カフスボタン

文字数 2,898文字

 最後に掃除したのはいつ頃なのか、塩化ビニールのシートが貼られた床は、元の模様がどんなものだったのかも分からない程に、油と埃で黒く汚れていた。食い物屋なら選びきれない程にあったが、それでもここにやって来るのは、事務所から近いという以外に大した理由などなかった。客の殆どが近隣の風俗店かキャバクラの従業員で、仕事帰りのOLやサラリーマンが集うようなこともない。表の看板は色が落ち、店名すらも読み取れないのだ。わざわざ選んで入るような店でもない。赤いテーブルの上に並んだ冷えたビールと旨くも不味くもない餃子が、田辺の今日の夕食だった。ちょうど電話番を終えた諸見里を連れて、店を訪れたのは十分前のことだ。田辺は夕刊に目を通す。時勢に興味があるというよりは、時勢を知らねば商売が成り立たない。田辺が新聞を読むのも仕事の内だった。一面を飾るのは、ゼネコン三社が建設工事の入札価格を談合した件について、公正取引委員会の事務局長が数千万の賄賂を受け取っていたことが発覚したというものだ。これでは誰が反社会勢力だか分からないと、田辺は呆れ、ビールを煽る。
「代表」
 呼ばれて顔を上げれば諸見里が見ろと、田辺の後ろを顎で指し、田辺は指図されるままに後方を振り返った。見上げたテレビモニターにはヘリコプターからの映像だろうか、上空から見下ろした暗い街並みの、その中心部にブルーシートの青がよく目立つ。不自然な格好で斜めに停車した黒塗りのセダンは、フロントガラスが粉々に割れていた。
「本日、午後十時ごろ、指定暴力団、神田組系の組事務所付近の路上で、暴力団員三人が乗った車輌が銃撃される事件がありました」
 アナウンサーが淡々と事件のあらましを読み上げる。錦糸町にある神田組系暴力団の石橋興業事務所周辺の路上で、石橋興業代表の乗った車が何者かに襲撃された。車輌から飛び出した暴力団員一人が、胸部を撃たれて死亡した以外に死傷者はいない。
 アナウンサーは暴力団同士の抗争か、と物騒なニュースを締め括る。
「遠藤ですか?」
 元はと言えば、遠藤組系列の輸入代行業者と、石橋興業系列のバンミング業者の間で一悶着あったのが始まりで、小さな火種が燃え盛り、企業の看板に隠れていたはずの本体にまで飛び火したのは、十年程前のことだ。当時は一触即発かと危ぶまれたが、結局、戦争とまではいかず、しばらく冷戦が続いている状態だった。今さら昔年の恨みと、糸島が鉄砲玉を打ち込む理由は見当たらない。だとすれば、首謀者は他にいる。両者の経緯をよく知っている、例えば組対の刑事だ。
「糸島は救いようのないバカだねぇ」
 これが良いニュースならば、糸島は近々後ろに手がまわる。
 予想通り、事件は更に田辺に良いニュースをもたらした。翌日、件の襲撃事件を組織的犯罪と判断した警視庁は、以前から軋轢のあった遠藤組事務所への家宅捜索を異例のスピードで決行した。押収品は全部で十二箱、その内に実弾入りの中国産トカレフが三丁発見され、現行犯により糸島含む組員数名が、一先ず、銃刀法違反で現行犯逮捕され、さらにその翌日には、押収された拳銃一丁の施条と、現場に残された弾丸の施条痕が一致したことで、糸島は二度目の逮捕となった。拳銃の所持に殺人教唆、それに加えて組織犯罪となれば、一体何年食うことになるのか。組対の連中は、今頃、打ち上げの最中だろう。それもこれも、全ては藤崎が仕組んだことかと考えると、田辺はぞっとしないでもない。よほど娘が可愛いのか、あるいは己が可愛いのか、藤崎の利己主義もここまでくれば、才能と言うべきか。
 田辺は折り畳んだ新聞を膝の上に乗せ、缶コーヒーを啜った。色と匂いはコーヒーのそれだが、苦味も酸味も殆どなく、美味くはない。一気に飲み干して、田辺は空っぽの缶をベンチの脇に置いた。色褪せたベンチは、すっかりビルの影に身を潜めるようになり、煩わしかった蝉の声も、聞こえなくなれば随分と寂しいものだった。晴れの日が増え、日陰に入れば、乾いた風が熱をさらって行く。秋が始まろうとしているのが、こんな雑然とした、都会の空気の匂いでもわかるのだ。コーヒーの残り香に混じり、幾ばくばかりか冷えた風の香りに、田辺はしばし瞑想した。久しぶりに、気持ちが落ち着いていた。残すは佐治と大峰だが、今頃佐治は相棒を失って右へ左への大騒ぎだろう。大峰は暴力団がらみの殺人事件に駆り出されている筈だ。しばらくは、どちらも大人しくしていてくれる。
「代表、お迎えに上がりました」
 十時に迎えを寄越す様に岸本には伝えておいた。田辺は時計に目を落とす。岸本は常に田辺の忠実な部下だった。まだ約束までは十五分もある。田辺は袖を元に戻しながら、ターコイズのカフスボタンに視線をうつした。アパートでの件を気に病んでいるのか、その詫びだと、健二から贈られたものだ。まともな仕事に就いていない健二が、それをどうやって手に入れたのかは聞きもしなかったが、田辺は近頃そればかりを身につけた。ヤクザになる事を諦めたのか、これを事務所に持ってきて以来、健二は事務所にも自宅にも顔を出さなくなっていた。
「健二は、元気にやってんのか?」
 田辺の問いかけに、遅れてエレベーターに乗り込んだ岸本が、ハッとしたように顔をあげた。田辺はこれまで直接、義弟のことを尋ねたことはない。意外だと驚いた感情以外に、岸本の表情には別の感情が内在していた。陰った表情を隠す様に田辺に背を向け、岸本は「お陰様で」と愛想のない返事だ。岸本が義弟と田辺の関係を気に入らないのは当然で、面白くないのも当然だった。可愛い義弟なら、尚更、極道などという茨の道を歩かせたくないだろう。素気ないのは、岸本の反抗心の表れか。田辺は所在なく袖口のカフスボタンを指先で弄んだ。健二の相手をするのも、そろそろ潮時かも知れない。単なる捌け口と言うなら、相手はいくらでもいるのだ。チン、と短いベルが鳴り、一階に到着した事を知らせ、ガクンと籠が揺れた。弾みで指先から、カフスボタンが転がり落ちる。しっかり留めたつもりだったが、どうやら留金をかけ切れていなかった様だ。床に落ちたカフスボタンに先に手を伸ばしたのは、岸本の方だった。拾い上げたカフスボタンは、床に落ちた衝撃でターコイズが台座から外れてしまっている。田辺はそれを岸本の掌から拾い上げた。見れば台座の内側に、台座より一回り小さなボタン電池の様な物が貼り付けてあり、石との接地面には雑にちぎり取られた、粘着テープの残骸があった。宝石には詳しいわけでもなかったが、田辺は明らかな素人レベルの造作に違和感を覚える。
「代表?」
 岸本の呼びかけには答えず、田辺はタイピンを外し、台座とボタン電池の間に差し込んだ。こちらも粘着テープで留めてあった様で簡単に外れてくれた。丸いステンレス製のそれは、上下二枚のカバーを噛み合わせた作りになっており、ただのボタン電池だと言われれば、そう見えた。だがカフスボタンにはボタン電池など必要ない。田辺はエレベーターから降りるなり、それを硬いコンクリートの床へと落とし踵で踏みつけた。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み