文字数 3,327文字

 田辺は四角く切り取られた都会の小さな空を見上げていた。鈍色に重くのしかかる厚い雲の空は、ここ数日の長雨に疲弊したようにも見える。テレビやラジオでは連日、東北から北関東、甲信越から中部地方一帯に及んだ、大規模な水害の様子を伝え続けていた。堤防を切った濁流が住宅地に流れ込み、辺り一帯を汚水が冠水させる様子を眺めながら「水害じゃ、ウチは儲からねぇな」と言ったのは、知り合いの解体屋だった。水害車輌は見た目が綺麗な分、ロシア辺りの輸入代行業者がこぞって買い上げるのだ。事態が落ち着いた頃、横浜港や川崎港の岸壁は輸出される水害車輌で一杯になる。解体屋の愚痴を聞いた以外、東京の都心に暮らす田辺にとって、身近なものというわけでもなく、それについて考えるようなこともなかった。それだけでなく、田辺はこの数日、まともに何かを考えたということもない。灯りを消した薄暗い部屋では、テレビの映像だけが生きており、田辺は日がな自室のどこかでぼんやりと過ごしていた。表に出るのは、腹が減った時だけで、それも、毎日三食というわけでもない。
 事務所に顔を出していないと知った健二が田辺の自宅を訪ねると、田辺はこの数日伸ばし続けた髭を蓄え、どこかうつろな表情だった。生活感のなかった田辺の物のない部屋には、アルコールの缶や瓶がそこここに転がっており、健二は田辺の変わりように、何があったのかと驚いた。
「あ、あ、兄貴が……く、くみ、組長に、め、めい、惑、か、かけ、かけるなって」
 健二は窓の外を見上げる田辺に話かけながら、手で温めたシェービングクリームを田辺の頬や顎に優しく乗せていく。言葉はつたないが、その手つきは慣れたもので、健二が一端であれ、男であることの証拠だった。
「め、め、め、迷惑っすか?」
 手を止めて顔を覗き込んだ健二を、ちらりと一瞥した田辺だったが、何を答えるわけでもなく、再び窓外へと目をやった。
 大峰が突き立てたナイフは、今もなお田辺の胸の真ん中に刺さったままだった。田辺は掴むことも見ることも出来ない、その透明なナイフを抜き取れずにいた。深澤を殺めた日、体中に流れ込んだ深澤の生命力が今度は田辺の体から、その傷口から漏洩しているようで、立つのも歩くのも、口をきくのさへ億劫なのだ。
 深澤は深澤の意思で死んだ。
 大峰はそう言っていた。自分が殺したのだとそう思っていた、それなのに、深澤は田辺に命を奪われることに納得したのだ。そんな馬鹿な話があっていいものか。
 じゃりじゃりと小気味よい音を立てながら、健二のカミソリが田辺の顎から頬へと髭を剃り上げていく。田辺の顔を傷つけまいと、真剣なまなざしで健二はカミソリの向かう先を凝視し、嫌に丁寧な手つきだった。田辺はその顔を見上げ、短い金髪の後頭部へと手を回す。健二の金髪は伸び始めた根本が黒くなり始めていた。田辺は短い毛の感触を愉しみながら頭を撫でてやると、健二はくすぐったいと笑い、田辺を見下ろす。
「あ、あ、あぶ、危ないっすよ」
 健二の二つの眼は目の前で腐っていく男を、その黒い瞳の中に映し煌めいている。
 生きている。健二はいつもそうして生きているのだ。その生を田辺は欲し、健二を強く引き寄せ口づけた。健二の手元が狂い、真横にズレたカミソリの刃が田辺の皮膚を切り、ピっとまっすぐ走った傷から血がにじみ出す。小さな赤い玉がぷくっと浮き出し、健二の鼻先がそれを擦った。シェービングクリームと交じり合い、それはピンク色になり、田辺の頬に、健二の頬に色を付け、カミソリを握ったままの健二の手が虚空を掻いた。
 田辺が唇を離してやると、健二は息を殺しでもいたのか、はっと短い息継ぎをした。田辺はつーっと糸を引き離れていく、その赤い唇を指で拭ってやる。
「く、く、く組長」
「名前で呼べよ」
 死んだ深澤が呼んだ名前を、健二に呼ばせたい気になったのは、健二が今ここに生きているからだった。「いさみ」だと教えてやると、健二は緊張に表情をこわばらせながら「い、い、い、いさ、いさみ……さ、さん」と、やはりつたない口で名前を呼んだ。健二の吃音は緊張すればする程酷くなる。かと思えば、驚くほどスムーズに言葉が出る事もあり、波がある様だ。
「もっかい……」
 田辺は健二の膝枕に顔を擦り付けながら、寝返りをうち目を閉じる。
「いさみ? 女みてぇな名前だな」
 深澤が笑った。
 胃に残った薬を胃洗浄で洗い出し、解毒剤の注射とビタミン剤の入った点滴を打ち続け、田辺が意識を取り戻したのは、病院に運ばれてから丸二日後のことだ。その後は頻繁に起こる筋肉の硬直と、内臓の痛みに酷く苦しめられた。目は開いているが、頭が朦朧としており、テレビから流れる言葉の意味すら理解できなかった。田辺が驚いたのは、もともと勉強ができる方ではなかったにしろ、簡単な計算ができなかったことだ。小学生の算数問題が解けないのだ。一+三が四になる。たったそれだけのことがわからなかった。脳みそが死んで行く様な錯覚があり、田辺はそれが怖かった。せめて自分の名前だけは忘れないようにと、目が覚める度、田辺は生きる為に、憎んだ父が付けた自分の名を口にした。
「い、い、いさみさん」
 名前を呼びながら、田辺の髪を梳かす健二の手は子供のそれのように暖かく、気持ちが良かった。窓に遮られ、くぐもる雨音は遠くなり、近くなり、田辺を鼓膜をくすぐった。雨はきらいだという他愛もないことが、テロップのように浮かび上がり、薄れていく文字と同時に、己の意識が手の隙間から零れていくような感覚を覚える。消えた文字の向こうに深澤の痩せた背中が見え、それは次第に田辺を大久保通へと置き去りにしたトレンチコートの背中になり、田辺の意識は降りしきる雨粒の様に、暗闇の中に落ちて行った。

 久しぶりに灯りの点いた部屋で、田辺は目を覚ました。窓の外はもう暗く、向かいのビルの屋上看板ではスポットライトを浴びた若い女が笑いかけている。アルコールがすっかり抜けた体は重く怠い。田辺はのそのそと上体を起こした。ベッドの周辺に散乱していた空き缶や空き瓶は、田辺が眠っている間に健二が片付けてしまったらしい。健二は台所のシンクの前に立ち、何を作っているのか、ソースの焼ける香ばしい匂いがしている。そう言えば、腹が減った。田辺はベッドを下りてその香りに誘われるように、ふらふらと台所へと向かった。
 焼けた鉄の上でジュっと音を立てるソースのにおいが蒸気と共に湧き上がる。健二は割りばしで、褐色を色濃くしていく焼きそばをガサガサと乱暴に混ぜていた。田辺は健二の背後からそっと手を回し腹を撫でながら、健二の細い首筋に唇を這わせる。ビクリと健二の体が一瞬、緊張したように痙攣したが、健二は何も言わずにフライパンの中の焼きそばをかきまぜ続けた。ソースの良い香りが田辺の空の胃袋を、ぎゅっと締め付ける。体を弄りながら、田辺はぼそりと「美味そうだ」と健二の耳元で囁き、耳たぶに齧り付いた。
「も、も、もうすぐ、ででで出来るから」
 邪魔をする様に、田辺は健二にまとわりついた。拒むことは無かったが、そんな様子の田辺に対して戸惑っているのか、健二はぎこちない。まだ幼かったころ、健二も今の田辺の様に、兄の岸本にまとわり付いた。そうして腹も違えば種も違う、血の繋がらない歳の離れた兄を慕ったのは、健二が父親を知らないからだ。
 料理などしない田辺の部屋の調理器具や食器は全て、以前、部屋に出入りした情婦が持ち込んだものだった。処分するのも面倒で、そのままにしておいたのだが、その女との縁が切れて以来、初めて役立ったそれらに田辺は感心した。二人は向かい合った格好で床に腰を下ろし、味気ない晩餐が始まった。ズルズルと焼きそばを啜り、田辺はそれを咀嚼して喉へと流し込む。匂いは良かったが、まるで味がない。近頃の田辺は何を食べても同じで、どの食事も砂を噛む様なのだ。沸騰した血液が体中を駆け巡り、頭が空っぽになっていく酔うという感覚だけは確実で、この数日、アルコールを大量に摂取した。確実に満たされるのは腹ばかりの焼きそばを啜りながら、田辺はビールが飲みたいとそう思うのだった。
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