餓者髑髏

文字数 1,041文字

 田辺の自宅は事務所から歩いて数分の雑居ビルの一室で、元々は管理人が暮らしていたという、屋上に建て増しされた木造モルタルの建屋だった。屋上へはエレベーターを六階で降り、外階段を使う事になる。晴れの日でも雨の日でも、周囲のビルに囲まれたそこはいつも日陰だった。いや、晴れの日、日の高くなる夏場ほんの一時間ほど日がさしたかと、田辺は日のさす辺りに置かれた青いベンチへ視界を移した。そのベンチは前住人が置いたもので、三年前よりもずいぶん色あせ劣化していた。この街でお天道様に当たろうなんて図々しい、田辺はそのベンチを見るだに思うのだ。
「新宿は人の住む街じゃねぇな」
 そう言ったのは、地べたを這いずりながら生きていた田辺を引っ張り上げた深澤だった。まだ十代だった田辺が「妖怪でも住んでいるのか?」と尋ねると、深澤は大きな口を開けて笑い「おまえは妖怪になるなよ」と続けた。しかし結局、猥雑で日々忙しなく変わり続けるこの街に暮らす事を決めたのは、ここでしか生きていけないと自認していたからだ。深澤が死んで以来、いや、それよりもっと以前に、自分が妖怪になってしまったという自覚が田辺にはある。
 広い部屋の隅っこに立てかけられた姿見の前に立ち、田辺は白いワイシャツに袖を通した。下ろし立てのシャツに腕を通すその瞬間が、田辺は好きだった。しっかりプレスされた硬い袖が、肌に触れた途端に溶ける様に馴染んでいくその瞬間が、たまらなく心地ちがいい。しっとりと馴染んだシャツの下から雲の額彫り袖九分が透けて見え、田辺はその袖をサッと手で撫でた。黒いネクタイを締め、クローゼットから合いものの礼服を引っ張りだしたのは、義理事は礼服と決まっているからだ。サイズが三年前と変わっていないのは田辺の体質だろうか、あるいは毎日欠かさなかった就寝前の筋トレの影響だろうか、朝昼晩と規則正しい食生活を送ることで、刑務所では肥る者も少なからずいた。
 スーツのジャケットをはおり、田辺は姿見を覗き込む。
「子なきじじいに、大入道……ねずみ男も居たっけなぁ」
 これから出所の挨拶に回る親兄弟の顔を思い浮かべ、シャワーで濡れた髪の毛を後ろへなでつけると、田辺はそこに白い物が一本混じっている事に気付いた。指で摘まんだ色の抜けた白髪を引っぱりながら、だったら、自分は一体なんだ? と自問する。ぷつっと、小さく音を立て白い髪の毛が抜けると、田辺は自答した。
 ガチガチと深夜の街を徘徊しては、握り潰して人を食らう、さしずめ自分は餓者髑髏。
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