第8話 禍々しい夢、それぞれの秘密

文字数 4,487文字

 アルがぶよぶよとした壁に背をもたれさせると、すぐ隣に一本の赤く光る線が走って、それは徐々に広がりを見せていった。人ひとりが出入りできるくらいに穴があいて、そこから黄に着色された獣の面を被る人物が身を乗り出してくる。
「やあ」
 窮屈そうにしながら、その大柄な男は身体を完全に向こう側から出して、アルの隣に並び立った。波打った豪華な金髪は、どうしてか途中からバッサリと雑に切られていた。大昔ある女王がギロチンにかけられるまえに自慢の長い髪をはさみで切られていたな、などと、アルはぼんやりと思い起こす。
「アンタの金髪は目障りだ。食料と日用品ならそこにあるからさっさと行ってしまえ。そっちにはメシを作ることができるやつすらいないのか?」
「情けない話だけれども俺は生前王族だったし生活に関することはなにもできないんだよ。ほかのひとも一緒でね」
 アルが顎をしゃくった先には何重にも積まれた段ボール箱があり、ひとつひとつに文字と絵が描かれていた。どうやら仮面の男はこの国の文字が読めないようで、アルが気を効かせて絵を描いたのだろう。面の男はいくつかの段ボールを抱えて裂け目を移動する。やがてすべてを運び終えて仮面の男はアルに向き直る。面の目の部分の穴から、男の持つ瞳が光を受け、空いろの光を反射した。
「君さ。こんなことして楽しいの?」
「アンタらには関係ないし、アンタらがそのセリフを言える資格なんてないはずだぞ」
「まあ、そうだけれどもさ。俺は君に救いがあってほしいよ」
「レネーヴェとそっくりの声でいうんじゃねえよ。黙りやがれ。さっさと失せろ、キクチバ」
 やれやれと肩を竦める季朽葉。舌打ちをするアル。季朽葉があちらがわにある荷物を確認して裂け目を閉じると、その場にはアルだけとなる。
「レネーヴェ。どうしてオレを選んでくれなかったんだ。どうして、俺の両親を奪ったあの女なんだ」
 下唇が咬まれ、マグマのように熱い血の流れが口のなかにあふれ出す。鉄の味が舌のうえに広がった。

 タクシーの運転席のとなりのタッチパネルに電子マネーのカードをかざすと、ありがとうございました! という朗らかな声がスピーカーから鳴って、カード残額を確認したリオメルはひらいた後部座席のドアから身を出す。慣れ親しんだ一人で住むには広い一軒家。リオメルは鍵を取り出して、ドアノブに差し、くるりと手首を回転させる。いつもの部屋の匂い、いつもの部屋にある調度類のシルエット。それらが見えるはずだったのに、どうしてか、汐の匂いと大量の水が玄関から流れ出してくる。
「なっ……! いけない。水道管が破裂したかしら!」
 足首まで使った水にわずらわしさを感じながら、ばしゃばしゃと水音を立てて居間まで向かうリオメル。さらに増える水位。あれよあれよという間に首まで浸かり、頭を追い越した。
 このままでは溺れてしまう。空気を求めて上を向こうとするが、リオメルは不思議と息苦しさは感じず、気が付けば、辺りは見知ったリビングではなかった。奇怪で奇妙で、そして頭がおかしくなるような建造物たちが水のなかで揺れている。リオメルは自然と前方へと泳ぎだした。手に水かきと鉤爪が生え、腕には鱗が生え、首より下からたくさんの触手が生えた。彼女はそれらを気にせず進んでいくと、やがてひときわ大きな建物に辿り着いた。そこには膝と思われる個所を抱えて、まるで胎児のように眠る、いまのリオメルとおなじような姿の異形の子どもがいた。背中から伸びた蝙蝠のような翼が水流に煽られて揺れていて、手を伸ばしてその子の頬に優しく触れると、子の瞼が震えた。子どもの目がひらく……と思えたそのとき、彼女の周囲で浮かび上がっていた大小の泡が増え、それらは赤い葉に変貌する。彼女の姿は人間に戻り、衣服もさきほどと同じものを身に纏っていた。立っている場所は、不思議な赤い囲いの真ん前だ。振り向いても何もない。本当に何もなかった。足元はすぐ後ろで石畳が途切れ、底知れぬ闇が広がっていて、前に進むしかないようだった。
 頭上には満月が輝いている。風が強いのか、雲が素早く動いて月光が変化を起こし、彼女のかんばせをまばらに照らす。やがて、その赤い囲いの道がなくなり、異国風の大きな建物が見えてきた。誰かいないだろうか、と辺りを注意深く見ていくと、建物の隅の階段状のところでサンドウィッチをもぐもぐと頬張る男が座り込んでいるのに気が付いた。
「むぐっ! ……お客さん? 困ったなあ。いまゴハン中なんだけど。今度立て看板でもしてみるかな」
 男の頭には黄色い獣の面が置かれていた。服装は古めかしい貴族のような恰好で、その衣装に負けないくらいの高貴さを持つ、金髪碧眼の美青年。その、サンドウィッチでほっぺたを膨らませている顔を見てリオメルは息を飲む。
「あ……。あなた……?」
「おや。そういう君も……。なるほどねえ。……君、隣に座って。ここにきた理由を話してよ」
 夫と同じ容姿の男にそう言われ、リオメルはすっかり警戒心をなくした。素直にその言葉にしたがって、男に近寄り、隣に腰を下ろす。その間に男は手に持っていたサンドウィッチを平らげ、隣にあった飲み物に口をつけて、簡単に自己紹介をする。
「俺は季朽葉。そして、ここは祈りの門。君の名前は?」
「わたくしはリオメルと申します」
「そう。じゃあリオメル。単刀直入に聞くけれども、君の願いはなんだい?」
「願い……?」
「ここはね。強い願いがあるひとだけが来ることができるんだ。自覚があろうとなかろうとね」
 そう言われ、リオメルは黙ってしまう。願い。そう言われればたくさんあるのだ。夫ともっと仲良くなりたい。友達になったアンジェラとももう一度お酒を飲みたい。そうだ、夫と二人で家族として幸せな形を目指すのだっていい。そう色々考えて、リオメルは思わず腕を組んで唸ってしまった。
「ははは! 悩むよね。でもね、いま君が考えたことよりも、もっと深い、心の奥底にあるものを探してごらん。大丈夫、時間はあるから。……あ、そろそろ君が目覚める時間のようだよ。じゃあまたね」
 季朽葉はにっこりと笑ってリオメルに手を振る。意識が白くなっていき、彼女の意識は覚醒した。
「変な夢ね……。わたくし、あのまま倒れ込んで寝てしまったんだわ」
 時計の針はすでに正午を過ぎている。服は昨日とおなじままだったが、一つだけ違うことがあった。毛布が彼女の身体にかかっていたのだ。ベッドのサイドテーブルに目をやると、そこにはメモが一枚おかれていた。
 ――朝ご飯の用意をしておいたから起きたら食べてね。そのあと、いつでもいいから電話が欲しいな。君の声が聴きたいよ。君の愛する夫より。
 いつもと変わらない夫の言葉。昨夜のアンジェラはああ言ったが、こういう夫婦のありかたもあってもいいかもしれない。リオメルはメモを胸のうえに添え、抱き締めるようなしぐさをする。数秒そうしたあと、リオメルは昨夜から着っぱなしの服を着替えるべくベッドから降りる。
「あら……?」
 違和感があったので、リオメルは下着姿で姿見のまえに立った。腰元にあった鱗状のあざが、すこしだけ広がっているような……。リオメルもこのあざについて何も手を施していないわけではなかった。病院に通っていた時期もあったのだが、結局は保湿剤を処方されて終わってしまっている。
「……原因……」
 彼女が夫に言っていない秘密が、彼女もまた養子であるということである。
 ……その不思議は赤子の頃からだった。なぜか、泣いたり笑ったりすると天気が荒れ、海や川が氾濫した。両親はそんな彼女をうとましく思い、そこまで愛情をかけずに育てたが、あるとき彼女の人生を一変させるできごとが起きた。ある宗教団体の教祖をしている夫婦が彼女を養子にとりたいと遠くからわざわざやってきたのだ。大量の金銭を手土産にして。決して裕福ではなかったリオメルの両親はあっさりとその夫婦にリオメルを引き渡すこととなる。そこでリオメルは――。
「……やめよう、これ以上考えるのは」
 忌まわしい出来事を胸の奥にしまい込む。このことは、夫には絶対に知られてはいけない、とリオメルは頭を振った。
 ……居間へと出ると、当然ながら水浸しなどにはなっていない。冷蔵庫をあけるとレネーヴェ特製のサンドウィッチが皿に乗せられた状態で置かれている。彼女がいつも作るような手の込んだものではなく、ただバターを塗り、厚く切ったハムがはさまった、手がまったく込んでいないもの。それでもリオメルは感謝した。皿を取り出し、お気に入りのコーヒーを入れて、それを静かにいただくのが至福の時間なのだった。とはいっても、やはり一人の食事は寂しいものだ。リオメルはいつものようにテレビをつける。最後に夫と食事をしたときと同じく、キャスターが各地の爆発テロについてを読み上げている。リオメルが住んでいる街はいまのところ被害はないが、いつ襲われるとも分からない。この家はレネーヴェのすすめで監視カメラやセキュリティを充実させている。なにかあったら、すぐに警察に通報される仕組みになっていた。
 おおざっぱなサンドウィッチをたいらげて、リオメルは使った皿をシンクへ片付ける。いつもよりも簡単に洗って、彼女は連絡端末の画面をタップした。通信相手は当然レネーヴェだ。いつも長めのコール音。この時間すらリオメルは愛しい。
 ――はい。もしもし。
「あなた。わたくしです、リオメルです」
 ――ああ! おはよう! お寝坊さんだね。どうだい、俺の特製サンドウィッチは。
「とても美味しかったわ。嬉しかった。お仕事、頑張ってください」
 ――もちろんだよ。愛しの君のためなら、どんな辛いことでもやりとげてみせるさ。
「ふふ。ですがご無理なさらず。それでは、この辺で通信を切りますね。また無事に我が家へ帰ってきてくださいね」
 ――あ。リオメル。ちょっと待って。
「なんでしょう」
 ――愛してるよ。それじゃあね。
「ええ。わたくしも愛しております。それでは」

 ……通信が切られ、レネーヴェは静かに連絡端末の画面に指を滑らせる。会話が終わったのを見計らって、レネーヴェの隣で缶コーヒーを飲んでいた男が、下衆な声で彼をからかった。
「いいねえ。新婚さんは」
「……ええ」
「捜査のための偽装結婚とは思えないくらいのラブラブっぷり。恐れ入るよ」
「……ええ」
 レネーヴェの表情はまったく変わりがない。隣の男……レネーヴェの同僚で、仕事仲間は、捜査に使う手帳を懐にしまう。
「おいおい。まさか本当に惚れちまったんじゃないだろうなあ? 忘れてないだろ? 捜査官だったおまえの親父が、彼女の養親がいた宗教団体の捜査で殉職した事件」
「……」
 同僚の言葉には無言で返し、レネーヴェもまた手帳をスーツの裏ポケットにしまった。そのなかには、ノーデンスの槍の紋章の上に箔押しで『異教捜査局』とある。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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