第3話 再会の人形工房

文字数 4,974文字

 それから何時間かたったころ、夫が好きな珈琲の香りでリオメルは目を覚ました。裸のままだったために慌てて衣服を身に着けて、彼女は寝室から居間へと入る。レネーヴェが自分のお気に入りであるコーヒーミルで、コーヒー豆を挽いているところであった。リオメルは、朝のあいさつも忘れて、慌てて彼に駆け寄る。
「ごめんなさい、それはお仕事で疲れているあなたのために、わたくしがすることですのに」
「いやいや、気にしないでおくれよ。美味しいコーヒーを飲みたいのは、俺も君も一緒だろう?」
 レネーヴェは得意げに胸を張り、腕を動かし続ける。やがて手ごたえが軽くなると、ミルの下部分にある引き出しを引いた。粉状になった豆を取り出して、あらかじめ準備をしてあったコーヒードリッパーに入れる。湯を徐々に注ぐと、香ばしい匂いが部屋いっぱいに満たされ、コーヒーサーバーに、徐々に焦げ茶いろの液体が注がれていった。規定の線に液面が到達するとレネーヴェはそこで湯を入れるのをやめた。そして、戸棚から二人が気に入って使っている揃いのコーヒーカップを取り出して、コーヒーをゆっくりと注いだ。
「どうぞ」
 差し出されたコップを手に取って、リオメルは、少しの時間レネーヴェと目を合わせたあと、小さな声で彼に礼を言った。レネーヴェも自分のコーヒーカップを手に持ち、ソファに腰かけるリオメルの隣に座る。
「ね、君」
「なんでしょう」
 リオメルがびくりと手を震わせる。持たれたマグカップの黒い液面が揺れた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか。君さ、ずっと家にいたけれども、どうだい。外へ出てみないかい」
 レネーヴェがなぜいきなりそのような提案をしたのかといえば、昨夜のことがあるからだ。レネーヴェは、彼女が自宅にずっといた理由を、身体に点在する痣のせいであると予想をした。それを、彼女は愛する夫に見せたことで、心にある枷を外すことができたのかもしれない。事実それは真実で、リオメルの心の奥底にたまった(おり)は少々軽くなっている。
「そうですね。なにか良いものがあればいいのですが」
 その、期待と不安が入り混じる声に、レネーヴェはにっこりと微笑んで、自分の後ろに隠していた新聞を取り出した。派手で安っぽい効果音を声で表現をしながら。
「これ、なーんだ」
 そこに書かれていたのは、美術学校が主催をしている初心者向けの美術教室である。
「わたくし、このようなことは、その、得意ではありません」
「いやいや、謙遜しないで。君、俺と新婚旅行で行ったさきの美術館や博物館で、興味深く展示物を見ていたじゃないか。それに、このマグカップも」
 レネーヴェは手に持っているマグカップを掲げる。これは、彼の幼馴染が、彼らの結婚祝いにと、著名な陶芸家に依頼をして作らせた揃いのものだった。
「君、このカップをはじめて見たときなんて言ったか覚えているかい」
 リオメルは小刻みの動きで首を振る。
「綺麗ないろですね、って言ったんだよ」
「そうでしたか」
 と、リオメルは、自分の手のなかにあるカップを見つめた。
「俺が思うにね、芸術っていうのはさ、世の中を見ることからはじまるのさ。だから君にはそういう才能があるんじゃないのかい」
 つくづくこのひとは褒めるのが上手だ、とリオメルは思う。痣を気にして、なにもできない、なにをもする資格がないと思い込んでいたリオメルを、逐一褒めて、背中を押したのはほかでもないこの夫。リオメルはマグカップを一旦机のうえに置いて、レネーヴェから差し出された新聞記事を手にもって、文面をまじまじと見、内容を読んでいく。すべて読み終わったあと、リオメルはレネーヴェと目を合わせた。
「わたくし、この教室に行ってみたいです」
 と、彼女が指をさしたのは、人形教室であった。
「お金のことは気にしないで」
 レネーヴェの穏やかで甘い言葉に、リオメルは照れくさそうにうつむいて、こくりと首を縦に振った。と、レネーヴェは壁に掛けられた時計に目をやる。慌てて冷めたコーヒーを飲みほして、その場から立ち上がった。
「危ない危ない。一層美しくなった君と話していたら、遅刻してしまいそうだよ!」
 レネーヴェは慌てて脇に抱えていた仕事用のコートを羽織って袖を通した。そして、リオメルにきざったらしくウィンクを飛ばして、そのまま早歩きで玄関へと向かう。
「それじゃあリオメル。俺がいないあいだの家をよろしくね」
「はい」
 か弱そうな、でも意志を強めに表した声ではっきりと答えるリオメル。そんな愛しい彼女と抱擁をし合い、レネーヴェは、扉のそとへと出た。彼が帰ってくるのはどれくらいになるだろうかと昨夜に交わした接吻を思い出しながら、リオメルは朝食に使った食器類を、キッチンシンクに運んで、洗いはじめる。
 さきほど見た広告の文末には『ご自由に見学できます。ぜひ一度教室へお越しください』とあったので、彼女は家事をあらかた済ませたあと、その場所へ行くことにした。

 公共交通機関を乗り継いで三十分ほど。目的地まではそう遠くはない。リオメルは、日課である日記を、バスのなかで簡単に書留めつつ、窓のそとを眺める。洒落た飲食店などが立ち並ぶ街並みは、こころなしかいつもよりも寂しい。昨日のニュース番組で見た、宗教絡みのせいであろう。リオメルは考える。幸せも、不幸せも、神が与えたもうた試練。そして、その試練があまりにも過酷なのならその神は捨てられ憎悪の対象となる。昨夜ニュースのなかに映っていた者たちはそんな境遇なのかもしれない。かといって暴力に訴えるのはよくない。リオメルはいまの自分の境遇と照らし合わせて、いま、幸せであることに対して、神に感謝をした。すると車窓から教会が目に入った。神の象徴である三又の槍を模したペンダントを首から下げた神父が、教会の建物の入り口を掃除していた。どうやら彼は異国の血を引いているようだ。健康的な褐色の肌がまぶしかった。
「帰りがけにお祈りをしていくのもいいかもしれないわ」
 そんな独り言は、バスの車内の、次の停留所の案内アナウンスにかき消される。リオメルはベルを鳴らした。バスが完全に停車したあと彼女は運転手に対して礼を言い、バスから降りて、リオメルは道を歩き出す。煉瓦造りの道には足音は立たない。リオメルはヒールを嫌っている。彼女が好んで履くのはスニーカーだった。街路樹の新緑から覗く木漏れ日がきらめいて、リオメルの頭上に光が降り注いで、リオメルは眩しそうに目を細める。
 やがて道沿いに看板が見えてきた。ドアの前に置かれている、腰の高さほどの立て看板には『アル人形工房』と手書きの文字がある。窓ガラスなどはないので、中の様子を見ることが出来ない。リオメルは仕方なく扉を軽くノックしてから、ノブに手をかけ、ひらいた。
 まず目に入ったのはむき出しのコンクリートの壁だ。デザイナーズマンションの一部屋を改装したらしい。アンティークの戸棚が数個、壁に置かれている。戸棚は加工がなされている。水槽のなかを模したようで、内部では、下半身が魚、手には水かきがある女性が、まるでいまにも泳ぎだしそうな躍動的なポーズでリオメルを静かに見つめていて、その脇にある猫足の優雅なカウチには等身大の人形が気怠い表情で横たわっていた。しばらく茫然と立ち尽くしていたリオメルであったが、ふと、奥のとびらの蝶番が鳴ったのに気が付いて、そちらを向いた。エプロンを着けた男性が手を吹きながら出てくるところであった。
「いらっしゃいませ、そしてはじめまして。教室見学ですか」
「はい」
 リオメルは思わずその男の頭を見た。芸術家というものは、どうも身なりには無頓着らしい。赤味掛かった毛髪はぼさぼさで寝ぐせがついたまま、前髪も伸び放題で顔はよく見えない。さらに頭頂部はもっと酷く、アンテナみたいな毛が、ひとふさ、ふわふわと揺れている。あきらかな不審者であるその姿に、リオメルは一歩後ずさった。
「すいません、いま髪の毛を整えますね」
 男は手首に通していたヘアゴムを口に咥えて伸びっぱなしの髪を一つにまとめだした。派手ではないが整っている顔が覗いて、リオメルは初めて男と目が合う。
「おや、あなたは」
 男はまずリオメルの青い瞳を見た。視線はそのまま下へとずれて、途中でリオメル自身から外れ、ふたたびリオメルをまっすぐに見つめる。
「ご主人はお元気ですか」
「あ、あなたは、夫の」
 リオメルは言葉を詰まらせた。まさか、こんなところで、今朝方話題に上がり、リオメルがここにくることになったきっかけである、夫婦そろいのマグカップの送り主に会えるとは思っていなかったためだ。彼の名はアル、彼の髪の色と同じ意味である。
「ところでリオメルさん、ここに来たということは、私の教室に興味が?」
 リオメルは、はい、と声を出して頷くものの、声は思うように出なかった。そんな彼女の様子を見て、アルはリオメルを安心させるように笑う。
「人形って、素敵だなと」
 リオメルの視線はカウチに寝そべる女性型の人形に向けられる。アルはその人形に向かって歩き出し、まるで血脈が通っているかのような色合いの陶器の肌に触れ、持ち上げて、手の甲に触れるだけのキスをした。
 リオメルは、アルが近づいたことで、改めてその人形をつぶさに見た。素肌に身に着けているものは、下着、黒のコルセットと、顔に乗せられている仮面だけ。そして気が付く。体形が、女性とも男性とも思えることに。肩幅が広く、胸は薄く、腕や足は筋っぽくも見えるが、ふとももには適度な贅肉が付き色香が漂っていて、肘やひざから覗く球体関節がカウチに横たわる者が人間ではないことを示していた。顔立ちは少女のようにも、少年のようにも見える。髪は豪華な金髪で、リオメルの白金いろの髪よりも濃く、どちらかといえば、彼女の夫であるレネーヴェの持つ髪の色味に近かった。そこまで考えて、目の前で黙りこくる人形が、自分の愛する夫に似ていると思った自分が変であると、リオメルは頭を振った。
「リオメルさんは、この子をどう思います?」
「どう、って。なんというか、きれいだな、としか」
 戸惑うリオメルの答えに、ふふ、とアルが謎めいた笑みを浮かべる。いままで、カウチの背もたれに手を当ててかがんでいたアルは、身を起こして、背筋を伸ばしてリオメルの前に立った。
「失礼、からかいが過ぎましたね。リオメルさん、さっそく、我が工房の案内を致します。そのまえに、荷物をこちらに置いてください。私とあなた以外、この場所に居ませんが、一応」
 アルは、壁際に置かれているロッカーの、ある一つの扉をひらいた。リオメルは自分の持っている小さなバッグをそのなかに収め、鍵を閉め、彼女の行動を見届けたアルが先導し、奥の、教室と思われるドアを引く。
「今日はたまたま教室が休みだったんです」
 一度に六人は座れるくらいの、大きな作業机がそこにあった。本棚には大判の本がおさまっていて、背表紙を見るに、ほとんどが人体に関する写真集や図解のようである。もちろん、そこでは誰も作業をしていないので、きれいに片付いているが、整頓された粘土版や粘土へらが、たえずここに人が来ているのだという証拠であるとリオメルには感じた。
「……なので、残念ながら皆さんが作品を作る様子を見せることができなくて……申し訳ありません」
「いえ、雰囲気を感じられるだけでも十分です」
 ありがとうございます、とリオメルは礼を述べたあと、彼女は腕に巻いている細身の腕時計の盤面に視線を落とす。つられてアルも壁に掛けられて時計に目をやる。
「あ、もうこんな時間! ごめんなさい、またこちらに来ますから、今日はこの辺で」
「はい、今日は来てくださってありがとうございました」
 リオメルにアルは手を差し出した。握手の合図にリオメルも素直にその手を握り、そのまま簡単なハグを行って、二人の身体は離れた。リオメルはそのまま出口へと歩いていくが、途中、アルは彼女を呼び止める。
「あの! ……レネーヴェさんに、今度また飲みに行きましょう、とお伝えください」
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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