凶器
文字数 2,999文字
「六年前、深澤さんの事件を担当した、捜査一課の福永という刑事を田辺さんは覚えてますか? 田辺さんのところにも、うかがってるはずです」
川崎の築港に浮かんだ遺体が邦正会花菱組三代目の直参だとわかると、直ちに、捜査一課と組対の合同捜本部が結成された。当初捜査にかかわった刑事の数は延べ三百人ほどで、その内の数人には田辺も顔を合わせている。確かそうだと、田辺は福永という刑事が連れを伴い事務所を訪れたこを思い出す。眼鏡をかけた神経質そうな痩せた男で、年は四十がらみだろうか、真面目で不器用という印象を田辺が抱いたのは、零したちょっとした冗談に、微塵も表情を変えなかったからだ。目の前の大峰にも少し似ているような気がする。
「会ったのは、一回切ですけどね。覚えてますよ」
その後も福永と連れ立った向井という刑事は、何度か事務所を訪れたが、福永を見たのはその一回切だった。
「福永は、事件を担当して三月ほどで、自殺しました」
紫藤の話は耳に入ったが、自殺した刑事の話は初耳で、しかし、一度会ったきりの刑事の死に対する感慨は、別段湧いても来なかった。だが、田辺はその刑事が大峰の偲ぶ誰かなのかと考えると、なぜか面白くない。嫉妬。そんな言葉が脳裏をよぎり、田辺は馬鹿なと頭を振る。
「福永は自殺の少し前、新しい証拠を手に入れられそうだと、そう話してました。僕は自殺だとは考えてません」
藤崎は喫茶店でなんと言っていたか。監視カメラの映像を処分するのに随分手間取ったと、いかにも恩着せがましくそう言っていた。大峰の言う新しい証拠が田辺の映り込んだ監視カメラの映像だとしたならば、藤崎が福永に何をしたのかは田辺にも想像に難くない。
藤崎の名前を漏らしかけた田辺は、その言葉をどこにも出すまいと、慌てて口を右手で覆った。ヤクザの犬に成り下がった藤崎だったが、まさかそこまで汚い仕事に手を染めていたとは思いもよらず、田辺はその貪欲さにわずかばかりに身震いする。口元にやった手の不自然さをごまかすために、田辺は顎を撫で「それは……」と言いかけて、また言葉を詰まらせた。何を言おうというのだろうか、田辺が目の前の男にかけてやる言葉はなかった。井戸の様な暗い眼孔は瞬き一つせず、田辺を見据えたまま動くことはない。六年経って自分に近づいた大峰の理由を、田辺はようやく理解したのだ。
「復讐……ですか?」
「だったら、どうしますか? 深澤さんや福永のように、僕を殺しますか?」
「そんな、物騒な。ヤクザは素人さんには手をだしませんよ」
そう答えた田辺の声は落ち着いていたが、頭の中が些かばかり混乱していた。警戒しろ。と頭の半分がサイレンを響かせ、もう半分は判断を誤ったと、エラーメッセージを送り続けていた。病院の駐車場で大峰と出会った時からずっと、田辺は大峰に対する判断を誤り続けて来た。害はない。そう思ったのは、今もなお田辺の内側に蓄積されていく、大峰への愛着のせいか。簡単にいってしまえば、情がうつったのだ。駐車場でか屋上でか、またはライターから火を貰った時か、どこかの時点で田辺は自分でも気づかぬうちに大峰に情をうつしていた。親兄弟のいない田辺が唯一、同じ感情を持った男は、この世でたった一人だ。
ちょうど今頃の時期だった。田辺の携帯電話に、事務所から深澤が消えたと連絡があったのだ。あの頃の深澤と言えば、頭のはっきりした日は会話もできたが、そうでない日は手に負えず、呆けた様に事務所の一人掛けソファーの定位置で、狭苦しい新宿の空を見上げてぶつぶつやっていることが増えていた。電話番が便所へ立ったその隙に、深澤はふらふらと表へ出て行ってしまったのだ。田辺は連絡を受けてすぐ、コンビニで一本ビニール傘を買った。まさか深澤を濡らすわけにもいかなかった。歩道を歩く人波に、路上に面した店の窓に、田辺はただただ深澤を探して歩き続けた。どれほど歩き回ったのだろうか、濡れて縮んだ田辺の革靴は、随分窮屈になっていた。不意に目についた遊歩道の真ん中で、日増しに増える薬によって、すっかり痩せてしまった深澤の後ろ姿を見つけた。雨に濡れてグレーになったジャケットはサイズが合わなくなっており、左肩がずるりと垂れ下がっていた。
「探しましたよ、代表」
田辺は駆け寄り深澤を傘に入れてやった。事務所を出る前に打ったらしい注射が効いていたのだろう、輝きを忘れた目が田辺を見上げ「なんでぇ……勇美の野郎はまた女のところか?」と、尋ねたのだ。やせ細った深澤の肩を抱きながら、田辺は、もうダメだと、声を殺して泣いた。深澤が自宅から持ち出した日本刀を手に、花菱の自宅を襲撃したのは、それから幾日も経たない内のことだった。
「オヤジ……」
田辺はぼそりと零した自らの声に、呼び起こされる。
男として、親として、家族として、田辺は深澤を愛していた。田辺の目から頬を伝い落ちる涙は、すぐに降り注ぐ雨に隠された。
「一つ、深澤さんのことで、伝えておきたいことがあります」
田辺の涙を知ってか知らずか、大峰は話しを続ける。
「深澤さんの首には、もがいた際にできる吉川線という疵が見当たりませんでした。検死の結果、深澤さんの血中からは0.30%のアルコールと、0.20μg/gのメタンフェタミンが検出されてます。当時は泥酔状態にあり、意識を失っていたと判断されましたが、どちらも深澤さんの普段の生活から鑑みて、意識を失うほどの量ではないと僕は考えています。にも拘わらず、深澤さんの首には吉川線が見受けられなかった。田辺さん、これがどういうことだかわかりますか?」
大峰の眼は、おまえなら答えを知っているだろう? と田辺に問うているようだった。
「知りませんよ……」
狭い車内で深澤は、最後まで生きようと、もがき抵抗していたはずだ。深澤が蹴り上げたクラクションが、短く暗い夜空に響き、田辺は巻き付けた麻のロープをさらに強く引っ張り上げた。デニムの太腿を、ナイロンジャケットのわき腹を、深澤の骨ばった手が掴み、これから訪れようとする死から逃れようとしていたはずだ。
田辺さん。名前を呼ばれ、田辺の意識は六年前の車中から大峰へと移った。
「深澤さんは、犯人を庇って自ら死を選んだんです」
生きようと抵抗したならあるはずの、犯人のものと思われるDNAは、深澤の爪からは検出されなかった。
「そんな馬鹿な……」
そんな馬鹿な話があってたまるものか。田辺は頭の中で繰り返す。これまでに感じたことのない不安と恐怖が、まるで内側から田辺を食いつくそうとしてるようで、田辺は体を震わせながら両手を強く握りしめた。掌に食い込む爪が、深澤の首を締めあげた麻ひもの感触を呼び起こす。
「深澤さんが、そうまでして庇ったのは、本当に紫藤さんでしょうか? 僕には、本当の息子のように可愛がっていた、あなた以外に考えられません」
ヘッドライトが二人の脇を走り去る。大峰は一旦間を置く様に、深く息を吸い込んだ。そうして、決心したように、田辺の胸へとそのナイフを突き立てた。
「親を殺すって、どんな気持ちですか?」
ようやく行き止まっていた、ゴム底がアスファルトの地面を蹴った。大峰は呆然と立ち尽くす田辺を追い越し、立ち止ることも振り返ることも無く、大久保通を下っていく。大峰の足音が、遠ざかっていくのを、田辺はただじっと聞いていた。
川崎の築港に浮かんだ遺体が邦正会花菱組三代目の直参だとわかると、直ちに、捜査一課と組対の合同捜本部が結成された。当初捜査にかかわった刑事の数は延べ三百人ほどで、その内の数人には田辺も顔を合わせている。確かそうだと、田辺は福永という刑事が連れを伴い事務所を訪れたこを思い出す。眼鏡をかけた神経質そうな痩せた男で、年は四十がらみだろうか、真面目で不器用という印象を田辺が抱いたのは、零したちょっとした冗談に、微塵も表情を変えなかったからだ。目の前の大峰にも少し似ているような気がする。
「会ったのは、一回切ですけどね。覚えてますよ」
その後も福永と連れ立った向井という刑事は、何度か事務所を訪れたが、福永を見たのはその一回切だった。
「福永は、事件を担当して三月ほどで、自殺しました」
紫藤の話は耳に入ったが、自殺した刑事の話は初耳で、しかし、一度会ったきりの刑事の死に対する感慨は、別段湧いても来なかった。だが、田辺はその刑事が大峰の偲ぶ誰かなのかと考えると、なぜか面白くない。嫉妬。そんな言葉が脳裏をよぎり、田辺は馬鹿なと頭を振る。
「福永は自殺の少し前、新しい証拠を手に入れられそうだと、そう話してました。僕は自殺だとは考えてません」
藤崎は喫茶店でなんと言っていたか。監視カメラの映像を処分するのに随分手間取ったと、いかにも恩着せがましくそう言っていた。大峰の言う新しい証拠が田辺の映り込んだ監視カメラの映像だとしたならば、藤崎が福永に何をしたのかは田辺にも想像に難くない。
藤崎の名前を漏らしかけた田辺は、その言葉をどこにも出すまいと、慌てて口を右手で覆った。ヤクザの犬に成り下がった藤崎だったが、まさかそこまで汚い仕事に手を染めていたとは思いもよらず、田辺はその貪欲さにわずかばかりに身震いする。口元にやった手の不自然さをごまかすために、田辺は顎を撫で「それは……」と言いかけて、また言葉を詰まらせた。何を言おうというのだろうか、田辺が目の前の男にかけてやる言葉はなかった。井戸の様な暗い眼孔は瞬き一つせず、田辺を見据えたまま動くことはない。六年経って自分に近づいた大峰の理由を、田辺はようやく理解したのだ。
「復讐……ですか?」
「だったら、どうしますか? 深澤さんや福永のように、僕を殺しますか?」
「そんな、物騒な。ヤクザは素人さんには手をだしませんよ」
そう答えた田辺の声は落ち着いていたが、頭の中が些かばかり混乱していた。警戒しろ。と頭の半分がサイレンを響かせ、もう半分は判断を誤ったと、エラーメッセージを送り続けていた。病院の駐車場で大峰と出会った時からずっと、田辺は大峰に対する判断を誤り続けて来た。害はない。そう思ったのは、今もなお田辺の内側に蓄積されていく、大峰への愛着のせいか。簡単にいってしまえば、情がうつったのだ。駐車場でか屋上でか、またはライターから火を貰った時か、どこかの時点で田辺は自分でも気づかぬうちに大峰に情をうつしていた。親兄弟のいない田辺が唯一、同じ感情を持った男は、この世でたった一人だ。
ちょうど今頃の時期だった。田辺の携帯電話に、事務所から深澤が消えたと連絡があったのだ。あの頃の深澤と言えば、頭のはっきりした日は会話もできたが、そうでない日は手に負えず、呆けた様に事務所の一人掛けソファーの定位置で、狭苦しい新宿の空を見上げてぶつぶつやっていることが増えていた。電話番が便所へ立ったその隙に、深澤はふらふらと表へ出て行ってしまったのだ。田辺は連絡を受けてすぐ、コンビニで一本ビニール傘を買った。まさか深澤を濡らすわけにもいかなかった。歩道を歩く人波に、路上に面した店の窓に、田辺はただただ深澤を探して歩き続けた。どれほど歩き回ったのだろうか、濡れて縮んだ田辺の革靴は、随分窮屈になっていた。不意に目についた遊歩道の真ん中で、日増しに増える薬によって、すっかり痩せてしまった深澤の後ろ姿を見つけた。雨に濡れてグレーになったジャケットはサイズが合わなくなっており、左肩がずるりと垂れ下がっていた。
「探しましたよ、代表」
田辺は駆け寄り深澤を傘に入れてやった。事務所を出る前に打ったらしい注射が効いていたのだろう、輝きを忘れた目が田辺を見上げ「なんでぇ……勇美の野郎はまた女のところか?」と、尋ねたのだ。やせ細った深澤の肩を抱きながら、田辺は、もうダメだと、声を殺して泣いた。深澤が自宅から持ち出した日本刀を手に、花菱の自宅を襲撃したのは、それから幾日も経たない内のことだった。
「オヤジ……」
田辺はぼそりと零した自らの声に、呼び起こされる。
男として、親として、家族として、田辺は深澤を愛していた。田辺の目から頬を伝い落ちる涙は、すぐに降り注ぐ雨に隠された。
「一つ、深澤さんのことで、伝えておきたいことがあります」
田辺の涙を知ってか知らずか、大峰は話しを続ける。
「深澤さんの首には、もがいた際にできる吉川線という疵が見当たりませんでした。検死の結果、深澤さんの血中からは0.30%のアルコールと、0.20μg/gのメタンフェタミンが検出されてます。当時は泥酔状態にあり、意識を失っていたと判断されましたが、どちらも深澤さんの普段の生活から鑑みて、意識を失うほどの量ではないと僕は考えています。にも拘わらず、深澤さんの首には吉川線が見受けられなかった。田辺さん、これがどういうことだかわかりますか?」
大峰の眼は、おまえなら答えを知っているだろう? と田辺に問うているようだった。
「知りませんよ……」
狭い車内で深澤は、最後まで生きようと、もがき抵抗していたはずだ。深澤が蹴り上げたクラクションが、短く暗い夜空に響き、田辺は巻き付けた麻のロープをさらに強く引っ張り上げた。デニムの太腿を、ナイロンジャケットのわき腹を、深澤の骨ばった手が掴み、これから訪れようとする死から逃れようとしていたはずだ。
田辺さん。名前を呼ばれ、田辺の意識は六年前の車中から大峰へと移った。
「深澤さんは、犯人を庇って自ら死を選んだんです」
生きようと抵抗したならあるはずの、犯人のものと思われるDNAは、深澤の爪からは検出されなかった。
「そんな馬鹿な……」
そんな馬鹿な話があってたまるものか。田辺は頭の中で繰り返す。これまでに感じたことのない不安と恐怖が、まるで内側から田辺を食いつくそうとしてるようで、田辺は体を震わせながら両手を強く握りしめた。掌に食い込む爪が、深澤の首を締めあげた麻ひもの感触を呼び起こす。
「深澤さんが、そうまでして庇ったのは、本当に紫藤さんでしょうか? 僕には、本当の息子のように可愛がっていた、あなた以外に考えられません」
ヘッドライトが二人の脇を走り去る。大峰は一旦間を置く様に、深く息を吸い込んだ。そうして、決心したように、田辺の胸へとそのナイフを突き立てた。
「親を殺すって、どんな気持ちですか?」
ようやく行き止まっていた、ゴム底がアスファルトの地面を蹴った。大峰は呆然と立ち尽くす田辺を追い越し、立ち止ることも振り返ることも無く、大久保通を下っていく。大峰の足音が、遠ざかっていくのを、田辺はただじっと聞いていた。
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