遠藤

文字数 3,043文字

 花菱組一派、八団体への挨拶周りを終えた田辺は、どの面もしけた煎餅みたいだと、煙を吐き出した。食えても美味くない。いや、食える様な物に例えるのは煎餅に失礼かと、唇を歪ませた。どの組長も偉そうにふんぞりかえり「ご苦労だったな」と通り一遍で、下から追い上げて来る若手を面白がる余裕さへない。とはいえ田辺には、しけた煎餅を食ってやろうという気概などなかった。会長の深澤と若頭の紫藤が逝った後、花菱に言われるままにフカザワ興業を引き継いだだけの話だ。解散してしまえばいい、そんな風に当時の田辺は考えたが、市井の生活が出来るとも、ましてやボンクラと同じ釜の飯が食えるとも思えず、結局、落ち着くところへ落ち着いただけの事だった。
 リアウィンドウから見上げたコンクリート六階建ての建屋の正面玄関には、堂々と「邦正会遠藤組」の看板が掲げられており、その左右に二つ、エレベーターの踊り場にさらに二つ、突き当たりの非常口に一つ、計五台の監視カメラが設置されていた。
「おまえら、もう帰っていいわ」
 挨拶周りはここで最後だ。
 運転席に声を掛け、田辺はアスファルトに靴を下ろした。黒いストレートチップの爪先が歩道まで伸びた軒の、オレンジ色のスポットライトを反射した。途端に五台の監視カメラのレンズが一斉に田辺を捕らえ、それは全て一階、エレベーター脇の守衛室のモニターにリアルタイムで送信された。監視カメラのレンズの向こうから、ありもしない緊張感が漂うようで、その異常なまでの警戒に田辺は遠藤の心中を察しかねた。
 静かな扉の向こうで強面の番犬がそのドアノブを握り、今か今かと扉を押し開けるタイミングを見計らっているのだと、そう思うと田辺は大層な監視システムだと、声も出さずに嘲笑し、そうして一番近い監視カメラを見上げてやった。
 田辺が来たぞ。と、今頃は、強面の番犬が六階の事務所の当番に内線を飛ばし、フロアの一番奥まった組長の元へ、その誰かが伝令を伝える。「組長、フカザワ興業の田辺さんがいらっしゃいました、どうなさいますか?」
 すると遠藤は内心ビクビクしながらも、それを表には出さずに「田辺か……通せ」と、太くて厚い声で、まるで重要な決断でもしたかの様に告げるのだ。そこまで考えて、田辺はエントランスの階段を踏み上げた。
「入り口のアレ、女にしてもらえませんかね?」
 ローテーブルを挟んだ向かいで足を組む遠藤に向かって、田辺は不満を漏らした。エレベーターから降りた田辺を迎えたのは、浅草寺の門扉を守る仁王像のように田辺を見下ろす、ジャージ姿のガタイの良い二人の坊主頭だった。金属探知機がマネークリップと自宅の鍵に反応すると、硬くてゴツい手が身体を弄り、久しぶりに触られたのが、海坊主では味気がないと、田辺はおかしな気分になったのだ。
「ムショから戻って、最初に触られたのが男じゃ、勃つもんも勃ちませんよ」
 田辺の苦情に、ははは、と大袈裟に笑って見せた遠藤だったが、胸の前で組まれた腕が久しぶりに会う田辺に対する警戒心を表していた。それに、先程から落ち着きなくあちこちに飛ぶ視線と、時折、口元を触る右手が何かを隠しているようで、田辺も田辺で遠藤に対する警戒心を少しばかり強める。
「まぁ、そう言うな」
「お変わり無い様で」
「おまえも変わらねぇな…幾つになったんだ?」
「三十五になりました」
「もうそんな歳か、早えぇもんだな」
 田辺が初めてここを訪れたのは深澤の鞄持ちとして、極道の道に入ったばかりの十九かそこらの事だった。十六年前の遠藤は恰幅が良く怖いもの知らずで、幹部連中にも食ってかかる様な威勢があったが、癌を患った後は、まるで風船が萎んだように痩せてしまい、追い打ちをかけるように、朋友だった深澤が川崎の築港に浮かんでからはすっかり勢いを衰えていた。
 暑くもないのに遠藤の額に小さな水滴が、ぽつりぽつりと滲み出しているのに気付き、田辺はそれを眺めながら、シャブかと、そう思う。
 隠したかったのはこれか。
 いつから始めたのか、三年前その兆候がなかった事を考えれば、田辺が刑務所に入ってからのことだろう。弱った身体に弱った精神、薬を入れれば一時的には回復するが、すでに芽生えた猜疑心は回数を増すごとに、薬が作ったハリボテの裏で本人の気づかぬ内に膨らんで行く。気付いた頃には肥大したそれがハリボテを破壊し、精神を押し潰し、仕舞いには壊れるのが面白くもないオチだった。
 監視カメラや番犬やエレベーター前の二体の仁王像は、すでに遠藤が壊れかけている証拠だと、田辺は見る影もなく衰えていくばかりの遠藤に同情した。
 吸い上げられるものも増えるが、その分、恩恵も多い中堅幹部を狙う他の組長から、寝首を掻かれるのも時間の問題だと田辺は思う。
「糸島は変わらずですか?」
 田辺と歳はそう変わらない遠藤組若頭の糸島は田辺と違い昔から出世欲が強く、言葉や態度の端々に滲み出る、他者への蔑みが田辺はいけすかない。
「アイツはよくやってくれてるよ。今じゃ頭代行よ。今日も佐治の所でちょっとしたビジネスの話さ」
 佐治と言えば頭は切れるが何を考えて居るのか、花菱組一派にも関わらず、どの派閥にも良い顔をする蝙蝠のような男で、以前、冗談なのか本気なのかは定かでなかったが、柏木一派への鞍替えを田辺に提案して来たことがあった。その佐治と糸島が手を組むというのだから、穏やかな話でない。遠藤の勘はそこまで鈍ったか、寝首を掻くのは身内かと、田辺は考えなおした。
 邦正会は会長の忍足を筆頭に若頭の桂、若中頭の花菱、若頭補佐の柏木、望月のそれぞれが二次団体を構成し、その構成員がさらに三次団体を構成するという、ピラミッド構造の縦社会で、四次団体まで合計六十団体を有しており、執行部が指名する中堅幹部が二十名、その下に一般構成員と人数を増やし、その人数は二千人とも三千人とも言われている。それだけの人数ともなれば、統率を取るのは簡単なことではなく、派閥争いはもはやお家芸で、若衆同士の小競り合いは毎度のことだった。中でも若中頭の花菱と、それを追随する柏木が犬猿の仲で、柏木が会長からの信頼も厚い花菱の座を狙っているというのは、田辺自身もよく知っていた。
 花菱組構成員の遠藤に花菱三代目への忠義はあれど、遠藤の子である糸島にはその忠義はない。それに加えて、花菱の引っ張り上げる会費の高さに不満を持つ若手も少なくはなく、それは佐治も糸島も同様だった。出世欲と上昇志向にまみれた糸島なら、柏木がケツをかけば簡単に寝返るだろう。弱っていくばかりの花菱子飼いの老犬を、糸島が見限るのも時間の問題だ。ただ、それも、田辺にとってはどうでもいいことだった。糸島や佐治のように、花菱を裏切るようなことをするつもりもなかったが、田辺にとっては後にも先にも親は一人っきりだった。
「今年は、深澤の七回忌だったな」
 まるで謀ったように遠藤の口からこぼれたその名前に、田辺は顔を上げた。そういえば、六月十二日は深澤の命日だと思い出し、塀の中でさへ忘れなかったその日をすっかり忘れてしまっていた田辺は、出所したことで浮かれてでもいたのかと、自分を戒めた。
「何かしてやるのか?」
 二週間分の水分をため込み、あちこちを腐らせた深澤の遺体を無縁仏として直葬したのは田辺の意思だった。まともな葬儀もしてやらなかったのだ、今更、何をしてやれるでもない。田辺は遠藤の問いかけに「いいえ」と短く答えただけだった。
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