第5話 レネーヴェの他視点観測

文字数 4,899文字

 ページをめくりながら、リオメルは何を食べようかを考える。港街らしく海鮮のメニューが多い。朝はオイルサーディンだったから、と、彼女は肉料理を選ぶことにした。ちょうどアルもメニューが決まったようだ。二人は互いにメニューを言い合って、アルが店員をテーブルに呼んだ。アルはパストラミビーフのサンドイッチ、リオメルはポークパテと季節の野菜のサンドイッチを注文、店員はメモに品名を書き記したあと、静かにそして上品に去っていく。再び二人は顔を見合った。先に会話の口火を切ったのはアルであった。
「レネーヴェのやつ、あなたのことを放っていそうですね」
 ぎくり、とリオメルの肩が震える。事実であるが、それは仕方のないこと。彼女は脈打つ鼓動を必死に沈めながら返事をする。
「ええ。なにぶん仕事が忙しいものですから。それもわたくしとの生活のため。わたくしはなにも不満はありません」
「……まあまあ、そこまで怒らずとも。あいつは昔からそうなんです。どうにも何事も熱中してしまうところがある。いつも一緒にオレといるくせに、なにか面白いことを見つけたり、責務に駆られたりすると、すぐに周りが見えなくなるのです。オレも何度も放ったらかしにされたものですよ」
 アルは昔を懐かしむように言う。アルの一人称が、私からオレという、普段の彼であろう口調になったことから、リオメルは俄然彼に興味が沸いた。
「付き合いはお二人のほうがわたくしよりも長そうですね。そういえば結婚式に使われたヒストリー写真にも、あなたがよく写っていらした」
「ええ、各年代のスクールはずっと一緒でしたからね。社会人のときには年に数回会って酒を飲む仲でした。あるときの酒の席で突然あなたと結婚すると言われた驚きました。仕事一筋で、あいつ、女っ気なんてまるでなかったんです」
 はじめて聞くリオメルの知らない夫の姿。リオメルは、目の前にいる男は夫のさまざまな顔を見てきている事実にアルのことを妬ましく思った。寂しい顔を見せるリオメルに対し、アルは得意げに胸を張る。
「だからリオメルさん。いつでも、オレに相談をしてください」
「え?」
「あいつがあなたを寂しくさせるのは、オレ、どうしても許せないんですよ。あいつ自身があなたを選んだのに」
「ありがとう。それは嬉しいですが、わたくしもあなたも分別ある大人です。いまのように二人きりで会えば、今後周囲からどんな噂が立つかわかりませんから。今日はわたくしも軽率でございました」
 リオメルにとって、夫のレネーヴェは、自分の汚いところを愛してくれる唯一無二の味方。そんな夫を裏切るわけにはいかないのである。
「もしかして、オレに倫理観がない可能性を疑っていらっしゃる?」
「はい、残念ながら」
 即答をするリオメルに対し、苦笑いをし、店員が持ってきた水を口付けるアル。そして、彼は言う。
「それはありえません。オレが好きなのは……あの、人形だけです。リオメルさんが初めてオレの工房に来たときに、カウチで寝そべっていた人形がいたでしょう。あれは、オレのなかにある理想を作り上げたものです」
「ずいぶんと熱心なのですね。そういえば、なぜあのように人形を作るようになったのですか」
 それは、と言葉をつづけようとアルが口をひらいたところで、ちょうど店員が注文したものを持ってきて、パストラミビーフのサンドイッチがアルのまえに、ポークパテと野菜のサンドイッチが盛られた皿がリオメルのまえに置かれ、最後に、小皿に盛られた橙いろの果実が三つと、三又の小さなフォークが添えられる。
「さあ、祈りを捧げて食べましょうか」
 そう言って、リオメルはフォークを手に持って、橙いろの実をフォークに差してひとつひとつ口に運んでいく。これは、悪しき神が持つ三つに分かれた燃え上がる目を、ノーデンスの三又の槍が討伐するという、神を讃える英雄譚を模した祈りを簡略化させた儀式である。アルも続いて果実を食べ、二人は、ほぼ同時にサンドイッチを手に取り、一口目を食べ終わってから、二人は同時に口をひらいた。
「美味しい!」
「美味しいですね」
 このようなところの食べ物は確かに美味ではあるのだが、素材を意識した味付けだったり、少量だったりで、満足できないことがたまにある。しかしここのサンドイッチは違った。まず、アルが注文したパストラミビーフのサンドイッチ。ビーフは質の良いものを扱っているのだろう。適度な歯ごたえで肉質が良い。そしてそれを損ねない、冷やされ、水切りがしっかりとなされたレタスが、胡椒の辛みを和らげる。リオメルが注文したポークパテと野菜のサンドイッチは、パテは程よく肉の塊が残っており、時折コクが感じられることからレバーも含まれているようだ。スパイスの配合は絶妙。野菜はどれも味が濃くパテに負けていない。無感動なリオメルの瞳が動いた。アルも嬉しそうに、つぎの一口を頬張る。
「敬遠していましたが、こういう健康的なサンドイッチもおいしいものですね」
「あら。アルさんは毎日どんなものを食べていらっしゃるの」
「オレは無精なもので、いつも適当なパンとソーセージしか食べていません」
「まあ」
 くすりとリオメルが笑う。ここにきて初めての笑みに、アルもつられて笑顔になった。
 その後は二人は無言になり黙々と食事を摂った。すっかりと食事を平らげたところで、アルが携帯連絡端末を手に取りニュースを閲覧しはじめ、行儀が悪いと思いながらも、その内容が気になってしまったリオメルは記事を盗み見てしまう。そこには宗教団体の破壊活動のニュースの文字が躍っていた。
「……アルさん。お暇でしたらもう出ましょう」
「おっと。これは失礼しました」
 アルは慌てて端末をしまった。二人は立ち上がって別々に会計をしたあと店から出、その後つかず離れずの距離で二人は教室へと戻る。すでに教室には生徒たちが集まっていて、アルの姿を見てささやかな歓声を上げたが、すぐにそれは収まった。なぜなら、隣にリオメルが居たからだ。彼女らはリオメルの顔を一瞥したあとそそくさと自分の席へ戻っていった。リオメルは彼女らの視線から悪意を感じ取る。ああ、女とはなんと面倒な生き物なのか。顔に出さぬようにして、彼女は心の中で溜息をついたあと、鞄をロッカーに収めて、自分が座っていた席に戻る。
 机の上に置いたままの、人体の構造図鑑やデッサンの本を捲り、リオメルは方眼紙に人体を描いた。とはいってもリオメルは美術に関しては素人も素人。描かれた身体はバランスが悪い。念のためアルに見せると当然の如く指摘が飛んだ。筋肉の付きかた。骨の位置。さまざまなアドバイスを受けてリオメルは図を描きなおす。そうして出来上がった絵は十歳前後の幼い少女。と、ここで教室が終わりの時間となった。アルが座っていた席から立って簡単な挨拶をする。彼は生徒らの進捗具合を見ていき、家での作業が可能な者に対して具体的に指示を出した。
「リオメルさんは、もう少し具体的なイメージを固めてみてください。文章でも、絵でもいいから」
 リオメルは描いた設計図をもういちど見る。顔は描かれていなかった。
「芸術とは自己を見つめなおすところからはじまります。良いところも嫌なところも、つぶさに見て、整理して、組み立てなおす。とてもつらい作業ではありますが、それらを乗り越えて出来上がったものは必ず人の心を震わせるものとなる。だから怖がらなくてもいいのです」
 ……怖がらなくてもいい。アルが放った言葉に、リオメルのうちが光で明るくなる。そうだ。自分は、夫に受け入れられたではないか。
「はい」
 リオメルは表情を和らげて、アルに微笑みかけた。アルもまた、ぼさぼさの前髪のあいだから見える、やや釣り気味の瞳を笑みで細めた。
「皆さま。お疲れ様でした」
 アルのひとことにより、教室の者たちはそれぞれ帰宅の準備をはじめる。リオメルもまた、書を片付け、道具を片付け、最後にアルにあいさつをしてから、教室の外へと出る。道をしばらく歩いていると一人の女性にリオメルは声を掛けられる。
「ちょっと。あなた」
「はい」
 リオメルは声のした方へ振り向いた。頭の先から爪先まで自信に満ち溢れた、リオメルよりも身長の高い女性が立っている。襟元に幅広のレースが付いたキャミソールに、薄手のカーディガンを羽織って、スカートは身体の線が見えるマーメイドラインだ。彼女は腰に手を当て、足を肩幅まで広げ、リオメルを鋭い視線で睨んだ。
「あなた、名前は?」
「人に名を尋ねるときは、自分から言うものではないでしょうか」
 リオメルははっきりとそう答えた。
「……大人しそうな外見なのに、意外と言うわね」
 彼女はバツが悪そうに頬を指で掻く。彼女は、険しかった表情を緩ませてから、リオメルの顔を再度見た。
「私はアンジェラ。あなたはアル先生とずいぶん親密に見えたけれども、いったいどんな関係なの?」
 リオメルはなるほどと思った。教室内で注がれるアルへの熱い視線。やけに多い女性の生徒たち。あそこで習い事をしているというよりは、アル目当てがほとんどということだろう。
「特に何もありません」
「嘘よ。あんなに笑う先生を見たのは初めてだわ」
「……夫の親友です。あと、わたくしはリオメルと申します。どうぞよろしく」
「――結婚しているの⁉」
 はあ、とアンジェラが大げさな身振りで頭に手を当てた。ぶつぶつと大きな声で「あなたみたいなおどおどした人が結婚できているのに、私には何で恋人もいないのかしら」と、リオメルに対して失礼な言葉を呟いている。
「……ならちょうどいいわ。少し、私の話を聞いてくれないかしら」
 アンジェラはリオメルの細腕をしっかりと握った。そして、彼女の身体を引き摺るように歩みを進める。つかつかというヒールが鳴る音と、時折スニーカーが小石を蹴る音が、アスファルトで鳴った。
「リオメルさん。あなたお酒は?」
「嗜む程度には」
 そう。とそっけなくアンジェラは答え、鞄から連絡端末を取り出し、どこかに通信をはじめた。彼女と応答先の会話を聞くに、どこかの店に予約を取っているようだ。
「もしもし、ノダ? 今からそっちで呑みたいんだけど良いかしら。え? この時間はあくまでも喫茶店だ? 硬いこと言わないの。夜はどうせバーとして開けているんだから。夕方四時なら許容範囲でしょ? それじゃあ、今から十分くらいで着くからよろしくね」
 そう捲し立てるように言うと、アンジェラは連絡端末の画面をタップする。通信が切られて、端末が鞄に放り込まれた。
「今日はしこたま呑むわよ」
「は?」
「返事は?」
「は、はい!」
 タクシー! とアンジェラの長い腕が夕焼け空へと伸ばされた。すでに暗くなりはじめ、車のヘッドランプだけが煌々と灯り、走り去る路面。あるふたつの光が、速度を落とし、彼女らが立ち止まる路肩へ停車する。後部座席の扉がひらいて、リオメルはアンジェラにぎゅうぎゅうと後部座席へ押し込まれる。つづいてアンジェラも後部座席に乗り込んだ。
「ノダズ・マジックカフェに行ってちょうだい」
 わかりましたという不愛想な運転手の返事のあと扉が閉まり、一瞬空気が押し寄せ耳に圧が掛かった。狭いのに、アンジェラは座席で足を組んだ。腰がしなり、両の腿が捻じれるが、スカートだけではシルエットが変わるだけ。まるで、魚が海で尾びれをしならせて泳ぐさまにリオメルには見える。
 リオメルはしっかりとシートベルトをした。足をそろえ、その上には鞄を置いた。何個かの信号を通り過ぎたころタクシーは停まる。アンジェラが電子マネーで運賃を払い、先んじて車から出る。リオメルも慌てて外にでると、そこには煉瓦造りの壁に蔦が伝った、古風なカフェが建っていた。木製の枠に、ガラスがはめ込まれた扉には、クローズドという札が下がっているが、アンジェラは気にせずにノブに手を掛ける。
「ノダ! 来たわよ!」
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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