第4話 ノーデンスのみちびき
文字数 4,923文字
顔を真っ赤にしてアルがそう言うので、リオメルはそこで初めて笑顔となり、顎に手を当ててくすくすと声を出した。アルもバツの悪そうに、恥ずかしそうに、ばりばりと後頭部を掻くと、癖毛がまた左右に揺れた。
「では、また」
「はい」
今度こそリオメルは工房から出る。すでに外は夕方で、蜂蜜のように蕩けた光を放つ太陽が、ビル群が生える地平線に沈んでいっている。眩しさに目を眇めて、リオメルは帰り道をバスに乗らずに歩くことにした。理由は、行き道に見かけた教会へ赴くためだ。
ふと周りを見れば、母親と子供が手をつなぎながら歩いていたり、仲睦まじい恋人同士が腰を抱き合いながら歩いている。自分の隣には誰もいないが、きっと、レネーヴェは自分のことを考えているだろう……そう思った矢先に、彼女の連絡端末が音を鳴らす。仕事が辛いけど、君のために頑張れる、愛しているよリオメル。ちなみに今日の晩御飯はこれ、という言葉のあとに続くのは、明らかに不摂生なジャンクフード。リオメルはレネーヴェの食事の選択を咎めたあと、彼と同じく、わたくしも愛しています、と添えて、端末を鞄のなかにおさめた。教会の入口はすぐそこだ。教会の扉はひらかれていた。だがちょうど神父が閉めようとしていたところである。リオメルは、扉に力を込める褐色の手のひらを見つつ、その場を立ち去ろうとしたが、そのとき神父が後ろを振り向いてしまった。神父はリオメルに夜のあいさつをする。
「どうしましたか」
「もう、帰ろうと思ったところです」
「……これも、ノーデンスさまの導きでございます。すこしの時間でもいいので、教会で心穏やかな時間を過ごしませんか」
と、神父は眼鏡のテンプルを持ってずれをなおす。赤銅 いろの肌、高い鼻、細い顎。線が細くやせ型だが、にこにこと微笑んでいるためかみすぼらしさは感じない。が、久方ぶりに外出をしたリオメルにとって、人の感情を、このように素直にぶつけられることは脅威だ。彼女はやはり後ずさってしまう。
「……失礼しました。町の神父とはいえ、自己紹介がないのは失礼にあたりますね。私は小山内 と申します」
「この国出身ではないのですね。でも、言葉がお上手ですね。こちらこそ、よろしくお願いします。オサナイ神父。私はリオメルと申します」
ふたたび、邪気のまったく見えない笑顔を、小山内神父はリオメルに向け、彼女を教会のなかへと促していく。
空間は縦に広い。天井の梁が、まるで蝙蝠の翼ように上から下に伝っている。ステンドグラスからは月光が差し込んでいる。それらは、暗めに調整された電燈と絶妙にかみ合い厳かで、そこにある聖者の息吹が二人を包み込んだ。静寂の時間を数分過ごし、さきに口をひらいたのはリオメルである。
「……ありがとうございました。少し気分が落ち着きました」
「ノーデンスはいつでもあなたを見守ってくださいます。神と対話をしたいときにはまたいらしてください」
「はい。ではまた」
小山内神父に別れを告げてリオメルは教会を後にする。すでに外は夜。こうしてリオメルの長い一日が終わった。食事を終え、風呂に入り、彼女は一人が寝るには大きいダブルベッドで、小さく身を丸めて眠るのであった。
レネーヴェは滅多に家に帰ってこないため、日々を孤独に過ごしていたリオメルであったが、昨日、レネーヴェに己を受け入れられたことで自己肯定感を得たらしい。朝に目覚めたあとは夫が好んで飲むコーヒー豆を挽いて一人で飲むことにし、合わせて作るのはオイルサーディンに玉ねぎの薄切りを乗せ、半分に切ったプチトマトと和えて、あらびきのブラックペッパーを振りかけたもの。それを固めのパンとともにいただいた。
リオメルは食事を採りながらテレビから流れるニュースとその後の天気予報を確認した。いつも食事を終えたあとは異常なまでに念入りに皿洗いをするのが日課だった彼女であったが、今日は鼻歌を奏で、スポンジに含ませた洗剤を楽しげに泡立てて皿をやさしく撫でた。真っ白な泡に油汚れが包み込まれて落ちてゆく。最後に皿をさっぱりと湯で流し、籠に置いて、そこからはいつものように布巾で水気をぬぐって、棚に収めた。
身支度ののちリオメルは外に出る。天気予報の通り空は美しく晴れている。昨日と同じ道順で彼女は人形工房へ向かう。着くころには日が高くなり、身体からじわりと不快な汗が出ていた。近くの商店のトイレを借りてハンカチで軽く額を押さえ、再び外へ出る。三メートルほど歩くとすぐ人形工房へ到着した。扉は薄く開いていた。あいだに指をかけてそっとひらいたリオメルは、先日とは違う教室内部の活気に目を見張る。
すでに教室前の、昨日カウチに座る人形がいたフロアには生徒と思われる人々が、荷物をロッカーに預けるなどをして用意していた。リオメルもそれにならい、開いているロッカーを探してバックを仕舞う。
見る限り女性客が多い気がした。人形という特殊な芸術なのもあるだろうが、なによりアル自身を目当てにしている者も多そうであった。
教室へは一本道で、扉はドアストッパーで抑えられている。ほかの生徒たちと同じくリオメルもそのなかへと入っていく。生徒たちは互いに軽く挨拶をしたのちにそれぞれ机に向かって作業をはじめた。リオメルはその場に立ち尽くすしかなかったが、工房の準備をしていたアルが、何をしていいかわからずに戸惑うリオメルを声をかけた。
「リオメルさん、こんにちは。さっそくですが始めましょうか。では開いているこちらの机にお座りください」
リオメルはこくりと頷き、怯えつつも椅子を引いてそこに座る。
「リオメルさん、まず、球体関節人形がどのようなものか、ご存じですか」
「いいえ……」
「説明よりも、実際に見たほうが早いので、お持ちしますね」
と、アルはその場を去り、離れたところにある椅子に座らされた人形を手に持って抱えた。大きさはちょうど人間の赤ん坊くらいであろう。つぎにアルは彼女が座る作業台の席に人形を寝かせ、足首の関節をひっぱり、内部をリオメルに見せる。なかには二本のゴムが引かれていた。リオメルはそのローテクノロジーに、目を丸くして驚いた。
「なかには輪ゴムが通っています。このように」
そのままアルは人形の身体の部分に指を這わせた。頭頂部から胸、腹、腰回りと指が下がっていき、つづいて、膝、足首。
「反対側も同じです。そして、上半身はこのように繋がっています」
手首から胸、ひじ、反対側の手首へと、アルは指し示した。
「関節を球にすることで、ゴムの張力が働いて自在に動かすことができるのです。ちなみに自立もできますよ」
アルは寝かせていた人形を起こし、リオメルの目の前で立たせる。まるで床に足が磁石でついているかのようだった。
「ここまで作るのには相当な鍛錬を必要とします」
「具体的にはなんでしょうか」
「人体構造を理解することです」
アルは脇に抱えていた方眼紙をリオメルの作業机に広げ、続いて人体図の本を渡す。ページにはすでにふせんが貼られている。
「では、こちらのページを参考にして設計図を書いてくださいね」
ページをひらいたアルは、本をそのままリオメルに手渡した。
……リオメルは、鉛筆を持つまえにまず図説を見た。目を皿のようにしてしばらく見つめた。女性と男性、大人と子供。等身も違えば足や腕の長さも違う。まずは性別と年齢から決めなければならないようだ。さて、自分の心の奥底にいる者は、何を作ってほしいのだろう。リオメルはそう自身に問いかけた。大人ではない、女性でもない、男性でもない。作りたいのは自分自身か。それとも理想の異性か、同性か。
そのとき、ぱしゃり、と幻聴が耳に入る。まるで水面を魚が跳ねたような水音だった。そう思ったのはただの勘違いのようだ。周りを見渡すと、作成中の人形に粘土を張り付けるための水入れのなかに、ある一人の生徒が粘土べらを落とした音だったらしい。リオメルは変な聞き違いをした自分を心のなかで笑う。
参考図書を見つつリオメルは方眼紙に鉛筆を走らせていく。他の生徒の作業も見ながら、リオメルは新しいことをはじめている浮かれた自分自身を微笑ましく思う。
そうして、あっという間に時間が過ぎて、昼休憩の時間となる。 皆いったん手を止めて席を立った。身に着けていたエプロンを外し、きめの細かい粘土が付着した手を洗ってから教室をあとにする。リオメルもそれに続いた。仲の良い者同士は一緒に昼食などをとるらしい。リオメルもどこか外で昼食をとろうと考えて、教室を出ようとしたところでアルから呼び止められる。
「リオメルさん。良ければ一緒に食事に行きませんか。レネーヴェの話を聞かせてください。あいつ、元気でやっていますか」
「……ええ、元気ですよ」
リオメルのそっけない態度に、はは、とアルは苦笑いを浮かべる。
「そんなに警戒をしないでください」
にかっと、まるで太陽のようにアルは笑った。リオメルはそこでやっと身体の緊張をほぐす。
「オレ、このへんで美味しい定食を出す店を知っているんです。どうですか、いっしょに」
リオメルはか細い声で返事をしたあと、音もなく頷いた。さあ行きましょうと元気よく歩き出すアルに、リオメルはついていくが、さすが昼時である。オフィス街に隣接するここはすでに勤め人らしき者らで埋め尽くされていた。リオメルの前を進んでいくアルが、急に立ち止まるものだから、リオメルは彼の広い背中に鼻を強くぶつけてしまった。
「わっ。申し訳ありません」
「……ひとこと、立ち止まると声をかけてくださいませ」
アルは、すいません、と何度も謝罪をしてから、昨日初めて会ったときと同じように頭をばりばりと掻いた。
「ところで、あそこでいいですか」
アルが指を指した場所は洒落たカフェだ。店頭に置かれているメニュー看板には、量が少なくしかも高そうなサンドイッチメニューが描かれている。リオメルはなるほどと納得をする。勤め人はそれなりに安く量を食べられるものを好むだろう。たしかにここでなら客で混むはずはなく、しかもゆっくりと話せるに違いない。リオメルは了承の返事をした。
リオメルの歩幅を気にせずにアルは進んでいく。彼は背が高いがレネーヴェよりは低かった。仮に彼がレネーヴェであったなら、リオメルの歩幅に合わせて、寄り添いながら歩いてくれるだろうが、いまは違う。いつもと勝手が違うことに戸惑いを覚えつつもリオメルは逆に気楽さも感じた。彼は伴侶ではない。故に、夫に対する、あざを隠していたことの罪悪感を感じずに済むのためだった。
「リオメルさん、予想通りです。客席が空いていますよ」
とアルは横目でリオメルを見るが、そこでしまったという顔をした。そう、リオメルも感じた価格帯の話である。もうすこしさきに行ったところにある大衆食堂街のものよりも二倍はした。
「私は構いません」
リオメルは無表情でメニューに視線を落とした。レネーヴェの職は彼女は詳しくは知らないもののひとつだけ確かなことがあった。それは給料が非常に高額だということである。よって彼女が自由に使えるお金も多い。しかしリオメル自身が無欲で倹約家であり、今回教室に通いたいという願いも、実は結婚して初めて夫に言い出したことだった。つい昨日の話であるが、リオメルはそのときの夫の、いつになく嬉しそうな笑顔を思い出して、つい顔を綻ばせた。
アルが先導して店のドアを押す。ドアベルが鳴って店員が顔を見せる。席を案内され、リオメルとアルは二人席を向かい合わせにして腰を下ろすと、やがてメニューが運ばれてくる。アルバムを改造して作られたもののようだ。ページには、自前で撮ったと思われる写真が差し込まれており、専用のカリグラフィーペンで書かれた、横幅が細く縦幅が太い格調の高さを感じる字体のメニューは、壁に飾られた風景画や、アンティークの美術品が棚に置かれた店の雰囲気にぴったりである。
「では、また」
「はい」
今度こそリオメルは工房から出る。すでに外は夕方で、蜂蜜のように蕩けた光を放つ太陽が、ビル群が生える地平線に沈んでいっている。眩しさに目を眇めて、リオメルは帰り道をバスに乗らずに歩くことにした。理由は、行き道に見かけた教会へ赴くためだ。
ふと周りを見れば、母親と子供が手をつなぎながら歩いていたり、仲睦まじい恋人同士が腰を抱き合いながら歩いている。自分の隣には誰もいないが、きっと、レネーヴェは自分のことを考えているだろう……そう思った矢先に、彼女の連絡端末が音を鳴らす。仕事が辛いけど、君のために頑張れる、愛しているよリオメル。ちなみに今日の晩御飯はこれ、という言葉のあとに続くのは、明らかに不摂生なジャンクフード。リオメルはレネーヴェの食事の選択を咎めたあと、彼と同じく、わたくしも愛しています、と添えて、端末を鞄のなかにおさめた。教会の入口はすぐそこだ。教会の扉はひらかれていた。だがちょうど神父が閉めようとしていたところである。リオメルは、扉に力を込める褐色の手のひらを見つつ、その場を立ち去ろうとしたが、そのとき神父が後ろを振り向いてしまった。神父はリオメルに夜のあいさつをする。
「どうしましたか」
「もう、帰ろうと思ったところです」
「……これも、ノーデンスさまの導きでございます。すこしの時間でもいいので、教会で心穏やかな時間を過ごしませんか」
と、神父は眼鏡のテンプルを持ってずれをなおす。
「……失礼しました。町の神父とはいえ、自己紹介がないのは失礼にあたりますね。私は
「この国出身ではないのですね。でも、言葉がお上手ですね。こちらこそ、よろしくお願いします。オサナイ神父。私はリオメルと申します」
ふたたび、邪気のまったく見えない笑顔を、小山内神父はリオメルに向け、彼女を教会のなかへと促していく。
空間は縦に広い。天井の梁が、まるで蝙蝠の翼ように上から下に伝っている。ステンドグラスからは月光が差し込んでいる。それらは、暗めに調整された電燈と絶妙にかみ合い厳かで、そこにある聖者の息吹が二人を包み込んだ。静寂の時間を数分過ごし、さきに口をひらいたのはリオメルである。
「……ありがとうございました。少し気分が落ち着きました」
「ノーデンスはいつでもあなたを見守ってくださいます。神と対話をしたいときにはまたいらしてください」
「はい。ではまた」
小山内神父に別れを告げてリオメルは教会を後にする。すでに外は夜。こうしてリオメルの長い一日が終わった。食事を終え、風呂に入り、彼女は一人が寝るには大きいダブルベッドで、小さく身を丸めて眠るのであった。
レネーヴェは滅多に家に帰ってこないため、日々を孤独に過ごしていたリオメルであったが、昨日、レネーヴェに己を受け入れられたことで自己肯定感を得たらしい。朝に目覚めたあとは夫が好んで飲むコーヒー豆を挽いて一人で飲むことにし、合わせて作るのはオイルサーディンに玉ねぎの薄切りを乗せ、半分に切ったプチトマトと和えて、あらびきのブラックペッパーを振りかけたもの。それを固めのパンとともにいただいた。
リオメルは食事を採りながらテレビから流れるニュースとその後の天気予報を確認した。いつも食事を終えたあとは異常なまでに念入りに皿洗いをするのが日課だった彼女であったが、今日は鼻歌を奏で、スポンジに含ませた洗剤を楽しげに泡立てて皿をやさしく撫でた。真っ白な泡に油汚れが包み込まれて落ちてゆく。最後に皿をさっぱりと湯で流し、籠に置いて、そこからはいつものように布巾で水気をぬぐって、棚に収めた。
身支度ののちリオメルは外に出る。天気予報の通り空は美しく晴れている。昨日と同じ道順で彼女は人形工房へ向かう。着くころには日が高くなり、身体からじわりと不快な汗が出ていた。近くの商店のトイレを借りてハンカチで軽く額を押さえ、再び外へ出る。三メートルほど歩くとすぐ人形工房へ到着した。扉は薄く開いていた。あいだに指をかけてそっとひらいたリオメルは、先日とは違う教室内部の活気に目を見張る。
すでに教室前の、昨日カウチに座る人形がいたフロアには生徒と思われる人々が、荷物をロッカーに預けるなどをして用意していた。リオメルもそれにならい、開いているロッカーを探してバックを仕舞う。
見る限り女性客が多い気がした。人形という特殊な芸術なのもあるだろうが、なによりアル自身を目当てにしている者も多そうであった。
教室へは一本道で、扉はドアストッパーで抑えられている。ほかの生徒たちと同じくリオメルもそのなかへと入っていく。生徒たちは互いに軽く挨拶をしたのちにそれぞれ机に向かって作業をはじめた。リオメルはその場に立ち尽くすしかなかったが、工房の準備をしていたアルが、何をしていいかわからずに戸惑うリオメルを声をかけた。
「リオメルさん、こんにちは。さっそくですが始めましょうか。では開いているこちらの机にお座りください」
リオメルはこくりと頷き、怯えつつも椅子を引いてそこに座る。
「リオメルさん、まず、球体関節人形がどのようなものか、ご存じですか」
「いいえ……」
「説明よりも、実際に見たほうが早いので、お持ちしますね」
と、アルはその場を去り、離れたところにある椅子に座らされた人形を手に持って抱えた。大きさはちょうど人間の赤ん坊くらいであろう。つぎにアルは彼女が座る作業台の席に人形を寝かせ、足首の関節をひっぱり、内部をリオメルに見せる。なかには二本のゴムが引かれていた。リオメルはそのローテクノロジーに、目を丸くして驚いた。
「なかには輪ゴムが通っています。このように」
そのままアルは人形の身体の部分に指を這わせた。頭頂部から胸、腹、腰回りと指が下がっていき、つづいて、膝、足首。
「反対側も同じです。そして、上半身はこのように繋がっています」
手首から胸、ひじ、反対側の手首へと、アルは指し示した。
「関節を球にすることで、ゴムの張力が働いて自在に動かすことができるのです。ちなみに自立もできますよ」
アルは寝かせていた人形を起こし、リオメルの目の前で立たせる。まるで床に足が磁石でついているかのようだった。
「ここまで作るのには相当な鍛錬を必要とします」
「具体的にはなんでしょうか」
「人体構造を理解することです」
アルは脇に抱えていた方眼紙をリオメルの作業机に広げ、続いて人体図の本を渡す。ページにはすでにふせんが貼られている。
「では、こちらのページを参考にして設計図を書いてくださいね」
ページをひらいたアルは、本をそのままリオメルに手渡した。
……リオメルは、鉛筆を持つまえにまず図説を見た。目を皿のようにしてしばらく見つめた。女性と男性、大人と子供。等身も違えば足や腕の長さも違う。まずは性別と年齢から決めなければならないようだ。さて、自分の心の奥底にいる者は、何を作ってほしいのだろう。リオメルはそう自身に問いかけた。大人ではない、女性でもない、男性でもない。作りたいのは自分自身か。それとも理想の異性か、同性か。
そのとき、ぱしゃり、と幻聴が耳に入る。まるで水面を魚が跳ねたような水音だった。そう思ったのはただの勘違いのようだ。周りを見渡すと、作成中の人形に粘土を張り付けるための水入れのなかに、ある一人の生徒が粘土べらを落とした音だったらしい。リオメルは変な聞き違いをした自分を心のなかで笑う。
参考図書を見つつリオメルは方眼紙に鉛筆を走らせていく。他の生徒の作業も見ながら、リオメルは新しいことをはじめている浮かれた自分自身を微笑ましく思う。
そうして、あっという間に時間が過ぎて、昼休憩の時間となる。 皆いったん手を止めて席を立った。身に着けていたエプロンを外し、きめの細かい粘土が付着した手を洗ってから教室をあとにする。リオメルもそれに続いた。仲の良い者同士は一緒に昼食などをとるらしい。リオメルもどこか外で昼食をとろうと考えて、教室を出ようとしたところでアルから呼び止められる。
「リオメルさん。良ければ一緒に食事に行きませんか。レネーヴェの話を聞かせてください。あいつ、元気でやっていますか」
「……ええ、元気ですよ」
リオメルのそっけない態度に、はは、とアルは苦笑いを浮かべる。
「そんなに警戒をしないでください」
にかっと、まるで太陽のようにアルは笑った。リオメルはそこでやっと身体の緊張をほぐす。
「オレ、このへんで美味しい定食を出す店を知っているんです。どうですか、いっしょに」
リオメルはか細い声で返事をしたあと、音もなく頷いた。さあ行きましょうと元気よく歩き出すアルに、リオメルはついていくが、さすが昼時である。オフィス街に隣接するここはすでに勤め人らしき者らで埋め尽くされていた。リオメルの前を進んでいくアルが、急に立ち止まるものだから、リオメルは彼の広い背中に鼻を強くぶつけてしまった。
「わっ。申し訳ありません」
「……ひとこと、立ち止まると声をかけてくださいませ」
アルは、すいません、と何度も謝罪をしてから、昨日初めて会ったときと同じように頭をばりばりと掻いた。
「ところで、あそこでいいですか」
アルが指を指した場所は洒落たカフェだ。店頭に置かれているメニュー看板には、量が少なくしかも高そうなサンドイッチメニューが描かれている。リオメルはなるほどと納得をする。勤め人はそれなりに安く量を食べられるものを好むだろう。たしかにここでなら客で混むはずはなく、しかもゆっくりと話せるに違いない。リオメルは了承の返事をした。
リオメルの歩幅を気にせずにアルは進んでいく。彼は背が高いがレネーヴェよりは低かった。仮に彼がレネーヴェであったなら、リオメルの歩幅に合わせて、寄り添いながら歩いてくれるだろうが、いまは違う。いつもと勝手が違うことに戸惑いを覚えつつもリオメルは逆に気楽さも感じた。彼は伴侶ではない。故に、夫に対する、あざを隠していたことの罪悪感を感じずに済むのためだった。
「リオメルさん、予想通りです。客席が空いていますよ」
とアルは横目でリオメルを見るが、そこでしまったという顔をした。そう、リオメルも感じた価格帯の話である。もうすこしさきに行ったところにある大衆食堂街のものよりも二倍はした。
「私は構いません」
リオメルは無表情でメニューに視線を落とした。レネーヴェの職は彼女は詳しくは知らないもののひとつだけ確かなことがあった。それは給料が非常に高額だということである。よって彼女が自由に使えるお金も多い。しかしリオメル自身が無欲で倹約家であり、今回教室に通いたいという願いも、実は結婚して初めて夫に言い出したことだった。つい昨日の話であるが、リオメルはそのときの夫の、いつになく嬉しそうな笑顔を思い出して、つい顔を綻ばせた。
アルが先導して店のドアを押す。ドアベルが鳴って店員が顔を見せる。席を案内され、リオメルとアルは二人席を向かい合わせにして腰を下ろすと、やがてメニューが運ばれてくる。アルバムを改造して作られたもののようだ。ページには、自前で撮ったと思われる写真が差し込まれており、専用のカリグラフィーペンで書かれた、横幅が細く縦幅が太い格調の高さを感じる字体のメニューは、壁に飾られた風景画や、アンティークの美術品が棚に置かれた店の雰囲気にぴったりである。