雷鳴

文字数 3,069文字

 助手席の深澤は、後方に流れていく水銀燈のオレンジをぼんやり眺めながら、何かを口遊んでいた。タバコか、酒か、あるいは年のせいだったのかも知れない。柔軟性を無くした声帯からは、ただ空気が漏れる様な音だけが聞こえていた。道路のちょっとした凹凸に車が乗り上げると、その衝撃で押し出された声が聞こえた。独り言というよりは、何かを思い出しながら、歌っている様だった。東京に生まれた深澤には郷愁を馳せる郷里などなかった筈だが、事務所の窓際のソファーに座り、空を眺める時、いつも何かを懐かしむような、穏やかな顔をしていたのだ。オレンジ色の水銀燈に浮かび上がる深澤の表情もまた、穏やかで、まるで以前の深澤が戻ってきたのではないかと、田辺はそんな風に思えた。
 車を停め、田辺はしばらく、暗い海を眺めながら逡巡していた。深澤を手に掛ける事が、果たして、正解なのかがわからなかった。二人でどこか遠くへ、逃げることも出来る筈だ。花菱や他の連中が見つけられないような、外国でもいい。車内に目をやると、筋肉の削げ落ちた枝の様な腕に駆血帯を巻こうとする、深澤の姿があった。いつの間に持ち出したのか、ダッシュボードには、注射器が置かれていた。
 また裏切られた。
 幻覚や幻聴に翻弄された深澤は、田辺が薬に手を出さないで欲しいと懇願する度、もう二度としない。と、そう誓った。それなのに、離脱症状が始まると、決まって、深澤は約束を反故にしたのだ。こうして、この先も、深澤は自分を裏切り続けるのだろうか?どんなに遠くに逃げたところで、深澤の因果からは逃れられないのか。田辺は絶望し、二度と戻れない道を進むことを決意した。
 田辺はあの日向かった、扇島へと首都高を南下した。遠くに、赤黒い夜の空を持ち上げる、コンテナターミナルの煌々とした灯りが見える。
 泣きじゃくる健二から聞き出した大峰の電話番号に繰り返し入れた着信に、折り返しの連絡があったのは、午後十時を過ぎた頃だった。田辺からの連絡を予想していたのか、大峰はやけに落ち着いていた。
「どこにいるんだ?」
 田辺が尋ねると大峰は返事を濁し、田辺にはそれがどういうことなのか、安易に想像がついた。
「藤崎も一緒なのか?」
 大峰はそれにも答えなかった。スピーカーからは、ごうごうと風を切る様な音と、そうして二度、短い電子音が聞こえてくるばかりだった。しばらく、そうして無言の対峙が続いた後、大峰は「わかってください」とそれだけ言うと電話を切ってしまい、それからは何度掛け直しても、機械の音声が同じメッセージを繰り返した。大峰と連絡が途絶えてから、すでに五十分近くになろうとしている。
 スピーカーの向こうで二度聞こえた電子音は、おそらく、ETCゲートを通過した音だ。福永の遺体は川崎港コンテナターミナル付近の公衆トイレで見つかっていた。田辺がわかっているのはたった二つの事だけで、だから田辺が川崎港へ向かうことにしたのは、殆ど勘だった。仮にたどり着いたところで、もう手遅れかも知れない。東扇島の出口を出て一先ず、田辺は川崎駅東扇島線へとハンドルを切った。付近の公衆トイレは浮島、東扇島と川崎駅東扇島線を渡った、千鳥町の三つだけだ。一つづつ潰していくしかない。
 フロントガラスにはポツリ、ポツリと歪な水玉模様が描き出される。暗い空から落ちてくるそれは、徐々に広がり、田辺の視界を遮った。降るというよりは、流れ落ちるという方が正しい。雨はやがて、滝壺に落下する滝のように空から流れ落ちて来た。フロントガラスの向こうは、細かくちぎり取られたモザイクの様で、殆どなにも見えなかった。ノロノロと徐行させていた車を、田辺は路肩へと寄せた。これ以上は危険だと判断した田辺は、車のエンジンを切った。ドアを押し開けるなり、弾ける雨音の喧騒が流れ込み、降ろした足元を濡らしたが、田辺は構わず車を降りた。
 公園と言っても、子供達が遊べる様な遊具はない。塩害に強い植樹林と短い遊歩道があるだけの開けた場所に、ポツリと灯りのともるコンクリートの小さな建屋があった。その向こうには、車が数台停められる駐車場がある。昼間は周辺のコンテナヤードに出入りする、トラックの休憩所になっていたが、コンテナヤードが閉鎖する、夜半、トラックの姿は見当たらない。公衆トイレの影に隠れる形で、駐車された見覚えのあるSUV車の車内ではルームライトが点灯していた。助手席のドアは開いたままで、二人の姿はない。田辺はコンクリートの建屋に足を向けた。ここに車を停めたということは、福永はここで殺されたのだ。六年前とは言え、その記憶を留める様に、一番奥の個室にはベニヤ板が打ち付けられていた。床の濡れたタイルには、泥を擦った後があり、手前の個室の壁面には、揉み合ったのだろう、まだ新しい赤い飛沫が散っていた。田辺は飛沫を指で拭う。体格差を考えれば、大峰が圧倒的に不利だった。表では上空の雲がゴロゴロと鳴き始めていた。田辺は公衆トイレの入り口に立ち、どこだと目を凝らす。澄ませた耳が集めるのは、激しく降り頻る雨音だけだ。
「大峰さん!」
 届かないだろうことはわかっていたが、田辺はその名を呼んだ。まるで呼応する様に、また空が鳴いた。間も無く青白い光が雲を走り、向こうに見える人工島の海の上へと落下した。稲妻を追った田辺は、コンテナターミナルの明かりの中に、浮かび上がる人影を認めた。
「大峰さん」 
 田辺が肩に置いた手に、体をびくりと短く痙攣させ、振り向いた大峰に、田辺は良かったと胸を撫で下ろした。大峰が無事だったことに意外なまでに安堵している自分に、田辺は少しばかろ戸惑った。藤崎への復讐が叶わなかったのか、辺りに藤崎の姿はない。大峰はどこか精気が抜け切った様な虚な表情で「逃げられました」と、田辺を見た。田辺はそれを聞き、さらに安堵する。なにも大峰が罪を被る必要はないのだ。藤崎が福永を殺した証拠はない。だが、自分が深澤殺しを認めれば、事件は再び議場に上がり、藤崎の悪行も明るみになる。娑婆での生活も、ここまでだと、田辺は腹を括った。ずっと自分が赦せずにいたのだ。田辺は深澤に手を掛けた自分を、ずっと赦せずにいた。
「帰ろう」
 田辺は大峰の手を取った。揉み合いで傷ついた大峰の手は小さく震えていた。
「帰ろう大峰さん」
 戻れば田辺は出頭するつもりがある。殺人なら十五年は硬い。田辺が不在の三年間、上手くやってこれたのだ、またそれが長く続くだけのことだ。
 車はすぐそこだと、田辺は大峰の手を引いた。雲が一際大きく鳴き、刹那、ドンと轟音が鼓膜を突き刺す。近くに雷が落ちたらしい。生木の焼ける嫌な匂いが漂った。
「田辺さん、僕は間違ってましたか?」
 手を引かれ、後ろを歩く大峰が尋ねた。田辺には、大峰のしようとしたことが、正しいか間違っていたかはわからない。大峰が正しいのなら、自分を生かしておくことに矛盾が生じる。間違っているというなら、深澤を手にかけた自分を赦すことになる。
「わかりません」
 田辺にわかることは、大峰に対する何かしらの感情で、それはこうして大峰が傍らにいることで満たされているということだった。
「田辺さん、一つ聞いてもらっていいですか?コートのポケットに、コインロッカーの鍵があります。桜田門駅の、コインロッカーの……」
 駐車場から藤崎のSUVが走り去るのが見えた。
「深澤さんの件についての、捜査資料が入ってます。絶対、処分してください」
 田辺の握った手から、大峰の手がするりと逃げた。
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