弐 黒玉 その二

文字数 2,903文字

そのサイトウという男の人は、私の町にある、小さなアパートで1人暮らしをしていました。
何時その人が越してきたのか、アパートの隣人ですら覚えていないような、存在感の薄い人だったそうです。

後から聞いて、何となく思い出したのですが、私も何度かサイトウさんを見かけたことがありました。
猫背で、かなり細身の人だったと思います。

異変は、そのサイトウさんの部屋から始まりました。
町の雰囲気が悪化しだしたのと丁度同じ頃、彼の部屋から、夜になると妙な音が鳴り始めたのです。

その音は『ヴーン』という、何かが振動するような音でした。
大きな音ではなかったのですが、夜起きて音に気がつくと、気になって眠れなくなるような、そんな類の音だったそうです。

サイトウさんの隣は、一人暮らしのお婆さんの部屋でした。
持病はあったものの、元気な方だったそうです。

ところが、サイトウさんの部屋から音がし始めてから、お婆さんの病気が急激に悪くなったのです。
そして誰にも気づかれないまま、お婆さんは部屋で亡くなってしまいました。

部屋から屍臭が漂い始めて、大家さんと警察が部屋を訪ねた時には、既に亡くなってから随分と日が経っていました。
しかしそのことは、単なる始まりに過ぎませんでした。

やがて町中で、夜中になると『ヴーン』という音がするようになったのです。
まるでその音が、町中を動き回っているような感じでした。

その音は、動き回っているだけではありませんでした。
特定の場所まで行くと、留まって鳴るようになったのです。

そしてその場所で、必ず不幸な出来事が起こったのです。
例えばあるお宅では、家族が交通事故に逢いました。
またあるお宅では、家族が急病で亡くなったりしました。

そのようなことは、日常で起こりうることでしたので、最初は誰も気にかけていませんでした。
ましてや町中を動き回る音との関係について、気づく人などいなかったのです。

ある時、偶々夜中に目覚めた人が、近くで鳴る音に気づきました。
不審に思ったその人が窓を開けて見ると、家の前に人が立っていました。

『ヴーン』という音は、その人から出ているのでした。
その人は、向かいの家を見ながら、じっと立っていたそうです。
そして暫くすると、歩き去って行きました。

翌日、向かいの家で不幸がありました。
火事が起こって、逃げ遅れた方が2人亡くなったのです。

そのように、私の町では静かに不幸な出来事が広がっていきました。
そして住人間の不穏な雰囲気も、鎮まることはありませんでした。
あのままでは、町が崩壊していたかも知れません。

ある夜のことでした。
深夜までお酒を飲んでいた人が、帰宅途中に不審な男の人を見かけたのです。
その人は上半身裸で、フラフラと道を歩いてきたそうです。

後で分かったのですが、その人はサイトウさんでした。
サイトウさんは、何か呟いていたそうです。

近寄ってすれ違う時に聞こえてきたのは、『ヴーン』という音だったそうです。
サイトウさんは、『ヴーン、ヴーン』と呟きながら、歩き去って行きました。

その頃になると、夜間に街中で聞こえる音のことが、住人たちの口の端に乗るようになっていました。
そして夜中に街中を徘徊する男性の噂も、同時に拡がっていました。

町内会でもそのことが話題になっていて、一度捕まえて話を聞こうということになりました。
もちろんその時点で、『ヴーン』という音と、町で起こっている不幸な出来事との関連性に気づく人はいませんでした。

そしてその日の夜、町内会の役員と有志が、街中を見回ることになりました。
私と夫も、義父のことが心配で、見回りに参加することにしました。

深夜1時を過ぎて、夫と義父、そして私の3人が自宅周辺を見回っていると、向こうから『ヴーン』という音が聞こえてきました。
私たちがそちらを見ると、フラフラとして足取りで、上半身裸の男性が近づいてきます。

「あんた、止まりなさい」
義父が声を掛けると、その男性はその場で立ち止まりました。
その口からは、『ヴーン』という音が聞こえてきます。

その人はガリガリに痩せていて、両目は今にも飛び出しそうでした。
まばらに生えた長い頭髪が、顔に纏わりついています。

そして何よりも目についたのは、ガリガリに痩せた体に比べて、異常にお腹が膨らんでいたことでした。
それはまるで、昔の絵に描かれた、餓鬼そのものでした。

その異様な姿に、私たち3人は一瞬たじろぎました。
しかし我に返った義父が、その人に声を掛けようとしました。
その時です。

男性の膨らんだお腹に、縦に1本紅い筋が走りました。
そしてお腹が筋に沿って、左右にパックリと割れたのです。

中からこぼれ出てきたのは、黒い玉でした。
バスケットボールの二回りくらいの大きさでした。

呆然と立ち尽くす私たちの前で、地面に転げ落ちた球が大きく震えました。
そして、『ヴーン』という、途轍もなく大きな音を立てたのです。
その音は、町中に響き渡りました。

余りの音の大きさに、私たちは反射的に目を閉じて、耳を塞ぎました。
そして辺りが静まり返った時、私たちが目にしたのは、地面に倒れた男の人の姿だけでした。
黒い玉は、跡形もなく消え失せていたのです。

地面に倒れた人はサイトウさんでした。
救急隊が駆けつけた時には、既に亡くなっていたようです。

サイトウさんのお腹から出てきた玉が、町内会の事務所から消えた、あの黒い玉だったのかどうかは、未だにはっきりとしません。
大きさが明確に違っていたからです。

もしあの玉だったとしても、今となってはサイトウさんが、それを盗んだのかどうかも分かりません。
しかし義父は、2つに玉が同じものだと確信していました。

玉が消えた後、町を覆っていた不穏な空気は、嘘のように消えていました。
ただ、最後に玉が響かせた大きな音の影響は、町のあちこちで出ていたようです。

私の家でも、あの後義父が急に患って、あっという間に帰らぬ人となってしまいました。
他のお宅でも、色々な不幸が起こったようです。

しかしそのような出来事もやがて沈静化していき、今では町に平穏が戻っています。
サイトウさんについて目撃したことを、義父と夫は警察にありのままに告げたのですが、信じてもらえなかったそうです。

実際黒い玉もなくなっていましたし、サイトウさんも亡くなっていましたので、2人の話を証明するものが、何もなかったからでしょう。
そしてサイトウさんは、単なる事故死ということで処理されてしまったそうです。

あれ以来私は、あの黒い玉が何だったのか、ずっと考えています。
サイトウさんのお腹を割って出てきた時の、禍々しい様子が、心の中にずっと(わだか)っているのです。

玉は最初、町中に不穏の種を巻き散らし、そこから発生する悪気を吸って、サイトウさんのお腹の中で育っていったのではないでしょうか。
そして今度は、溜まった悪気を不幸に変えて、今度は町に撒いていたのかも知れません。

撤去されてしまったお地蔵様は、あの黒い玉が世に出ないよう、沈めていたんじゃないかと、私は思っています。
皆さんは、どう思われますか?

これで私の話は終わりとさせていただきます。
楽しんでいただけたのなら、とても幸いです。
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