参 忌謡 その二

文字数 2,874文字

「先生。『出む』って、『出ない』の意味ですよね」
「この地方の方言では、そういう意味らしいね」

「じゃあその部分を、『出るぞ』という言葉に置き換えたら、どうなるんでしょう?蟲の立場からすれば、封印を破って出て行くぞという、意思表示になるんじゃないですかね」
「どうしてそう思ったの?」

「この忌謡(いみうた)というのは、蟲の恨み言がベースなんですよね。
だから蟲の立場から考えると、外に出たい訳ですから。
『出てやるぞ』と考えても、おかしくないと思うんですよ」

皆さん、オカノという学生さんの主張に、耳を傾けていました。
給仕の手伝いをしていた私も、聞くとはなしに聞いていたのでございます。

「すると元々の蟲の恨み言は、『出るぞ』で終わっていたと考えた訳だね?」
「そうです、先生。それを里謡にする時に、『出ない』に読み替えた」

「なるほど。蟲に出てきてもらっちゃ困るからね」
「そうです。だから忌謡の歌詞は弄るなという、言い伝えが残ったんじゃないですかね」

皆、その説明に感心しておられました。
オカノさんは、とても得意そうでした。

「『出るぞ』という言葉は、この村の方言でどう言うんですか?」
その時近くにいた私に向かって、ミキさんという女学生が、訊いてこられました。

「『出るぞ』は、そうですね。この村では、『出まし』と言いますね」
当時の私は、実際に洞に蟲がいるなどとは、考えてもおりませんでしたので、軽い気持ちでお答えしたのです。

「じゃあ、明日<蟲込めの洞>に行って、『出まし、出まし』と謡ってみませんか?」
ヤマオカさんが面白がって言うと、学生三人が即座に賛成しました。
クロサワ先生も、それを止めるでもなく、苦笑しておられました。

そして翌日、五人が連れ立って<蟲込めの洞>に向かった時も、ご本人たちは勿論のこと、村の誰も、そのことを気にも掛けていなかったのです。
しかし私たちは、五人を止めておくべきだったのです。

五人が<蟲込めの洞>に出掛けたのは、午前九時を少し過ぎた頃でした。
<洞>までは、村から歩いて小一時間程の距離です。

クロサワ先生たちは、その日の午後に帰京されるご予定でしたので、<洞>まで行って帰って来て、私の家で最後の昼食を摂ることになっておりました。

時刻が十一時を回って、そろそろ昼食の準備に掛かろうとしていた時でした。
遠くから、消魂(けたたま)しい悲鳴のような声が聞こえてきたのです。

何だろうと思って、私が外の様子を見に出ようとすると、農作業に出ていた主人が、血相を変えて家の中に飛び込んできました。

驚いた私に向かって、主人は怒鳴るように訊きました。
「早く家中の戸を閉めろ!」

私はその剣幕に大層驚きましたが、とにかく言われるままに、家中の戸や窓を閉めて回ったのです。
そして私が二階の窓を閉めようとして、外に眼を遣ると、見たこともない、異様な光景が飛び込んできました。

人間の大人程もある大きさ蟲が一匹、大きな(はね)を広げて、飛んできたではありませんか。
外に出ていた村人たちは、先を争うようにして、家に逃げ込んでいきました。

その時蟲が、逃げまどう一人に飛び掛かると、上に覆い被さりました。
遠目に見えたその服から、ミキさんだと分かりました。
直ぐ近くで、ヤマオカさんが腰を抜かして、動けずにいる姿が見えました。

ミキさんに覆い被さった蟲は、こちらに背中を向けていたので、はっきりとは見えませんでしたが、どうやら彼女を貪っているようでした。
ミキさんの悲鳴と一緒に、物を咬む、嫌な音が聞こえてきたからです。

「何してる。はよお、窓を閉めんか!」
背後から夫に怒鳴られ、私は一瞬で我に返りました。

そして弾かれたように窓を閉めると、急激に恐怖が湧いてきて、その場に座り込んでしまったのです。
その時、新たな悲鳴が聞こえてきました。

女性の声でしたので、ヤマオカさんが蟲に襲われたのだということが、すぐに察せられました。
そして声は次第に弱まっていき、やがて外は静まり返ったのです。

「駄目だ。警察に繋がらん」
一旦下に降りた夫が、二階に上がってきて言いました。

その言葉を聞いた私は、村中から一斉に電話が掛かって、回線がパンクしているんだろうなと、ぼんやりと思ったのを覚えています。

その時、「ドン」という大きな音が、私たちがいた部屋の外から聞こえたのです。
恐る恐る振り返ると、窓の外に蟲が見えました。

ヤマオカさんを食べ終えて、屋根に飛び乗ったのでしょう。
その蟲の顔を、私は一生忘れることが出来ないでしょう。

顔の左上と下半分は、黒光りする蟲のもので、口から出ている蟻の牙のようなものには、血がこびり付いていました。
しかし右上の部分だけが、人間の顔だったのです。
その部分だけ、毛髪が残っていました。

その顔は、クロサワ助教授のものでした。
顔に残った人間の眼で、こちらをジッと見ていたのです。

私は、クロサワ助教授が、<蟲込めの洞>に封じられていた蟲に乗っ取られたのだと、すぐに理解しました。
忌謡(いみうた)(いじ)ってしまったために、蟲を解き放ってしまったのだと。

蟲になったクロサワ助教授の顔は、(おぞ)ましいの一言でした。

せめて顔全部が蟲になっていれば、もう少しマシに思えたのでしょうが、なまじ人間の部分が残っていたことで、この世のものとは思えない、不気味な顔に変わっていたのです。

私たち夫婦は、悲鳴すら上げられずに、呆然と蟲を見ていました。
すると蟲が何かを言っているのが聞こえていました。

最初は何を言っているのか分からなかったのですが、徐々に『オカノ』と繰り返しているのだと、理解することが出来ました。
蟲はオカノさんを探していたのです。

その時突然、蟲が屋根から飛び立って行ったのです。
そして何が起こったのだろうと思う間もなく、外から男性の悲鳴が聞こえてきました。

その声を聞いて、隠れていたオカノさんが、蟲に見つかり、襲われたのだということが、はっきりと分かりました。

オカノさんの断末魔の声が途絶えた後は、村中を静けさが包みました。
その静けさは、パトカーのサイレンが鳴り響くまで、続いたのでした。

警察が到着した後、当然のことながら村は騒然となりました。
あちこちに、食い荒らされた学生三人の残骸が、散乱していたからです。

事態を重く見た警察は、近隣の猟友会を総動員して、大規模な山狩りを行いました。
しかし見つかったのは、<蟲込めの洞>の近くに散乱していた、シバタさんのご遺体だけでした。

クロサワ助教授の行方は、ようとして知れなかったのです。
そのことを聞いた私は、蟲になったクロサワ助教授が、元の場所に帰ったのだと思いました。

結局事件は、東京から来ていた五人が、野生動物に襲われて、亡くなったということで処理されました。
その野生動物が蟲だったことは、今でも伏せられたままです。

あの蟲が、何故クロサワ助教授に乗り移って、学生だけを襲ったのかは分かりません。
洞のなかで眠っていたところを、忌謡を弄って、無理矢理起こされたことに、腹を立てたのでしょうか。

これで私の話はお終いとさせていただきます。
もちろん、忌謡を口遊(くちずさ)むことはしませんので、どうかご安心下さい。
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