第16話 噴水前

文字数 3,677文字

 アルがこれから行うことはある種の賭けである。彼は、身につけている作業用のエプロンを外し、壁にかけたあと、薄手のジャケットを羽織った。フードを目深に被り、顔を隠して工房から出る。遥かさきには端から見れば幸せな夫婦が寄り添って歩いている。アルは彼らに気取られぬように後ろから着いていった。そのことを知ってか知らずか、レネーヴェとリオメルは、これから向かう場所についての話に花を咲かせている。
「あなた、今日は良い晴れ空ですから、オープンカフェで昼食をとりませんか」
「いいね」
 小山内の居る教会を通り過ぎる二人。数分ほど歩いたところには小洒落た飲食店が立ち並んでいる。アルと共に来店したことのあるサンドウィッチ店を無視し、リオメルは、レネーヴェにこう言った。
「最近、甘い物を召し上がっていますか?」
「急にどうしたんだい」
「以前帰宅したときよりも心なしかお痩せになった気がするのです」
「ああ……。まったく君はお見通しだね。甘い物どころか、食事もあまり採れていないんだ」
 でしたら、と、リオメルは前方にある屋台を指差した。食事のほか、甘味も扱っている。いままでレネーヴェの隣に居たリオメルが、一歩踏み出して夫のさきを行き、なかで待機している店員に注文をする。
「これと、これと、あとこれも」
「まいどあり」
 彼女に追いついたレネーヴェは、彼女になにを頼んだかを聞くものの、リオメルは微笑んだまま答えを言わない。仕方なくレネーヴェは彼女の隣で注文した品を待つことにした。しばらくして店員が出してきたのは、野菜とウィンナーが挟まったホットドッグと粉砂糖がたっぷり掛かったドーナッツ、そして飲み物だ。
「あなたの好物も含めておきました」
「まったく君にはかまわないよ」
 リオメルからそれらを手渡され、片眉をあげて笑うレネーヴェ。二人は、食べ物を持ったまま、近くにある噴水の縁に腰掛ける。包装をひらき、互いに顔を見合って、さあ食べよう、とした矢先に、堅い口調の祈りの文言が彼らの耳にとどいた。
「ノーデンスよ、このように恵みを与えてくださったことを感謝いたします……」
 二人は同時に右方向へ顔を向ける。そこには膝のうえにドーナッツを乗せ、目を閉じて祈りをささげる小山内神父が座っていた。服装はさきほどの神父服のままだ。と、そこに突風が吹き、細い身体は風にあおられよろめいた。
「ああっ!」
 膝に置かれたドーナッツは地面にころがっていく。さらに、そのうえに自転車が走り抜けていき、ドーナッツは潰れ、なかにたっぷりと詰められたカスタードクリームが、見るも無惨に飛び散った。その場でうなだれる小山内。懐から財布をだして小銭を確認したが、すぐにふたは閉められてしまった。
「今月は、子どもたちのおやつを作りすぎてしまいましたね……。わたしの至福のときはこれで終わってしまいました」
 意気消沈する小山内神父。リオメルはそっとその肩をたたいた。
「あの、よろしければこちらをどうぞ」
「そんなわけには参りません……。と、あなたは」
「覚えていてくださいましたか。わたくしはリオメル、そしてこちらはわたくしの夫のレネーヴェですわ」
 小山内は、リオメルとレネーヴェを交互に見、最後に、レネーヴェの鋭い視線を感じたあと、何食わぬ顔で夫婦に挨拶をする。
「神父さま。さきほどの説教は素晴らしゅうございました」
「は。恐縮です」
「さぞ、仕事にかまけて祈りの日に参加をしない夫の心に染みたことでしょう。ねえあなた?」
「はは、やめてくれよリオメル。……ところで、神父さまは昼休憩ですか?」
「ええ。そんなところです」
 はいどうぞ、と、リオメルは自分が持っていたドーナッツを神父に押しつけた。小山内、レネーヴェ、リオメルの順に彼らは座る。いただきますとあいさつを交わして、食事の合間に、彼らはお互いのことについてを話していく。
「へええ! 神父さまとおやっさんとの間にそんな逸話があったなんて知りませんでした」
 驚きの声をあげたのはレネーヴェである。
「あのときは本当に助かりました。ヘンリーさんはどうやら覚えていらっしゃらないようなのですが、わたしにはいまだ忘れられない出来事です」
「ああ、おやっさんらしいですね。今度俺から釘を刺しておきます」
 そ、そんな! と小山内は慌てて手を振るが、たべかけのドーナッツが再度転げ落ちそうになっているのを見たリオメルは、「神父さま、お気をつけて」注意を促した。
「この国は、本当に素晴らしいところです」
 そうしみじみと東国の顔立ちを持つ神父が言うものだから、リオメルとレネーヴェの二人は不思議そうに顔を合わせ、神父になぜそう考えるのかを問うと、小山内は途切れ途切れに、遙か昔の、幼い頃のことを語った。
「それはさぞや苦労なさったでしょう」
「神父さまはお強いひとですね」
「……わたしは強くなんかありません。すべては、父と母を形作った神が、わたしに道を指し示してくれただけです」
 そこで神父は掛けていた丸眼鏡を顔から外す。隣に座る幸せそのものの夫婦から顔を背け、眉間を親指とひとさし指で挟み、眉をしかめながら、しかし笑顔で、……上を向いた。秋空が遠い。からりとした風が、小山内の瞳から溢れる涙を乾かした。しかしレネーヴェが持つ連絡端末が水を差すように不快な電子音を鳴らした。レネーヴェが慌てて取り出して画面を見ると、そこにはヘンリーの文字が点滅している。
「ごめん、ちょっと席を外すね」
 レネーヴェが謝りながらその場から離れる。三人の真ん中に居たレネーヴェが居なくなったので、リオメルは座っていた場所を詰めて、小山内に近づいた。ざああ、と大きな水音が彼らを包み込んだ。いままで静かだった噴水が吹き出した音である。
「ねえ。神父さま」
「なんでしょうか」
「神父さまは、ほんとうに神様を信じていらっしゃるの?」
 静かな、謎めいた、光の差さぬ深海のような声が、リオメルの唇から放たれる。小山内は驚いてリオメルの顔を見る。
「どういう、ことでしょう?」
「さきほどのお話の通りなのならば、神父さまはとても苦労なさっていたはず。神様を、みずからに化せられた運命を、憎んだり恨んだりしなかったのかしら? ……ねえ、神父さま?」
 リオメルの瞳が見開いて、薄い青の瞳孔に、すぐ下の、噴水の溜め池から反射する光が映り込む。不安定で不規則なその光は、小山内の信仰を、静かに崩していくようだった。リオメルの冷え切った指が、小山内の肉付きの少ない腿に触れるが、小山内は、リオメルが放った冒涜的な質問に、毅然(きぜん)とした態度で返した。
「それらもすべて、神が与えたもうた試練ですから」
「あら。……やはり、神父さまは強いおひとですのね。わたくし、あなたを好きになってしまいそう」
「なにをおっしゃいます。冗談にしても、過ぎますよ」
「ええ。ごめんなさい。お詫びにコーヒーをプレゼントさせてくださいね」
 リオメルは立ち上がって、はいていたスカートを翻し、屋台の方へと歩いて行く。そんな、遠目では楽しげに話す彼らを見つつ、レネーヴェはヘンリーとの通信を続けていた。
『……おまえさんから送られた盗聴データの解析が済んだんだがな。奥さんと逢い引きしている相手ってのが、アルという男だった。会話らしい会話は特になかったが……。すまん、さきに謝らせてほしい。俺はおまえのことを調べさせてもらった』
「気にしないでください。で、なにがわかりました」
『おまえ、カレッジ時代に、あのアルという男とそれなりの……恋仲だったみたいだな?』
「俺が愛するのは妻だけです」
『――カマかけたんだがその反応は図星か。で、だ。アルは、おまえのおやっさんを殺した邪教団体出身でな。というか、元々はリオメルの前の子だった』
「と、いうと?」
『なんらかの理由で、アルが邪教団体から勘当され、その後釜にリオメルがやってきた。あとはおまえも知っているとおり。俺たちは、どうやらホシを見誤っていたらしい』
「……」
『各地で見つかった爆発物と、そのなかにあった被害者たちの身体の一部を調べ上げたところ、すべて、アルが主催している教室の生徒だったよ。証拠を隠す気も無いようだな。これじゃあまるで熱烈なラブレターだ。さて、今後の方針なんだが――』
 煙草の吸い過ぎで枯れた声がレネーヴェの耳を刺激するなか、彼は何の気なしに視線を彷徨わせると、ひとびとの雑踏に紛れて彼を見る一人の男を見つけた。深く被ったフードの奥から見える、ボサボサの真っ赤な髪。その間から除く橙の瞳。空気が、時間が、止まる。それは決して例えなどではなかった。辺りを轟音が襲った。
『完璧なタイミングだよ、キクチバ』
『――そりゃどうも』
 慌てふためく住民たち、動かないアルとレネーヴェ、そして、思わず全身でリオメルを庇った、小山内。そんな彼らを、遙か上空から見下ろす、祈りの門の番人・季朽葉がいる。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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