慟哭
文字数 2,831文字
「勘弁してやってください」
アスファルトに頭を擦り付けるように、岸本は田辺の足元に平伏した。何事かと往来が騒つき、好奇の視線が注がれていたが、田辺は意に解することもない。ただしかし、田辺は思いの外、冷静だった。むしろ、激したのは田辺でなく岸本の方だ。
「顔あげな」
田辺は岸本の前にしゃがみ込んだ。義弟への憤りと、田辺に対する羞恥で赤らんだ岸本のこめかみには、青筋が浮いて見える。
「お前だって、これが何だかわかんねぇほどの馬鹿じゃねぇだろ?」
田辺は岸本の前に、カフスボタンから取り出したそれを投げた。アスファルトの上で小さくバウンドし、カランと虚しく音を上げる。ぐにゃりと曲がったステンレス製の薄い蓋の隙間からは、割れた小さな緑色の基盤が覗いていた。発信機か、もしくは盗聴器か、田辺にとってはどちらでも良かった。どちらも田辺に対する背信であることに変わりはない。
「あいつは、まだ、右も左もわかんねぇ、ただのガキです」
だから、どうだと言うのか。片足を突っ込んだ時点で、そんな言い訳が通用しないのは、どんな理不尽にも耐えて来た岸本なら分かっている筈だった。もちろん田辺も健二が単独で、こんな小賢しい真似をしたとも思っていない。誰かが糸を引っ張っているのは明らかで、健二はその誰かに利用されたのだろう。とは言え、使うも使われるも、自分次第だ。
「自分が……自分が代わりに…」
田辺は岸本の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせた。岸本の額にはアスファルトのでこぼこが痕を残している。
「代わりに、どうすんだ?自分が落とし前つけますってか?」
「お願いします、代表」
岸本の眼差しは、真っ直ぐ田辺に突き刺さった。岸本には岸本なりの正義があるのだろう。黒い瞳の奥にある強い意志を、岸本は隠そうともせず田辺の前に露出させ、理解しろと訴えかけている。兄弟愛と言うべきか、血の繋がらない歳の離れた義弟が、長年連れ添った兄弟よりも大事だと、田辺はそう言われているような気になった。掴んだ岸本の頭を田辺はアスファルトの上へと強く打ち付ける。岸本の呻き声と共に、周囲から僅かに悲鳴が湧いた。
「甘えてんじゃねぇよ」
うずくまる岸本のジャケットに手を入れ、車の鍵を引っ張り出すと、田辺は立ち上がる。岸本が動きたくないと言うのならば、自分で動くだけの話だった。血で汚れた岸本の手が田辺の足を掴み、鼻の骨が砕けたか、パタパタと音を立てながら、赤い雫が地面を汚している。なおも、岸本は「お願いします…」と弟を赦すことを田辺に求め、田辺は追い縋る岸本をその場に残し、車を発進させた。
田辺と目が合うや否や、健二は追いつけないほどのスピードで扉を閉じた。若さには敵わない。俊敏さの衰えた三十代の田辺は、右足を突っ込むのが精一杯だった。厚い合板に防水のビニールシートを貼り付けただけの簡単な玄関ドアは、ギシギシと嫌な音を上げながら、内側の健二と、外側の田辺との間でしなった。ともすれば、簡単にぶち破れそうな程に、扉の劣化は進んでいる。健二が引っ張るドアのノブは、長年の摩滅により内側に余分な空間ができており、随分収まりが悪い。田辺は開いた左足の踵で、ドアノブを蹴ってやる。幸運だったのは、これが平日の昼間だということだ。アパートの住人は皆出払っているのか、周囲を賑わすのは田辺がドアノブを蹴りつける鈍い音ばかりだった。何度目かで漸く、田辺は手応えを感じた。チャチなドアノブは、金属が弾ける様な悲鳴をあげ、田辺の足は地面に着地した。ドアノブが廊下を転がり、欄干の隙間から落下する。勢いあまりコンクリートを踏みつけた田辺の脚は、その衝撃に感電したように痺れた。見れば扉は力無く内側へと倒れ、玄関にへたり込んだ健二が、千切れたドアノブを手に、怯えた目で田辺を見上げていた。
「手間、掛けさせんなよ」
田辺は一つ大きく深呼吸をして、ジャケットの乱れを正した。健二の慌てぶりを見れば、田辺がここへ何をしに来たのかは、理解していると言うことだった。田辺が踏み出すたびに、健二はじりじりと後退る。大きく見開かれた目は、田辺から視線を逸らさない。いや、逸らせないというのが正確か。田辺のつま先が裸足の足に触れると、健二は弾かれた様に奥へと駆け出した。床の上に脱ぎ散らかした衣服に足を取られながら、健二は窓のある壁に突き当たる。
「お、お、おれ、おれ……」
上手く言葉が出て来ずに、健二はそのもどかしさに目頭が熱くなった。歯痒さに押し上げられた感情が、大きな一つの水玉になって右目からポロりとこぼれ落ちる。表情はいつもとそう変わらない田辺だが、その激昂は行動からも明らかだ。だが、それよりも健二が怖いのは、田辺に見捨てられることだった。
「ご、ごご、ごめん、ごめんなさい」
健二の悲哀が開いた玄関から、表へと逃げ出して行く。畳の上を田辺の革靴が近づき、健二は体を小さく丸めた。田辺の整髪料の匂いが健二の鼻をくすぐった。
「泣くなよ、男だろ?」
田辺の指先が健二の頬を伝う涙を掬い上げた。それから、タバコの匂いのする田辺の両手が健二の顔を優しく包む。向かいあった田辺は、健二の目をじっと見つめた。暗い目の中に見えるのは田辺の感情ではなく、自分の怯えた表情だった。
「誰に頼まれた?」
佐治か糸島か、それ以外にも怪しい人間はいくらだっている。身内ですら信用できないのだ。
「お、お、おま、おまわりだ、だよ…」
こないだ、連れてきた。健二の続く言葉に、田辺は自分の見通しの甘さを痛感する。あの時か。田辺が意識を失っている間、健二は大峰と二人っきりだった。
「た、たた、逮捕す、するって……お、おれが、言うこと、きき聞かないなら……くく組長……た逮捕するって…」
大峰にとって、健二を丸め込むのは、赤子の腕を捻るより簡単だった筈だ。翌日、自ら大峰に連絡を入れた健二が、手渡されたのは盗聴器を仕込んだカフスボタンだった。大峰に余計な手札を見せた自分の責任だと、田辺は自戒する。藤崎に会ったあの日、田辺はターコイズのカフスボタンを身につけていた。ならば、大峰はすでに藤崎が福永を殺した犯人だと知っているということだ。時間は後どれほど残っているのか?大峰のことだ、刺し違えても、藤崎を手に掛けるだろう。
田辺は再び健二の涙を拭ってやる。いくら拭っても拭っても、涙をこぼし続ける健二の顔を眺めた。田辺の失態とはいえ、健二が大峰に使われたという事実は変わらない。自分の汚したケツは、自分で拭く。それがこの世界の常識だった。食うか食われるかの二択でしかない。前者になりたければ、上手く立ち回るしかなかったが、それすら出来ずに死んでいった人間を、田辺は数えきれないほど見てきた。健二は捕食者になれるのか?否だと田辺は結論を出す。
「今回は兄貴の顔に免じて、許してやるよ。そのかわり、二度と面見せるな」
それが別れの言葉であると知った途端、堰を切った様に健二は慟哭した。
アスファルトに頭を擦り付けるように、岸本は田辺の足元に平伏した。何事かと往来が騒つき、好奇の視線が注がれていたが、田辺は意に解することもない。ただしかし、田辺は思いの外、冷静だった。むしろ、激したのは田辺でなく岸本の方だ。
「顔あげな」
田辺は岸本の前にしゃがみ込んだ。義弟への憤りと、田辺に対する羞恥で赤らんだ岸本のこめかみには、青筋が浮いて見える。
「お前だって、これが何だかわかんねぇほどの馬鹿じゃねぇだろ?」
田辺は岸本の前に、カフスボタンから取り出したそれを投げた。アスファルトの上で小さくバウンドし、カランと虚しく音を上げる。ぐにゃりと曲がったステンレス製の薄い蓋の隙間からは、割れた小さな緑色の基盤が覗いていた。発信機か、もしくは盗聴器か、田辺にとってはどちらでも良かった。どちらも田辺に対する背信であることに変わりはない。
「あいつは、まだ、右も左もわかんねぇ、ただのガキです」
だから、どうだと言うのか。片足を突っ込んだ時点で、そんな言い訳が通用しないのは、どんな理不尽にも耐えて来た岸本なら分かっている筈だった。もちろん田辺も健二が単独で、こんな小賢しい真似をしたとも思っていない。誰かが糸を引っ張っているのは明らかで、健二はその誰かに利用されたのだろう。とは言え、使うも使われるも、自分次第だ。
「自分が……自分が代わりに…」
田辺は岸本の髪を掴み、無理矢理顔を上げさせた。岸本の額にはアスファルトのでこぼこが痕を残している。
「代わりに、どうすんだ?自分が落とし前つけますってか?」
「お願いします、代表」
岸本の眼差しは、真っ直ぐ田辺に突き刺さった。岸本には岸本なりの正義があるのだろう。黒い瞳の奥にある強い意志を、岸本は隠そうともせず田辺の前に露出させ、理解しろと訴えかけている。兄弟愛と言うべきか、血の繋がらない歳の離れた義弟が、長年連れ添った兄弟よりも大事だと、田辺はそう言われているような気になった。掴んだ岸本の頭を田辺はアスファルトの上へと強く打ち付ける。岸本の呻き声と共に、周囲から僅かに悲鳴が湧いた。
「甘えてんじゃねぇよ」
うずくまる岸本のジャケットに手を入れ、車の鍵を引っ張り出すと、田辺は立ち上がる。岸本が動きたくないと言うのならば、自分で動くだけの話だった。血で汚れた岸本の手が田辺の足を掴み、鼻の骨が砕けたか、パタパタと音を立てながら、赤い雫が地面を汚している。なおも、岸本は「お願いします…」と弟を赦すことを田辺に求め、田辺は追い縋る岸本をその場に残し、車を発進させた。
田辺と目が合うや否や、健二は追いつけないほどのスピードで扉を閉じた。若さには敵わない。俊敏さの衰えた三十代の田辺は、右足を突っ込むのが精一杯だった。厚い合板に防水のビニールシートを貼り付けただけの簡単な玄関ドアは、ギシギシと嫌な音を上げながら、内側の健二と、外側の田辺との間でしなった。ともすれば、簡単にぶち破れそうな程に、扉の劣化は進んでいる。健二が引っ張るドアのノブは、長年の摩滅により内側に余分な空間ができており、随分収まりが悪い。田辺は開いた左足の踵で、ドアノブを蹴ってやる。幸運だったのは、これが平日の昼間だということだ。アパートの住人は皆出払っているのか、周囲を賑わすのは田辺がドアノブを蹴りつける鈍い音ばかりだった。何度目かで漸く、田辺は手応えを感じた。チャチなドアノブは、金属が弾ける様な悲鳴をあげ、田辺の足は地面に着地した。ドアノブが廊下を転がり、欄干の隙間から落下する。勢いあまりコンクリートを踏みつけた田辺の脚は、その衝撃に感電したように痺れた。見れば扉は力無く内側へと倒れ、玄関にへたり込んだ健二が、千切れたドアノブを手に、怯えた目で田辺を見上げていた。
「手間、掛けさせんなよ」
田辺は一つ大きく深呼吸をして、ジャケットの乱れを正した。健二の慌てぶりを見れば、田辺がここへ何をしに来たのかは、理解していると言うことだった。田辺が踏み出すたびに、健二はじりじりと後退る。大きく見開かれた目は、田辺から視線を逸らさない。いや、逸らせないというのが正確か。田辺のつま先が裸足の足に触れると、健二は弾かれた様に奥へと駆け出した。床の上に脱ぎ散らかした衣服に足を取られながら、健二は窓のある壁に突き当たる。
「お、お、おれ、おれ……」
上手く言葉が出て来ずに、健二はそのもどかしさに目頭が熱くなった。歯痒さに押し上げられた感情が、大きな一つの水玉になって右目からポロりとこぼれ落ちる。表情はいつもとそう変わらない田辺だが、その激昂は行動からも明らかだ。だが、それよりも健二が怖いのは、田辺に見捨てられることだった。
「ご、ごご、ごめん、ごめんなさい」
健二の悲哀が開いた玄関から、表へと逃げ出して行く。畳の上を田辺の革靴が近づき、健二は体を小さく丸めた。田辺の整髪料の匂いが健二の鼻をくすぐった。
「泣くなよ、男だろ?」
田辺の指先が健二の頬を伝う涙を掬い上げた。それから、タバコの匂いのする田辺の両手が健二の顔を優しく包む。向かいあった田辺は、健二の目をじっと見つめた。暗い目の中に見えるのは田辺の感情ではなく、自分の怯えた表情だった。
「誰に頼まれた?」
佐治か糸島か、それ以外にも怪しい人間はいくらだっている。身内ですら信用できないのだ。
「お、お、おま、おまわりだ、だよ…」
こないだ、連れてきた。健二の続く言葉に、田辺は自分の見通しの甘さを痛感する。あの時か。田辺が意識を失っている間、健二は大峰と二人っきりだった。
「た、たた、逮捕す、するって……お、おれが、言うこと、きき聞かないなら……くく組長……た逮捕するって…」
大峰にとって、健二を丸め込むのは、赤子の腕を捻るより簡単だった筈だ。翌日、自ら大峰に連絡を入れた健二が、手渡されたのは盗聴器を仕込んだカフスボタンだった。大峰に余計な手札を見せた自分の責任だと、田辺は自戒する。藤崎に会ったあの日、田辺はターコイズのカフスボタンを身につけていた。ならば、大峰はすでに藤崎が福永を殺した犯人だと知っているということだ。時間は後どれほど残っているのか?大峰のことだ、刺し違えても、藤崎を手に掛けるだろう。
田辺は再び健二の涙を拭ってやる。いくら拭っても拭っても、涙をこぼし続ける健二の顔を眺めた。田辺の失態とはいえ、健二が大峰に使われたという事実は変わらない。自分の汚したケツは、自分で拭く。それがこの世界の常識だった。食うか食われるかの二択でしかない。前者になりたければ、上手く立ち回るしかなかったが、それすら出来ずに死んでいった人間を、田辺は数えきれないほど見てきた。健二は捕食者になれるのか?否だと田辺は結論を出す。
「今回は兄貴の顔に免じて、許してやるよ。そのかわり、二度と面見せるな」
それが別れの言葉であると知った途端、堰を切った様に健二は慟哭した。
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