ピンボケ

文字数 3,466文字

「偶然、この近くで用がありましてね。下で聞けば、田辺さんがいらっしゃるって話じゃないですか。これはご挨拶に伺わないとってことでね……」
 相変わらずよく口の回る男だ。田辺は佐治の鼓膜に突き刺さるような声に、苛立ちを覚えながらも顔には出さずに、燃えたタバコの灰を灰皿へと落とした。窓から吹き込む温い風が灰を転がし、小さな塊は瞬く間に粉々に崩れる。
「いやしかし、アレですね。北関東じゃ、酷い豪雨だ。水害車両は山ほど出ますがね、これじゃウチは商売上がったりですよ。露助が買い漁るんですわ。あっちじゃニコイチだって、その辺、走り回ってるんだから、箱さえありゃいいってもんなんでしょうけどね」
 同じ話を聞かされたのは、つい先日のことだ。佐治の経営する解体屋もこの豪雨では、甘い汁を吸うことがないのだと思うと、少しは長雨の憂鬱も紛れるというものだった。
 早口で捲し立てるように一頻り話し終えると、佐治はスーツの内ポケットからハイライトのソフトケースを取り出す。口に加えた尻から、糸島が火のついたライターを差し出すその様子を眺め、田辺は佐治と糸島の関係を一先ず理解した。
「どうです? 田辺さんとこは? ウチと違ってもっとスマートな商売されてらっしゃるでしょう? 大陸さんと手ぇ組もうってんですから……そういえば、シャブで逝っちまったのは遠藤さんで二人目でしたかねぇ?」
 広角を釣り上げ、佐治がニヤリと笑い、糸島も後に続いた。
「イヤ……片方は違いましたか?」
 紫煙と共に吐き出された佐治の話に、誰かがぷっと吹き出した。深澤を笑い者にされるのは致し方のないことだと、田辺は自嘲気味だ。わずかに漏れた田辺の笑い声に、佐治だけが怪訝な表情を浮かべた。面白くないのだろう。佐治は田辺が動揺しない事に苛立ったのか、煙を吐き出し十分吸える筈のタバコを灰皿に押し付けた。その手つきはいささか乱暴だ。
「で、田辺さん、今日はどんな御用です?」
「ウチの親父が、柏木組長と膝を突き合わせたいってんです。絶縁状を突きつけたとは言え、元花菱組の構成員だった糸島さんに、ケツを持って頂きたいんです」
 田辺は足を組み替えて、ソファーに深く身体を預けた。この先の展開は想定済みだった。柏木の直参になったとは言え、古参の組長に比べれば、糸島も佐治も柏木の信頼は薄い。花菱の話を上に上げるのがどちらにしろ、柏木への忠誠を示す好機であるのは間違い無いのだ。食いつかない筈もない。上手く話が付けられれば、花菱は直接、会長の忍足に柏木を推薦するつもりがあった。
 あはははは。
 間を置かず、佐治の高笑いが応接に充満する。
「冗談はやめましょうや、田辺さん。手打ちにでもするつもりですか? ますます面白い冗談だ」
 笑っているのは佐治、ただ一人だ。佐治の意図が掴めないのか、田辺と佐治の間で糸島は落ち着かない視線を浮遊させ、その他は耳が聞こえていないのか、そこに佇むばかりだった。
「雪解けしようってんですよ? いいこと尽くしだ。親父は柏木さんの為に、若中頭を下りる覚悟があるんです。それに柏木組長の若中頭昇進を推薦するとおっしゃってる。新参のあんたらにとっちゃ、良い土産話でしょう?」
 田辺は一息吐き、窓の外へ目をやった。いつの間にか雨が降り出していた様だ。窓を覆う様に降り頻る雨粒を認めた途端、アスファルトを打つ雨音が田辺の耳孔へと流れ込む。
「新参が尻尾を振って食いつきそうな、いいネタだ……ただね、私らが欲しいのは、そんな話じゃない」
 花菱組の解散ですよ。
 続いた佐治の言葉に驚いたのは、田辺だけでなかった。糸島もまた、田辺と同様に目を丸くした。
「そりゃ……忍足会長も黙ってませんよ。面白くもない冗談だ」
 弱りつつある花菱の勢力だが、邦正会の組員の三分の一を擁している。解散すれば、花菱だけでなく下に着く直系の組長も、その責務を負うことになる。それに加えて、関東随一と謳われる邦正会の立ち位置すら怪しくなるのだ。小競り合いには見てみぬふりの忍足も、さすがに黙ってはいない筈だ。
「そうだ、すっかり忘れてた」
 そう言って佐治がテーブルの上に投げ捨てたのは、角2の茶封筒だった。開いた口からは数枚の写真が顔を出す。田辺は封筒から覗いた一枚を指でつまみ上げた。どこかから隠し撮りでもしていたらしい、画質の悪い拡大写真によく知った顔があった。黒い傘片手の大峰から、貰い火をするその横顔は、正しく田辺だった。画質の悪さや暗がりということもあり、分かりづらくはあったが、最後に大峰に会った神楽坂でのものだ。
「その方、どなたです?」
 佐治の眼差しは言葉とは裏腹だ。
「隠し撮りですか? 随分悪趣味だ。神楽坂でしょう? 火を切らしてましてね、行きずりに、借りただけですよ」
 田辺は二本目のタバコに火を付けようとライターに手を伸ばす。すかさず佐治が火を差し出した。心なしか燃えて赤く色づく先端が、震えている様にも見え、田辺は誤魔化す様にタバコをつまみ上げた。
 どこから張っていたのか、気付きもしなかった自分の愚かさと、佐治につけいられる隙を生んだ浅はかさに、田辺は辟易する。府中を出てからずっと、調子の狂った時計の様に正確さを欠いている。三年という府中での生活が自分を馬鹿にさせたのか、または周囲が田辺の知らぬ間に、賢くなったのか。田辺はゴクリと喉を鳴らす。
「田辺さん、嘘が下手になりましたね。府中じゃぬくぬく囚人生活を楽しんでらっしゃったんでしょう? 捜査一課の大峰刑事、知らないとは言わせませんよ」
「お名前までは、存じませんね」
 田辺は興味も無い佐治の顔を真正面に捕らえた。少しでも視線を動かせば、佐治は田辺の動揺に気付くに違いない。
「何度かお会いになってますよ。一度目は病院で、二度目はご自宅で、三度目が神楽坂……、なんのお話されてたんです?」
 病院での一件を知っていると言うことは、田辺は府中を出たその日から、自分を嗅ぎ回る柏木の犬に背後を許したことになる。佐治の言う通り、府中での生活の緩みが、その隙を生んだと思えば、田辺は少しばかり自己嫌悪する。
「ところで……深澤さんを殺した犯人は捕まったんで?」
 エントランスの間抜けな番犬より、佐治の嗅覚はずっと鋭いらしい。食えない男だ。田辺は佐治のしたり顔にふんと鼻を鳴らす。
「イヤね、私ら深澤さん殺しに興味がありましてね。田辺さんには申し訳ないけど、放って置いてもその内おっ死ぬ人間を、わざわざ殺すんだ。よっぽど恨みでもあったんでしょうね」
「アレはやり手でしたからね。その分敵も多かった。弱目に祟り目ってヤツですよ」
 事実、花菱と犬猿だった柏木が深澤に近づけたのも、深澤が薬で弱っていたからだ。まるで雨後の筍の様にいくら刈り取っても、次から次へと起きる問題に、田辺が駆けずり回っていた頃だ。田辺が忙殺されたその裏側で、柏木は深澤に近づいたのだ。一昔前の深澤なら、敵に懐を見せる様なことはしなかった。田辺は再び手にした写真に目を落とす。大峰と周囲を気にする様子もない、間抜けな自分がそこにいた。素人が撮ったのだろうか、ピントが僅かにずれている。田辺は封筒に手を伸ばし、その中身をテーブルの上へとぶちまけた。よく見ればどの写真も、同じ様にピントがずれている。
「大峰さんとはお会いしたんですか?」
 田辺が尋ねると、佐治は今年の五月の頭に尋ねて来ましたよ。あっちこっちの組事務所に、当時の様子を尋ねて回っていた。と、呆れた顔をした。五月の頭といえば、田辺はまだ府中だった。田辺が出所する事を機に、大峰の復讐心に火が付いたのならば、おかしな話でもない。ピントがずれた写真を見下ろしながら、田辺は不意に自分の勘違いに気がついた。どの写真もフォーカスしているのは田辺でなく大峰なのだ。神楽坂でも、自宅の雑居ビルでも、そうして大峰と初めて出会った病院の駐車場での写真も、ピントは常に大峰に合わせてある。突き出された写真がどれも不自然に拡大された理由を田辺は理解した。佐治が張り付いたのは田辺でなく大峰の方だ。田辺は満足した様にふーっと長い息を吐き、写真を適当にまとめて封筒へと仕舞った。
「どちらにしても、こっちの意思はお伝えしました。よく考えた方がいい。刑事の後を付けたところで……忍足会長を黙らせられる様なネタは見つかりませんよ」
 いつのまにか燃え尽きたタバコを灰皿に押し付け、田辺は立ち上がる。
 窓の外の重苦しい空を見上げ、田辺は大峰に合わなければ。と、頭の片隅に書き留めた。
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