フカザワ興業

文字数 2,904文字

 戦後間も無く焼け野原となったこの場所に建てられた、その古い雑居ビルにはエレベーターがない。あるのは摩耗したコンクリートの屋内階段と、外壁に這う様に屋上まで伸びた鉄の螺旋階段だけで、そちらの方は鍵がかけてあり、普段、出入りする事はできなかった。両脇をやはり似たような古い雑居ビルに挟まれたビル屋内は、三年前と変わらずカビと埃の匂いが充満しており、夏にもなれば階段室の壁はひどい汗をかく。湿気のお陰でクリーム色の塗装は剥げ、天井や床に近い部分はコンクリートが剥き出しだった。自社ビルとは言え、厄介なものを押し付けられたものだと田辺は思う。
 田辺は前組長の死後、雑居ビルごと組を引き継いだ。築七十年以上のビルは電気系統を含め、あちこちにガタが来ておりメンテナンスが不可欠で、馬鹿高い固定資産税を合わせればそれだけでも年間、数百万という費用が嵩む。それに加えて一階のビデオ試写室を筆頭に、二階のデリヘル事務所、三階の雀荘と、その全てが自社経営の為、家賃収入は無い。客の大半は常連ばかりでこの六年、収支はトントンというところだった。
 階段を上り切った先の重い鉄の非常口を出て突き当りの右手にトイレ、左手にすりガラスの嵌め込まれたやはりこちらも重い扉があった。そのすりガラスでは「フカザワ興業」と、黒いカッティングシートが規律よく主張しており、田辺はその扉の前に敷かれた泥落としのビニールマットで靴底を二度擦った後、丸いドアノブに手をかけた。
 ガチャリと扉が開くなり、手前のパイプ椅子に腰を掛けていた若い男が、ガタガタと椅子を鳴らしながら、慌てた様に立ち上がる。見ない顔だと田辺は若い男の頭のてっぺんから足の先までを舐め、次に、ブラインドの降りた暗い事務所の端から端までをざっと見渡した。
「岸本は?」
 やはりここにも岸本の姿はなく、田辺は若い男に尋ねたのだが返事はない。見ると若い男はキョロキョロと眼球をあちこちに忙しなく動かし、数度、金魚の様に口を閉じたり開いたりした後、ようやく絞り出す様に言葉を発した。
「あ…あ、兄貴は、い、いま、で、で、出かけて、ま、ます」
 緊張しているのか、ひどい吃音と早口に田辺は顔を歪ませた。
「す、す、すみ、すみません」
 短く刈り込まれた金髪の頭をがさがさと乱暴に撫で回すと、Tシャツから伸びた細い首が見る間に茹だった様に赤くなり、若い男は恥ずかしそうに俯いた。どこから誰が引っ張って来たのか、俯いた表情にはまだ随分幼さが残っている。いつからここは幼稚園になったのかと、田辺はそれを眺めて呆れた様にため息をついた。
「名前は?」
「き、き、岸本健二で、です」
 やはり吃音で告げられた名前に田辺は納得し、ああと声を上げ、岸本には歳の離れた弟がいたな、と思い出す。確か、弟を見たのは岸本携帯電話での事だった。仕事柄、名前と顔はしっかり覚えている方だ。言われてみれば、髪型は違っていたし顔つきも変わってはいたが面影はあった。
「学校は?」
 いくつ歳が離れていたかは忘れてしまったが、少なくとも、三年前はまだ中学生だったように思う。中学に入学するだか中学を卒業するだかという話を聞き、岸本に祝いを渡した記憶が田辺にはある。
「こ、こ、今年、こう、高校を、そ卒業、しま、しました」
 と言う事は中学を卒業した祝いを贈ったということかと、三年の月日の長さを田辺は思い知らされ、そうして、花菱から渡された三年の時間に対する対価を思い出し、ポケットから封筒を引っ張り出した。田辺は口を開き、ざっと中身を数え、半分をポケットに、半分を健二の派手なスカジャンのポケットに突っ込んでやる。
「卒業祝い。これでもっとマシな洋服でも買って来な」
 スカジャンに虎柄のハーフパンツでは格好がつかない。田辺は常日頃、服装には気を使う様にと部下には教えて来たのだ。
「あ、あ、ありがとう、ご、ございます」
 はいよ。と短く返事をし、田辺は上座の事務机に腰を落とした。机には殆ど鳴らない電話が一台と、鉛筆立てとメモパッドがあるばかりで、そのメモパッドにも何が書いてあるわけでもない。田辺は鉛筆立てから一本鉛筆を掴み取り、何も書かれていないメモパッドの表面を擦ってみる。
『九時、府中刑務所、ハナビシ』
 という文字と、ハナビシの隣に小学生の落書きのような「ウンコ」の絵が浮かび上がり、田辺は、はは、と声を上げた。花菱の父親には多少なりとも恩義があったが、息子の修には恩義どころか貸がかさむばかりだ。
 扉の向こうから一月ぶりに聴く、酒につぶれたような掠れた声が聞こえ田辺は顔を上げた。先ほど入った扉が押し開かれ、その向こうから覗いた顔と視線がぶつかり一瞬ピタリと時間が止んだ。そうして間もなく声を上げたのは岸本の方だった。
「おつとめご苦労さまです!」
 びしっと両手の指先を伸ばし九十度まで腰を折りまげ岸本は、鼓膜が裂けるのではないかと思えるほどの声を張り上げた。続いて山井が、やはりこちらも岸本に負けず劣らずの声を張り上げる。
「うるせぇよ、弟がびびってんだろ」
 扉の隣でオロオロ狼狽る健二に田辺が目をやると、やはり健二は恥ずかしそうにがさがさ短い金髪の頭を撫でた。
「他の連中は?」
「舞原と諸見里は集金行ってます」
「おまえらは、迎えにも来ないでお茶でもしてたか?」
 田辺がタバコを咥えるなり、すかさず山井が火のついたライターを差し出し、右手から岸本が厚いガラス製灰皿を差し出した。
 塀のこちら側では当たり前のことが、向こう側では通用しない。少人数とはいえ組織の長の田辺でも、ただの囚人だった。曲りなりに優劣はあったが、威張ったところで出所が早くなるわけでもなく、田辺もこの三年は大人しくしていたのだ。ただし、ここでは違う。田辺はガラス製の灰皿に手を伸ばした。すっと人差し指で引き寄せると、そのずっしりと重い灰皿を手に掴み、そこにあった岸本の手の上へと振り下ろした。ゴンっという堅い骨の感触が灰皿を伝い上って来ると、田辺はこれだとコーラをタバコを口にしたとき感じた感覚を想起させた。
 悲鳴を上げ御影石の床を転がる岸本も、その痛みをびりびりと感電したように、田辺の脳へと伝達する神経も、何もかもが生きている。三年の刑務所生活では味わうことができなかった、その感覚がようやく、田辺の麻痺した体に蘇った。
「ダメじゃねぇの、若頭なんか寄越したら。俺はアイツが嫌いだろ?」
 理不尽なのは百も承知だった。山井や岸本が花菱の申し出を断れる筈などありもしないのだ。しかし、花菱が白だと言ったものは白だが、田辺が黒だと言えば黒なのだ。
「も……申し訳……ありませんでした」
 痛みに震えながら岸本は、御影石の埃っぽい硬い床に頭を擦り付ける。
「二度とすんなよ」
 田辺はそう言い、再び健二の方へと目をやった。
 健司は目の前で兄の身に起こった暴力と理不尽に、怯えたように身体を震わせていた。
「三十分経ったら車まわせ」
 足元で小さく丸まる岸本に告げ、田辺は事務所を出た。
 暴力と理不尽で、この世界はできている。
 兄貴の方はもう少し腹が座っていた。と、健二の怯えた顔を思い浮かべた。
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