第12話 太陽を手放して

文字数 2,211文字

 彼女の衣服をできる限り整えて、なにも怖いことが無いように、彼女の身体に毛布を被せる。そして、身を横たえさせるリオメルのとなりに、季朽葉も腰を下ろした。
「レネーヴェ。帰ってきてくださったの?」
 夫と同じ青の瞳を、睡眠からはっきりと目覚めない眼が捉える。
「いいや、違う。俺は季朽葉。ひととしての名前はもう捨てたんだ。……いいかいリオメル。よくお聞き。君にはもう安息は訪れないだろう。だが安心してほしい。君の死後は、俺が保証する。たまに俺のところに来てもいい。天寿をまっとうするまで、どうか、強く生きてほしい」
 我ながら、なんと残酷なことを告げるのかと、かつて愛するものを失った王は自分を嗤った。物思いにふける首無しの王が見つめるカーテンが、徐々に白くなりはじめる。夜明けが、近い。そのとき、がちゃり、と玄関の鍵が回される音がした。
「……レネーヴェ。君の願いもしっかりと叶っているね。リオメルに復讐が出来ているよ」
 何もできない無力な番人は、寝室に近づく足音を耳にしながら、祈りの門へと戻っていった。

 翌日になって、レネーヴェに起こされたリオメルは、昨夜のことが夢ではないかと思ったが、服のポケットから出てきたポラロイド写真を見て青褪めた。慌ててレネーヴェに気づかれない場所……自分の鍵付き日記帳に挟んで、鍵をかける。その写真に写っていたのは、おぞましい姿となった自分の裸。アルは写っていなかったものの、裏面にはわざとらしく、「レネーヴェや、警察に通報をしたら、捜査局にこの写真を送ります。いままで通り、オレと一緒に()()を作っていきましょうね」とのメッセージが書かれていた。
 リオメルの目が眩む。手足が震え、唇が震えた。
 ――自分はいったい、アルになにをされた? 通常ならば警察に行って彼を逮捕してもらうべきだろう。しかし、ことはそれだけに留まらない。アルは自分の過去も、そして正体すらも、情報として握っているのだ。自分は、確実に捜査局に身柄を確保され、解剖などの実験に使われてしまうに違いない。
 いまだ身を震わせるリオメルに、レネーヴェは愛飲しているコーヒーを入れたマグカップを差し出した。
「どうしたんだい? 寒いのかい?」
「……いいえ。なんでもありません……」
「やせ我慢をしないで」
 ふわりと温かい感触がリオメルの肩にかかる。レネーヴェは小さ目の毛布を彼女の肩に掛け、座っているソファーに共に腰掛ける。そして、夫婦としては当たり前の、しかし、リオメルにとっては絞首の縄と同様の言葉が、レネーヴェの口から紡がれる。
「ねえ。リオメル。ちょっと気が早いんだけれども……。家族を、考えないかい」
「それは、子ども、ということでしょうか」
 率直なリオメルの答え。恥ずかしそうに頬を掻くレネーヴェの顔は真っ赤だ。
 いったいどうすればいいのだ――。リオメルの胸中はすでにぐちゃぐちゃである。夫に、自分は不貞を働いたとでも言えばいいのか。その相手が、夫が大切にしている幼なじみであるというのか。それとも、自分は邪神の生まれ変わりであると告白をすればいいのか。生まれるであろう子どもは、化け物であると? リオメルは下唇を噛む。
「怖い? そうだよね。わかるよ。俺も普段家に居られないし……世間は爆弾テロリストの話題でもちきりだ。でもね、前に俺、言ったよね。君を守るためならなんでもするって」
「……!」
 夫を裏切ることは、出来ない。リオメルはもっともしてはいけない選択肢をここで選んでしまう。彼女はすでに冷静な判断を喪失してしまっていた。
「わかり、ました」
「本当かい!」
 両手を挙げ、最大限の喜びを全身で表したあと、レネーヴェはリオメルに抱きついて、そのまま寝台に押し倒した。
「リオメル、リオメル! ああ、リオメル!」
「待って、待ってください。せめて歯を磨かせてくださいまし……!」
 彼女の頬に、頬ずりをしたあと唇にキスをしようとしたレネーヴェが、リオメルの手に制止される。彼は冷静さを取り戻して、勢いよく身を起こす。
「はは。ごめんごめん」
「いいえ」
 リオメルは寝台から降りた。レネーヴェの顔を見ずに洗面所に入る。鏡に写る自分を見るとそこには普段と変わらない自分の姿があった。アルに乱暴をされたのは確かなはずなのに、恐怖心も身体の異常も、どうしてかリオメルには感じられなかった。それどころか記憶すらもあいまいなのだ。写真はあるものの二度と目に入れたくなかった。
「夢、だったのかしら」
 泡を吐き出して呟いた言葉は、水の渦とともに流れていってしまう。
「……」
 歯ブラシとコップを片付けてリオメルは寝室へと戻った。幸せな三人家族の未来を思い浮かべて笑うレネーヴェ。そんな彼に笑顔を向け、どこか冷めた表情をするリオメルは、彼の首に両腕を回した。その理由をリオメルは知らない。心から抜き取られた葉によって己のうちが欠けてしまったことを、リオメルは知ることはできない……。
「リオメル。愛しているよ」
 ――本当に?
「君のすべてが美しい」
 ――あの姿も、あなたはそう思うの?
「君は? 俺のことを愛してる?」
 ――……。

「ええ。もちろんですわ」

 真っ白な肌に刻まれた鱗模様を太く長い指が這う。そうして人魚は海底へと沈み、太陽の光が差さない深淵に堕ちていった。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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