示し合わせ

文字数 1,819文字

 エントランスに踏み入るやいなや、奥の小部屋から飛び出して来た百九十はあろうかという巨漢は、威嚇のつもりか手に長ドスを携えていた。そう簡単に引き抜くことはないのだが、それにしても、声がデカい。顔を目いっぱいまで近づけて、怒声を浴びせるものだから、男の吐く唾液の飛沫が顔に掛かるのが田辺は煩わしかった。どんな教育をしてるんだと、前回訪れた時より増えた監視カメラの一つを睨みつけてやったのだが、それも誰が見ているのやら、監視を任されている当の本人は、目の前の大男なのだ。耳の穴に指を入れ、迷惑顔をしてみたものの、空気が読めないのか、あるいは、巨大なわりに脳みそが小さいのか、田辺の様子など気にもかけずに、罵詈雑言を浴びせかけ続けた。弱い犬ほど良く吠えるとはよく言ったものだと、先人の言葉に田辺は敬服した。図体はデカいが、中身はまるで小型犬なのだ。例えるならチワワかヨークシャーテリアか。まさか、自分よりはるかに巨大な人間相手に、売られた喧嘩を買おうという気など田辺には毛頭ない。それに、相手の懐へ一人で乗り込むのだ、余計な面倒ごとを増やさないのは渉外の鉄則だ。吠え続けることにようやく息切れし、言葉が途切れ始めた頃、田辺は丁寧に自己紹介をしてやった。
「フカザワ興業の田辺です」
 先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、途端に図体のデカいチワワは尻尾を巻いたように大人しくなった。
 バカな番犬に出鼻を挫かれた格好の田辺はエレベーターを降りてから、しばらく虫の居所が悪かったのだが、それも以前は遠藤が構えた応接に通されるまでの事だった。むせ返るように甘く癖のある花の匂いがそこに充満し、それはタバコの匂いすら掻き消す強烈さだった。先日、贔屓の花屋に祝花を頼んでおいたのだ。今朝届いたカサブランカのスタンドは、応接の隅に飾られていた。札には「祝 組長就任」と朱色で記されてある。
「ご大層にお祝いまで頂きまして」
 向かいに座った糸島は、ちらりとカサブランカのスタンドに視線を投げた。
「おめでたいことですからね。糸島さん、確かお好きだったでしょう?」
 カサブランカ。田辺がそう尋ねると、糸島は露骨に嫌な顔をする。
「コレが好きだったのは、遠藤ですよ……」
 知っている。
 カサブランカを好んだのは、前組長だった遠藤だ。なにかと言えば遠藤は胡蝶蘭でなくカサブランカを好んで贈った。遠藤がカサブランカを好んだ理由は強烈に香り立つその匂いに加えて、「君の瞳に乾杯」という銘台詞を残した古い映画と同じ名前を持っていたからだった。ロマンチストだった遠藤の死を悼んでという、田辺一流の嫌味であったが、それに糸島が気付いたかどうかは知る由もない。
「今日は……」
 糸島は言いながら、傍に立っていた子分の一人に窓を開けるようにと指示を出す。よほど匂いが嫌いなのだろう。開いた窓から表の蒸した空気が入り込み、室内の気温と温度は一気に上昇する。雨は止んでいたが、空は変わらずの曇天で、遠くの町を飲み込んだ濁流が引くにはまだ随分時間がかかりそうだった。
「なんです? 頂戴した絶縁状を返して欲しいって話でもないでしょう?」
 自分で言った冗談に、糸島はひっと引きつるような笑い声を上げる。人間が下品なら、笑い方もそれ相応と、田辺は糸島の下品な笑い声に合わせるように苦笑する。花菱の意向もあり、遠藤の四十九日が開けるまでは、と遠慮していた絶縁状が糸島のところへ届いたのはつい先日のことだった。絶縁状を持って、糸島率いる遠藤組は花菱組からようやく離脱した形になり、それを受けて、柏木が糸島を直参へと昇格した。この前代未聞のお家騒動を邦正会執行部は内輪の話だと、見て見ぬふりを貫き通している。
「今日は、ご相談に伺ったんですよ。タバコ、吸ってもよろしいです?」
 田辺は糸島の返事を待たずにタバコを咥え、火を点けた。カサブランカの芳香に、田辺の吐いた紫煙が混じり、色を付けた様に応接を白くけ烟らせた。
「ウチは柏木組さんとは仲良くやっていきたいと思ってるんですよ。オヤジもそれを望んでましてね……」
 話を遮るように扉が三度ノックされ、田辺が振り返ると、糸島と共謀して花菱組を抜けた佐治が顔を出した。
「いやぁ、こりゃ、ご無沙汰してます、田辺さん」
 小柄で猫背の男は、まるで偶然だと言わんばかりに驚いたような甲高い声を上げる。しかし、このタイミングで佐治が現れたという事は、二人が示し合わせた証拠だった。
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