第25話 水世界

文字数 4,358文字

 獅黒は彼を無視して叫び声がしたほうへ向かうと、出たさきの廊下の奥から、頭から血を流して逃げるリオメルが走ってきた。どうしましたか、と獅黒が問いかけるよりも早く、彼女は獅黒の隣を走り去り、追って鬼の形相をしたレネーヴェが右手を血に染めてやってきた。リオメルの頭を殴ったのだろう。獅黒は、あまりの出来事に声をかけることが出来なかった。茫然と彼らた通り過ぎるのを見ていると、いつのまにか獅黒の後ろに立っていたアルが、ニヤリと笑った。
「なんだ。今回は早かったな」
「どういうことですか」
「気になるんなら奴らに着いていくんだな」
 そう零してアルはまた応接室のソファに腰掛ける。すぐにいびきが聞こえてきたので、獅黒はアルをそのままにして、彼らのあとを追った。玄関から出ると、変わらず黄薔薇の庭園はうつくしかったが、先ほど見かけた赤い薔薇が生えていたところで、レネーヴェはリオメルに馬乗りになり、何度も拳で頭を殴りつけていた。レネーヴェの大きな叫び声が薔薇の花弁を小さく揺らす。
「君は! どうして! 俺を裏切ったんだ! どうしてアルと!」
「お、おとうさま! やめ……!」
 リオメルの助けを求める悲鳴もしばらくして止んだ。飛び散った血が、黄薔薇の花弁を真実の愛のように赤く染めた。獅黒はその様子をただ見ることしかできない。
 すると周囲に変化が起こった。風景のなかにあった水泡が大きくなった。水が揺れ、薔薇の花弁が水流にあおられて散り、舞った。獅黒はおもわず顔を両腕で覆う。そのうちに水流がおさまっていったので、彼が腕を下ろすと……そこは、最初この世界に降り立った場所だった。
「なあ? 言っただろ?」
 と、獅黒の背後に立っているアルが言う。
「どういう、ことですか」
「おまえ、最初オレたちに記憶が無いと思っただろ」
 獅黒は無言でうなずき、彼の言葉の先をうながす。
「記憶が無いのはリオメルだけでオレやレネーヴェはそのままだ。理由はおそらく、彼女の腹のなかにいた子どもと彼女の記憶が融合しちまったんだろ。で、この世界はリオメルと連動している」
「彼女が死ぬと、世界がリセットされる」
「だから言っただろ。きりがないって。もう何回目かな。リセットされるたびに、あの庭園に黄薔薇が増えていったんだよ」
 その諦めきった言葉に獅黒は息を飲む。いったい彼らは何回やりなおしているのかと。
「最初、オレもここから出ようと思ったさ。どうしたらいいかわからなくてそのうち諦めた。お前もそうだろ? ま、お前はいつもあそこのカフェで油を売ってから屋敷に来ていたから、あまり関係ないみたいだけれどもな。……じゃあまた行こうか。やり直しに」
「……。ええ」
 再び、獅黒は、水流が揺れ水泡が沸き立つ街路樹の道を歩き出した。歩みをアルと共に進めながら、獅黒は、どうしたらこの空間からリオメルを救いだせるのかを考える。リオメルが死んだら世界がリセットされる。ではリオメルが死ななかったのならどうなるというのだろうか。レネーヴェのあの姿を見るに、毎回彼がリオメルを殺しているということは容易に想像が出来、そうなのであればまずレネーヴェの気を引く必要がある。さいわいいまの獅黒の役柄は神父だ。この姿なら説得力も増し、レネーヴェもすんなり話を聞くに違いない。
 すこし先を行きはじめたアルが、後ろを振り向いて、考え事をしてうつむいている獅黒に対し唐突に切り出した。
「出たいとは思っていたんだが」
「……どうしました?」
「ずっと一緒にいられて、実は嬉しいんだよ」
 アルは事情を深くは言わなかった。当然だろう。獅黒は詳細を知っていたものの口に出しはしない。行き道すがら、獅黒は小山内神父が居たカフェの建物を見る。大きな客席に面する窓ガラスから店内の様子がうかがえたが、小山内神父が居たところに、長い、棒のようなものが垂直に近い角度で刺さっていた。某の根元は三又に分かれていて、黒い塊、つまりは小山内神父が着用している服がぴくぴくと痙攣(けいれん)していた。まるで何かに貫かれて絶命をしたように。
「……」
 獅黒がここにあらわれたことによって、小山内神父の役目は終わり、彼は現世にいたときと同じように死んで、獅黒と入れ替わったということかと、そう獅黒は予想を立てる。小山内神父は一足先にこの空間から逃れたわけだ。ということは、祈りの門とおなじように、誰かを犠牲にして逃げ出さなければならないのかもしれないが、ここはノーデンスにより通常とは違う節理で動いているようだった。そして獅黒が入ってきたことにより保たれていた均衡も綻んでいる。とにかくいままでと違うことを派手に起こせばいい。そうすれば若かりしころの季朽葉が祈りの門を使って空間を無茶にこじあけてくるのだから。獅黒はリオメルを救い出せるという確信を得る。
 ……描かれた五芒星は、派手に踏みにじってやればいいのだ……。
 獅黒の考え事をよそにアルはすたすたと歩き続けた。やがて二人は屋敷にやってくる。呼び鈴を鳴らすまえに、獅黒はさきほど気に留めた赤い薔薇が生えている場所へ向かった。すると……そこでは、死ぬ前となんら変わらないリオメルが、静かに寝息を立てて横になっているではないか。獅黒は優しく彼女の肩をゆさぶって、彼女を眠りから覚まさせる。
「あ……。ごめんなさい。わたくし、いつのまにか眠っていたようです」
「あなたのお父様とおはなしをしたいのですが屋敷に入っても?」
「ええ。よろしいですわ。いま、開けます」
 リオメルはいたって普通に立ち上がる。履いているスカートを軽く払って獅黒に対してスカートのすそを持ち上げる仕草をした。獅黒のまえを行き、屋敷のとびらをひらく。
「お父様は、ずっと書斎に籠っています。書斎はこの廊下をまっすぐ行ったところです」
「ありがとうございます」
「……お父様のこころに、神父さまのお言葉が届けばいいのですけれども……。あ、あなたは。お父様のお友達のアルさん」
 リオメルは、獅黒のそばにいた男にようやく気付いた。アルはとくになにも言わないが口元は歪んでいる。ニヤニヤとした、嫌な笑いだった。ちょうどいい、と、獅黒はリオメルにアルを応接間に案内してほしいと進言する。
「わかりました。お父様をお願い致します」
「もちろんです」
 不安と怯えが見え隠れをするリオメルの瞳を見据えて獅黒は廊下の奥へと足を運ぶ。廊下は窓が面していたが、木の板やガムテープなどで目張りがなされていた。埃とカビの匂いに獅黒は眉をしかめる。ぽつぽつとある橙いろの電灯をいくつか数えたところで廊下は突き当たった。獅黒は、家主を刺激しないようにとびらをノックし、レネーヴェに声をかける。
「こんばんは。教会からやってまいりました、小山内と申します」
 返事はないが家具の軋む音が獅黒の耳にとどく。数秒待ってドアノブが回った。目の下にくまを作って、憔悴しきったレネーヴェが顔を出した。
「あなたは滅多にいらっしゃらないから驚いてしまったよ。……良ければ、部屋にはいって俺の話を聞いてほしい」
「ええ」
 レネーヴェに迎えられた獅黒は部屋に入る。なかは特に目立ったものはない。本棚と、机と、来客用と思われる椅子がある。机の上には無骨な拳銃が一丁、置かれていた。
「どうぞ、そちらへ」
 レネーヴェにうながされ、獅黒は来客用の椅子に座った。レネーヴェもまた向かいの椅子に腰を下ろし、背もたれのクッション材の身体を深く沈める。
「神は、すべてを許してくださいます。どうぞお話を」
 獅黒の、神父らしい促しに、額に掌を当てていたレネーヴェが声を詰まらせながら告白をしはじめる。
「あの子を、見たかい」
 リオメルのことだろう。獅黒は目を伏せてうなずく。
「俺の妻だった、俺の子だ。言っていることがわからないだろうが、俺もわけが分からない。あの子の顔を見るたびに、リオメルがアルの……友の腕のなかで悦ぶ嬌声が鮮明に思い出されて、俺は何度も彼女を殺してしまった。
 でも、でも! 何度殺しても! 彼女はまた俺のところに戻ってくるんだ。彼女の復讐だろうか? 俺のことを憎んでいるんだろうか? ……それに」
「それに?」
「なぜか一回死ぬたびに性別が逆になるんだ。俺がアルを愛していた時期があるからか? やはり、リオメルの復讐に違いない……。助けてくれ。悪夢を終わらせてくれ。このおかしい世界から俺は出たい……」
 だんだんと語尾が小さくなる。レネーヴェは椅子に座ったまま下を向いた頭をかきむしり涙を流した。目から滴った水が床に敷いてあるラグに沁みていく。もうレネーヴェの精神は限界なのだろう。滴った涙のあとが分散し、徐々に薄くなっていくさまを見詰めながら、獅黒はそんなことを思う。また、性別が入替わるというレネーヴェの証言については、リオメルの腹の子の性別が男性であったことが予想できる。
 すると唐突に、身体を震わせていたレネーヴェが不意に顔を上げた。
「リオメルはどこにいる」
「応接間でアル氏と話をしておられます」
「なぜそれを先に言わない!」
 レネーヴェは勢いよく立ち上がり、机のうえにある拳銃を掴んで部屋のとびらへ足早に向かう。獅黒はまずいと考えたが時すでに遅し。レネーヴェは廊下に出てしまい、獅黒も慌てて彼の背を追う。
「お待ちください!」
「……」
 やがて彼が立ち止まったのは応接室のまえだった。扉のすきまから光がひとすじ漏れている。レネーヴェが部屋のまえから動かないので、獅黒は不思議に思って扉を覗くと……。そこでは、実の父と子による、けだものの所業がおこなわれていた。「今日は、男の身体なんだな」と、アルはリオメルの首に指を這わせている。扉が割れんばかりにひらかれ音が鳴り、覗いていた獅黒を押しのけてレネーヴェは大股で室内へとはいる。
 ソファのうえでリオメルに覆いかぶさり、スカートの裾から手を入れているアルを引きはがして、レネーヴェは持っていた拳銃を彼のひたいに突き付ける。そして、戸惑いなく引き金を引いた。大きな音が、起き上がったリオメルの肩を竦めさせる。身動きの取れない彼女を、レネーヴェは睨みつけて……ようやくそこで、獅黒は彼の身体を羽交い絞めにした。
「なにをする! 離せ」
「彼女を殺させるわけにはいきません」
 獅黒は一旦、レネーヴェを突き飛ばす。尻餅をついたレネーヴェの腕を捻り上げ拳銃を奪い、別のほうの手を、レネーヴェの心臓目掛けて突き刺した。血を吐き出して、レネーヴェはあっさりと事切れる。そのとき、バキ、ビキ、と言った何かが割れる音が、外からしはじめる。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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