弐 肖像画 その一

文字数 1,971文字

次は俺の番か。
だが、名前を明かすのは勘弁してほしい。
仮に、スズキと名乗ることにしよう。
ありふれた名だしな。

俺は絵を描くことを生業としていた。
だが芸術家という意味合いでの『絵描き』とは少し違う。
俺が手掛けていたのは肖像画だ。
人に頼まれて、肖像画を描くことが俺の仕事だった。

そういう意味では、『商業画家』と言った方が正確かも知れない。
とは言え、今時肖像画の需要など左程ある訳でもなく、仕事がない時は街角で似顔絵描きをして、口過ぎをしていた。

中高生の頃に絵が上手いとちやほやされ、調子に乗った俺は美大に進学した。
そして美大を卒業する頃には、自分の凡庸さを嫌というほど思い知らされていた。
俺程度の才能など、世の中には吐いて捨てるほどいることに漸く気づいた時には、既に手遅れだった。

世間に認められるような芸術作品を描く才能もなく、かといって他の仕事に就けるような才覚もないことに気づいた俺は、途方に暮れてしまった。
結局先輩の伝手を頼って、一時凌ぎのつもりで肖像画を描く仕事にありついたのだが、そのままずるずると、その仕事を続けることになるとは、思いもしなかった。

そんな俺に、ある時不思議な依頼が来た。
それまで俺は、数え切れないほどの肖像画を描いていたが、あんな依頼は初めてだった。

依頼の内容は、六日間で六枚の肖像画を描くことだった。
一日一枚というのは正直きつかったが、報酬が思わぬ高額だったため、俺はすぐに飛びついた。
当時かなり金に困っていたのが、仕事を引き受けた主な理由だった。

約束の一日目。
俺は画材一式を持って、指定された場所に赴いた。

そこは日本ではあまり見かけない、古びた洋館だった。
頑丈そうな木製の扉の前に立って(おとな)いを入れると、中から痩せた背の高い男が顔を見せた。
男はこの屋敷の使用人だと名乗った。

俺はその男に誘われ、屋敷内に入った。
玄関ホールは広々としていて、二階まで吹き抜けになっていた。
天井には、豪奢なシャンデリアが飾られている。
映画でしか見たことがないような邸だった。

そしてその、だだっ広い玄関ホールの奥に、大きな木製の椅子が置かれていて、人が一人座っていた。
三歳くらいに見える幼女だった。

使用人と名乗る男から、今日の仕事はその子の肖像画を描くことだと指示された。
幼女の正面には、既にイーゼルとカンバスが用意されていて、俺用の椅子や画材を置くための台もセットされている。

俺が絵を描くための準備を始めた傍で、使用人の男が厳粛な声で言った。
「これから当屋敷内でのルールを説明します。よろしいかな」
俺はその雰囲気に気圧され、黙って頷く。

「一つ目は、必ず一日に一枚の絵を仕上げること。これは仕事を引き受けていただく際の、お約束だったと思います」
そう言って男は俺を見つめた。
その顔は、不自然なくらい無表情だった。

「二つ目は、決してモデルに話し掛けないこと。そして三つ目は、絵を描き終えて屋敷の扉から出ていく際に、決して後ろを振り向かないこと。以上三つのルールを絶対に破らないでいただきたい。よろしいですね」

男の有無を言わさぬ口調に、俺は少しムッとした。
しかし、ここで揉め事を起こすと、せっかくの報酬をふいにするかも知れないと思い、黙って男に肯いた。
そして俺は気を取り直し、仕事にかかることにした。

幼女は大きな椅子に腰かけて、少し右斜めを向く姿勢を取っていた。
よくある肖像画の構図だったが、別に俺が注文を付けることでもなかったので、そのまま下書きに取り掛かる。

幼女は抜けるほど白い肌をしていて、大きな瞳と鮮明な赤の唇が、将来の美貌を予測させる、綺麗な顔立ちをしていた。
しかし俺は、何故だかその(かお)から、奇妙な印象を受ける。

幼女には、表情がまったくなかったのだ。
緊張して固くなっているとかではなく、貌から表情が完全に抜け落ちていた。
時々瞬きをする以外は、表情はまったく動かない。

それどころか、長時間同じ姿勢で座っているにもかかわらず微動だにしないのだ。
それは大人でもあり得ないことだった。

結局俺が絵を描き切るまでの十時間以上に渡って、幼女は座ったままで席を立つこともせず、じっと同じ姿勢、同じ表情を取り続けていたのだ。
結局俺も途中で休憩を取る訳にもいかず、空腹に耐えながら、一日目の絵を描き終わった頃には、くたくたになっていた。

漸く描き終えた絵をイーゼルから外し、俺は後ろに立っていた使用人の男に手渡した。
――そう言えば、この男も絵を描いている間中、後ろに立って微動だにしなかったな。
俺は段々と、この屋敷の住人たちを薄気味悪く感じ始めていた。

俺が帰り支度を始めた時には、幼女の姿は既になかった。
使用人の男に送られて、屋敷の扉を出る時、俺は思わず邸内を振り返りそうになったが、最初に言われた約束を思い出し、そそくさと立ち去る。
こうして長い一日が終わった。
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