第14話 赦し

文字数 2,740文字

 夫のことはこれ以上ないくらいに愛している。しかしリオメルはアルとの関係を終わらせることはできなかった。どうしても、リオメルには、アルを見捨てることが出来なかったのだ。いま彼はレネーヴェから愛されないことに苦しんでいる。自分のなかにくすぶる嫉妬をリオメルにぶつけている。世間にぶつけている。愛しているのに愛されない。愛される資格がないのだ。
 では、自分は? とリオメルはさらに己に問いかけた。
 自分は、夫のことを愛している。が、アルと同じく愛される資格はない。美しい身体ではない。この点において、まさしく、アルとリオメルは同類だった。もちろん、夫に知られれば非常にまずいことになるだろう。自分の身体のことも、生まれるであろう子どものことも。
 リオメルは最初、自分が自暴自棄になったのかと考えたが、それとは違うようだった。みずからのすべてを受け入れた、と言ってもいいだろう。
「滑稽ね」
 リオメルの足取りは、軽い。水面を跳ねる小魚のように彼女は歩道を歩いていく。道沿いには小さな教会があった。入口に建てられた看板には『定例祈りの日』とある。そう。さきほどレネーヴェと話した祈りの日である。今月の今日がその日だったが、リオメルは集まりには行かずにアルと身体を重ねていた。
 祈りの日には告解の時間が設けられる。リオメルは、ちょっとした悪戯心を出して、教会の門をくぐった。入って右側に小さな小部屋がある。いわゆる告解部屋だ。リオメルは、部屋のなかに神父がいるのを確認してから、そばに貼られた手順を見て、小さな格子のまえでひざまずいた。
「ノーデンスの声にこころをひらいてください」
 なかから聞こえてきたのは、なんとも心地よい、やわらかで低い声だった。告解なぞ、そもそもする気がなく、ノーデンスへの冒涜ともとれる冷やかしをしようと考えていたリオメルは、聞いたことのある声音を聞いて、格子をつい覗いてしまう。
 高い鼻と顎を繋ぐラインが、薄い唇をかすって一直線だ。美しいという言葉がふさわしい。肌は浅黒く、長い睫は、丸い縁の眼鏡に隠されてしまっている。
「それでは、悔い改めるための祈りを」
 さらに言葉が続けられる。リオメルはみずからの罪を告白しはじめる。
「わたくしは、祈りの日なのにも関わらず、教会に赴きませんでした。ノーデンスよ、罪深いわたくしをお許しください」
「わたしはノーデンスの名においてあなたの罪を許します。あなたは許されました。ご安心を」
「ありがとうございます」
 リオメルはその場から立ち上がり、告解部屋に背を向ける。後方から扉の開く音がして、つい、そちらに気取られぬように、神父の顔を横目で見る。そこにいたのは丈の長い神父服を身に着けた痩身の男性で、顔立ちはどこかこの国の者とは違うように思えた。彼はリオメルの視線に気づくことなく教会の奥へと姿を消してしまう。そこでリオメルの記憶がよみがえる。彼が、アルの人形教室にはじめて行ったときにであった神父だということを。しかし、あの場所とここはバスに乗って行くくらいの距離だ。なぜここにいるのか……と考えたところで、教会の入口にあった看板を思い出す。
 告解は、顔を隠してはいるものの、普段話している人物だと誰だかわかってしまうため、気まずさを緩和する目的で、他から神父を呼び寄せる場合がある。おそらく彼は、それでここにいるのだろうと、リオメルは予想を立てる。
「罪、ね」
 告白をすれば、果たして本当に許されるのだろうか。そんなはずはなかった。仮にリオメルの目の前にノーデンスが現れるのであれば、三又の槍で心の臓を貫かれるに違いない。神など、誰も救いもしないし、姿も見えない。あればなぜ、幼い自分のまえにあらわれてくれなかったのかと、リオメルは下唇を咬む。
「……まあ、別にいいわ。今日の夕飯はなににしようかしら」
 リオメルの足が出口に向かう。彼女は外に出て軽やかにステップを踏んだ。外は夕焼け空で、アスファルトで舗装された道を歩いていくと、すぐにいつも使っているスーパーマーケットが見えてくる。リオメルは、適当な食材を買い込んで、すぐにそこから退出し、帰宅する。今日の夕飯は海魚のシチューとパン。そして野菜サラダ。義務のように無言で食事を平らげる。茶を飲み、自室へ入る。
 夫が滅多に帰ってこないのをいいことに、リオメルの部屋は、大幅に改造がなされていた。大きな本棚に並ぶ書籍たち。どれも人体に関する図鑑だ。壁には詳細に描かれた人形の設計図が貼られている。そして、その隣にはリオメルが住む国の地図があり、あちこちに赤く印がつけられていた。
「アルは、次はどこを燃やすのかしら……。まあ、わたくしには関係がないのだけれども。わたくしはただ、彼と愉しく寝ているだけですもの」
 ふふふ、とリオメルは含み笑いを零した。そうして、机の上に置いていた作りかけの人形のパーツを手に取り、反対側の利き手で彫刻刀を持って、腰付近に刃を立てる。
 彼女の周囲には、大小さまざまな人形たちが居た。飾られているわけではない。それぞれ寝転がされていたり、座っていたり、立っていたりと、放置している状態である。なかには、作ったあとにハンマーを振り下ろし、あえて破壊したと思われるものも見受けられた。それらにはどれも鱗模様が刻まれていて、両足が破壊されて無いか、もしくは魚の尾びれが造形されている。
 作業をはじめて一時間経ったころに、リオメルは手を止める。汚れた服を着替え、彼女はベッドのなかに潜り込んだ。

 先日、教会に行ってからというもの、リオメルはことあるごとに告解を行うようになっていた。いつも褐色の肌を神父が対応しているので、彼女は俄然彼に興味が沸いていた。なにしろ言葉がそこまで流暢ではないのだ。やや発音に癖が見受けられた。
 アルの教室が終わり、いつものように、倉庫でアルと密会をおこなったその日。リオメルは一番最初に彼と出会った教会へと赴いた。そこでは、初めて顔を合わせたときと同じく、庭でほうきを掃いている神父の姿がある。
「勢が出ますね。神父さま」
「こんにちは。おや、あなたは」
 神父は、リオメルが告解の相手であることに気が付いていないようだ。リオメルに対して柔和な笑顔を向けている。
「教会でお祈りを捧げても構いませんか?」
「ええ。もちろんよろしいですよ。さあどうぞ」
 リオメルには祈るつもりなど毛頭ない。ただの口実だ。表向きは慎重に足を運んで、リオメルは教会のなかへと入る。長椅子に腰掛けて、背筋を伸ばし、握りこぶしを二つ作って胸の上に並べる。そのまま瞳を閉じること数秒、リオメルは瞼をひらいた。
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登場人物紹介

リオメル【主人公】

自分に自信の無い、おどおどした地味な主婦。あることをきっかけに妖艶な美女に変容する。

レネーヴェ【主人公の夫】
容姿端麗、非の打ちどころのない男。リオメルのことを愛している。彼の就いている職業を、リオメルは知らない。かつて、アルとは深い仲だったようだが……。

アル【レネーヴェの幼馴染かつ親友】

街の芸術家。レネーヴェの親友だが、アル自身はそうとは思っていない。レネーヴェに対して偏執的な愛を向ける。

小山内【街の教会の神父】

東国とのハーフで、故郷を離れて、リオメルたちが住む街に移住してきた。非常に信心深い。孤児院を営んでいる。

季朽葉【祈りの門の番人】
リオメル、アル、レネーヴェの三人を、高次元の場所である『祈りの門』から見守っている。アルと強く関わることになり、彼にこきつかわれている。

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