参 橋 その二

文字数 2,303文字

あの橋を渡ってから、私の体に微妙な変化が生じました。
自分の存在が少しずつ薄くなっていく、そんな感覚を覚えるようになったのです。

実際に体から徐々に力が抜け、何をするにも意欲が湧かなくなってきたのです。
最初は、自分の過去を垣間見たことによる、精神的なショックが原因なのかと思いました。

しかし数日経つと、その感覚はより顕著になり、自分の体が薄くなっているような気がしたのです。
私は気が気ではなくなりました。

どうしたらよいか思い悩んだ末、私はまた、あの橋に向かったのです。
すると橋の真ん中あたりに、こちらに背を向けて男性が立っていました。

そして橋の向こう岸から、小学生の男の子が二人、歩いて来るのが見えたのです。
そのうちの一人は、子供の頃の私でした。

橋に立っていた男は、二人に近づこうとしていました。
――私を突き落とす積りだ。
咄嗟にそう思った私は、「危ない」と叫んだのです。

すると男と二人の子供はその場で立ち止まり、幻のように消え失せてしまいました。
私は男のいた場所まで行って見ましたが、そこには何の痕跡も残されていませんでした。

自分が見ていたものが何だったのか、私はその場に佇んで考えましたが、良い考えは浮かんできません。
幻と呼ぶには、あまりにも鮮明だったからです。

諦めて橋を戻りかけた私は、立ち止まって振り向きました。
もう一度向こう側の様子を、確かめようと思ったのです。

橋を渡った私は、またあの頃住んでいた家に向かいました。
家の様子は、先日見た時のままでした。

違ったのは、『忌中』の札が掛かっていなかったことと、店のシャッターが開いていたことでした。
そして店の中では、既に亡くなった祖父が、店番をしているのが見えたのです。

その日が何日だったのか、はっきりとは分かりませんでしたが、自分は死ななかったのだと、確信することが出来ました。
何故なら、自分が消えて行くような感覚がなくなっていたからです。

ホッとした私は、私設橋を渡って元の世界に戻りました。
これで終わりだと思ったのです。

しかし私の考えは間違っていました。
数日経つとまた、自分が消えて行く感覚が戻ってきたのです。

途方に暮れた私は、またあの橋に向かいました。
そしてそこには、あの男がこちらに背を向けて立っていたのです。

やがて橋の向こう側から、過去の私が友達と連れ立って、歩いて来るのが見えました。
私は前回と同様、「危ない」と叫びました。

その後は、全く同じことが繰り返されたのです。
私が叫ぶと同時に、目の前から幻が消え去り、過去の私は死ななかったのです。

そして数日経つと、また自分が消えて行く感覚が戻って来ました。
その度に私は、橋に向かったのです。
自分を助けるために。

しかし、そんなことを繰り返すうちに、私の精神は疲弊していきました。
――こんなことを、永遠に繰り返さなければならないのだろうか。

思い悩んだ私は、ある推論に至ったのです。
あの橋から誰かが突き落とされないと、この連鎖は終わらないのではないかと。
そして突き落とされるのは、必ずしも私である必要はないのではないかと。

実際私の記憶の中では、あの日突き落とされたのは、一緒にいたヒロセ君でした。
だから、ヒロセ君が私の代わりに落ちれば、この連鎖を終わらせることが出来るのではないかという、悪魔の考えが私の頭に浮かんだのです。

精神的に疲弊し切っていた私は、その誘惑に勝てませんでした。
いつも見る情景が、過去の幻であり、実体がないことも、その考えを後押ししたのだと思います。

私はまた、あの橋に向かいました。
そして橋の真ん中には男が立っており、向こう側から私とヒロセ君が近づいて来るのが見えたのです。

私はなりふり構わず橋を渡りました。
そして男を押しのけるように、過去の私たちの前に出ると、ヒロセ君の体を掴み、用水路に突き落としたのです。

ヒロセ君が水に落ちる音を聞きながら、私は子供の頃の自分を見ていました。
『私』は、恐怖の表情で、『私』を見上げていたのです。

やがて子供の私は、目の前から消えていきました。
振り向くと、男の姿も消えていました。

幻とは言え、子供を突き落として、殺してしまったことへの罪悪感が心に残りましてが、これで終わるんだと、ホッとしたのも事実でした。

しかし終わりではなかったのです。
数日経つとまた、自分が消えていく感覚が戻ってきたのです。
そして恐怖の日々が始まりました。

それから私は、三度あの橋でヒロセ君を突き落としました。
それでもやはり、連鎖は止まりませんでした。

完全に疲弊し切った私は、それでもまた、橋に向かったのです。
ただその日は、もはや何もする気力も残っていませんでした。

私は橋のこちら側に立って、ただ目の前で起きることを呆然と見守っていたのです。
橋の上に立った男は、近づいて来た二人のうち、私を掴んで、橋から突き落としました。
そしてこちらを振り向いた男の顔は、現在の私でした。

その時私は思ったのです。
私が死ぬことが、あの日偶然紛れ込んでしまった、『過去』という世界での予定調和だったのだろうと。

あの日以来、何度足を運んでも、橋の上の幻を見ることはなくなりました。
そして過去の世界に行くこともなくなったのです。

今の私ですか?
もう殆ど存在が消えかかっています。
多分この夜会が終わる頃には、この世からいなくなっているでしょうね。

そのことは既に諦めがついています。
あの日間違って、『過去』という名の異世界に紛れ込んでしまったことで、今の私とその世界の私とが、繋がってしまったのだと思いますから。

皆さんも、橋を渡る途中で振り返るのは、お止しになった方がいいと思いますよ。
それではこれで失礼します。
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