第7話 嫉妬の炎

文字数 3,641文字

「まさか」
 リオメルは即座に否定した。仮にアルが夫・レネーヴェに思いを寄せていたとしても夫は自分を愛している、という自負がリオメルにはあった。そうだ、どんなに忙しくてもいつもあのひとは連絡は欠かさないのだから……と、リオメルは、机のしたに手を隠し、膝のうえで拳を軽く握る。だが、信じる心はアンジェラの明るい言葉にあっさりと砕かれた。
「リオメルの旦那さんって、どんなお仕事してるの?」
「え? いえ、その」
「まさか、知らないの?」
「……はい……」
 おかしいわよ! と、アンジェラは酔いに任せて掌で机を叩いた。食器たちが互いにぶつかり合って賑やかに音を鳴らした。ただならぬ様子に、ノダが彼女らの様子を見に来る。
「アンジェラさん、酔いすぎですよ」
「ノダ! ちょっと、聞いてよ! この子ってば夫の職業を知らないっていうのよ!」
「……アンジェラさん。事情があって言えない職業だってあるはずですよ。それになんです。ひとさまの家庭に口を突っ込んで。もうお酒は出しません」
 えー! とアンジェラは不満そうに頬を膨らませる。アンジェラとノダが口論をはじめた横では、リオメルが瞼を伏せて下を向いている。そんな彼女の様子を見て、アンジェラは、まだ酒でぼんやりとした頭を動かしてフォローをする。
「その。ごめんね。ノダの言う通りだったわ」
「わたくしは大丈夫。そういえば、わたくし自身もあのひとにもっと踏み込むべきでした」
 リオメルが夫に言い出せなかったのは腰元にある痣のせいだった。その問題はとうのまえに解決したはずだ。もう障害はない。リオメルは静かに決心をする。
「わたしもアル先生ともっと仲良くなる。恋人とかがダメでも、気楽に話せる友達くらいには昇格したいわ」
「アンジェラさん……」
「だから。お互い頑張りましょう」
 二人は自然に見つめ合い、笑って、約束を交わした。二人の雰囲気が良くなったところで、いつの間にかその場から居なくなっていたノダが、小さなケーキを二つ、トレイに乗せてやってくる。
「こちらもサービスです。題して『魔女の惚れ薬入りガトーショコラ』。恋にてきめんです」
「そ、そんな! 悪いですよ!」
「遠慮なさらず。リオメルさん。美しい友情がこの店で花開いたのですから、わたくしからの応援です」
「ありがとうございます」
 二人は小さな皿を受け取り、一口サイズの小さなケーキを頬張った。まるで大人の恋のようなほろ苦い甘さだった。結局二人は食後のコーヒーも馳走になってしまい、そしてやはり会計で揉め、リオメルがアンジェラのタクシー代を払うということで話がついた。
「それじゃあ、また教室でね」
「はい」
 二人の家はまったくの逆方向。まだ夕方と呼べる時間帯だが安全のためタクシーは二台呼ばれた。二人は互いに手を振り別れを惜しんだあと、車内に乗り込んだ。
 タクシーの運転席に酒臭い息を吐きかけながらアンジェラは目的地を告げる。スピーカーから愛想よく返事があり、遠隔操作されているタクシーは静かに走り出した。しばらく続く街頭の光と車のヘッドランプの流れが、徐々に彼女の酔いを醒ましていく。そこでアンジェラの瞳にひとつの建物が映った。そろそろ夜になるというのに小さな窓からは明かりが漏れている場所は、アル人形工房。どうにも気になったアンジェラはタクシーを止めて車から降りる。まだ外は明るい。一人で歩いていてもそこまで危険は無いだろう。彼女は持ち前の大胆さを武器にして人形工房の扉をひらいた。入ったすぐのアトリエには誰も居ない。さらに先に進んで、作業場になっている部屋に足を踏み入れる。教室の一角、アルがいつも座っている場所で、彼は彫刻刀を手にしていた。
「こんばんは。こんな時間まで熱心ですね」
 製作途中の人形に刃を立てていたアルは、いったん刃から目を離してアンジェラに顔を向ける。恥ずかしそうに髪を耳に掛けるアンジェラ。シャツの袖の奥から見える痣に、アルの目が釘付けになった。アルは立ち上がる。エプロンに積もった粘土の削りかすを念入りに払って、アルはアンジェラのまえに立った。
「アンジェラさん」
「せ、先生?」
 アルの真剣なまなざしにどぎまぎとするアンジェラ。高鳴る鼓動を感じながら、アンジェラはアルの顔を見上げる。
「一緒に見ていただきたいものがあるんです。どうぞ、こちらへ」
 アルはアンジェラに背を向けた。そして、普段教室で人形を作っている場所からは見えない位置にある、『関係者以外立ち入り禁止』という札が掛かった扉のまえまで案内され、扉がひらかれた。アルは真っ暗な部屋のなかにアンジェラを先に入れる。アンジェラの鼻に、港町では当たり前の、嗅ぎなれた汐の匂いが漂ってきた。だがここはまだ奥まった部屋のなか。なぜだろう、と不審に考えたとき、足元の感覚がいままでのコンクリートのものと大幅に変わった。
 ――ぐちゃり。
 驚いてアンジェラは視線を床に落とす。そこには、汚らしく、ぬめぬめとした、タコのような触手が蠢いていて、彼女が履くヒールに吸盤を張り付けさせている。しかし、彼女が悲鳴をあげる直前で、アルはアンジェラの口をふさいだ。
「進んでください」
 いつもと変わらない優しい声だった。アンジェラは抵抗することもできず、なすがままに前へと足を動かしていくと、徐々にさきが白みはじめた。部屋の真ん中に、ひとつだけ照明があてられているものがあった。展示台の足元には、血管のように枝分かれした触手が、四方八方に伸びていて、部屋の壁や床を覆っている。それらは不気味に脈打って、吸盤を震わせていた。
 やがて二人はその展示物のまえにくる。それは吐き気を催すような気持ち悪さを纏っている人魚像だった。大きな岩に身を横たえさせてしなを作るさまは色気があり美しい。耳は、羽ともヒレともつかないもの。身体は鱗で覆われ、下半身は何本もの触手で枝分かれしている。指は鋭い鉤爪がある。背中には蝙蝠の羽が生えていた。反対に、顔だけは非常に美しい顔立ちをしていて、それが逆に不気味さを際立たせていた。
「なぜ、オレが芸術の道を進んだか聞きたいですか」
 当然アンジェラからは返答はない。アルは勝手に語りだした。
「この国は古い。親次第で将来の道が決まる。オレはこの国でいうところの邪教崇拝の教祖の家に生まれました。ですがそれなりに幸せだったんですよ。家族のなかでなぜかオレだけには神の声を聴くことができなかったんですが、神殿にある神の像と対峙をしていると、辛いときも悲しいときも、自分のなかに燃え盛る感情の炎が沈まっていく気がして、それはそれは神様に感謝したものです。あるとき、オレは両親に告げられました。おまえはこの家から出ていけ。神の声が聞こえないおまえは要らない。金もなく、後ろ盾もないオレは、すぐに養子に出されます。義両親は良い人たちで、徐々にいままで自分の置かれていた環境が異常とだったのだと思えてきました」
 そこでアルはアンジェラの口を解放した。しかしアルはアンジェラの口を挟ませず、会話を続ける。
「さいわいオレは親友と呼べるひとに恵まれてスクール時代を過ごしました。彼とは成人しても付き合いがありましてね」
「……そのひと、って。リオメルの、旦那さん……?」
 アルはあいまいに笑うだけ。視線をアンジェラから像に移して、ふたたびアルは語りだす。
「そのときからオレは頻繁に夢を見るようになりました。神が歌を歌い、この街を沈める夢でした。――神は夢の中で告げたのです。わたしの鱗を肌に刻む者と子を成し、神の器を作り上げ、すべてを水で流してしまえ。そのためにはわたしの像を作り、かの者をおびき寄せよ」
 どこからかごぼごぼと水が噴き出す音がしだした。アンジェラはあたりを見回すが、当然ながら周りは水浸しにはなっていない。しかし、すでに冷たい感覚は足まで迫っている。
「なに? どういうこと!」
 急速に差し迫る水の感触。汐の匂い。あっという間に頭を超え、アンジェラは息苦しさに必死にもがいた。助けて! と叫ぶも、アルは涼しい顔でそこに立ち尽くしているだけ。まるでうちに燃える嫉妬の炎をこの水で鎮火させているように。やがてアンジェラの身体は動かなくなった。
「……今回も違ったか。痣を伝播させている本物はどこにいるのかな」
 そう呟きながら部屋の暗がりからアルは大きな斧を取り出した。水で湿ったアンジェラの腕を引っ張って伸ばし、一気に刃を振り下ろすと、血もなにも出ずに胴体から離れた。つぎにアルは斧と同じ場所にあった段ボール箱にその腕を詰め、爆弾と思しき筒状のものとタイマーをセット。ガムテープで厳重に封をする。すると、その周りに触手が何本も伸びて、その箱を包み込んで触手ごと床に埋まった。あとには、アンジェラの身体も爆弾も何もなく、ただアルが立っているだけである……。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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