壱 海女 その一

文字数 1,709文字

お初にお目にかかります。
今宵の(はな)を飾らせていただきます、わたくし、シズと申します。
見ての通り、齢七十になんなんとする、婆でございます。

これは今より五十年以上も前、わたくしがまだ、十代の小娘の頃のお話でございます。
その当時わたくしは、志摩地方にある小さな漁村で、海女をしておりました。

わたくしは中学を出てすぐに、同い年の二人、サチエとスエコという娘たちと共に海女の修行に出されました。
わたくしたち三人の師匠は、二十歳も年上のカツという(ひと)でございました。

カツは、それはそれは厳しい、というよりも、猛々しいと申し上げた方がぴたりと当て嵌まる(ひと)でした。
そして何よりもカツは、強欲でありました。
わたくし共三人の、僅かな稼ぎからも、指導料と称して上前を撥ねるような、金に汚い女だったのです。

勿論わたくし共は皆、そのことに不満を持っておりました。
三人とも貧家の娘で、稼ぎの少なさは、そのまま食い扶持に響いたからでございます。

しかしカツは恐ろしかった。
体格も大の男に引けを取らず、力士のような膂力を持っておりましたから、貧弱な小娘三人など、束になって掛かっても敵う相手ではありませんでした。
わたくし共は、泣く泣くカツの言いなりになって暮らしておりました。

当時のわたくし共は、カツを含めた四人で、沖の磯を転々と渡って、漁をしておりました。
磯へは村の漁師に運んでもらい、帰りも迎えに来てもらっていたのです。
その頃のカツは、自分では海に潜ることをせず、もっぱらわたくし共三人を潜らせ、漁をさせておりました。

その日は不漁でした。
鮑も栄螺もあまり採れず、殆ど上がりがなかったのでございます。

カツはとても不機嫌になりました。
そして昼頃迎えに来てくれた漁師に、磯場をかえると告げたのです。
わたくし共三人は、午前の漁で既にへとへとになっておりましたので、本当はそのまま港に引き揚げたかったのです。

しかしカツには逆らえません。
そのまま漁船に乗り組むと、別の磯場へと向かうことになりました。
それが間違いだったのでございます。

次の磯場でも、やはり上がりは果々(はかばか)しくありませんでした。
カツは益々機嫌が悪くなり、わたくし共に当たり散らします。

しかしそれでも刻々と時間は過ぎ、じきに陽が沈む頃合いとなりました。
迎えの漁船のエンジン音を聞いて、わたくしども三人はほっとしたものです。

しかしその時、悪夢が襲ってきました。
何かに漁船にぶつかったかと思うと、見る間に沈み始めたのです。

驚いた漁師が、慌てて海に飛び込むのが見えました。
そして漁師は、わたくし共の目の前で、突然現れた大鱶(おおぶか)に飲み込まれてしまいました。
漁船を沈めたのは、その大鱶だったのです。

ご存じかどうか知りませんが、鱶というのは、とても執念深い凶魚なのでございます。
付近に餌の匂いを嗅ぎつけたのか、わたくし共のいた磯場の周辺を、ゆるゆると泳ぎ回り始めたのです。

わたくし共は途方に暮れてしまいました。
陽が落ちてしまいますと、夜半に助けが来るのを望めなかったためでございます。

そしてもう一つ、さらに大きな問題がありました。
夜になり潮が満ちれば、磯場は海に沈んでしまいます。
そして最後は、一人が乗るのがやっとの、狭い場所しか残らないのです。

その時カツは、じっと大鱶を睨んでおりました。
その背中を見ながら、わたくしども三人の考えはすぐに一致しました。

このまま磯場が沈んでいけば、カツは確実にわたくし共を海に放り出し、大鱶の餌にするでしょう。
そして朝まで自分一人で、助けを待つはずです。

スエコがわたくしとサチエに目配せしました。
わたくしどもは無我夢中でカツの背中にぶつかり、海に突き落としたのです。

海に落ちたカツは、凄まじい形相でわたくし共を睨みつけ、必死で磯場に取りつきました。
せっかくカツを突き落としたのに、このままでは上ってきてしまいます。
わたくし共は、あまりの恐ろしさに、身を寄せ合ってブルブルと震えていました。

しかしその時、突然潮目が変わり、カツは潮に引かれて海に流されて行きました。
そして大鱶の背びれが、カツに近づくと、海の中に引きずり込んでいったのです。
わたくし共は、それを見てほっと胸を撫でおろしました。
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