宵の空
文字数 1,489文字
「くだらねぇな」
後部座席に脚を組み、ふんぞり帰り咥えたタバコに、すかさず隣の岸本がライターを差し出す。大層な戒名をつけてもらったと、修は自慢気だったが、田辺に言わせれば、たかが戒名に三百万円も出したことが、くだらない。生きてる内は悪行三昧だったのだ、どんなに立派な戒名を付けたところで、罷り間違えても、極楽浄土に行ける筈もない。
花菱が逝った。
享年八十二歳の往生だった。寝静まった深夜、自宅の寝室で心不全を起こしたのだ。朝、女将が部屋を覗いた時には、もう既に事きれていた。随分、苦しんだのだろう。花菱は喉を掻きむしる様な格好で、畳の上に転がっていた。午前八時、田辺はその訃報をベッドの中で受け取った。四角く切り取られた新宿の青い空を見上げ、田辺はその澄んだ青色に冬の訪れを感じただけだった。
普段は開かれることの無い棟門が、数年ぶりに開かれた花菱邸での葬儀は、警察との一悶着はあったものの、花菱を慕った邦正会系列の組長らが会した派手なものになった。花菱邸の外壁ぐるりに横付けされた車はどれも高級外車ばかりで、普段集うことのない連中の、ここぞとばかりの見栄の張り合いに、アホくさい。と田辺は呆れ、花菱の戒名代と変わらない、香典が懐から出て行ったのも気に入らないのだ。
「くだらねぇな……」
田辺は再び、ボソリとつぶやいた。
石橋興業襲撃の件で、糸島は否認を貫き続けており、実行犯を特定できないまま物証のみで一先ず糸島を近々控訴する予定だと、新聞は報じていた。何より意外だったのは、この一件で余計なゴタゴタに巻き込まれたと憤慨した柏木が、糸島と佐治を破門に処したことだ。藤崎がそこまで計算していたとは考えにくかったが、田辺の思惑はどうにか形にはなった。花菱が死んだことで、今後邦正会の勢力図は大きく変わる。花菱組が何処かの組に飲み込まれるのは時間の問題だった。そうなれば、うまく立ち回るだけの話だと田辺は思う。これまでも、ずっとそうして来たのだ。何が変わるわけでもない。
周囲をビルに囲まれた田辺の屋上は、相変わらず日がささなかった。深まる秋の、間も無くやって来る冬の、冷えた風が首元を浚い、田辺は短く震えて肩をすくめる。田辺はずっしり重い家電量販店の紙袋を手に、色褪せたベンチに腰掛けた。その足下には、馴染みの中華料理屋から譲り受けた一斗缶が一つあり、側面に空気穴を開けるのには、随分苦労した。紙袋から、ノートや新聞の切り抜きをひっっぱりだし、一斗缶の中へと破り入れて行く。何処で手に入れたのか、それは本人ですら知らない、親類縁者の話まで詳細に集められた田辺と、深澤の人生の記録だった。
あの雨の日、大峰は凶弾に沈んだ。落雷にかき消された発砲音に、田辺は気づかなかったのだ。大峰の脇腹から侵入した銃弾は肋骨を粉々にした後、砕けた骨と共に肝臓を貫通し、静脈を裂いた。ほど近い消防署から、救急車が到着するまでの時間は、たったの十分。田辺はその、たった十分の永遠の中、自分の腕の中で徐々に死んでいく、大峰を見ていた。救急車のサイレンが、近づいて来るのを聞きながら、田辺はどこを見るでもない、大峰の開いた目を閉じてやり、なにが間違っていたのか、と己の人生を振り返ってみたが、結局はいつもと同じ場所に戻る堂々巡りで、また一人、背中の髑髏が人を喰い、田辺はただただ悲嘆に暮れた。
一斗缶がいっぱいになると、田辺はそこにライター用のオイルを撒き、火のついたマッチを投げ入れた。青い炎が一気に紙屑の上を覆い、やがてそれはオレンジ色の炎になり、白い煙は紫色をした、宵の空に昇っていった。
おしまい。
後部座席に脚を組み、ふんぞり帰り咥えたタバコに、すかさず隣の岸本がライターを差し出す。大層な戒名をつけてもらったと、修は自慢気だったが、田辺に言わせれば、たかが戒名に三百万円も出したことが、くだらない。生きてる内は悪行三昧だったのだ、どんなに立派な戒名を付けたところで、罷り間違えても、極楽浄土に行ける筈もない。
花菱が逝った。
享年八十二歳の往生だった。寝静まった深夜、自宅の寝室で心不全を起こしたのだ。朝、女将が部屋を覗いた時には、もう既に事きれていた。随分、苦しんだのだろう。花菱は喉を掻きむしる様な格好で、畳の上に転がっていた。午前八時、田辺はその訃報をベッドの中で受け取った。四角く切り取られた新宿の青い空を見上げ、田辺はその澄んだ青色に冬の訪れを感じただけだった。
普段は開かれることの無い棟門が、数年ぶりに開かれた花菱邸での葬儀は、警察との一悶着はあったものの、花菱を慕った邦正会系列の組長らが会した派手なものになった。花菱邸の外壁ぐるりに横付けされた車はどれも高級外車ばかりで、普段集うことのない連中の、ここぞとばかりの見栄の張り合いに、アホくさい。と田辺は呆れ、花菱の戒名代と変わらない、香典が懐から出て行ったのも気に入らないのだ。
「くだらねぇな……」
田辺は再び、ボソリとつぶやいた。
石橋興業襲撃の件で、糸島は否認を貫き続けており、実行犯を特定できないまま物証のみで一先ず糸島を近々控訴する予定だと、新聞は報じていた。何より意外だったのは、この一件で余計なゴタゴタに巻き込まれたと憤慨した柏木が、糸島と佐治を破門に処したことだ。藤崎がそこまで計算していたとは考えにくかったが、田辺の思惑はどうにか形にはなった。花菱が死んだことで、今後邦正会の勢力図は大きく変わる。花菱組が何処かの組に飲み込まれるのは時間の問題だった。そうなれば、うまく立ち回るだけの話だと田辺は思う。これまでも、ずっとそうして来たのだ。何が変わるわけでもない。
周囲をビルに囲まれた田辺の屋上は、相変わらず日がささなかった。深まる秋の、間も無くやって来る冬の、冷えた風が首元を浚い、田辺は短く震えて肩をすくめる。田辺はずっしり重い家電量販店の紙袋を手に、色褪せたベンチに腰掛けた。その足下には、馴染みの中華料理屋から譲り受けた一斗缶が一つあり、側面に空気穴を開けるのには、随分苦労した。紙袋から、ノートや新聞の切り抜きをひっっぱりだし、一斗缶の中へと破り入れて行く。何処で手に入れたのか、それは本人ですら知らない、親類縁者の話まで詳細に集められた田辺と、深澤の人生の記録だった。
あの雨の日、大峰は凶弾に沈んだ。落雷にかき消された発砲音に、田辺は気づかなかったのだ。大峰の脇腹から侵入した銃弾は肋骨を粉々にした後、砕けた骨と共に肝臓を貫通し、静脈を裂いた。ほど近い消防署から、救急車が到着するまでの時間は、たったの十分。田辺はその、たった十分の永遠の中、自分の腕の中で徐々に死んでいく、大峰を見ていた。救急車のサイレンが、近づいて来るのを聞きながら、田辺はどこを見るでもない、大峰の開いた目を閉じてやり、なにが間違っていたのか、と己の人生を振り返ってみたが、結局はいつもと同じ場所に戻る堂々巡りで、また一人、背中の髑髏が人を喰い、田辺はただただ悲嘆に暮れた。
一斗缶がいっぱいになると、田辺はそこにライター用のオイルを撒き、火のついたマッチを投げ入れた。青い炎が一気に紙屑の上を覆い、やがてそれはオレンジ色の炎になり、白い煙は紫色をした、宵の空に昇っていった。
おしまい。
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