捜査一課
文字数 2,947文字
その界隈では名前を知らない者はいないという、屋号が「彫辰」の彫り師は窓際のベッドの上で三年ぶりに現れた客の、なんとも言えない不機嫌そうな顔を見上げた。
「すまないね、兄さん」
未完成の彫り物に対する詫びか、それとも、わざわざ見舞いに訪れた礼か、彫辰はくしゃっと皺の多い顔を縮ませた。田辺は道中買った見舞の花を痩せた彫辰の膝の上へ乗せ、脇にあったパイプ椅子に腰を落とす。
消毒剤の匂いと、切花の青臭さが混じり合い鼻腔を満たすと田辺はその匂いに顔を歪ませ、惚けた様に窓の向こうを眺め続ける隣のベッドの老人に目をやり、今度は向かいでやはりこちらも、惚けた様に天井を仰ぐ老人を眺めた。白く濁った眼には光がなく生きているのか死んでいるのか、ただ、丸い穴がポカリと顔に開いているだけだった。反射的に昨夜の健二の眼を思い出し、田辺はまるで正反対だ。と、死に体の老人を鼻で笑った。
「いつ、シャバに戻ったんだい?」
彫辰のたずねる声に健二の眼がうやむやになり、田辺は彫辰へと意識を戻す。
「昨日だね。先生は先週からなんだって?」
慢性的な肺気腫がいよいよ悪化し、呼吸器不全を起こした先週、彫辰は救急車で病院へと運ばれた。田辺が彫辰の作業場で弟子から教えられたのは今朝のことだ。
「タバコがやめらんなくってね」
そう言った彫辰の、耳の裏から鼻の下まで伸びた細いビニールチューブは、ベッド脇の酸素ボンベから常に酸素を供給し続けていた。
田辺のポケットにはマイルドセブンのソフトケースと安物のライターが、十五の時から常にあった。タバコをやめられないのは自分も同じだと田辺は思い、しかし、死に体だと笑われる歳まで生きている予定もない。
「いつ頃、退院出来そうです?」
「今週末には、シャバだよ」
病院と刑務所を掛けた冗談に、はははと、声を上げて笑った彫辰は、ひゅっと喉を鳴らした後ひどく咳き込んだ。痩せた体を大きく揺らし、その姿がゼェゼェと苦しそうで、田辺は思わず背中に手を伸ばす。掌に、筋肉の削げ落ちた柔らかい皮膚と骨を感じながら、田辺は再び、今度は薄い皮膚の下で蠕動した健二の筋肉を思い出し、あれはやはり生きているのだと考えた。
「もう…いつ死んでもおかしかねぇや」
年老いた彫り師の独り言に、田辺は冗談めかして「まだ死なれちゃ困りますよ」と笑って見せた。
田辺の背中の彫り物は、筆で墨を引いたような力強い線で描かれており、そこにあるすべてのものが生き生きと躍動しているようだった。逃げ惑う人間を食らおうと手を伸ばす餓者髑髏は、深澤を取って食った田辺自身の投影であり、田辺に取って食われ、亡者となった深澤の投影だった。その一場面で全ての物語が繰り返され、どこにも逃げ場のない地獄を田辺は背中に背負っている。だが、それも、完成までには当分時間がかかりそうだ。退院した後は連絡をもらえるように伝えては来たが、あの様子ではまともに手が動かせるかどうか。ようやくシャバに出てみれば、会う顔、会う顔、どれも弱り切っている。もしや、自分もそうなのか、田辺は確かめる様に顔を撫で、病院の玄関ドアを表へ出た。
ポケットのマイルドセブンを取り出してみたが、辺りに灰皿が無いことに気付き、戻ってからにするかと横断歩道に足を踏み出す。そこへちょうど向こうからやってきた、軽自動車が停止線を無視し、田辺の前を横切った。田辺はその尻を目で追い、そうして、再び横断歩道の向こうに視線を戻すと、先程は気付きもしなかった背の高いトレンチコートの男を一瞥し、アスファルトに描かれた縞の上を男の方へと歩き始める。
スーツは吊るしの安物で、靴は手入れされてはいたが、歩きならされた合皮のゴム底。まだ三十代前半か、顔は悪くないが少しくたびれている。パッとしない三流企業の営業マン。こちらへ向かって歩く男を、田辺はそんな風に評した。歩幅を合わせた様にちょうど三歩の横断歩道の真ん中で男と目が合い、田辺は軽く会釈した。
「田辺さんですよね?」
田辺が振り返るよりも早く「たなべいさみさん」そう男が続けて、田辺はピタリと足を止めた。
「大峰と申します」
田辺の前に艶の消えたチョコレート色の手帳が差し出され、田辺はそれに目を通す。警部の階級の下には「大峰はじめ」の氏名と六桁の職員番号があり、見慣れたそれが本物である事を田辺は知っていた。
警視庁の刑事であることは分かったが、周囲をうろつく組対の連中なら大抵は顔見知りで、しかし、大峰と名乗った刑事の顔に田辺は覚えがない。そんな田辺の様子を察してか、大峰は「組織犯罪対策部じゃありませんので、ご存知ないかと」と、手帳をスーツの内ポケットへと仕舞った。
組対じゃないなら生活安全課か、と、自分で考えた冗談が滑稽で田辺は一人、恥をかいた気分になった。
「捜査一課です。殺人やなんかの。ほらドラマなんかでよく見るアレです」
まるで素人でも相手にする様な口ぶりの大峰に、そんなことは知っている。と思いつつ、田辺は飄々とした刑事の、どこか掴み所のない雰囲気に少しばかり戸惑った。今まで一度も、刑事を見破れなかった事はなかったのだ。よく見れば組対の連中とはその色が違ったが、大峰の目からは玄人っぽさが滲み出ていた。見抜けなかった理由はなんだと、田辺は具に大峰の表情や仕草に目を配る。
「今、お時間よろしいですか?」
田辺の耳が大峰の独特なリズムと、イントネーションに反応した。普段聞き慣れない関西弁が、突然、浮かび上がったように田辺の耳をくすぐった。
「殺人課の刑事さんが、なんのご用件です? 管轄違いじゃないですか?」
「朝、組対の藤崎さんからも同じこと言われました。ご存知ですか? 藤崎さん」
藤崎なら良く知っている。花菱とはズブズブの関係で、金さへ払えば目こぼしもしてくれる、ヤクザにとっては良い刑事だ。周辺を嗅ぎ回られて痛い腹を探られない為の牽制だろう。田辺は古い大木の様な藤崎を頭に思い浮かべた。ごつくて太くて一見すると強そうだが、中身は虫に食われてまるでスカスカだ。
「顔ぐらいでしたら」
「へぇ」
のれんに腕押し、糠に釘、言いようはいくらでもあったが、大峰の水をつかむ様な手応えの無さに田辺の調子が狂う。関西人は皆こうなのかと考えてみたが、比較できる対象もおらず田辺はすぐに考えることを手放した。
「ヤクザ屋さんの事務所って、独特で苦手なんです。今日、田辺さんが出かけてくれて……」
大峰の言葉を遮る様にクラクションが退けと鳴り、田辺はまた三歩、横断歩道を向こうへ歩いた。
「ホントに助かりました。どなたかのお見舞いですか?」
大峰は田辺の後に続きながらくだらない話を続け、田辺はそれを適当に受け流した。こんな事なら灰皿など気にせず火をつけておけばよかった。田辺の手は落ち着きなくポケットのタバコを弄る。
「で、用ってのは?」
ああ、それですね。まるで今思いついたかのように大峰は声を上げ、じつはですね、とようやく核心を切り出した。
「六年前の、深澤甚八さんの事件の件で……」
田辺が理解出来たのはそこまでだった。あとは連続する鎖が右の耳孔から流れ込み、左の耳孔から引き摺り出されたように、ただその音と感触だけがずるずると田辺の脳をかき混ぜた。
「すまないね、兄さん」
未完成の彫り物に対する詫びか、それとも、わざわざ見舞いに訪れた礼か、彫辰はくしゃっと皺の多い顔を縮ませた。田辺は道中買った見舞の花を痩せた彫辰の膝の上へ乗せ、脇にあったパイプ椅子に腰を落とす。
消毒剤の匂いと、切花の青臭さが混じり合い鼻腔を満たすと田辺はその匂いに顔を歪ませ、惚けた様に窓の向こうを眺め続ける隣のベッドの老人に目をやり、今度は向かいでやはりこちらも、惚けた様に天井を仰ぐ老人を眺めた。白く濁った眼には光がなく生きているのか死んでいるのか、ただ、丸い穴がポカリと顔に開いているだけだった。反射的に昨夜の健二の眼を思い出し、田辺はまるで正反対だ。と、死に体の老人を鼻で笑った。
「いつ、シャバに戻ったんだい?」
彫辰のたずねる声に健二の眼がうやむやになり、田辺は彫辰へと意識を戻す。
「昨日だね。先生は先週からなんだって?」
慢性的な肺気腫がいよいよ悪化し、呼吸器不全を起こした先週、彫辰は救急車で病院へと運ばれた。田辺が彫辰の作業場で弟子から教えられたのは今朝のことだ。
「タバコがやめらんなくってね」
そう言った彫辰の、耳の裏から鼻の下まで伸びた細いビニールチューブは、ベッド脇の酸素ボンベから常に酸素を供給し続けていた。
田辺のポケットにはマイルドセブンのソフトケースと安物のライターが、十五の時から常にあった。タバコをやめられないのは自分も同じだと田辺は思い、しかし、死に体だと笑われる歳まで生きている予定もない。
「いつ頃、退院出来そうです?」
「今週末には、シャバだよ」
病院と刑務所を掛けた冗談に、はははと、声を上げて笑った彫辰は、ひゅっと喉を鳴らした後ひどく咳き込んだ。痩せた体を大きく揺らし、その姿がゼェゼェと苦しそうで、田辺は思わず背中に手を伸ばす。掌に、筋肉の削げ落ちた柔らかい皮膚と骨を感じながら、田辺は再び、今度は薄い皮膚の下で蠕動した健二の筋肉を思い出し、あれはやはり生きているのだと考えた。
「もう…いつ死んでもおかしかねぇや」
年老いた彫り師の独り言に、田辺は冗談めかして「まだ死なれちゃ困りますよ」と笑って見せた。
田辺の背中の彫り物は、筆で墨を引いたような力強い線で描かれており、そこにあるすべてのものが生き生きと躍動しているようだった。逃げ惑う人間を食らおうと手を伸ばす餓者髑髏は、深澤を取って食った田辺自身の投影であり、田辺に取って食われ、亡者となった深澤の投影だった。その一場面で全ての物語が繰り返され、どこにも逃げ場のない地獄を田辺は背中に背負っている。だが、それも、完成までには当分時間がかかりそうだ。退院した後は連絡をもらえるように伝えては来たが、あの様子ではまともに手が動かせるかどうか。ようやくシャバに出てみれば、会う顔、会う顔、どれも弱り切っている。もしや、自分もそうなのか、田辺は確かめる様に顔を撫で、病院の玄関ドアを表へ出た。
ポケットのマイルドセブンを取り出してみたが、辺りに灰皿が無いことに気付き、戻ってからにするかと横断歩道に足を踏み出す。そこへちょうど向こうからやってきた、軽自動車が停止線を無視し、田辺の前を横切った。田辺はその尻を目で追い、そうして、再び横断歩道の向こうに視線を戻すと、先程は気付きもしなかった背の高いトレンチコートの男を一瞥し、アスファルトに描かれた縞の上を男の方へと歩き始める。
スーツは吊るしの安物で、靴は手入れされてはいたが、歩きならされた合皮のゴム底。まだ三十代前半か、顔は悪くないが少しくたびれている。パッとしない三流企業の営業マン。こちらへ向かって歩く男を、田辺はそんな風に評した。歩幅を合わせた様にちょうど三歩の横断歩道の真ん中で男と目が合い、田辺は軽く会釈した。
「田辺さんですよね?」
田辺が振り返るよりも早く「たなべいさみさん」そう男が続けて、田辺はピタリと足を止めた。
「大峰と申します」
田辺の前に艶の消えたチョコレート色の手帳が差し出され、田辺はそれに目を通す。警部の階級の下には「大峰はじめ」の氏名と六桁の職員番号があり、見慣れたそれが本物である事を田辺は知っていた。
警視庁の刑事であることは分かったが、周囲をうろつく組対の連中なら大抵は顔見知りで、しかし、大峰と名乗った刑事の顔に田辺は覚えがない。そんな田辺の様子を察してか、大峰は「組織犯罪対策部じゃありませんので、ご存知ないかと」と、手帳をスーツの内ポケットへと仕舞った。
組対じゃないなら生活安全課か、と、自分で考えた冗談が滑稽で田辺は一人、恥をかいた気分になった。
「捜査一課です。殺人やなんかの。ほらドラマなんかでよく見るアレです」
まるで素人でも相手にする様な口ぶりの大峰に、そんなことは知っている。と思いつつ、田辺は飄々とした刑事の、どこか掴み所のない雰囲気に少しばかり戸惑った。今まで一度も、刑事を見破れなかった事はなかったのだ。よく見れば組対の連中とはその色が違ったが、大峰の目からは玄人っぽさが滲み出ていた。見抜けなかった理由はなんだと、田辺は具に大峰の表情や仕草に目を配る。
「今、お時間よろしいですか?」
田辺の耳が大峰の独特なリズムと、イントネーションに反応した。普段聞き慣れない関西弁が、突然、浮かび上がったように田辺の耳をくすぐった。
「殺人課の刑事さんが、なんのご用件です? 管轄違いじゃないですか?」
「朝、組対の藤崎さんからも同じこと言われました。ご存知ですか? 藤崎さん」
藤崎なら良く知っている。花菱とはズブズブの関係で、金さへ払えば目こぼしもしてくれる、ヤクザにとっては良い刑事だ。周辺を嗅ぎ回られて痛い腹を探られない為の牽制だろう。田辺は古い大木の様な藤崎を頭に思い浮かべた。ごつくて太くて一見すると強そうだが、中身は虫に食われてまるでスカスカだ。
「顔ぐらいでしたら」
「へぇ」
のれんに腕押し、糠に釘、言いようはいくらでもあったが、大峰の水をつかむ様な手応えの無さに田辺の調子が狂う。関西人は皆こうなのかと考えてみたが、比較できる対象もおらず田辺はすぐに考えることを手放した。
「ヤクザ屋さんの事務所って、独特で苦手なんです。今日、田辺さんが出かけてくれて……」
大峰の言葉を遮る様にクラクションが退けと鳴り、田辺はまた三歩、横断歩道を向こうへ歩いた。
「ホントに助かりました。どなたかのお見舞いですか?」
大峰は田辺の後に続きながらくだらない話を続け、田辺はそれを適当に受け流した。こんな事なら灰皿など気にせず火をつけておけばよかった。田辺の手は落ち着きなくポケットのタバコを弄る。
「で、用ってのは?」
ああ、それですね。まるで今思いついたかのように大峰は声を上げ、じつはですね、とようやく核心を切り出した。
「六年前の、深澤甚八さんの事件の件で……」
田辺が理解出来たのはそこまでだった。あとは連続する鎖が右の耳孔から流れ込み、左の耳孔から引き摺り出されたように、ただその音と感触だけがずるずると田辺の脳をかき混ぜた。
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