた。
「き、きが、着替えるから……」
 健司は田辺に背を向けて寝巻きがわりのよれたTシャツを脱ぎ始め、途端に田辺は唖然とする。色褪せた黒いシャツの下から顔を出したのは、フィルムドレッシングされた赤い二本の曼珠沙華だった。マムシだろうか、一匹の蛇が曼珠沙華に絡み付いている。田辺は思わず、健司の腕を掴んだ。
「なんだ、これ」
 いつからそこにあったのか、田辺は気付きもしなかった。再び健司は田辺の手を振り解き、派手な柄の開襟シャツを拾い上げる。
「なんでもねぇよ」
 声を荒げ、健司はシャツに腕を通し、背中に入れた絵をすぐさま覆い隠した。それから、握った一万円札をハーフパンツのポケットに突っ込み、大袈裟に足を踏み鳴らしながら、田辺に背を向けた。
「おい、健司」
 田辺の呼びかけが聞こえていない筈もないのだが、健司はビーチサンダルに足を引っ掛けると、足元にあった大峰の靴を蹴飛ばして表へと出て行った。何が気に入らないのだ。田辺は閉じていくドアの隙間から、健司を見送った。そもそも、アレはなんだ? 健司の背中に描かれた曼珠沙華は、残像の様に田辺の目に今もなお、鮮烈な赤い色を残している。
「刺青の絵には意味があるらしいですね」
 今度は大峰の的外れな問いかけに、田辺は首を傾げる。一生消えない落書き一つ一つの意味など考えたこともない。そもそも、その落書きを健司が背負うのだとすれば、どんな意味があるというのか。まだガキだ。田辺は健司が開け放った窓から、下階の狭い路地を見下ろした。傘もささずに健司はどこへ向かうのか、出て行った時と同じ様に乱暴な足取りだった。ちょうど差し掛かった交差点で、飛び出して来た自転車に何事かを怒鳴りつけ、健司はその角を曲がって消えた。
「ちなみに、田辺さんの背中のそれはどういう意味ですか」
 田辺の背中のそれを知っているのは、肺病を患う年老いた彫り師と、寝床を共にした人間だけだ。頑固者の彫り師が話すわけもなく、誰が話したかは察しがついた。責めるつもりも無いが、話した相手が大峰だというのが田辺は気に入らない。
 大峰の問いかけには答えずに、田辺はタバコを咥える。火をつけたところで、大峰は「タバコあるじゃないですか」と田辺が健司を追い出した理由に異議を唱えた。どこまで鈍い男なのか。田辺はそんな大峰にあきれる他ない。人払いでもなければ、一万円札を手渡したりはしなかった。
「生きた人間を食う、怖い妖怪らしいですね」
 巨大な髑髏は、夜な夜な町を彷徨いながら生きた人間を食らっては、腹を満たそうとする。どんなに食ったところで、腹は満たされることもない。
「そうですよ。生きた人間を食う。こんな商売ですからね、縁起の良いもんを背負うわけにもいきません。私ら、お天道様に顔向けできないバケモノですよ」
「田辺さんは、誰を食ったんですか」
 母、父、深澤、紫藤、それに花菱や健司や岸本もそうだ。田辺はこれまでもこれからも、自分の周囲を取り巻く全ての人間を食い尽くす。それは今ここにいる大峰も同じ事だった。佐治が何を考えているのかは知らないが、大峰が元で花菱組が解散するとなれば、花菱も大峰を見逃したりはしない筈だ。手を下すのが誰にしろ、今ならまだ間に合う。
「大峰さん、嗅ぎ回るのは辞めませんか。今日のアレが誰の差金かご存知です?」
「知りません」
 付けられてた事にすら気付いていないのだ。田辺は馬鹿な質問だと思い直す。
「内部で一悶着ありましてね。ウチと揉めてる派閥です。連中は、ウチの弱みを握ろうと必死だ。あんたが巻き込まれるのは、私が困る」
「僕が巻き込まれて、田辺さんが困る理由なんかないでしょう?」
 確かに大峰の言う様に、大峰が巻き込まれて困る理由はなかった。少し前の、大峰と知り合う以前の田辺なら、放って置いた筈だ。それでも大峰を遠ざけたいのは、佐治が深澤殺しを嗅ぎつけるかも知れないという事実とは、関係のない話だった。やはりそれは、大峰に対する、田辺の中に芽生え、育っていく感情の所為なのだ。
「ウチも生き残るのに必死なんですよ。変な噂をばら撒かれたんじゃ、揚げ足を取られ兼ねません。良い迷惑だ」
 田辺を潰したい佐治にしてみれば、田辺の醜聞は美味いネタになる。それに、深澤は敵対する誰かに殺され、自分は愛する父親を失った憐れな子でなければいけなかった。そうでなければ、深澤の残したプライドは深く傷つき、田辺は守るべきものすら失ってしまう。
「ところで、四月ごろ歌舞伎町で中国人の売人が逮捕されたのをご存知ですか? 芋ずるで二十人ほどが逮捕された事件です」
 中国系の企業が経営するクラブの話は、同じ新宿を根城にする田辺の耳にも届いてはいた。運営会社は大陸マフィアのフロント企業という噂もチラホラ耳に入ったが、四月なら、田辺はまだ府中で、詳しい話は知らなかった。
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