第23話 愛と哀しみと、たくさんの嘘
文字数 3,834文字
二人は互いに睨み合う。アルはレネーヴェに銃を突きつけられたまま会話を続けた。
「やっとオレだけを見てくれたね。お前があのクソ女と結婚してからずっとお前だけを想っていたんだ。どうしてオレを捨てた?」
「答える義務はない。……といっても、ここまでの状況で分かるかもしれないがな」
「そうか、そうか、なるほど。お前は、だからあの女と偽装結婚したのか! 大方、オレの一族の教徒に家族を殺されでもしたか? そうだよなあ? だからオレと愛を誓いあったんだ。そしてオレを利用した。オレをリオメルと接触するように誘導した。
アルは笑う。自分を捨てた愚かな男を嘲り笑う。高らかな笑い声のなかレネーヴェはアルを静かに見据えた。
「こんな腐った世界にもう用は無い。オレを愛してくれないレネーヴェは必要ない。……ああ、あとな。あの女は悪女だぞ。お前が思っているような貞淑な女じゃないさ」
「前にも言ったろ? 俺はすべてを知っているし彼女のすべてを愛している」
「レネーヴェ。じゃあオレのことは愛しているかい?」
「ああ。愛しているさ。じゃあな、親友」
銃声が鳴った。放たれた弾丸はアルの眉間に穴を開け、あっけなく倒れた身体の横をレネーヴェは通る。廊下の奥へと進むと彼の耳に通信が入った。
『レネーヴェ! 今すぐ避難しろ!』
『おやっさん。どうしました』
『津波が! 大津波が! な、なんだあれは! まさか!』
レネーヴェは途中、音に違和感を覚えて機器を外す。
「……なんだ、この歌は」
廊下の奥から女性のか細い歌声が流れてくる。レネーヴェはその歌を、子守歌だと直感した。
街に避難警報が鳴り響いているなか住民たちは指示に従い避難をしていた。ある老婦人が驚愕の表情で空を指差し、周囲のひとびともその方向を見遣る。高い津波を遮るように何かしらの障壁のようなものが現れていた。その中心、砂粒のような大きさの人が空中に浮いている。この街の風景を撮影していた観光客だろうか。彼女は、首から下げていたカメラを起動させて、望遠モードでその人物を見た。
「すいません。わたし、この国の者ではないのでわからないのですが……ええと……貝殻に乗って、イルカに手綱を着けていて、槍を持っているお爺さんが、そこにいます」
たどたどしく覚えたての言語で喋る観光客。その言葉に子どもの一人がノーデンスさまだ! と叫んだ。次の瞬間には高い津波が到着したが、障壁に巨大な五芒星が現れると細かい水しぶきとなって拡散し、向こう側へ押し戻ることなく消えていく。
いや、まさか。そんな。大人たちは、信じていた存在が現実に現れたことにひどく困惑した。しかしさきほど叫んだ子どもがその場でノーデンスを応援しだしたことにより混乱が収まっていった。その子の母親が皆に言う。「みなさん! 今のうちにもっと高いところへ!」
そうして住民たちは生き残るためにさらに上を目指した。やがて、空で街を守っていたノーデンスは街の中心へと戦車を駆る。――そう。アルの工房の上空へ。その様子を見ていた、同じく上空に居る季朽葉は、異常を察知してテントを飛び出そうとする。だが骨の手に身体を掴まれて止められた。
「外に敵がいる以上ここから行くのは得策ではありません。門を使いましょう」
「君……」
「行くなら早く行きなさい。ここは任せて」
季朽葉は、すきまだらけのの頼もしい背中に礼を言い、祈りの門への道をひらいた。
一方のレネーヴェは子守歌が聞こえるほうへと進んでいた。周囲はすでにこの世ではない。コンクリートの壁だったであろう箇所は、波打つ触手が、歌声に合わせるようにして吸盤を震わせている。徐々に風景が変わる。深海の奥深くのような青い光が辺りを満たしている。その中心でリオメルは歌っていた。触手を纏わせて作った振り子椅子で、大きくなった腹をさすっている。
「ああ、あなた。待っていました。こっちへいらして。おなかの子が動きましたの」
構えた拳銃を徐々に下げ、レネーヴェは異形の存在となったリオメルに近づく。
「アルは殺したの?」
「ああ。もう彼は用済みだからね。それに子どもの父親は二人もいらないだろ?」
レネーヴェは持っている拳銃を床に置いた。続けて椅子に腰掛けるリオメルを抱き締める。
「愛するリオメル。君の嘘は何でも知っているし、そのことに怒ってもいないよ。……家へ、帰ろうか。帰って引っ越しの準備をしよう。この国じゃないところへ一緒に逃げよう。おなかの子は男の子かな? 女の子かな? 子どもももっと欲しいよ。お金のことは心配しないで。いままでたくさん稼いできたからね」
堕ちた人魚の濁った瞳から涙が溢れた。アルや小山内に見せてきたような妖美な笑いは、いまのリオメルにはなかった。愛する夫に、今度こそすべてを曝け出して安堵した、一人の女がいるだけだった。ほっとした表情を出すリオメルの唇にレネーヴェはキスをする。
「だから、引っ越したさきでどんな男と寝ても良い。生まれた子どもはみんな俺の子として育てあげるよ、安心して」
「――え?」
徐々にリオメルを抱く腕の力が強くなる。苦しくなって、リオメルは身を悶えさせるものの、レネーヴェは一向に彼女を解放する気はないらしい。そこで、リオメルは、さきほどレネーヴェが口にした言葉の真意を理解する。理解してしまう。
――父親は二人もいらない。
「まさか、レネーヴェ。あなたは」
「そうだよ。俺には生殖能力が生まれつき無いんだ。だからアルを愛したし、
「あ……あ! ああ! あああ!」
リオメルは狂ったように泣き叫んだ。信仰をうしなった女の、唯一残していた夫への愛が、粉々に砕け散り、踏みにじられた瞬間だった。リオメルの嘆きに合わせて落雷が落ちる。その落雷はただの雷ではなく神罰である。
――尻尾を表しましたね。
空から一筋の光が落ちた。否、それは槍。ノーデンスの持つ三又の槍が、屋根に穴を開け、男女の心の臓を一直線に貫いた。 その一撃でレネーヴェは即座に絶命した。彼の口から吐き出された血がリオメルの顔に降り注いだので、緑いろの肌と赤い血が重なり薔薇の花が咲いたかのようだった。むせ返る血の匂いと裏切りの香りが、夫婦の愛の海のなかに充満する。腹の胎動が弱まる同時に、暗雲がひとときだけ裂けて、雲間から陽光が差し込み彼らを照らしだした。
……そこで部屋の隅に朱いろの裂け目が現れる。力の籠った大きな手が裂け目を掴んでこじあけていく。
季朽葉だった。
「リオメル! リオメル! ――ああ……!」
裂け目が、人が一人通れるような大きさになったところで、季朽葉は顔を出し、嘆いた。血の涙を流す瞳が季朽葉に向けられる。リオメルは口を動かして、掠れた声で季朽葉に問う。――ねえ、キクチバ。わたくし、生まれ変われるかしら?
「もちろんだよ! 約束したじゃないか!」
「そう」
それ以上リオメルはなにも言わなかった。とめどなく流れるレネーヴェの血が彼女の表情を隠し切る。
「どうして! どうしてこんなことに! だれか答えてくれ……!」
季朽葉はその場でくずおれ、己の無力さにただ涙を流した。風が吹き雲が流れた。彼女らの亡骸は闇のなかにしまわれ、雷がふたたび轟きはじめる。
『季朽葉! 聞こえますか! いまから僕もそちらへ行きます! 門を開きますから、すぐに戻りましょう!』
虚脱感に襲われる季朽葉の頭に骨獅黒の叫び声が鳴る。季朽葉の背後に裂け目が出来、骨の獅黒が身を出した。
「季朽葉! どうしたんですか! ほら!」
「……」
「――早く! このままだとまずいんですってば! あのジジイがヤバそうなことをはじめています!」
骨獅黒の焦りもむなしく季朽葉は動かない。大きな雷が、彼らの居る工房の周囲に五つ落ちた。旧神の印 が、この工房を中心に描かれようとしている。
「――邪神封印!」
空中にいるノーデンスは槍を空に掲げた。最後の轟雷が季朽葉と獅黒の頭上に迫る。雷が落ちる寸前に、骨獅黒は季朽葉を無理矢理引っ張って、ぎりぎりのところで門へ押し込み、自らも入って入口を閉じた。
……その数分後に警報は解除された。結局津波が街を襲うことはなかった。リオメルとレネーヴェ、アルと小山内の遺体は忽然と消え去り、彼らのうちリオメルとレネーヴェは失踪扱いとなった。
街には平穏が訪れ、彼らの愛も哀しみも、彼らがついたたくさんの嘘も、もう誰も知ることはない。
祈りの門の、門番たちをのぞいては。
☆
――そこまで語って、ひたいから大きな角を生やした獅黒は、眼前にあるホワイトボードにペンで必要事項を書き終える。
「以上が、過去の季朽葉くんが行った雑な仕事のあらましです。我々の目的は封印されたリオメルを救出すること。なぜなら……リオメルは、青螺さん――高橋律さんのまえの青螺だからです」
「やっとオレだけを見てくれたね。お前があのクソ女と結婚してからずっとお前だけを想っていたんだ。どうしてオレを捨てた?」
「答える義務はない。……といっても、ここまでの状況で分かるかもしれないがな」
「そうか、そうか、なるほど。お前は、だからあの女と偽装結婚したのか! 大方、オレの一族の教徒に家族を殺されでもしたか? そうだよなあ? だからオレと愛を誓いあったんだ。そしてオレを利用した。オレをリオメルと接触するように誘導した。
お前は女に、女としての幸せを与えられやしないんだから。
ほかの国は知らんが、古臭いこの国だと余計になあ」アルは笑う。自分を捨てた愚かな男を嘲り笑う。高らかな笑い声のなかレネーヴェはアルを静かに見据えた。
「こんな腐った世界にもう用は無い。オレを愛してくれないレネーヴェは必要ない。……ああ、あとな。あの女は悪女だぞ。お前が思っているような貞淑な女じゃないさ」
「前にも言ったろ? 俺はすべてを知っているし彼女のすべてを愛している」
「レネーヴェ。じゃあオレのことは愛しているかい?」
「ああ。愛しているさ。じゃあな、親友」
銃声が鳴った。放たれた弾丸はアルの眉間に穴を開け、あっけなく倒れた身体の横をレネーヴェは通る。廊下の奥へと進むと彼の耳に通信が入った。
『レネーヴェ! 今すぐ避難しろ!』
『おやっさん。どうしました』
『津波が! 大津波が! な、なんだあれは! まさか!』
レネーヴェは途中、音に違和感を覚えて機器を外す。
「……なんだ、この歌は」
廊下の奥から女性のか細い歌声が流れてくる。レネーヴェはその歌を、子守歌だと直感した。
街に避難警報が鳴り響いているなか住民たちは指示に従い避難をしていた。ある老婦人が驚愕の表情で空を指差し、周囲のひとびともその方向を見遣る。高い津波を遮るように何かしらの障壁のようなものが現れていた。その中心、砂粒のような大きさの人が空中に浮いている。この街の風景を撮影していた観光客だろうか。彼女は、首から下げていたカメラを起動させて、望遠モードでその人物を見た。
「すいません。わたし、この国の者ではないのでわからないのですが……ええと……貝殻に乗って、イルカに手綱を着けていて、槍を持っているお爺さんが、そこにいます」
たどたどしく覚えたての言語で喋る観光客。その言葉に子どもの一人がノーデンスさまだ! と叫んだ。次の瞬間には高い津波が到着したが、障壁に巨大な五芒星が現れると細かい水しぶきとなって拡散し、向こう側へ押し戻ることなく消えていく。
いや、まさか。そんな。大人たちは、信じていた存在が現実に現れたことにひどく困惑した。しかしさきほど叫んだ子どもがその場でノーデンスを応援しだしたことにより混乱が収まっていった。その子の母親が皆に言う。「みなさん! 今のうちにもっと高いところへ!」
そうして住民たちは生き残るためにさらに上を目指した。やがて、空で街を守っていたノーデンスは街の中心へと戦車を駆る。――そう。アルの工房の上空へ。その様子を見ていた、同じく上空に居る季朽葉は、異常を察知してテントを飛び出そうとする。だが骨の手に身体を掴まれて止められた。
「外に敵がいる以上ここから行くのは得策ではありません。門を使いましょう」
「君……」
「行くなら早く行きなさい。ここは任せて」
季朽葉は、すきまだらけのの頼もしい背中に礼を言い、祈りの門への道をひらいた。
一方のレネーヴェは子守歌が聞こえるほうへと進んでいた。周囲はすでにこの世ではない。コンクリートの壁だったであろう箇所は、波打つ触手が、歌声に合わせるようにして吸盤を震わせている。徐々に風景が変わる。深海の奥深くのような青い光が辺りを満たしている。その中心でリオメルは歌っていた。触手を纏わせて作った振り子椅子で、大きくなった腹をさすっている。
「ああ、あなた。待っていました。こっちへいらして。おなかの子が動きましたの」
構えた拳銃を徐々に下げ、レネーヴェは異形の存在となったリオメルに近づく。
「アルは殺したの?」
「ああ。もう彼は用済みだからね。それに子どもの父親は二人もいらないだろ?」
レネーヴェは持っている拳銃を床に置いた。続けて椅子に腰掛けるリオメルを抱き締める。
「愛するリオメル。君の嘘は何でも知っているし、そのことに怒ってもいないよ。……家へ、帰ろうか。帰って引っ越しの準備をしよう。この国じゃないところへ一緒に逃げよう。おなかの子は男の子かな? 女の子かな? 子どもももっと欲しいよ。お金のことは心配しないで。いままでたくさん稼いできたからね」
堕ちた人魚の濁った瞳から涙が溢れた。アルや小山内に見せてきたような妖美な笑いは、いまのリオメルにはなかった。愛する夫に、今度こそすべてを曝け出して安堵した、一人の女がいるだけだった。ほっとした表情を出すリオメルの唇にレネーヴェはキスをする。
「だから、引っ越したさきでどんな男と寝ても良い。生まれた子どもはみんな俺の子として育てあげるよ、安心して」
「――え?」
徐々にリオメルを抱く腕の力が強くなる。苦しくなって、リオメルは身を悶えさせるものの、レネーヴェは一向に彼女を解放する気はないらしい。そこで、リオメルは、さきほどレネーヴェが口にした言葉の真意を理解する。理解してしまう。
――父親は二人もいらない。
「まさか、レネーヴェ。あなたは」
「そうだよ。俺には生殖能力が生まれつき無いんだ。だからアルを愛したし、
君をこころから愛したよ。
君をアルの教室へ誘った。アルは復讐心から君を抱き続けて妊娠させた。予想以上にうまくいった。君がはじめてアルに犯されたときの盗聴データを聞いたときは年甲斐もなく自然と下着を汚してしまったよ! 君とアルの子ならさぞ聡明に違いない!」「あ……あ! ああ! あああ!」
リオメルは狂ったように泣き叫んだ。信仰をうしなった女の、唯一残していた夫への愛が、粉々に砕け散り、踏みにじられた瞬間だった。リオメルの嘆きに合わせて落雷が落ちる。その落雷はただの雷ではなく神罰である。
――尻尾を表しましたね。
空から一筋の光が落ちた。否、それは槍。ノーデンスの持つ三又の槍が、屋根に穴を開け、男女の心の臓を一直線に貫いた。 その一撃でレネーヴェは即座に絶命した。彼の口から吐き出された血がリオメルの顔に降り注いだので、緑いろの肌と赤い血が重なり薔薇の花が咲いたかのようだった。むせ返る血の匂いと裏切りの香りが、夫婦の愛の海のなかに充満する。腹の胎動が弱まる同時に、暗雲がひとときだけ裂けて、雲間から陽光が差し込み彼らを照らしだした。
……そこで部屋の隅に朱いろの裂け目が現れる。力の籠った大きな手が裂け目を掴んでこじあけていく。
季朽葉だった。
「リオメル! リオメル! ――ああ……!」
裂け目が、人が一人通れるような大きさになったところで、季朽葉は顔を出し、嘆いた。血の涙を流す瞳が季朽葉に向けられる。リオメルは口を動かして、掠れた声で季朽葉に問う。――ねえ、キクチバ。わたくし、生まれ変われるかしら?
「もちろんだよ! 約束したじゃないか!」
「そう」
それ以上リオメルはなにも言わなかった。とめどなく流れるレネーヴェの血が彼女の表情を隠し切る。
「どうして! どうしてこんなことに! だれか答えてくれ……!」
季朽葉はその場でくずおれ、己の無力さにただ涙を流した。風が吹き雲が流れた。彼女らの亡骸は闇のなかにしまわれ、雷がふたたび轟きはじめる。
『季朽葉! 聞こえますか! いまから僕もそちらへ行きます! 門を開きますから、すぐに戻りましょう!』
虚脱感に襲われる季朽葉の頭に骨獅黒の叫び声が鳴る。季朽葉の背後に裂け目が出来、骨の獅黒が身を出した。
「季朽葉! どうしたんですか! ほら!」
「……」
「――早く! このままだとまずいんですってば! あのジジイがヤバそうなことをはじめています!」
骨獅黒の焦りもむなしく季朽葉は動かない。大きな雷が、彼らの居る工房の周囲に五つ落ちた。
「――邪神封印!」
空中にいるノーデンスは槍を空に掲げた。最後の轟雷が季朽葉と獅黒の頭上に迫る。雷が落ちる寸前に、骨獅黒は季朽葉を無理矢理引っ張って、ぎりぎりのところで門へ押し込み、自らも入って入口を閉じた。
……その数分後に警報は解除された。結局津波が街を襲うことはなかった。リオメルとレネーヴェ、アルと小山内の遺体は忽然と消え去り、彼らのうちリオメルとレネーヴェは失踪扱いとなった。
街には平穏が訪れ、彼らの愛も哀しみも、彼らがついたたくさんの嘘も、もう誰も知ることはない。
祈りの門の、門番たちをのぞいては。
☆
――そこまで語って、ひたいから大きな角を生やした獅黒は、眼前にあるホワイトボードにペンで必要事項を書き終える。
「以上が、過去の季朽葉くんが行った雑な仕事のあらましです。我々の目的は封印されたリオメルを救出すること。なぜなら……リオメルは、青螺さん――高橋律さんのまえの青螺だからです」