第26話 両足
文字数 3,397文字
「来ましたよ。王子さまが。リオメル、ここから出ましょう」
「いや、いやよ。お父様もアルさんも、残していくのはいや」
「……ここを壊せば、彼らの魂も解放されます。いずれ生まれ変わる。また会えるかもしれませんから」
「ほんとう?」
「ええ。……さあ、行きましょう」
獅黒は彼女の視線に合わせてひざまずいた。血まみれの手を差し出すと、彼女はその手を取る。
「神父さま。わたくしの手をずっと握っていてください。私がどこかに泳いでいってしまわないように」
その言葉に獅黒はしっかりと小さな手を握り返す。彼女はソファから降りたって、手を繋がれたまま、部屋を獅黒と共に出ていく。長い廊下を抜け、玄関から薔薇庭園を出ると……。そこには二人の人物が彼女を出迎えていた。一人は髪のみじかい季朽葉。もう一人は……リオメルと同じ顔をした、ドレスすがたの女性。
リオメルは弾かれたように薔薇庭園を駆けていく。とげが肌をひっかいて血が溢れても、気にせずに走っていって、腕をひろげた季朽葉のなかへと飛び込んで……開けられた裂け目が、閉じる。
ドレス姿の女性を残して。女性はおしとやかに歩みを進めて獅黒のとなりへやってくる。
「どうぞ、こちらを」
「……ありがとう」
獅黒が渡したのはレネーヴェの拳銃。獅黒は、屋敷のなかへと入っていく彼女の背を見送って、己がいるべき祈りの門へと戻っていく。
屋敷を歩く女性は、やがて応接室へとたどり着く。二つの死体が転がるちょうど真ん中に立ち、女性は、自分のこめかみに拳銃を構えた。
たった一発。命を終わらせる銃声がひびいた。辺りの空間にひび割れが生じた。水とともに、薔薇の花弁が上へと舞い上がって、やがてすべてが暗黒へと溶解する。リオメルはその様子を祈りの門の入口の水面からずっと見ていた。やがて光景が消え、彼女は季朽葉のほうへ顔を向ける。
「ひさしぶりね。キクチバ。わたくしね、やっと思い出したの」
「なにをだい?」
「……夫は、あなたの何百倍も格好良かったわ」
やれやれと季朽葉は肩をすくめて中空を見た。なにも言葉をかわさず、揃ってふたりは歩みだす。
薔薇とおなじく、血のように赤い、朱いろの道を。
……血まみれで帰ってきた獅黒に、季朽葉は濡れタオルを渡した。
「おかえり」
「どうです。良い研修になりましたか」
「それがねえ」
……青螺と蘇方は、最初リオメルが殴られて死んだとき、早々に席から立っていた。蘇方は胃の内容物を吐き出しにトイレへ、青螺は貧血で自室に戻った。結局最後まで見ていたのは季朽葉だけで新人の研修としては成り立たなかった。
獅黒は、返り血が付いた眼鏡を布で磨きつつ、最後まで映像を見ていた季朽葉を褒める。
「あなたは無事だったんですね」
「正直、目を背けたいところもたくさんあったけれども、最後まで見るのが俺の使命だしね。……彼女、新しい世界で元気にしていると思う?」
「しているんじゃないですか」
獅黒は、季朽葉がそう聞いたタイミングで眼鏡をかける。血のふき取りが甘かったらしく、レンズが曇ったままだ。
「……。そうだといいな。さあ、湯が沸いているから、風呂にすぐ入っておいでよ」
「あなたにしては気が利きますね。ではお言葉に甘えて」
獅黒は季朽葉と目を合わさないまま社殿に向かった。すれちがいざま、季朽葉はまぶたを閉じ、いつものように閉門の鈴を鳴らした。
☆
「――懐かしいわ。わたくしね、あなたと同じ顔の夫に、こんな風にして何度も殺されたのよ。まさか新しい人生で同じ様に死ぬと思っていなかった。さあ、祈りなさい、眠りなさい。その割れた瓶を首に突き立てなさい。わたくしたちとあなたの血の色を糧にして、祈りの門へ行きなさい。……あなた、愛してる……」
リオメルの真っ赤に染まった手がティーシャツを着た広い胸をつかんだ。しかし力は失われて、手はあっけなく離れる。彼女の魂はまた海の底に沈んでいった。
……それからどれくらい闇に浮遊していただろうか。アルもいない、レネーヴェもいない。時折ひらける視界には、緑いろの手術着を着た、眼鏡をかけた男性のすがたがある。朦朧とした意識のなかで、その男によく似た神父のなまえは、リオメルはどうしても思い出せなかった。
リオメルの頭のなかが鮮烈な光に満たされる。眩い明かりにくらくらとしていると、神父と似た声の男が、別の男と言い争いをしていた。
「ですから! 彼は……高橋律は、報告されていた予知夢能力は無いんです。どんなに実験を繰り返しても証拠が出てこない。他人と入れ替わったとしか思えない! 何十年も細胞をつぎはぎして、当時のままのすがたで、眠らせては起こしての、これ以上の人体実験は無意味です。彼を解放してください」
「しかし……。もう彼は死んでいることになっているんだ。異能分子としてマークされていた四人のなかで唯一生き残った彼を、いまさら解放するわけには」
「彼の記憶を抹消してもできませんか」
「それをすればこのラボの責任者である君も処分の対象になるぞ。いいのか?」
「かまいません。僕は、ここに配属されてからずっと彼を見てきた。もう罪の意識に押しつぶされそうになるのはいやです」
「そうか。君の才能はすばらしかったが……本部に報告しておく」
残念がる男の声を合図に、リオメルはまた意識を失う。次にリオメルがまぶたをひらいたところは、緑というものが何もない公園の、粗末なベンチのうえだった。
「……ここは、どこかしら」
思い出そうとしてもなにもわからなかった。うっすらとおぼえているのは空から舞い降りる朱い葉だけだ。長い長い夢を見ていたような気がすると、鈍い頭痛を振り払うようにリオメルは頭を振る。下を向いて手を見ると、ちいさな紙片を握りしめていることに気が付いた。
「氏名『小山内 律央 』。この数字は誕生日? 性別は男。年齢と、職業と……。この苗字、なんだか気になるわ。どうしてかしら」
「やあ。君も、目が覚めたようだね」
リオメル……いや、律央 は、隣に誰かが座っていることにようやく気が付く。男は律央に、彼のいまの状況を簡潔に伝えていった。彼曰く、律央は記憶を消されたのだという。そして、新しく戸籍を与えられた。
「ごめんね。あとのことは僕も分からないんだ」
「なぜ?」
男は眼鏡のずれをなおして目をつむる。そのしぐさが妙に懐かしくて、律央は食い入るように彼の顔を見る。
「実は、僕も記憶を消されてしまってね。今日から違う自分として生きていかなければならなくて。それでね。一応君と僕はパートナー 同士となった設定なんだ。その証拠にほら」
男は彼が持っていたであろう紙をリオメルに見せる。そこには、リオメルのものと同じく個人情報が印字されている。
――小山内慎吾 。
「この、苗字と名前は、どうして?」
「国が決めたんだそうだよ。それじゃあ一緒に帰ろうか」
律央は目をぱちくりとさせる。そして手を差し出した彼をまじまじと見た。
「パートナーだもん。そりゃあ、設定としては一緒に住んでいるんだろう」
「その設定、変更は可能なのかしら」
「当人たちの合意があればね。そこに国の拘束力はないよ」
「そう。それなら……。小山内さん。いまここで離婚しましょうか」
小山内は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。くちをぱくぱくとさせてなにも答えられない小山内に、律央は悪戯っぽく微笑んだ。
「……別れたあとにわたくしを口説いてくださる? まずは文通、次は通信。最後に逢引き。一緒に住んでいても家庭内別居くらいできますでしょう? じゃあ、わたくしはさきに行きますね。あなたからのラブレター、お待ちしておりますわ」
律央はベンチを離れる。一歩、ステップを踏んで、小山内のまえでくるりと回り、最後にスカートの裾を上げるお辞儀をしてから……。律央は、小山内に背を向けた。デニムパンツを履いた両足でしっかりと道を踏みしめる。
まだ黄金の太陽は昇って間もない。小柄な背中は、えもいわれぬいろに染め上げられる。
律央は大地を蹴りだした。そうして胸を張り、見たことのない道を進んだ。
『乾いていく薔薇 朱色の喪失③』終わり。
「いや、いやよ。お父様もアルさんも、残していくのはいや」
「……ここを壊せば、彼らの魂も解放されます。いずれ生まれ変わる。また会えるかもしれませんから」
「ほんとう?」
「ええ。……さあ、行きましょう」
獅黒は彼女の視線に合わせてひざまずいた。血まみれの手を差し出すと、彼女はその手を取る。
「神父さま。わたくしの手をずっと握っていてください。私がどこかに泳いでいってしまわないように」
その言葉に獅黒はしっかりと小さな手を握り返す。彼女はソファから降りたって、手を繋がれたまま、部屋を獅黒と共に出ていく。長い廊下を抜け、玄関から薔薇庭園を出ると……。そこには二人の人物が彼女を出迎えていた。一人は髪のみじかい季朽葉。もう一人は……リオメルと同じ顔をした、ドレスすがたの女性。
リオメルは弾かれたように薔薇庭園を駆けていく。とげが肌をひっかいて血が溢れても、気にせずに走っていって、腕をひろげた季朽葉のなかへと飛び込んで……開けられた裂け目が、閉じる。
ドレス姿の女性を残して。女性はおしとやかに歩みを進めて獅黒のとなりへやってくる。
「どうぞ、こちらを」
「……ありがとう」
獅黒が渡したのはレネーヴェの拳銃。獅黒は、屋敷のなかへと入っていく彼女の背を見送って、己がいるべき祈りの門へと戻っていく。
屋敷を歩く女性は、やがて応接室へとたどり着く。二つの死体が転がるちょうど真ん中に立ち、女性は、自分のこめかみに拳銃を構えた。
たった一発。命を終わらせる銃声がひびいた。辺りの空間にひび割れが生じた。水とともに、薔薇の花弁が上へと舞い上がって、やがてすべてが暗黒へと溶解する。リオメルはその様子を祈りの門の入口の水面からずっと見ていた。やがて光景が消え、彼女は季朽葉のほうへ顔を向ける。
「ひさしぶりね。キクチバ。わたくしね、やっと思い出したの」
「なにをだい?」
「……夫は、あなたの何百倍も格好良かったわ」
やれやれと季朽葉は肩をすくめて中空を見た。なにも言葉をかわさず、揃ってふたりは歩みだす。
薔薇とおなじく、血のように赤い、朱いろの道を。
……血まみれで帰ってきた獅黒に、季朽葉は濡れタオルを渡した。
「おかえり」
「どうです。良い研修になりましたか」
「それがねえ」
……青螺と蘇方は、最初リオメルが殴られて死んだとき、早々に席から立っていた。蘇方は胃の内容物を吐き出しにトイレへ、青螺は貧血で自室に戻った。結局最後まで見ていたのは季朽葉だけで新人の研修としては成り立たなかった。
獅黒は、返り血が付いた眼鏡を布で磨きつつ、最後まで映像を見ていた季朽葉を褒める。
「あなたは無事だったんですね」
「正直、目を背けたいところもたくさんあったけれども、最後まで見るのが俺の使命だしね。……彼女、新しい世界で元気にしていると思う?」
「しているんじゃないですか」
獅黒は、季朽葉がそう聞いたタイミングで眼鏡をかける。血のふき取りが甘かったらしく、レンズが曇ったままだ。
「……。そうだといいな。さあ、湯が沸いているから、風呂にすぐ入っておいでよ」
「あなたにしては気が利きますね。ではお言葉に甘えて」
獅黒は季朽葉と目を合わさないまま社殿に向かった。すれちがいざま、季朽葉はまぶたを閉じ、いつものように閉門の鈴を鳴らした。
☆
「――懐かしいわ。わたくしね、あなたと同じ顔の夫に、こんな風にして何度も殺されたのよ。まさか新しい人生で同じ様に死ぬと思っていなかった。さあ、祈りなさい、眠りなさい。その割れた瓶を首に突き立てなさい。わたくしたちとあなたの血の色を糧にして、祈りの門へ行きなさい。……あなた、愛してる……」
リオメルの真っ赤に染まった手がティーシャツを着た広い胸をつかんだ。しかし力は失われて、手はあっけなく離れる。彼女の魂はまた海の底に沈んでいった。
……それからどれくらい闇に浮遊していただろうか。アルもいない、レネーヴェもいない。時折ひらける視界には、緑いろの手術着を着た、眼鏡をかけた男性のすがたがある。朦朧とした意識のなかで、その男によく似た神父のなまえは、リオメルはどうしても思い出せなかった。
リオメルの頭のなかが鮮烈な光に満たされる。眩い明かりにくらくらとしていると、神父と似た声の男が、別の男と言い争いをしていた。
「ですから! 彼は……高橋律は、報告されていた予知夢能力は無いんです。どんなに実験を繰り返しても証拠が出てこない。他人と入れ替わったとしか思えない! 何十年も細胞をつぎはぎして、当時のままのすがたで、眠らせては起こしての、これ以上の人体実験は無意味です。彼を解放してください」
「しかし……。もう彼は死んでいることになっているんだ。異能分子としてマークされていた四人のなかで唯一生き残った彼を、いまさら解放するわけには」
「彼の記憶を抹消してもできませんか」
「それをすればこのラボの責任者である君も処分の対象になるぞ。いいのか?」
「かまいません。僕は、ここに配属されてからずっと彼を見てきた。もう罪の意識に押しつぶされそうになるのはいやです」
「そうか。君の才能はすばらしかったが……本部に報告しておく」
残念がる男の声を合図に、リオメルはまた意識を失う。次にリオメルがまぶたをひらいたところは、緑というものが何もない公園の、粗末なベンチのうえだった。
「……ここは、どこかしら」
思い出そうとしてもなにもわからなかった。うっすらとおぼえているのは空から舞い降りる朱い葉だけだ。長い長い夢を見ていたような気がすると、鈍い頭痛を振り払うようにリオメルは頭を振る。下を向いて手を見ると、ちいさな紙片を握りしめていることに気が付いた。
「氏名『
「やあ。君も、目が覚めたようだね」
リオメル……いや、
「ごめんね。あとのことは僕も分からないんだ」
「なぜ?」
男は眼鏡のずれをなおして目をつむる。そのしぐさが妙に懐かしくて、律央は食い入るように彼の顔を見る。
「実は、僕も記憶を消されてしまってね。今日から違う自分として生きていかなければならなくて。それでね。一応君と僕は
男は彼が持っていたであろう紙をリオメルに見せる。そこには、リオメルのものと同じく個人情報が印字されている。
――小山内
「この、苗字と名前は、どうして?」
「国が決めたんだそうだよ。それじゃあ一緒に帰ろうか」
律央は目をぱちくりとさせる。そして手を差し出した彼をまじまじと見た。
「パートナーだもん。そりゃあ、設定としては一緒に住んでいるんだろう」
「その設定、変更は可能なのかしら」
「当人たちの合意があればね。そこに国の拘束力はないよ」
「そう。それなら……。小山内さん。いまここで離婚しましょうか」
小山内は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をする。くちをぱくぱくとさせてなにも答えられない小山内に、律央は悪戯っぽく微笑んだ。
「……別れたあとにわたくしを口説いてくださる? まずは文通、次は通信。最後に逢引き。一緒に住んでいても家庭内別居くらいできますでしょう? じゃあ、わたくしはさきに行きますね。あなたからのラブレター、お待ちしておりますわ」
律央はベンチを離れる。一歩、ステップを踏んで、小山内のまえでくるりと回り、最後にスカートの裾を上げるお辞儀をしてから……。律央は、小山内に背を向けた。デニムパンツを履いた両足でしっかりと道を踏みしめる。
まだ黄金の太陽は昇って間もない。小柄な背中は、えもいわれぬいろに染め上げられる。
律央は大地を蹴りだした。そうして胸を張り、見たことのない道を進んだ。
『乾いていく薔薇 朱色の喪失③』終わり。