花菱

文字数 2,718文字

 件のコインパーキングには五台の車が駐車してあり、内三台は軽自動車、一台はファミリー向けのミニバン、残った一台はフルスモークの高級外車で、岸本が乗るにはずいぶんと値が張った。軽自動車もミニバンも、どちらも自分を迎えにやって来るには見劣りし、田辺はやはりこれだと、最低でも一千万円は下らない高級外車のボンネットに腰を下ろそうとして考え直した。これクラスの車ともなると、ちょっとした振動で警報装置が働く。田辺は仕方なくガードレールの上に腰を落とした。
 それにしても、岸本はどこへ行ったのか、最後に送った手紙で出所の時間は知らせておいた。それなのに、それが岸本のものかどうかもはっきりとしない高級外車が一台そこにあるだけで、当の本人の姿はどこにも見当たらない。右を見ても左を見ても、そこにあるのは刑務所の外の、しかし、面白味のない住宅街の風景だった。
 田辺はもう三本目になるマイルドセブンに火をつけた。すっかりニコチンに慣れてしまった田辺は、二本目からは一本目の感覚すら忘れてしまい、表へ出たありがたみも薄らいでいる。加えて久しぶりに味わった砂糖の甘さが口の粘膜をベタつかせ、甘い物など飲むものじゃない。と喉の渇きに苛立ちすら覚え始めていた。
 不意にアスファルトの上を小さな小石が転がり、艶のない爪先で止まると、田辺はその小石の軌跡を目で追った。自分の靴と違い、十分に手入れされた紳士靴が視界に入り込む。手入れされピカピカには磨かれていたが、自分の靴の半分にも満たない安物のその紳士靴を眺め、田辺はボンネットに腰を下さなかった事に少しばかりホッとした。
「よく似合ってるじゃねぇの」
 などと揶揄うような口振りで花菱修が言うものだから、田辺は、あははと声を上げて笑って見せた。この男は昔から靴もスーツもパッとしない。服や靴よりも、より派手でわかりやすい時計や車に金を掛けたがるのだ。それでかと、ようやく田辺は自分のスーツの出どころを理解した。
「おつとめご苦労さん」
 若頭が迎えに来るとは想像もしておらず、田辺も多少は戸惑ったのだが、元はといえばこの男のせいだと思うと、それもすぐに当然だという思いにすり替わった。
「どうだ?久しぶりのシャバの空気ってのは?」
 どうだ?と問われても、シャバの空気もムショの空気も、同じ排気ガスや誰かの吐く息が混じり、そう変わりはなかったのだが田辺は「ええ、結構なもんで」と、短く答えてやった。
 親の看板に守られた花菱は四十年、一度も塀の向こうの世界を知らないまま生きてきた、いわゆるボンボンヤクザというやつで、中学を卒業するより早く少年院に入る事になった田辺とは、住む世界も見ているものも違う。
 アホが。
 田辺は頭の中で吐き捨て、そうして乾いた口を潤すために、ペットボトルに残ったコーラを飲み干した。
 三年前、田辺が刑務所に入る原因を作ったのは、後部座席から体を乗り出し、謝罪の一言もなく呑気にこの三年の武勇伝を口にする花菱だった。
 父親の花菱組三代目が始めた新しいビジネスが順調らしく、この車もそのあがりで購入したらしい。柔らかすぎず硬すぎず、しっかりと体を受け止め包み込むようなレザーシートの座り心地は、成る程、高級車然としていたが、そのオーナーが花菱だと思うと田辺は、腹の底が煮え立つような気分でもあった。
 花菱が椅子に座って一月数千万を荒稼ぎしていた頃、田辺は時給十円にも満たない刑務作業に汗を流していたのだ。手にした空のペットボトルを、その忙しなく喋り続ける口に突っ込んでやりたい気もしたが、それは田辺の立場上憚られた。
「刑務所ってのは、あれなんだってな? ホモが多いんだってな」
 おまけに、そんなくだらない質問をするものだから田辺は閉口した。
「おまえなんか、モテるんだろ?」 
 田辺は振り向きもしなかったが、そう言った花菱のニヤついたいやらしい顔を頭に浮かべ、そうですね。と、答えたあと、いやそうだ、と思い直し「ホモっていうのはね」と、続けた。
「どっちかってぇと、体に脂肪のついた女みたいな丸い男がいいらしくってね、そういうのがモテるんです。俺みたいな痩せたのなんて、相手にされません」
 スーツのボタンが弾け飛ぶかと思うほどのビール腹をゆさゆさと揺らしながら、花菱がガハハと大笑いし、田辺は花菱には嫌味が通じない事を思い出す。頭が弱いのだ。と、諦め、それでもまだ話し続ける花菱の声をBGMに、フロントガラスに吸い込まれる景色へ目をやった。
「そういえば、あの女とは、どうなりました?」
 素人好きのする三十そこそこの痩せた女の姿を頭に浮かべ、田辺が尋ねると花菱はあっけらかんと「飽きちゃってさ、追っかけてる内がおもしれぇな」などと嘯き、田辺は、馬鹿は死んでも治らないと、心の内で花菱を揶揄した。
 素人などに手を出そうとするからいけないのだ。昔から花菱は、金と権力に集る商売女より素人の女を好んだ。それが、早くに病床に伏した母親を彷彿とさせるからか、あるいはただの趣味か、三年前、花菱は夫を持つ女に手を出した。ただの素人なら良かったが、相手の夫というのが厄介で、頭のネジが一本飛んだ様な人間だった。ヤクザ相手に物怖じもせず、妻の情夫だった花菱を強請り始めたのだから問題だった。素人から強請られるヤクザなど、一体どこの世界にいると言うのか。花菱から連絡を受けた田辺は呆れたが、情けない話はほかの誰に相談できるでもなかったようだ。花菱がただの構成員なら放っておけたが、若頭だけに無碍にすることも出来ず、田辺が相手方へ話をつけに出向く羽目になった。
 相手の頭のネジは一本どころか二本も三本も飛んでいたらしい。加減を知らない馬鹿なチンピラと、素人ほど怖いものはない。出会い頭に突然、包丁を突きつけられ、それに応戦する形で咄嗟に手を出したのだが、場所も時間もいけなかった。日中のファミリーレストランのテーブル席、大勢の一般市民に見守られる中での暴力沙汰は即刻、田辺に引導を渡すこととなった。もちろん、相手の男も逮捕されたのだが、これに諸手を上げて喜んだのは、ヤクザとそう変わらない組対の憎たらしい面々と、花菱くらいのものだった。
 事務所前で車を降りた田辺に花菱は、謝礼のつもりか償いか、現金が入った封筒を寄越した。しかし、その厚さを見れば中身はたかだか知れていた。
「ありがたく頂戴します」
 恭しく両手で受け取り、田辺はそれを乱暴にポケットに突っ込んだ。
 向こうへ走り去っていく7シリーズの姿が見えなくなるまで深々と頭を下げ、見送った後、田辺はちっと短く舌を打ち鳴らし、迎えに来なかった岸本に少しばかり腹を立てたのだった。
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