第20話 薔薇窓
文字数 2,559文字
「そういえば、この果実とフォークですけれども由来はご存じ?」
プチトマトを食べ終わった子どもらは顔を見合わせる。自分たちよりもずっと大人のリオメルがそれを知らないのが不思議なようだ。
「ええとね。神父さまが言っていたのはね。えーと、悪い神様で、たくさん姿のある……ニャ、ニャー」
「ニャルラトホテプ。闇に浮かび上がる三つに分かれた燃え上がる目がこのプチトマトで、このフォークがノーデンスさまの槍を表しているんだって」
「あら、そう」
その神話に興味なぞ微塵もわかないリオメル。結局彼女はプチトマトを食べずにパンケーキをナイフで切り出した。驚いた子どもらであったが、相手は相当な年上なのもあって何も言えないでいる。仕方なく子どもらもパンケーキを頬張りはじめる。
そこで玄関のチャイムが鳴った。子どもたちはフォークとナイフを乱雑に置いて一目散に玄関へと駆けていく。玄関のとびらがひらいて彼らが対面したのだろう。元気な子ども二人と、優しい男性の嬉しそうな声が響いてくる。やがて姿を現した声の主は神父服ではなく私服だった。
「リオメルさん……」
「おかまいなく。わたくしはあなたにお礼をしただけですわ」
上品にパンケーキを咀嚼して茶を飲むリオメル。自由にふるまうその姿に驚きながらも神父は嬉しそうに礼を言い、両手に持っていた食器を置いてナフキンで口元を拭き、リオメルは席から立った。
「それでは、わたくしは行きます」
「あ、あの」
「なんでしょう?」
「すこし、教会の庭を、散歩していきませんか?」
神父の誘いに、リオメルは邪悪に、しかし上品に微笑んだ。神父は子どもたち二人に良い子にしているように言いつけて、リオメルを先頭にして部屋から出る。
「……子どもというのも大変ですわね」
リオメルは、毛先をくるくると指で弄びながら後ろの神父にそう言った。神父はほがらかに笑うだけだ。思いあたる節があるらしい。二人は玄関を出てすぐ左に曲がる。そこには小さな樹木に囲まれた、ぽっかりとあいたポケットのような空間が広がっていた。
「リオメルさん。こちら、子どもたちをみていただいたお礼です。わたしの母の故郷の菓子です。お口に会えば良いのですけれども」
差し出されたのは、手触りのよい紙で作られた手提げ袋。なかには東国の絵柄と文字で書かれた細長い箱が入っていた。その形状でリオメルは察する。これが、さきほど戸棚から拝借して食べた菓子であることに。リオメルはもちろんそのことを口にしない。
「まあ。ありがとうございます」
「リオメルさん、あの」
「はい?」
「その……。……やっぱり、なんでもありません」
顔を真っ赤にしながらうつむく小山内。そんな彼の後押しをするように、差し出された手ごと軽く握る。
「い、いけません。夫ある身の方が、他の男性の手に触れるなど、神がお許しになりません」
「ねえ、神父さま。もういちどお聞きしたいのですけれども、ほんとうに神さまはいらっしゃるとお思いですか?」
「リオメルさん。……もしや、神に見捨てられたと考えてしまうくらいに、お辛いことがあったのでは? ……わたしのように」
リオメルの妖艶な表情が消える。握られた手は離されて、リオメルは神父から少し身を引いた。しかし神父は離さなかった。両の手を、彼女の肩に乗せがっしりと掴む。
「大丈夫、大丈夫です。神は、ぜったいにあなたのことを見放してはおりません。だからどうか、生きてください。神はあなたの頑張りを見てくださいます……!」
過去の自分に言い聞かせるように神父は熱くリオメルを説得する。指に相当な力が籠っているようで、肉付きの少ないリオメルの肩に痛みが走る。
「離してくださいまし」
「申し訳ありません。つい」
「……神父さまってば、まったく隙がありませんのね。そんな方がわたくしのような女に惑わされてはいけませんわ」
「あ! ……わかっていらしたのですね」
ええ、と返事をするリオメルの顔は夕日に照らされて朱く染まっている。ふたりは何も言わなかった。しばらく黙ったのち、リオメルが芝生に落ちた菓子折を拾う。
「もうこちらには来ませんわ」
名残惜しさの欠片も見せないでリオメルは神父から背を向け去っていく。小山内はその姿が見えなくなるまで彼女から視線を外さなかった。
「いやはや。天真爛漫な方だったな」
ひとの気持ちに制約はかけられないとは言え、小山内が自分の内に灯した想いは倫理的に反するもの。あのような態度をとられては、もう恋心は燃え上がることはないものの、どうも自分のなかの示しがつかない。小山内は子どもたちとところに戻るまえに、教会で祈りをささげることにした。教会のとびらを開け、なんの音もしない礼拝堂の真ん中を歩いていくと、祭壇のややまえに背の高い誰かが立っていることに小山内は気が付く。……その者は、箒 と同等の大きさの、フォークのようなものを持っていた。
「もし。神聖な教会で、そのようなものは……」
「――邪神の誘惑をしりぞけたことは褒めてあげましょう」
夕焼けの光が薔薇窓から差し込んで人物を克明に照らし出した。片腕につけられた銀いろの小手。一見するとどこかのカフェ店員のような恰好だが、服装のうえからでもわかる屈強な肉体。しわが目立つが精悍な顔立ちの老人……。男は一歩、小山内のほうに踏み出す。小山内は悟る。自分は今、たぐい稀なる奇跡に立ち会っているということに。
「……ああ……!」
小山内は手を胸に当てその場でひざまずいた。厳かで、神聖さを含む声が、小山内の頭上から降り注ぐ。
「小山内 神父。恨むなら、ニャルラトホテプのいろを持った己の魂を恨みなさい」
「――え?」
上を向く小山内。ノーデンスの三又の槍が彼の眼前に差し迫っている。小山内は思わず叫んだ。
「な、なぜです! わたしは、ずっと、ずっと!あなた と共にあったというのに! なぜ、御身は――!」
そのまま小山内ごと槍は床に突き立てられて、あふれ出して波立つ血が、ステンドグラスの光を美しく揺らす。
「あと三人」
野田 はそう呟いて、極彩色の血だまりを踏みしめながら、教会の扉から出ていった。
プチトマトを食べ終わった子どもらは顔を見合わせる。自分たちよりもずっと大人のリオメルがそれを知らないのが不思議なようだ。
「ええとね。神父さまが言っていたのはね。えーと、悪い神様で、たくさん姿のある……ニャ、ニャー」
「ニャルラトホテプ。闇に浮かび上がる三つに分かれた燃え上がる目がこのプチトマトで、このフォークがノーデンスさまの槍を表しているんだって」
「あら、そう」
その神話に興味なぞ微塵もわかないリオメル。結局彼女はプチトマトを食べずにパンケーキをナイフで切り出した。驚いた子どもらであったが、相手は相当な年上なのもあって何も言えないでいる。仕方なく子どもらもパンケーキを頬張りはじめる。
そこで玄関のチャイムが鳴った。子どもたちはフォークとナイフを乱雑に置いて一目散に玄関へと駆けていく。玄関のとびらがひらいて彼らが対面したのだろう。元気な子ども二人と、優しい男性の嬉しそうな声が響いてくる。やがて姿を現した声の主は神父服ではなく私服だった。
「リオメルさん……」
「おかまいなく。わたくしはあなたにお礼をしただけですわ」
上品にパンケーキを咀嚼して茶を飲むリオメル。自由にふるまうその姿に驚きながらも神父は嬉しそうに礼を言い、両手に持っていた食器を置いてナフキンで口元を拭き、リオメルは席から立った。
「それでは、わたくしは行きます」
「あ、あの」
「なんでしょう?」
「すこし、教会の庭を、散歩していきませんか?」
神父の誘いに、リオメルは邪悪に、しかし上品に微笑んだ。神父は子どもたち二人に良い子にしているように言いつけて、リオメルを先頭にして部屋から出る。
「……子どもというのも大変ですわね」
リオメルは、毛先をくるくると指で弄びながら後ろの神父にそう言った。神父はほがらかに笑うだけだ。思いあたる節があるらしい。二人は玄関を出てすぐ左に曲がる。そこには小さな樹木に囲まれた、ぽっかりとあいたポケットのような空間が広がっていた。
「リオメルさん。こちら、子どもたちをみていただいたお礼です。わたしの母の故郷の菓子です。お口に会えば良いのですけれども」
差し出されたのは、手触りのよい紙で作られた手提げ袋。なかには東国の絵柄と文字で書かれた細長い箱が入っていた。その形状でリオメルは察する。これが、さきほど戸棚から拝借して食べた菓子であることに。リオメルはもちろんそのことを口にしない。
「まあ。ありがとうございます」
「リオメルさん、あの」
「はい?」
「その……。……やっぱり、なんでもありません」
顔を真っ赤にしながらうつむく小山内。そんな彼の後押しをするように、差し出された手ごと軽く握る。
「い、いけません。夫ある身の方が、他の男性の手に触れるなど、神がお許しになりません」
「ねえ、神父さま。もういちどお聞きしたいのですけれども、ほんとうに神さまはいらっしゃるとお思いですか?」
「リオメルさん。……もしや、神に見捨てられたと考えてしまうくらいに、お辛いことがあったのでは? ……わたしのように」
リオメルの妖艶な表情が消える。握られた手は離されて、リオメルは神父から少し身を引いた。しかし神父は離さなかった。両の手を、彼女の肩に乗せがっしりと掴む。
「大丈夫、大丈夫です。神は、ぜったいにあなたのことを見放してはおりません。だからどうか、生きてください。神はあなたの頑張りを見てくださいます……!」
過去の自分に言い聞かせるように神父は熱くリオメルを説得する。指に相当な力が籠っているようで、肉付きの少ないリオメルの肩に痛みが走る。
「離してくださいまし」
「申し訳ありません。つい」
「……神父さまってば、まったく隙がありませんのね。そんな方がわたくしのような女に惑わされてはいけませんわ」
「あ! ……わかっていらしたのですね」
ええ、と返事をするリオメルの顔は夕日に照らされて朱く染まっている。ふたりは何も言わなかった。しばらく黙ったのち、リオメルが芝生に落ちた菓子折を拾う。
「もうこちらには来ませんわ」
名残惜しさの欠片も見せないでリオメルは神父から背を向け去っていく。小山内はその姿が見えなくなるまで彼女から視線を外さなかった。
「いやはや。天真爛漫な方だったな」
ひとの気持ちに制約はかけられないとは言え、小山内が自分の内に灯した想いは倫理的に反するもの。あのような態度をとられては、もう恋心は燃え上がることはないものの、どうも自分のなかの示しがつかない。小山内は子どもたちとところに戻るまえに、教会で祈りをささげることにした。教会のとびらを開け、なんの音もしない礼拝堂の真ん中を歩いていくと、祭壇のややまえに背の高い誰かが立っていることに小山内は気が付く。……その者は、
「もし。神聖な教会で、そのようなものは……」
「――邪神の誘惑をしりぞけたことは褒めてあげましょう」
夕焼けの光が薔薇窓から差し込んで人物を克明に照らし出した。片腕につけられた銀いろの小手。一見するとどこかのカフェ店員のような恰好だが、服装のうえからでもわかる屈強な肉体。しわが目立つが精悍な顔立ちの老人……。男は一歩、小山内のほうに踏み出す。小山内は悟る。自分は今、たぐい稀なる奇跡に立ち会っているということに。
「……ああ……!」
小山内は手を胸に当てその場でひざまずいた。厳かで、神聖さを含む声が、小山内の頭上から降り注ぐ。
「
「――え?」
上を向く小山内。ノーデンスの三又の槍が彼の眼前に差し迫っている。小山内は思わず叫んだ。
「な、なぜです! わたしは、ずっと、ずっと!
そのまま小山内ごと槍は床に突き立てられて、あふれ出して波立つ血が、ステンドグラスの光を美しく揺らす。
「あと三人」