自宅にて

文字数 2,699文字

 シャワーを浴びて着替えを済ませた田辺が表へ出ると、大峰は十分前と変わらず低いフェンスに寄りかかり下界を見下ろしていた。
「面白くもなんともないでしょう?」
 そこから見下ろせる景色のくだらなさは、田辺がよく知っている。中途半端な六階建てビルの屋上からでは、東京の街が作り出す猥雑な夜景や、あるいは、富士山を遮る様に横たわる、丹沢山地の群山が見えるわけでもない。ビルの側壁からうじゃうじゃと生え出した袖看板の灯りと、それに群がる夜虫の様な人の群れが、行ったり来たりを繰り返すばかりなのだ。
「面白いですよ…あそこの二人」
 大峰が指差した先に目を落とすと、交差点の角に立つ街路灯の真下で、男女の二人連れが何やら話し込んでいるのが見えた。表情はわからなかったが女の方は、近所の店の従業員か、オフショルダーの派手なワンピース、男の方は何が入っているのか、分厚いショルダーバッグを肩から掛けたスーツ姿のサラリーマン風だった。
「あそこで話し込む理由ってなんやと思いますか?」
 何百軒と飲食店が軒を連ねる中、わざわざ表の交差点で立ち話。相手の男を店に入れたくないのだろうと、田辺は推測する。営業ならば携帯や名刺の入ったバッグを、持たずに外に出ることはない。二人の距離の近さを鑑みて、痴話喧嘩かとも考えてみたが、恐らくそれも違う。男のショルダーバッグもスーツも、若い女を相手にするには見合わなかった。
「親子喧嘩」
「なんで、そう思いました?」
「距離が近い。ありゃ他人の距離じゃない。それに、あんなダサいショルダーバッグ、若い男はもちません」
 田辺が言うが早いか、男の手が女の顔を打ち、刹那に女は人混みの中へと駆け出した。女が人混みにまぎれると、男はポツリと一人、街の景色から取り残されたように、女の消えていった雑踏を見つめ続けた。
「僕もそうだと思ってました……田辺さん、思ってたより賢いですね」
「褒めてんですか?」
 田辺が大峰を向き直ると同時に、大峰も田辺の方へと向かい合う。その後方からは濃い群青色の空が田辺の方へと迫っており、大峰の顔に落とし込まれた夕焼けの赤い色に、ポカリと二つ、ほの暗い穴があった。
 まただ、田辺はそう思う。
「お時間、よろしいですか?」
 病院の駐車場と同じように、そう大峰が声を掛けてきたのは着替えにもどった、自宅ビルのエントランスでのことだった。こちらはしつこいというよりは諦めが悪いのか、田辺はつい先ほど追い返した健二と、目の前の大峰を比較した。
 組対の連中に把握された自宅の場所を、今更隠すのもアホらしいと、大峰を伴いエレベーターに乗り込んだのだが、相変わらず的を射ない大峰は、話を聞きたいと言いながらも、どこから張っていたのか、事務所の雑居ビルを飛び出してきた健二の話を始め、屋上までやってくると今度は、物珍しい田辺の変わった自宅の話ばかりだった。つかみどころのない男の、くだらない話に相槌を打ちながら、田辺はその時、街中のそこここに溢れる色のない眼と変わりない、くたびれた大峰に、駐車場でのアレは、井戸の様な暗い色をしたあの眼は自分の勘違いだったのか、としばらく戸惑った。それが、今はどうだ。後ろに迫る濃い群青に、大峰の暗い二つの穴は溶け出し同化して、覗いてみろと田辺の好奇心を掻き立てるのだ。
「褒めてますよ」
「褒めても、何もでませんよ」
 目を逸らすことができないほどの、露骨な好奇心を悟られまいと、ごまかすように田辺はタバコに火を点けた。うっすら開いた口から、舌で転がしただけの煙が零れ出し、それは大峰の眼から田辺の気を逸らす煙幕となった。ただ、それも一瞬のことで、瞬く間に煙は赤い空気に溶けて消えてしまう。
「教えてもらえますか?」
 やおら口を開いた大峰は、深澤さんを殺した理由、と、そう続けた。
 遠くで警告音のように鳴ったクラクションか、大峰の言葉か、鼓膜を伝って田辺の脳を振盪させたのは、そのどちらかで、ひっかけたサンダルの底はちゃんとコンクリートを踏みしめていたのだが、田辺は体が浮き上がるようなめまいを覚えた。
「田辺さんですよね? 深澤さんを殺したの」
 大峰がそう確信できるだけの証拠も根拠もない。落ち着け。田辺はともすれば、今にも倒れこみそうな自身に言い聞かせる。
「証拠なんて、どこにもないでしょう」
 言ってみてバカな答えだと、田辺は考えたが、しかし、働かない頭ではそれが精いっぱいの言い訳だった。対して大峰はまるでその井戸の様な眼で、動揺を見透かしたように田辺を見据え続けており、次に何がその軽薄そうな、薄い唇から飛び出すのかと田辺は身構えたのだが、それはすぐに杞憂となった。
「証拠はありません。僕の勘です」
 ほっと胸をなでおろしたのは、そんなセリフが大峰の口からこぼれたからだ。
「勘?」
「そうです」
 それがどうしたと言わんばかりの大峰の物言いに、田辺はつい先ほどまでの自分の動揺は、一体なんだったのかと、自身の間抜けさを自嘲する。変わらず大峰の眼は田辺をじっと見つめ続けているのだが、だからどうだというのだ、目の前の大峰はただのイカれた男だと田辺は思う。イカれていると言えば、田辺が病院で出会った日もそうだった。この暑さの中、大峰は汗一つかかずにトレンチコートを羽織っていた。どうかしている。田辺は声も出さずに大峰を嘲った。
「勘なんてもんで、犯人にされたんじゃたまりませんよ。重要参考人だった若頭を殺したのは、そもそも警察でしょう? アレが生きてれば、今頃とっくに解決してたかも知れない」
 拘留期限を迎え、自宅へ返したその日の内に紫藤は首を括った。先に逝った深澤にあてた、短い謝罪の言葉を残したという話だったが、田辺は紫藤がどうなろうが気にも留めなかった。肝が小さかったのだ。狂っていく深澤を見て見ぬふりをつづけたこと、深澤が死んだこと、それによって生まれた罪悪感の重みに、耐えきれなくなっただけのことだ。だとすれば、自分はどうなのだ、と田辺は深澤を手にかけてなお、のうのうと生き続ける自分の矛盾に疑問を持った。深澤を手にかけたのも、その後こうして生き続けるのも、深澤のためだと言いながら、結局は自分のためではないのか。
 自分は人間の血肉をすすり肥大していくばかりの巨大な髑髏だ。
「紫藤さんが犯人じゃないのは、田辺さんがご存知でしょう?……十四歳の時、田辺さんは実の父親である、伊佐治さんを金属バットで殴って少年院に送致されました。半年後、少年院を出たあなたを、お父様は引き取ることを拒否されたそうですね?」
 今度は昔話を始めた大峰に、田辺は呆れたようにため息をついた。
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