文字数 4,202文字

 歌舞伎町の中国系クラブに出入りしていた中国籍の売人が現行犯逮捕された。運が悪かったと言うべきか、客に紛れて潜入していた麻取のGメンに、こともあろうかLSDを売ったのだ。売人は黙秘を貫き通しているが、男の逮捕をきっかけに、この三か月ほどで、すでに二十二名にも及ぶ逮捕者が出ていた。
「男の自宅から、七年間、毎日欠かす事なく、書かれた日記が見つかりました。几帳面だったんでしょうね、どんな客に何を売ったのかまで詳細に記録されてました。その中に一件、六年前の事件に関する記述が出てきたんです。深澤さんの携帯電話に二回だけ着信のあった飛ばし番号です」
 田辺は濡れたアスファルトに視線を落としたまま、静かに大峰の話に耳を傾ける。
 六年前、田辺は歌舞伎町の路地裏で、中国人の売人から、大峰の言う飛ばし番号の軽帯電話を一台、購入した。深澤を呼び出す為に必要だったのだ。今度はただの勘というわけでも無さそうだった。大峰は一言一言、はっきりと断定しながら言葉をつなぐ。
「売人は飛ばし携帯を買った人物についても、詳細に記してました。身長は175センチから180センチ、体格は細身、年齢は二十代後半から三十代前半、黒いスウェットの上下に、真新しいスニーカー。それにヤンキースのキャップを被ってたそうです」
 それは自分だと、田辺はしっかり記憶している。当日身につけたものは全て、安売りの量販店をいくつか回って購入した。どこにでも売っているもので、誰でも手に入れられる。
「そんなんじゃ誰だか分かりませんね」
「ええ、分かりません。ですが、最後に一言、ヘイダオと書かれてたんです」
 一体どういう意味だろうか? 
「我々もそうですけど、こういう仕事をしてると、分かるでしょう? 同業者っていうのが」
 大峰の言うとおり、同業者は一目でわかった。どんなに隠そうとしても、空気で感じ取れる。
「黒い道と書いてヘイダオ。ヤクザです」
 中国人の売人はカタコトの日本語で、随分間抜けな顔をしていた。何かを口にするたび空気が漏れる様な音がしたのは、前歯が一本無かったからだ。あんな間抜けでも相手の素性を嗅ぎ取るだけの嗅覚があるのかと感心した一方、売人の今後を田辺は案じた。芋づるで逮捕者を出したことで、表に出られたとしても、売人が生きていられる保証はない。日記など残すのは馬鹿のすることだと思いながらも、カタコトの日本語に油断があったことは否めなかった。
「体の大きな紫藤さんでは、特徴に一致しません。ヒットマンにしては慎重すぎる」
「認めたら、関わり合いになるのを辞めてもらえるんです?」
 大峰に解決する気がないのなら、自分の手が後ろに回ることもない。そう田辺は高を括る。
「認めるんですか?」
「あんたが、手を引くってんなら、いくらでも認めますよ」
 田辺がそう言うや早いか、後ろでガチャリと硬い金属が鳴り、刹那振り返った田辺の鼻先に、拳銃が突きつけられた。田辺は驚いたと同時にこれがP230JPかと、感心する。さすがの田辺も本物を、目の前で見たのは初めてだった。先程の金属音は遊底をスライドさせた音だ。だとすれば初弾は装填済みということだと、田辺はグリップを握る大峰の手に目をやった。右手の人差し指は、まだトリガーには掛かっていない。
「冗談でしょう」
「冗談じゃないですよ」
 大峰は親指で撃鉄を起こした。本来ならば、オートマチックの銃では不要な操作だった。ダブルアクションに比べて、シングルアクションはトリガーの押し込みが軽く済む。ともすれば、ちょっとしたはずみで撃鉄が弾を弾き出す可能性もあった。確実に、というよりは、勢いで、大峰は田辺にその弾丸を打ち込むつもりらしい。田辺はそれが、大峰の迷いにも見えた。
「こんなとろこで発砲すれば、停職処分じゃ済まなくなる」
「知ってます。懲戒、もしかすると、田辺さんを殺したことで刑務所に入ることになるかも知れません」
 それでも構いません。
 大峰はじっと田辺を見据えたまま、その覚悟を口にした。
 迷いはこれじゃない。
「殺したところで、帰って来るわけじゃない」
「そうですね。でも、これで溜飲が下がる」
 これでもない。田辺は大峰の迷いを探る。グリップを握る手も、それを支える腕も、大峰には一ミリの揺らぎもない。日本国内に居ながら拳銃をこうして人に向ける機会も無かっただろうと考えれば、今の大峰は腹を括っているということだった。いつでも田辺の頭をぶち抜ける。
 大峰は徐にトリガーに指を掛けた。
 自分の見た大峰の迷いは、勘違いだったのかと田辺は大峰の顔を正面に捉える。ぽかりと開いた井戸の目が、田辺を見据えていた。何もない。虚無だ。大峰のそこに二つの穴を穿つのは、紛れもない虚無なのだと、田辺は確信した。福永が死んだその日に、大峰は何もかもを置いて来た。それは田辺が深澤と決別した時と同じだった。愛されるべき親から愛されず、愛すべき人間を失った。大峰が自宅の屋上で田辺に言ったことが、田辺の頭の中で繰り返した。
「シンパシーです」
 共感、共鳴、シンパシー。呼び方はどうあれ、田辺は今、目の前の男から溢れ出す虚無に、飲み込まれようとしている。これが因果なら、こうなることは生まれる以前から決まっていたと言うことだと、田辺は納得した。そもそも自分が消えれば、一連のゴタゴタの結末を、見届ける必要もなくなるのだ。ただ一つ、これが最後なのだとすれば、大峰には聞きたいことがあった。胸に刺さった目に見えないナイフのことだ。
「大峰さん、一つ聞かせてください。深澤は、親父は、本当に自ら命を絶ったんですか? それがどうしても引っかかってんです。あの人は、あの頃、まともに話もできない程に、イカれてた。私の顔だって曖昧でした。自分の意思で何かを選び取ることなんて、出来たんですかね?」
「以前、お話した通りです。首を絞められた状態で意思を貫き通すのは、並大抵の精神力で、できるものじゃありません。深澤さんは、少なくとも殺される直前、正気を失ってなかった」
 田辺は目を閉じ、最期に見た深澤の姿を瞼の裏に思い描く。膝の上でぐったりとした深澤の口端からは、泡が吹き出していた。鬱血して腫れ上がった瞼は開いたままで、何を写し出すでもない眼球が、ぐるりと上を向いていた。田辺は着ていたジャージを脱ぎ、深澤の顔を拭ってやり、瞼を下ろしてやった。それでも眠っている様には見えないのだ。弛緩した筋肉では、止めることが出来ない体液が漏れだし、車内には悪臭が広がり始め、深澤が死んだことを思い知り、田辺は少しばかりの罪悪感と、強い喪失感と、深澤に対する愛惜に哀哭した。
 目の奥がビリビリと痺れ始め、田辺の右頬を涙が伝う。すまなかった。そんな詫言は、あの世で、直接、深澤に伝えよう。田辺はそうして瞼を持ち上げた。片方の視界は滲んで見え、目の前男の表情は読み取りづらい。田辺はグリップを握る大峰の手に、自分の手を添えた。酷く冷たい手だった。驚いた大峰はトリガーから指を外し、一歩後退る。田辺は握った大峰の手を掴んだまま、ここを撃ち抜けと、銃口を眉間へと誘導した。
「やるなら、ここんとこを、一発でお願いします」
 やっと逝けるのか。田辺は独言ちた。ようやく深澤のところへ逝ける。田辺が覚悟を決めた途端、眉間に押し当てた銃口が、小刻な振動を田辺の頭蓋骨に響かせた。ここにきて、何をビビることがあるのか、田辺は大峰の手が小さくと震えていることに気がついた。腹を括った途端、大峰の復讐心は萎えたのか、大峰の拳銃は、今、田辺が支えている。
「今更、ビビるんですか?」
「僕も、一つ聞かせてもらいたいんです。どうして、遺書なんて書いたんですか?」
 藤崎がどういう心理で遺書を残していったのかは、田辺には想像も出来なかった。自分なら、そんな下手な小細工はしない。と田辺は鼻で笑った。
「下手な小細工ですね。遺書を書いた理由なんて忘れましたよ」
 田辺が言い終えるより早く、大峰はデコッキングレバーを下ろした。カチリと撃鉄がハーフコックに戻り、大峰は田辺の手を振り解いて、拳銃を下げてしまう。
「誰を庇ってるんですか? あなたが福永をやったなら、遺書は誰が書いたものなのかご存知の筈です」
 福永のジャケットの内ポケットにあった手帳から、福永自身が書いたと思われる短い遺書が見つかったのは、福永の遺体発見後、二日目のことだった。手帳の中程に「疲れた」の文字が走り書かれていた。鑑定の結果、福永の筆跡との一致は二十箇所あり、福永本人が書いたものだと証明されている。
 余計なことを話しすぎたと田辺は少しばかり後悔する。こんなことなら、藤崎がどうやって福永を殺したのか確認しておくべきだった。大峰がいう様に、藤崎を庇ってやる気は毛頭ない。しかし、かと言って、田辺は藤崎を売る気もなかった。藤崎を売ることは自分の流儀に反する。
「シンパシー。そうおっしゃいましたよね? そんなモノに目が霞むポンコツでもないでしょう? 福永さんをやったのは、私ですよ」
 大峰は再び拳銃を持ち上げた。銃口は田辺が期待した方へは向かないまま、大峰は安全装置のレバーを下げ、ジャケットの内側へと仕舞い込む。続けて着古した大峰のトレンチコートがばさりと音を立て、畳の上へと落とされた。さらに大峰はグレーのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを解き、拳銃を仕舞ったホルスターを外す。予想もしなかった大峰の行動に、田辺はただ唖然と立ち尽くす。脱ぎ捨てた服が大峰の足元を覆い隠し、やがて大峰は白いタンクトップの下着も脱ぎ捨てた。大峰の体は日に当たらない生活のお陰か、その皮膚の下にある血管や筋肉が透けて見えそうなほど白い。着痩せするタイプなのか、露出した上半身の筋肉は滑らかに隆起している。厚すぎず、しかし痩せているわけでもない肉体は、ストイックに鍛え上げられたものだった。
「筋肉自慢でもする気ですか?」
 揶揄うつもりで言ってみた田辺だったが、大峰には冗談が通じないのだと思い出した。くすりとも笑わない大峰の表情は、どこか悲しげにも見える。大峰は田辺を一瞥すると、徐に田辺に背を向ける。スローモーションで眼前に現れたその光景に、田辺はごくりと息を呑んだ。
「母が残したものです」
 大峰の白い背中の半分以上を覆うのは、生々しく、皮下を透かすケロイドだった。

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