第15話 自由と解放
文字数 3,449文字
彼女の祈りを見届けた小山内は、タイミングを見計らってリオメルの横顔に声をかける。
「……失礼ですが……。どこかで、お会いしたことがあるような……?」
小山内がこのように質問した意図は二つ。一つは純粋にあったことがあったかもしれないと疑問に思ったのと、もう一つは、先日の昼間、ヘンリーとレネーヴェが教会に尋ねてきた際に見せられた写真に写っていた女性だからだった。やってきた彼らははぐらかしたが、いま目の前にいる彼女が、連日のテロリズムの中心人物であろうということは、一般人である小山内にも容易に想像がつく。
小山内にとってヘンリーは命の恩人である。彼がまだ年若いころ、この国に渡ってきていきなり財布をすられた経験があった。その際、警察の派出所に飛び込んで盗難の手続きをしたものの、当面の生活ができない。そこに、ちょうど事件の聞き込みにやってきていたヘンリーが決して少なくはない金額を小山内に貸し出したのだ。いつか返すとなんども礼を言う小山内に、ヘンリーは豪快に、神さまからの贈り物だから気にするなと笑った。
孤児院にいる子どもたちのためにも、ヘンリーのためにも、自分でもなにかできないかと、小山内はリオメルと会話を続ける。
「あら……。神父さまから、そんな古典的な口説き文句を聞くことができるなんて、思いもよりませんでしたわ」
「や。そういうわけではございません。素直に、どちらかでお会いしたかと思いまして」
しどろもどろに答える小山内。自分の真意を悟られていはいけないと焦る態度が女性慣れしていない初心な男性に見えたのであろう。リオメルは小悪魔めいた微笑をし、小山内を上目遣いに見る。小山内はかけている丸眼鏡のずれをなおし、ポケットからまっしろなハンカチを取り出して、額と頬に垂れる冷や汗をぬぐう。清廉潔白。純真無垢。稲光のような白が小山内の焦げ茶いろの肌と対比した。
「うふふ。冗談です。そうだ、神父さま。こちらの教会では、祈りの日は、別の町内のひとでも参加できますか?」
「ええ、ええ。もちろんでございます。今週は出張で居ませんでしたが、来週はわたしはこちらの教会におります。ぜひご参加ください」
「ありがとうございます」
小首をかしげるようにリオメルは礼をした。そんな彼女の仕草は、以前に写真で見た薄幸さとはまるで真逆。世に対する侮りであろうか。それとも傲慢さであろうか。色々と思案した結果、小山内がたどり着いた答えはつぎのもの。
「自由……。いや、解放、か?」
リオメルと同じように、小山内もまた、彼女のことに興味が沸いた。
次の週。リオメルは久方ぶりに帰宅を果たしたレネーヴェと共に小山内のいる教会へと赴いていた。
途中、寄り添いながら歩いていた二人は自然と腕を組む。リオメルの腰に、ずきりと痛みが走ったものの、彼女はまったく意に介さない。レネーヴェは彼女の指に自分の手を添える。
「どうしたんだい? 積極的だね」
「あら? わたくしからのアプローチは変ですか?」
「そんなことはないよ。もちろん嬉しいに決まっているさ」
二人分の足音が鳴る。やがて彼女らは教会のまえに着いた。扉はひらいており、厳粛な雰囲気のなかで信者らが記帳をしたり帽子をとったりなどをしている。
レネーヴェとリオメルも他の信者たちと同じように動いて適当な椅子に腰掛けた。やがて時間となると、横に控えていた小山内神父が壇上に行き、同時に信者たちが立ち上がる。オルガン伴奏が流れ、讃美歌をそれぞれが口ずさんだ。机の上に置かれている聖典に手をあて、小山内が厳かに文句を唱える。
「皆さん、ノーデンスに告白を致しましょう。ノーデンスはすべてを許してくださいます」
信者たちは頭を下げて目を閉じる。少しの沈黙のあと皆の顔が前方を向いた。ふたたびオルガンの音色が鳴る。
「ノーデンスを讃えましょう」
今度はさきほどとは違う歌が歌われる。短いフレーズが終わり、会衆は着席し、小山内が聖典をひらくが、視線は文面に落とされず、彼はしっかりと会衆の方を見、聖典の内容を暗唱した。今日の内容は昨今の社会情勢に沿った内容だった。小山内は最後にノーデンスへの讃えと感謝を述べて、会衆もそれに続く。
そうして式は順調に進んで会衆に小さな箱が回される。献金箱であった。リオメル、レネーヴェともに、それぞれ別に財布を取り出して、ささやかな金銭を投入する。会衆すべてに箱が渡されて、小山内はそれを受け取り、皆から見える場所に置いた。
「以上で本日の祈りを終わりと致します。神は我らと共にある」
――共にある。
会衆は小山内の声掛けに同時に答えた。厳かな雰囲気がほぐれて信者たちはそれぞれ席を立つ。レネーヴェとリオメルは、教会から出たあと無言のまま視線を交わし、教会から少し離れたところで来たときと同じように腕を組んだ。
「あなた。これからデートしませんか」
「いいよ。じゃあ、最近君がやっていることが知りたいんだけれども、いい?」
「あら。こんなときだけわたくしに興味がありますのね?」
リオメルはくすくすと笑い、レネーヴェに対して痛烈な言葉を返すが、本気の言葉ではないとレネーヴェも分かっているようで困った顔を見せた。
「手厳しいね」
「……ここの近くに、わたくしが通いはじめた教室がありますの。そこに案内致しますわ」
教会からすぐ、というわけではないが、やや歩くことになったものの、その時間すらも彼女らにとっては幸せである。二人はすれ違いを埋め合わせるようにして語らった。もう夏も終わりはじめている。往来をすれ違う人々の服装は徐々に長袖のものが増えてきたようにリオメルは思う。リオメルは、皆が薄着になる夏が嫌いだった。理由は言わずもかな痣のせいだ。が、いまはもう、彼女は夏に恐怖は感じていない。
頭上には日が高くある。彼女らがそのしたを楽しそうに移動していくと、やがて見えてくるのはあのこぢんまりとした工房である。窓が無いとびらをひらいて、レネーヴェを工房に入れるリオメル。当然のことながら、彼らは顔を合わせることになった。
「君は、アルかい?」
嬉しそうに、昔を懐かしむようにして、レネーヴェはアルに声を掛ける。
「……レネーヴェ。どうしてここに」
「どうしてもなにも! 君の教室に妻が通っていると聞いて顔を見せにきたのさ! 水臭い。連絡くらい欲しかったなあ!」
ははは! と胸のすくような笑いを見せて、レネーヴェはアルの身体を抱擁し、大きな音を立てて背中を叩く。レネーヴェの背中越しに、アルはリオメルの表情を見る。彼女は、アルに対して勝ち誇っているかと思いきや、心底彼らふたりの再会を喜んでいた。唇はゆるやかに曲線を描いておりそれはまるで女神の微笑だ。無遠慮に叩かれたアルの背中の熱さと痛みが、彼女の笑いを見たことによって悪寒に変わる。
呑気に再会を喜ぶレネーヴェの腕がアルを解放すると、レネーヴェはふたりの顔を交互に見た。
「君と酒でも飲みに行きたいところだけれども、残念ながら今日は妻に愛をささやく日と決めていたんだ。また後日でいいかい?」
「あ、ああ」
「ありがとう。
レネーヴェの手がリオメルの腰に伸びて、彼はしっかりと彼女を抱きながら歩き出した。仲睦まじい夫婦の背中を、アルは苦虫を噛み潰したような顔で見つめて、すぐに季朽葉に脳内の声を届ける。
――予定は、変更する。
――具体的には?
――リオメルが身籠ろうが関係ない。こんな町、こんな世界、燃やし尽くしてやる。
高次の世界にいる季朽葉は彼が抱いている気持ちが手に取るように理解できた。そして彼が、いまこの瞬間、親の呪縛から解き放たれたことも。彼は、養子に出されてからずっと、神の声を聞くことができない『出来損ない』として扱われたことを気に病んでいたのだ。本人が自覚していたかどうかは分からないが、嫌悪するリオメルと何度も身体を重ねたことも、祈りの門を通じてこの国の宗教を攻撃したことも、すべて、親から認められたいという思いが源流だったのだ。そしていま、彼は、はじめて親を裏切った。
――キクチバ。オレが祈りの門に願ったこと覚えているよな?
――『俺が君の言うことを何でも聞く』。もちろん、忘れてないよ。
――……。ありがとう。これから下準備をするから、アンタは少し待っていてくれ。
「……失礼ですが……。どこかで、お会いしたことがあるような……?」
小山内がこのように質問した意図は二つ。一つは純粋にあったことがあったかもしれないと疑問に思ったのと、もう一つは、先日の昼間、ヘンリーとレネーヴェが教会に尋ねてきた際に見せられた写真に写っていた女性だからだった。やってきた彼らははぐらかしたが、いま目の前にいる彼女が、連日のテロリズムの中心人物であろうということは、一般人である小山内にも容易に想像がつく。
小山内にとってヘンリーは命の恩人である。彼がまだ年若いころ、この国に渡ってきていきなり財布をすられた経験があった。その際、警察の派出所に飛び込んで盗難の手続きをしたものの、当面の生活ができない。そこに、ちょうど事件の聞き込みにやってきていたヘンリーが決して少なくはない金額を小山内に貸し出したのだ。いつか返すとなんども礼を言う小山内に、ヘンリーは豪快に、神さまからの贈り物だから気にするなと笑った。
孤児院にいる子どもたちのためにも、ヘンリーのためにも、自分でもなにかできないかと、小山内はリオメルと会話を続ける。
「あら……。神父さまから、そんな古典的な口説き文句を聞くことができるなんて、思いもよりませんでしたわ」
「や。そういうわけではございません。素直に、どちらかでお会いしたかと思いまして」
しどろもどろに答える小山内。自分の真意を悟られていはいけないと焦る態度が女性慣れしていない初心な男性に見えたのであろう。リオメルは小悪魔めいた微笑をし、小山内を上目遣いに見る。小山内はかけている丸眼鏡のずれをなおし、ポケットからまっしろなハンカチを取り出して、額と頬に垂れる冷や汗をぬぐう。清廉潔白。純真無垢。稲光のような白が小山内の焦げ茶いろの肌と対比した。
「うふふ。冗談です。そうだ、神父さま。こちらの教会では、祈りの日は、別の町内のひとでも参加できますか?」
「ええ、ええ。もちろんでございます。今週は出張で居ませんでしたが、来週はわたしはこちらの教会におります。ぜひご参加ください」
「ありがとうございます」
小首をかしげるようにリオメルは礼をした。そんな彼女の仕草は、以前に写真で見た薄幸さとはまるで真逆。世に対する侮りであろうか。それとも傲慢さであろうか。色々と思案した結果、小山内がたどり着いた答えはつぎのもの。
「自由……。いや、解放、か?」
リオメルと同じように、小山内もまた、彼女のことに興味が沸いた。
次の週。リオメルは久方ぶりに帰宅を果たしたレネーヴェと共に小山内のいる教会へと赴いていた。
途中、寄り添いながら歩いていた二人は自然と腕を組む。リオメルの腰に、ずきりと痛みが走ったものの、彼女はまったく意に介さない。レネーヴェは彼女の指に自分の手を添える。
「どうしたんだい? 積極的だね」
「あら? わたくしからのアプローチは変ですか?」
「そんなことはないよ。もちろん嬉しいに決まっているさ」
二人分の足音が鳴る。やがて彼女らは教会のまえに着いた。扉はひらいており、厳粛な雰囲気のなかで信者らが記帳をしたり帽子をとったりなどをしている。
レネーヴェとリオメルも他の信者たちと同じように動いて適当な椅子に腰掛けた。やがて時間となると、横に控えていた小山内神父が壇上に行き、同時に信者たちが立ち上がる。オルガン伴奏が流れ、讃美歌をそれぞれが口ずさんだ。机の上に置かれている聖典に手をあて、小山内が厳かに文句を唱える。
「皆さん、ノーデンスに告白を致しましょう。ノーデンスはすべてを許してくださいます」
信者たちは頭を下げて目を閉じる。少しの沈黙のあと皆の顔が前方を向いた。ふたたびオルガンの音色が鳴る。
「ノーデンスを讃えましょう」
今度はさきほどとは違う歌が歌われる。短いフレーズが終わり、会衆は着席し、小山内が聖典をひらくが、視線は文面に落とされず、彼はしっかりと会衆の方を見、聖典の内容を暗唱した。今日の内容は昨今の社会情勢に沿った内容だった。小山内は最後にノーデンスへの讃えと感謝を述べて、会衆もそれに続く。
そうして式は順調に進んで会衆に小さな箱が回される。献金箱であった。リオメル、レネーヴェともに、それぞれ別に財布を取り出して、ささやかな金銭を投入する。会衆すべてに箱が渡されて、小山内はそれを受け取り、皆から見える場所に置いた。
「以上で本日の祈りを終わりと致します。神は我らと共にある」
――共にある。
会衆は小山内の声掛けに同時に答えた。厳かな雰囲気がほぐれて信者たちはそれぞれ席を立つ。レネーヴェとリオメルは、教会から出たあと無言のまま視線を交わし、教会から少し離れたところで来たときと同じように腕を組んだ。
「あなた。これからデートしませんか」
「いいよ。じゃあ、最近君がやっていることが知りたいんだけれども、いい?」
「あら。こんなときだけわたくしに興味がありますのね?」
リオメルはくすくすと笑い、レネーヴェに対して痛烈な言葉を返すが、本気の言葉ではないとレネーヴェも分かっているようで困った顔を見せた。
「手厳しいね」
「……ここの近くに、わたくしが通いはじめた教室がありますの。そこに案内致しますわ」
教会からすぐ、というわけではないが、やや歩くことになったものの、その時間すらも彼女らにとっては幸せである。二人はすれ違いを埋め合わせるようにして語らった。もう夏も終わりはじめている。往来をすれ違う人々の服装は徐々に長袖のものが増えてきたようにリオメルは思う。リオメルは、皆が薄着になる夏が嫌いだった。理由は言わずもかな痣のせいだ。が、いまはもう、彼女は夏に恐怖は感じていない。
頭上には日が高くある。彼女らがそのしたを楽しそうに移動していくと、やがて見えてくるのはあのこぢんまりとした工房である。窓が無いとびらをひらいて、レネーヴェを工房に入れるリオメル。当然のことながら、彼らは顔を合わせることになった。
「君は、アルかい?」
嬉しそうに、昔を懐かしむようにして、レネーヴェはアルに声を掛ける。
「……レネーヴェ。どうしてここに」
「どうしてもなにも! 君の教室に妻が通っていると聞いて顔を見せにきたのさ! 水臭い。連絡くらい欲しかったなあ!」
ははは! と胸のすくような笑いを見せて、レネーヴェはアルの身体を抱擁し、大きな音を立てて背中を叩く。レネーヴェの背中越しに、アルはリオメルの表情を見る。彼女は、アルに対して勝ち誇っているかと思いきや、心底彼らふたりの再会を喜んでいた。唇はゆるやかに曲線を描いておりそれはまるで女神の微笑だ。無遠慮に叩かれたアルの背中の熱さと痛みが、彼女の笑いを見たことによって悪寒に変わる。
呑気に再会を喜ぶレネーヴェの腕がアルを解放すると、レネーヴェはふたりの顔を交互に見た。
「君と酒でも飲みに行きたいところだけれども、残念ながら今日は妻に愛をささやく日と決めていたんだ。また後日でいいかい?」
「あ、ああ」
「ありがとう。
我が親友。
それじゃあ、また!」レネーヴェの手がリオメルの腰に伸びて、彼はしっかりと彼女を抱きながら歩き出した。仲睦まじい夫婦の背中を、アルは苦虫を噛み潰したような顔で見つめて、すぐに季朽葉に脳内の声を届ける。
――予定は、変更する。
――具体的には?
――リオメルが身籠ろうが関係ない。こんな町、こんな世界、燃やし尽くしてやる。
高次の世界にいる季朽葉は彼が抱いている気持ちが手に取るように理解できた。そして彼が、いまこの瞬間、親の呪縛から解き放たれたことも。彼は、養子に出されてからずっと、神の声を聞くことができない『出来損ない』として扱われたことを気に病んでいたのだ。本人が自覚していたかどうかは分からないが、嫌悪するリオメルと何度も身体を重ねたことも、祈りの門を通じてこの国の宗教を攻撃したことも、すべて、親から認められたいという思いが源流だったのだ。そしていま、彼は、はじめて親を裏切った。
――キクチバ。オレが祈りの門に願ったこと覚えているよな?
――『俺が君の言うことを何でも聞く』。もちろん、忘れてないよ。
――……。ありがとう。これから下準備をするから、アンタは少し待っていてくれ。